104年後からの今 作:requesting anonymity
「ハリーあなた、本当にその書き込みだらけの教科書を返却しないつもりなの?」
「この本がもうグリフィンドールに何点もたらしたか知ってるだろハーマイオニー」
「その本が『安全』だって証拠がどこにあるの? 悪辣な呪いがかかってないって言えるの?」
魔法薬学の授業を終える度にこの話題になるのはハリーにとって正直もうウンザリだったが、危険な品ではないという証拠を示せと言われると困ってしまうのもまた事実だった。
今年からホグワーツの教授陣に加わったスラグホーンが担当するのは当然闇の魔術に対する防衛術で魔法薬学はスネイプだと思い込んでいた上、魔法薬学のO.W.L.試験で最高評価の「優」を獲得できなかったハリーとロンは、スネイプはO.W.L.で最高評価を取った生徒にしか6年生の魔法薬学を教えないだろうと思っていたので教科書も材料も何も買っておらず、9月1日にマクゴナガルから「スラグホーン先生はO.W.L.試験で最高評価のひとつ下である『良』しか取れなかった生徒でも喜んで受け入れてくださいますよ」と言われて「急遽」魔法薬学を受講することに決めた。
「これはあの『日記』とは違うよ! 単なる書き込みだらけの本だ。魔法はかかってない!」
そしていざ授業が始まって、新品の教科書が届くまでの間使いなさいと貸し与えられた中古の教科書は、偶然ロンではなくハリーに与えられたその一冊は、前の持ち主に因るものだと考えられるとんでもない量の書き込みが、ほとんど全てのページの余白をビッシリと埋め尽くしていたのだ。
その書き込みのお蔭で魔法薬学の課題が上手くいっているハリーは、「半純血のプリンス」だと余白に書き込まれた文章の中で名乗っているこの教科書の本来の持ち主の知見の世話になればなるほどに、この素晴らしい教科書を手放すなんてとんでもないという思いが強くなっていた。
しかし、今日もまたハーマイオニーは、痛いところを的確に突いてくる。
「じゃあハリー、あなたはそれを所持してるのが、自分の努力の成果じゃなくその本のお蔭で魔法薬学の成績が向上してるのが、恥ずかしくないわけよね? だったらその『半純血のプリンス』について何か知らないかスリザリンの人たちに訊いてみましょうよ。これから『地下聖堂』で」
嫌だとも、それはできないとも、ハリーには言えなかった。
「――で? つまり何か? その本がお前の『急に開花した才能』の正体ってわけかポッター? 随分見上げた道徳心とスポーツマンシップをお持ちのようだな?」
思えばかなり久しぶりに、セオドール・ノットはグリフィンドール生に対して厭味を口にした。
いつものごとく今日もまた合間の時間を見つけて自主学習や暇つぶしに精を出している100年以上前にもスリザリン生御用達であった秘密の「地下聖堂」と呼称されている部屋で、ハーマイオニーに背中を叩かれたハリーが渋々提出したその本を開いてみるなり、セオドール・ノットの眉間には深い深いシワが刻まれた。
「俺は運も実力の内だと思うが。この本を他の誰かが手にする可能性だって充分にあっただろう。それに、ポッターの奴の運が良いのは俺たち全員にとって好都合だ。運が悪いよりはよっぽどな。お前、間違ってもマックルド・マラクローなんかに噛まれるなよポッター」
そう言ったザビニはノットから受け取って、その「半純血のプリンス蔵書」の書き込みだらけの6年生用上級魔法薬の本をペラペラと捲り始める。
「お、この呪文は知ってるぞ。母上の時代にホグワーツで流行ったとお聞きしたことがある。確か狙った相手を空中に逆さ吊りにする呪文で、解放するには専用の反対呪文が要るんだ」
「『半純血のプリンス』も、そのくらいの時代の人間ってことか?」
ザビニもノットもこの本の元々の持ち主が誰なのかに既にアタリを付けていたが、2人とも未だ確証が持てておらず、そのために「半純血のプリンスなる人物」が誰だと思うのかを口にしようとはしない。それは偏に、まるで見当外れだったら徒に混乱を招くだけだから、という配慮だった。
「いや、母上よりはもう少し……ほんの少し上の世代だと俺は思う。この書き方は『最近知った呪文をメモしている』んじゃないだろ。ここに書かれてる呪文はどれも、コイツのオリジナルだ」
ザビニが「半純血のプリンス蔵書」の教科書を床に置くと、その周囲に皆が集まってくる。
「そもそも『半純血』って何よ半純血って。じゃあ純血じゃあないじゃないのよ。それに『半』なんてわざわざつけるくらいなら、いっそ純血を詐称くらいしたらどうかしら?」
「そんなことして何の意味があるっていうんだブルストロード」
「少なくともこの人の虚栄心は満たせるわよウィーズリー。誰しもそういう時期はあるでしょ」
ああでもないこうでもないと「半純血のプリンス」及びその人物による教科書への書き込みの内容について話し合っている皆の間に自分の身体をねじ込んでハリーに少しでも接近しようとしながら、デニス・クリービーが唐突に疑問という名の爆弾を投げ込んだ。
「ねえ、僕ずっと気になってたんだけどさ。その『純血』ってなんなの?」
「一部の魔法族が幻視してる架空の概念だよデニス。奴らは滑稽にもそれを崇めている。僕に言わせりゃ、それって『無』を崇めてるようなもんだ」
デニスが設置した爆弾に即刻ガソリンをかけて着火したロン・ウィーズリーを、周囲に居るスリザリン生のほとんどが睨みつけている。
あらこんな空気になるのって1年ぶりくらいじゃないかしらと、トレイシー・デイビスとルームメイトたちだけがお気楽に見物を続けている。
「ひとが信じているものに、お前が信じていないからって唾を吐きかけるのは、褒められた行いじゃないぞウィーズリー。僕は最近お前とも友達になれる気がしてたんだが、勘違いだったか?」
「ロンは何も間違ったことを言ってないわ」
ジニーが兄と同じ意見を表明したのをきっかけにして激しくなり始めた議論が言い争いへと変化していくのを数分なすすべなく見守っていたハリーは急に、この場に居ない人物にアドバイスをもらおうと、この件に関して完全に中立な立場の人間を知ってるじゃないかと、そう思いついた。
「ちょっと、どこ行くのよハリー!」
ミリセント・ブルストロードにヘッドロックを喰らいながらそう問いかけてきたハーマイオニーに、ハリーは「寝室」と手短に返答する。
「取ってくるものがあるんだ。……シリウスに去年もらったクリスマスプレゼント」
先日ようやく開封したものの新学年の慌ただしさに呑まれて未だしまいっぱなしだったそれを使う時が来たと、ハリーはそう直感していた。
一方、その「プレゼント」を去年のクリスマスに贈ったシリウス・ブラックは、先日アバーフォースに指摘された「腕の鈍り」と「体力不足」を実感して、まず体力から改善するべく、親友のリーマス及びくっついてきたトンクスと共に、もはやホグズミードの地下なのかすら定かではない、ファスティディオの気まぐれな「ランニングコース」を無理のないペースで走っていた。
「あ、ポピーちゃんだ。おーい! ポピーちゃーん!」
シリウスたちを先導して走っている神秘部部長の青年が向こうの丘の上の人影に手を振ると、その人影はどうやら大きく両手を振り返してくれたようだった。
「あのドラゴンは何と言う名前ですか先生?」
丘の上の人影にピッタリ寄り添っている大きな影を見ながら、シリウスが訊いた。
「あれはアミットだよ。アミットは誘わないと全然運動しないから、ああやって遊んであげるの」
「ああ、やっぱりあのアンティポディアン・オパールアイはウチの部署の皆がアンブリッジのせいでアナタと戦わされた時に、最初だけ参加して後ほとんど居眠りしてたあのドラゴンなんだ」
2、3回翼で空気を掴んでちょっと飛行したらすぐ着陸してノシノシと緩慢な足取りで歩き始めたその純白のドラゴンが、どうも今のたった数回の羽ばたきで本日分の「健康のための適度な運動」を済ませたと言い張るつもりらしいと理解して呆れながら、トンクスは一瞬だけ走る速度を上げてルーピンに追いつき、その右隣に陣取った。
「疲れてないリーマス? もう少しペース上げても平気?」
シリウスもルーピンもいつもの服装のままだが、トンクスはわざわざ薄くて風通しの良いハッフルパフ色のランニングウェアを身に着けている。
前半生の苦労がそろそろ報われてもいい親友のリーマスが、ランニングウェア越しに浮き出ているトンクスの健康的な体型や大胆に露出された太ももなどをできる限り見ないようにしようと頑張っているのを察しているシリウスは、10数分前に揃って走り始めた時からずっと湧き上がってくるニヤニヤ笑いを必死で堪えていた。
歩いて戻ってきてしまった怠け者のアンティポディアン・オパールアイに、ポピー・スウィーティングが何やら話しかけている。
「……本当に、生き物だらけですね」
これが魔法生物ではないとは、と初めて遭遇した時にも思った巨大なツノを持ったヘラジカと目が合ってしまったシリウスは、木立の向こうに居るそいつになんとなく笑顔を投げかけた。
「いろんなのがいっぱい居たほうがポピーちゃんが喜ぶし、僕も嬉しいからね。それでせっかくだから単に収容しておくだけじゃなくて、自然な棲息環境を再現するだけでもなくて、生態系を全部しまっとこうって、それが目標なんだよね。だからここにも、カバンの中にも、全然世話なんかしてないほったらかしの、生活習慣と生活環境だけを見れば『野生』の生き物もたくさんいるんだ。――やあ、どうだいここ。いいだろう? まあ君たちの故郷には負けるかもだけど」
道沿いのベンチで「日刊予言者」を読みながら寛いでいた二足歩行のヒッポグリフのような生き物は、駆け寄ってきて話しかけてきたヒトの魔法使いに、鳥そのものの囀り声で返事をした。
「わかった。ニュートくんに伝えとくよ。ちょうどこっちにも用事があるし……」
なぜ先生があの二足歩行のヒッポグリフのような生き物と意思の疎通ができているのか、シリウスにもルーピンにもサッパリ解らない。
「ねえ、今のってさ――」
「そうだよトンクスくん。よく知ってたねえ。社会的にはこっちで言うところのケンタウルスたちとか、マーピープルみたいな立場だね、むこうでは。それで今の彼女の一族はアルバスのフォークスの古い友達なのさ。……そもそも不死鳥と縁が深い生き物でもあるんだけど」
質問を最後まで聞かずに返答してくれたその「先生」に、トンクスはさらなる疑問を投げる。
「『彼女』だったの? ……どこで見分けるの?」
「『一般的に雌の方が身体が大きい』ってのが教科書通りの答えだけど、僕は正直『見りゃわかるでしょ』としか言えないね。きみやフラー・デラクール嬢を男性だと勘違いする奴なんか居ないのとおんなじさ。僕はむしろ、なんで基準を頭に入れとかなきゃ判別できないのかが訊きたいね」
「あの夜、神秘部のどこか判らないところですれ違った個体より、今の個体の方が啼き声が高い音だった…………ような気がしたんですが」
背後に流れて過ぎ去っていった二足歩行のヒッポグリフが座っているベンチを振り返って見ながら、息が上がり始めているシリウス・ブラックが先導してくれている先生に訊いた。
「お。スゴいねえシリウスくん。それも確かにあの子達の特徴だよ。もちろん全ての個体が必ずってわけじゃないけど、多くの場合は雄より雌の方が高い声なんだよね」
「ほら、リーマス頑張っ――わあ!!」
頭上スレスレに飛来して自分たちを影の中に納めてしまったアンティポディアン・オパールアイ種の純白のドラゴン見上げながら、トンクスは思わず身をかがめる。
「おやあ? きみも一緒に来るのかいアミット」
「アミットは静かに飛ぶのが上手だよね!」
自分が背中に乗っけている飼い主と地上を走っている飼い主がいっぺんに話しかけてきたので、アンティポディアン・オパールアイのアミットも大きな声で吼えていっぺんに返事をした。
その途端、森と草原の境目を通る石畳の道だった風景が一変する。
「おはようございます部長。見てください改修完了ですよ! かわいいでしょう!」
「おはようございます部長。ちょうどこれからヘルガに朝食をあげるところで――」
シリウスとルーピンとトンクスが「え、あれ、どこだここ」と疑問に思ったのと同時に、周囲で何やら作業をしている何人もの神秘部職員らしき魔法使いの1人が答えを教えてくれた。
「おや、ここに来客とは珍しいですね。ようこそ戦艦『サラザール・スリザリン』の甲板へ。僕はジェイコブ・テセウス・スキャマンダーです。……ん? どうしたんだいロルフー!」
向こうの方で船室から甲板に出てきた8歳の小さな我が子を、ジェイコブ・スキャマンダーはその場の誰よりも早く発見して声をかけた。
「見て見てパパ! ルーナがまたお手紙のお返事くれたの!」
「それは良かったねえロルフ。でも、危ないから甲板に出てきちゃダメだって言っただろう? ほら、ルーナお姉ちゃんにお手紙のお返事書きに行こうか」
ジェイコブ・スキャマンダーさんが息子さんを向こうの建物の中へと連れて行ったのを見届けてから、水平線が目に入ってようやく、ニンファドーラ・トンクスは自分たちが今いるのは変な建物がいっぱいある変な地面ではなく、やたらめったらデカい船の上だと気づいた。
「こんなに大きい船があるの?!!!」
「今かいニンファドーラ。エドワードさんから聞いたこと無いかい『戦艦』って。ていうか、さっきスキャマンダーさんが手短にだけど説明してくれただろう? それに、あの夜――ああ、きみは見てる余裕無かったか…………あの夜はコレが空を飛んで『例のあの人』と戦ったんだよ」
呆れながらも説明してあげているルーピンをよそに、シリウスは「戦艦って近くで見るとこんなに大きいのか」という心の底に未だに住んでいる14歳の男の子の大歓喜よりも、いま聞いたロルフくんの言葉の方が気になっていた。
先生の後ろのあれが主砲なんだろうなあアレが動くのかぁと興奮しながら、シリウスは訊く。
「あの子。あのロルフくんは。確かその、神秘部の、中に住んでいるんでしたよね? それも外部の人間には存在すら知られていない区画に。……どうやって手紙をやりとりしているんです?」
フクロウに手紙を持たせて送り出しても届けるべき宛先を探し出せずに帰ってくるのではないのかと思っているシリウスに、船室から甲板に出てきていたらしい火蟹をヒョイと抱え上げながら、その先生は事も無げに説明する。
「お察しの通りロルフが住んでいる神秘部の職員寮区画には姿くらまし防止呪文とか『位置発見不可能』にする保護魔法とかの防御が山ほど施されているけど、そんな事この子たちには関係無い」
どこからともなく飛んできて15インチ連装砲の上に着陸した不死鳥は、手紙を咥えていた。
不死鳥は手紙を落とし、シリウスたち3人を先導してきた魔法使いがそれを受け取る。
「僕に? ありがとね。……そうかい? きみはウチの暴れん坊と違って優しいねえ。――おや、おやまあ。予っ想どおり、っぽいかなコレは……『引き続き調べて』って伝えてくれるかい?」
不死鳥は炎に包まれて姿をくらまし、その魔法使いが手放した途端に手紙は焼け落ちた。
誰から何の用で届いた手紙なのかは教えてもらえないと、シリウスは察している。
「きみが行かなかった旅行にね、いま僕の部下たちが行ってるのさ。ギリシャにね。さ! そろそろ耳を塞いで口を開けようか――ヘルガの餌やりの時間だから!」
シリウスとルーピンとトンクスが指示に従ったのと同時に、耳が聞こえなくなったかと錯覚するほどの衝撃が3人の全身を打ち据える。
自分たちのすぐ目の前に聳えている巨大な15インチ連装砲が火を噴いたのだと、ルーピンはトンクスとシリウスの無事を確認し終えてから理解した。
「先生、なんです? その『ヘルガ』とは」
まだ耳を手で塞いでいるシリウスにそう質問されて、神秘部部長はアッサリと機密を漏洩した。
「ウチで飼ってるシロナガスクジラだよ。元々はニュートくんが見つけて連れてきたんだけど……ヘルガには魔法力があるんだよね。それがなんでなのかを調べてる。1回で食べる量がとってもたくさんだから、いつもこうやってサラザールで餌やりしてるんだ。ほらあそこ。見えるかい?」
先生が指さして示してくれた辺りの海面をよく観察してみれば確かに何か大きいのだろう生き物らしき物体がいたが、遠すぎてシリウスには正直なんだかよく判らなかった。
いつの間にやら遥か上空に昇って行っていたらしいアンティポディアン・オパールアイがゆったりと空を回遊しているのを見上げていたルーピンも、先生の指差す先を見ようと目を凝らす。
「食べるとこ観察するためにいつも目視できる範囲に撒き餌を着弾させるんだけど――そんな事より僕らもさっさと船室に入らないとダメだね。ここ砲身の旋回の邪魔んなるし、第一きみたち1発だけでそんなじゃあんまり長居できないだろう」
まだ耳の奥でガンガンと衝撃が響いているのが顔色に表れているトンクスを一瞥してそう言った魔法使いが火蟹を小脇に抱えてさっさと歩いていってしまったので、3人は慌てて追いかけた。
「あー! アントニオ! どこ行ってたんだいアントニオぉ。ぼくすっごく探したんだよ…………ペットちょう、アントニオ見つけてくれたの? ありがとう!」
「きみを追っかけて甲板に出てきちゃってたんだよロルフ。ダメだろう置いてっちゃ」
扉の向こうに駆け込んでみればそこは「軍用の船の中なんて質素で無骨なんだろうなぁ」と思っていたルーピンの想像より遥かに居心地の良さそうなリビングだったので、またあのポルターガイストの気まぐれで全然別の場所に繋げられたのか、それともここは本当に今まで居た甲板から見えていた塔のような構造物の内部で未だに自分たちは巨大な船の上に居るのか、ルーピンのみならずシリウスにもトンクスにもどちらなのやら確証が持てなかった。
「ところで先生、火蟹って体重400ポンド以上……200キログラムぐらいありますよね」
よく片手で抱えてられるなあとずっと思っていたルーピンは、とうとう訊いた。
「んー? きみたちがホグワーツの生徒だった頃に流行ったんだろう? この呪文」
先生が何の話をしているのかをルーピンがもう少しで察せそうだったその時、シリウスが身に着けている滑らかな質感と落ち着いた色合いのジャケットの中から声が響いてきた。
去年のクリスマス以来ずっとこの時を待ちわびていたシリウスは、大喜びでそれを取り出す。
「ハリー! ハリー! 元気かいハリー!」
「きみそれまさかずっと持ち歩いてたのかいパッドフット。今までよく割らなかったな」
ハリーの声だと聞き取って隣に寄って来たルーピンに「もちろん」と返しながらシリウスがジャケットの内ポケットから杖も呪文も無しで「呼び出し」たのは、片手で持てる大きさの簡素な鏡。
「おはようシリウス。元気だよ! あの、僕らちょっと意見を訊きたいんだけど――」
その鏡から聞こえてきているのは、ハリーの声だけではなかった。
「それ『両面鏡』か? 珍しいもの持ってるなポッター」
「だーかーらー、『純血』なんて無いの! お前ら皆ありもしないものを追い求めてるの!」
「それは僕ら全員に対する侮辱だと言ったよなウィーズリー」
「見て見てダフネ。ミンビュラス・ミンブルトニアがこんなに大きくなったんだよ」
「あら本当、すごいわねロングボトム。これって水やりは毎日するの?」
「ブス! っブス! ブルストロードのブス!」
「魔法の腕と成績が良くたって腕力で勝てなきゃこうよグレンジャー」
言い争いとケンカと団欒が同時進行しているらしい鏡の向こうの声は、ずいぶん賑やかだった。
「質問をどうぞ。ハリー?」
去年貰ったクリスマスプレゼントの鏡に映ったシリウスにそう促されて、ハリーは隣に居るデニス・クリービーとナイジェル・ウォルパートの方に鏡を向けた。
シリウスが見ている鏡にはハリーの横に居たらしい下級生2人が映り込み、ハリーが見ている鏡にはシリウスとルーピンが映っている。
「あ、あのっ。はじめまして! 僕、デニス・クリービーです。こっちは友達のナイジェルです――それで、僕らずっと気になってた事があって――『純血』ってなんですか! 何か、特別な魔法使いが居るんですか! 僕みたいな『マグル生まれ』と、どう違うんですか?」
そう質問したデニスの声色があまりにも真っ直ぐだったからか、質問内容があまりにも直接的だったからか、あるいは単にその鏡に映っているのが誰なのかに気づいたからか、言い争っていたウィーズリー兄妹とセオドール・ノットも、周囲で発生している複数の諍いを全て聞き流しつつまったりしていたネビル他数人も、抵抗するハーマイオニーを無理やり肩に担いでアルゼンチン・バックブリーカーを決めてギリギリと締め上げていたミリセント・ブルストロードも、その場に居た皆がハリーの持つ「両面鏡」を覗き込みに近寄ってきた。
ハーマイオニーを肩に担いでアルゼンチン・バックブリーカーをかけたままズンズン歩いてやってきたブルストロードを、ブレーズ・ザビニが目を丸くして見つめている。
「おはよう、ハリーの友人たち。私はシリウス。シリウス・『ブラック』。グリフィンドールの卒業生だ。まずロンとジニーが言ってる『純血』と、ウチの父や母がよく言ってた『純血』、つまりスリザリンの――そこのきみ、ノットの息子だな?――が言ってる『純血』は、ちょっと違う概念なんだ。私はこれをジェームズと2人してリリーにお説教されてる時に気づいたんだけど――」
シリウス・ブラックはそう話しながら、鏡に映っている何人ものスリザリン生たちを見ている。
「――元々は『純血の魔法族』とは、家系図をどれだけ昔に、どれだけ広範に、どれだけ末端まで遡っても、完全に、ただの1人もマグルが含まれていない魔法使いもしくは魔女の事だ。そして、これがウィーズリー家の人たちや、まあ他の大多数の『純血』ってものにそんなに興味が無い魔法族の考える『純血という概念』だ。だけど、私の家では違った」
鏡に映っている人物の話を理解しきれていない様子だったデニスとナイジェルに、ブレーズ・ザビニが「この男のブラック家は魔法界で最も古い純血家系のひとつなんだ」と端的に補足した。
「さて、じゃあそこのきみ。ハーマイオニーを担いでるお嬢さん。ある魔法族が『純血』かどうかを、最も手っ取り早く判別するための明確な基準とは?」
シリウスに指名されたブルストロードは、ちょっと恥じらうようなそぶりを見せつつハーマイオニーをサッと解放してからそれに答える。
「父と母と祖父と祖母、この、当人に直接繋がる直近の先祖たち合計6人が、全員、マグルでもマグル生まれでもスクイブでもない事……だと、父と母が言っていたわ」
ロンとジニーはウェッと舌を出して吐きそうな表情を作っているが、「両面鏡」を通してそれが見えているはずのシリウスもルーピンも、なぜか嬉しそうに笑っている。
「そう。それが『純血という概念を重要視する者たち』の考える純血。そこからさらに『どこまで遡れるのか』で勝ち誇ったり見下したりするわけだ。ちなみにハリー、きみの家もジェームズの代までは『純血だとスリザリン生たちからは判別されていた』よ。本人はどこ吹く風だったが」
ハリーたちからは見えない位置のソファに座っている先生が、シリウスに笑いかけている。
「私に言わせれば、ロンとジニーの主張も、そちらのスリザリンの皆さんの主張も、どっちも間違いじゃないんだ。間違ってるのはあくまでも『純血の者はそうでない者より偉い』だとか『だからマグルを隷属させて然るべき』とか『マグルなんて穢らわしい』とかいう偏狭な発想だけであって、自分の家系を純血だと定義してそれを誇り高く思うのは、別に好きにすればいいんだ。私が私の家族のほとんど全員を『あまり好きじゃない』のは、考えてみれば純血を標榜していたからではなくて、あの人たちが『我らこそが最も尊き者』ってふんぞり返って他者を見下していたからだ」
父とか母とか叔父のアルファードなんかを思い浮かべつつそう述べたシリウスは、自分が学生だった頃スリザリンに居たノットによく似ている推定ミスター・ノットに質問する。
「きみ、名前は?」
「セオドール。セオドール・ノットだ」
「ああやっぱり。たぶん私が思い浮かべているのはきみの父なんだろうな……ソックリだ」
シリウスにも「『だからバカどもは嫌いだ』とか言いそうなその気難しい目がソックリだ」等と口を滑らせないだけのコミュニケーション能力はあった。
「きみはノット家に生まれた事を誇りに思っているな?」
「当然だ」と即答したセオドール・ノットに、シリウスは問う。
「きみが自分の生まれを誇り高く思っているのは、純血の家に生まれたからか? それとも父と母に愛されているからか? 仮にきみの家系を遥か太古まで遡った時どこかにマグルが居ると判明したら、その途端にきみはノット家に生まれたことを誇りに思えなくなるのか?」
同じ質問をウィーズリーの奴やポッターに訊かれていたらこんなに真面目に悩んだだろうかと思いながら、ノットは黙りこくってじっくりと考えている。
そんな質問は今までされたためしが無かったので、悩むのも当然だった。
自分たちが生徒だった頃のスリザリン生たちと、自分が「闇の魔術に対する防衛術」を教えていた3年前の彼らを思い浮かべて「自分の血縁にもしマグルが混じっていたら」などという仮定をされた時点でミスター・ノットが怒ると思っていたルーピンは、ノットの落ち着いた態度を目にして内心で大いに驚いていた。
そしてノットは、他の純血家系出身のスリザリン生たちの誰より早く、自分なりの答えを出す。
「僕の誇りは、父上と母上の子であることだ」
ほんの数秒の沈黙の後、シリウスはノットに笑いかけて、言った。
「私はハッキリと本心からそう言えるきみを羨ましく思うよ、セオドール・ノット。あの父と母の子であることを、私は誇り高く思えないから」
「だったらお前の誇りは何だシリウス・ブラック?」
訊き返してきたノットに、シリウスは即答する。
「リーマスとジェームズの友であることだ。ハリーを見守れることだ。もういないジェームズとリリーに代わってハリーの助けになれることだ。私はそうしなければいけないし、喜んでそうする」
露骨に表情がほころんだルーピンを見て感動しているハリーの横から、デニスとナイジェルが追加で質問をぶつける。
「ねえ、『純血の魔法使いのほうがそうじゃない奴より強い』ってホント?」
「去年アンブリッジ先生が言ってたんだ!」
「そんなわけあるか大間違いだ」
否定の言葉を誰より先に口にしたのは、ザビニだった。
「ダンブルドアの母親はマグル生まれだぞ? 俺たちスリザリンの誰かがアイツに勝てそうか? 俺の父――母上の、過去に7人居て既に全員死んでる夫の中の誰か1人――は、いずれにせよ純血で、母上も純血だから自動的に俺も純血だということになるが、これは、今シリウス・ブラック氏がご説明くださった『2通りの純血』に照らせば後者の、つまり祖父母までの全員がマグルでもマグル生まれでもスクイブでもないという意味の、言ってしまえば『暫定的な』純血であって、そして『それを尊ぶ』という思想信条的な視点での『純血』であって、ウィーズリーが『無い』と言う『先祖代々1人残らずどこまで遡っても完全に』という原義的な純血では、ない。おそらく俺もどこかにマグルが混じっているし、これは、俺が思うに……魔法界の全ての家が、とっくの昔にそうだ。だから『純血の魔法族はそうでない者より強力なのか』という質問は、前提が成り立たない。原義的な意味合いでは、完全に純血の魔法族なんかとっくの昔に1人もいないんだからな……」
「私もそう思う。私の大叔父のマリウスはスクイブだし、そうでなくたってそんなのは『そう思いたいから』生まれた、根拠のない単なる願望だ。それに純血魔法族はそうでない者より優れているだなんて、純血を標榜する家系に生まれた者に失礼じゃないか。そうだろうミスター・ノット」
シリウス・ブラックが何を言いたいのかが、ノットはすぐには察せなかった。
「きみたちが優秀なのはきみたちのご家族の愛情の賜物であり、ホグワーツの素晴らしい先生方の教育の賜物であり、きみたち自身の努力の成果だ。だろう? なのにそれを『生まれのお蔭だ』なんて。そんな物言いはきみたちの頑張りを否定する底意地の悪いものだ」
ハリーの周囲にいるスリザリン生たちのいくらかは感銘を受けた様子で、数人は露骨に不愉快そうで、そして誰がどう見たって話をまるで理解できていないクラッブとゴイルには、ハリーが名前を思い出せないスリザリンの7年生の男子が簡単な言葉に言い換えて説明してあげている。
「そういえば、たぶん偶然なんだろうけど」と、ダフネ・グリーングラスが口を開いた。「私を褒める時、――成績とか試験結果とかね――パパもママも『それでこそグリーングラス家の娘だ』って言う前に、絶対、『よく頑張った』とか『よくやった』って、私の努力を褒めてくれるの。それで、私は、いま考えれば、そっちなのよね。より嬉しいのは」
「僕らは仲良くできるよ。多少考え方とか育ちが違ったって、そんなの関係ないよ」
ビックリするほど大きく育ったミンビュラス・ミンブルトニアの鉢植えの陰に半分隠れたまま、ネビルはそう主張した。
「そうでしょ? ロンもジニーも、ノットとは仲良くできない? ハーマイオニーも、ブルストロードとかパーキンソンとは仲良くできない?」
ロンもジニーも答えあぐねていて、腕力で制圧されたのがまだ悔しいらしいハーマイオニーはミリセント・ブルストロードを思いっきり睨みつけている。
それでも、自分自身を説得するかのように、ジクジクとした暗い感情を振り払うように頭を振ってから、ロンもジニーもハーマイオニーも、ノットもブルストロードもパーキンソンも言った。
「仲良くできる」
それから数秒の沈黙の後、やっと話を理解できたらしいクラッブとゴイルの「ああ、そりゃ確かにそうだ!」という間抜けな声が響き渡って、一瞬遅れてその場の皆が吹き出すように笑った。
「ねえ、それじゃあ『半純血』ってなあに?」
ナイジェル・ウォルパートの質問に、シリウスはちょっと考えてから答える。
「あー、それは、たぶん父親と母親、どっちかだけが純血なんだ。純血を重要視する人たちは、自分の血統の、純血じゃない部分を無視することがよくあるんだ」
「じゃあじゃあ魔法界に王子様って居るの?」
「いないよナイジェルくん。魔法界には王族はいない。『実質我らこそが王族だ』と自負していた傲慢な人たちなら居たこともあったが」
だったらこれは結局どういう意味なのかなあと言いながら、ナイジェルはその教科書を拾って鏡の向こうのシリウス・ブラックさんに見せる。
「ほら、これなんだけど……これはハリーが今年、ちゃんとしたのが届くまで貸してもらってる中古の魔法薬学の教科書で、見ての通り書き込みだらけなんだけど――」
シリウスもルーピンも、その「6年生用上級魔法薬」の余白を埋め尽くす書き込みの数々が誰によるものなのかを、一瞬で理解した。
「それはスニベっ痛い悪かった約束したさムーニー!」
ハリーの前では使わないと約束したはずの蔑称を口にしかけた親友の横っ腹をつねりながら、リーマス・ルーピンはハリーの目を見て、「いいかい」と前置きしてからそれを伝える。
「かつてアイリーン・プリンスという、純血の魔女が居た。その人はマグルと結婚して息子を産んだ。これでその息子さんは『半純血』の『プリンス』ってことになるだろう? そして、僕がこの話を知っているのは、そのプリンスさんの息子さんが、同級生だったからだ」
それに続いて、シリウスが改めて、ハリーに、そして質問してくれたナイジェル・ウォルパートと周囲の生徒たちに、半純血のプリンスの正体を説明する。
「見間違えるわけがない。それはスネイプの字だ。アイリーン・プリンスはスネイプの母親だ。夫はマグルのトビアス・スネイプ。かつて聞いた噂では、暴力を常用するクソ野郎だったそうだ」
「インセンディオ」
即刻その教科書を燃やそうとしたハリーより、ハーマイオニーの炎凍結呪文の方が早かった。
よりにもよってスネイプの教科書をありがたがっていたのかと、全身を大量のムカデが這い回っているかのような嫌悪感に苛まれながらまだその教科書に杖を向けているハリーに、シリウスは相変わらず嬉しそうな声色のまま、全然違う話題を投げかける。
「ビックリしたよ。先生から聞いてたけど、本当にスリザリンとも仲良くなったんだねハリー」
「あ、……うん、そうなんだ。仲良くなれない奴もいるけど、それだって『スリザリンだから』じゃないって気づいたんだ。まあ、共通の敵がいたからってのも大きいかもしれないけど」
その時、共通の敵という単語でまた何か思い出したらしいデニスが、また疑問をぶつけた。
「ね、そういえばアンブリッジ先生が去年さ。私はセルウィン家の血筋なのよって僕らに自慢してきたんだけどさ。もしかしてあれも嘘なのかな?」
それを聞いた途端に、クラッブとゴイルにシリウスの言説を簡単な言葉で説明してあげていたスリザリンの7年生男子がブチ切れた。
「はあ? それ本当かクリービー!? ふざけるなよあのクソババア! よくもそんな!」
「落ち着けセルウィン。あんなのがお前の親戚なわけない」
ノットがなだめようとして発したその言葉は逆効果だったらしく、スリザリンの7年生、純血を標榜する由緒正しいセルウィン家の直系であるその男子生徒は、ますます声を荒らげて、その場にいない上もう罰された後でもあるドローレス・アンブリッジへの怒りを全身からぶちまけている。
「だから不愉快なんだ!!」
気持ちが解るし自分もたぶん同じ立場だったらあのくらい怒るなと思えたためにその場の誰も止めようとせず、そのまま普段は理知的で落ち着いているスリザリンのセルウィンくんは怒り疲れてヘトヘトになるまで延々と激怒し続けたのだった。
そして、立っていられないほどにまで疲労したセルウィンがやっと静かになった頃、ハリーたちがいる「地下聖堂」に1人のスリザリン生が駆け込んできた。
「居た! みんな、お姉ちゃん!! 私、私ね――」
入ってくるなり姉に飛びついたアストリア・グリーングラスがある程度落ち着くのを待ってから、ダフネ・グリーングラスはゆっくりと質問する。
「なあにアストリア。どうしたの? 何があったの?」
「あたし、あたしね……えっと、あたしじゃなくてね、ドラコが――ドラコが変なの! あたしドラコを助けてあげたいのに、あたしどうしたらいいか判らないの!」
皆を巻き込むまいとしていたドラコの配慮も、努力も、逆効果だった。
【ミリセント・ブルストロード】Millicent Bulstrode
ハリーやドラコと同級生のスリザリン女子。「秘密の部屋」でハーマイオニーを腕力で制圧していたパワフルガールであり、ハーマイオニーがポリジュース薬で変身しようとした相手。
原作者曰く、ブルストロード家はいわゆる「古い純血家系」だが、ミリセント自身は半純血。