104年後からの今   作:requesting anonymity

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64.ドラコの闇の中

 その日の全ての授業が終わり、日も沈み、何度目かの「スラグ・クラブ」の会合が行われている時間。ホグワーツの校長室に3人の魔法使いが集まっていた。1人は他でもないホグワーツ魔法魔術学校校長アルバス・ダンブルドア。もう1人は去年まで魔法薬学の教授を務めていた、今年度の闇の魔術に対する防衛術教授であるセブルス・スネイプ。

 そしてもう1人は、ゲラート・グリンデルバルド。

 

「なんとも、不思議な光景じゃのう」

「いいからさっさと飲めダンブルドア」

 

 ぐいと差し出された大ジョッキになみなみ注がれている金属光沢すらある黄金色のドロリとした液体を一瞬だけ見たアルバス・ダンブルドアは、口をキュッと結んで目を逸らした。

 今世紀最高の魔法使い、かの偉大なりしアルバス・ダンブルドアは、苦い薬がキライなのだ。

 

「…………嫌じゃ……飲みとうない……」

「子どもかお前は。飲めダンブルドア」

 

 嫌だと言えば飲まずに済むわけでも飲みたくなければ別に飲まなくていいわけでもないとダンブルドアがきちんと理解していることも、自分はまだもう少し生きていなければいけないのでこの薬を飲まなければいけないと、この薬を飲まないことは義務の放棄に等しいとダンブルドアがいま己に言い聞かせている最中であることも察しているグリンデルバルドは、飲めと繰り返し諌めはしつつも、ただ言葉で諌めるばかりでダンブルドアに薬を無理やり飲ませたりはしない。

 

 そしてダンブルドアは薬を一口だけ飲むと、すぐジョッキを手放してしまった。常温で液体の金というものがあったらまさにこのような見た目だろうと思わせる魔法薬がなみなみと入ったジョッキは手放された位置と高さのまま、ダンブルドアの顔のそばで重力に逆らって浮かんでいる。

 

「…………嫌じゃ……やめたい……」

「ダメだ。飲め。だいたいこれはそこまで苦い薬ではないだろう。脱狼薬などに比べればこんなものバタービールに等しいぞ」

 父親か教師かといった口調でダンブルドアを諌め続けるグリンデルバルドを見ているセブルス・スネイプはグリンデルバルドの姿を見るのも不快な様子で、スネイプの表情はまるで、コイツはホグワーツに居ていい人間ではないとでも考えているかのようだった。

 

「ミスター・ルーピンも、ミス・ロボスカも……すごいんじゃのう…………儂には無理じゃ……」

 

 アルバス・ダンブルドアは浮遊しているジョッキを左手で掴み、また薬を一口飲んだ。

 

「……もう止めてくれ……許してくれ……お願いじゃ…………」

 ダンブルドアは涙を流しながら薬をもう一口飲み、またジョッキを手放した。

「相変わらずお前は、飲まなければいけない薬が苦いというだけでよくもまあそこまで絶望できるな――そういえばあの時も、呪文の実験に失敗して樫の木に変わってしまったお前の左腕を治すのに私特製の魔法薬を3日飲み続ける羽目になって、お前はそんな顔をしていたな――」

 

 自分が18歳になったばかりだった「その頃」のことを思い出して、ダンブルドアは首を傾げた。

 

「そういえばゲラート、あの時はお主も両手がチューリップになっておったのに、一体どうやってあの魔法薬を醸造したのじゃ? 口から胡蝶蘭が咲いておったのじゃから、呪文も唱えられんかったはずじゃろう? まさか魔法薬の醸造に必要な呪文を無言で唱えるわけにもいかんじゃろう」

「私の首に口を作り足して魔法薬醸造の道具や材料は浮遊させて操った。薬を飲めダンブルドア」

 

 誤魔化されなかったグリンデルバルドを恨みがましく睨むダンブルドアの姿は、セブルス・スネイプに、学生時代に一度だけ見た、弁解の余地がない理由でシリウス・ブラックに叱られている時のレギュラス・ブラックの顔を思い出させた。

 何も言い返せないし正義はあちらにあるが何か言い返したいという、子供じみた不満の表情。

 

「わしの学生時代の同級生に――ハッフルパフの女子生徒だったんじゃがの。当時の魔法薬学教授イソップ・シャープ先生に『この薬はどうやったらもっと美味しくなりますか』と訊いたことによってハッフルパフに得点を齎した生徒がおっての――」

「さっさとその薬を全て飲めアルバス」

 

 また何か言いたそうな顔でゲラート・グリンデルバルドを睨んだアルバス・ダンブルドアが飲まなければいけない薬を全て飲み干した時にはスラグ・クラブの会食はとっくに終わり、それどころか生徒たちが各々の寮の談話室か自分たちの寝室に引っ込んでいなければいけない消灯時間すら、とっくに過ぎてしまっていた。

 

「相変わらずだな、お前は」 

 

 ゲラート・グリンデルバルドが呆れてそう言った頃、1人のスリザリンの女子生徒が、皆はもう寝室に引っ込んでしまったのに、まだ談話室で何をするでもなく独りソファに座っていた。

 宿題が済んでいないわけでもないし、目が冴えてしまって眠れないわけでもない。4年生のアストリア・グリーングラスは、眠い目を擦りながら頑張って起きていた。

 

 今日のスラグ・クラブの会食で饗されたそれを、スラグホーン先生に無理を言って余分に分けてもらった「とっておきのお菓子」を、ドラコにも分けてあげるために。

 

「ねむくないわ」

 

 誰にでもなく、真っ暗なスリザリンの談話室でアストリアは独りそう呟いた。姉のダフネが今まさに寝室のベッドの中で自分のことを心配してくれているとは知らないアストリアは、しかし本人の気持ちとしては、決して独りではなかった。

 

 心の中ではアストリアは、ドラコといっしょだった。

 

 だからアストリアはドラコが談話室の入口扉へと繋がっている階段から降りてきて姿を現した瞬間に、一目散に駆け出して飛びついた。

 

「ドラコ!!」

「…………まだ起きてたのかアストリア……」

 

 もう近寄るなって言っただろう、とは、ドラコは言えなかった。

 絶対にもう誰も居ないと確信できる時間になるのを待ってから「地下聖堂」に赴き、そこで調べ物を済ませてから監督生の責務である消灯後の見回りをしつつ談話室まで歩いて戻ってきたドラコはアストリアの姿を見て、安心してしまっていた。

 

「ドラコいい匂いする……」

 

 アストリアは僕にいくつも言いたいことや訊きたいことがあるだろうに、頑張って普段通りのアストリア・グリーングラスを演じてくれていると、ドラコは察している。

「ねえねえドラコ。あたしスラグホーン先生に分けてもらったの。スラグホーン先生が私たちにくれた『とっておきのお菓子』。毎回違うお菓子なんだけど、今日のやつね。だからあたしドラコにも食べてほしくてね、持ってきちゃった。あそこに、あのテーブルにおいてあるアレがそうなの」

 

 アストリアにぐいぐいと手を引かれて、ドラコは促されるがままソファに座った。

 

「夕食だってほとんど食べてないでしょドラコ。あたし知ってるのよ? 食べて食べてドラコ」

 

 いらないとは、ドラコは言えなかった。お互いのためには今すぐ断って自分は寝室に引っ込んでしまうべきかともドラコは考えたが、ホグワーツでは4寮全てで共通して、女子寝室に繋がる通路に男子は入れないが男子寝室に繋がる通路に女子は入れるので、アストリアが諦めないと仮定すると、遭遇してしまった以上はアストリアと話をするほか無いとドラコは判断していた。

 

「……なんだこれは?」

 

 アストリアが杖で操ってよこした皿に乗っていたのは、粘土か煉瓦のようにも見える深い茶色をした、小さな建築資材のような何かだった。

 その表面はそれこそ煉瓦か石材のように滑らかかつ硬そうで、これを作るのにはとても手間がかかるのだろうとドラコは想像したが、しかし同時に、とてもそれが食べ物だとは思えなかった。

 

「ヨウカンよドラコ。甘くって美味しいのよ。食べてみて食べてみて」

 

 そう言いながらアストリアはドラコが座っているソファに自分も座って、ぎゅうっとドラコの方に自分の身体を寄せた。

 

 これは絶対に建築資材だと確信しているドラコは皿に添えられていた小ぶりなフォークを持ったまま眉間にシワを寄せてその「ヨウカン」なる物体を睨みつけているが、既にそれを本日のスラグ・クラブで食べて気に入ってしまっているアストリアは、ひとつ分けてくれたりしないかしらと期待しながらドラコの横顔を見たり羊羹を見たりと、落ち着きなく視線を動かし続けている。

 

 そしてドラコは食べ物だとアストリアが主張する未知の物体を口に運んでみるまでに、10秒ほどかけて決意を固める必要があった。

 硬そうだと思っていた表面はごく細かい砂糖が薄い層を作っていただけで、その下にはネットリと濃厚でありながら滑らかでしつこくない、ドラコが知っている中ではゼリービーンズに近いと思えた食感の、しかしゼリービーンズとはまるで違う知らない種類の甘みが口の中に広がって、ドラコは思わず顔をほころばせてしまった。

 

「美味しい? ドラコ。えへぇへへ…………美味しいでしょ? 美味しいでしょ?」

 

 ドラコが笑ってくれたのが嬉しくって、アストリアは3回も訊いてしまった。

「美味しいよ、アストリア。ありがとう」

 ドラコはかなり久しぶりに幸せな気分になった。しかし一方で、この甘い甘いヨウカンとやらが一体なにを材料にしてどうやって作るものなのかは謎のままだった。

 かなり複雑な呪文が必要に違いないと、ドラコは推測していた。

 

「……きみもひとつ食べるかアストリア」

 

 訊きたいことも言いたいこともたくさんあるのに、ドラコと2人きりでくっついて座って同じものを食べているというこの状況が、アストリアにはたまらなく幸せだった。

 

「ねえドラコ。あたし、たぶんよ? たぶんだけどね。ドラコのことが好きなの」

「僕もきみのことは好きだよアストリア」

 

 どういう種類の好意なのかを、ドラコもアストリアも言わなかった。言わなかったが、ドラコは友人としての話をしていてアストリアは恋という意味で話していると、お互いに理解していた。

 しかしアストリアは、ドラコは今とっても危ないことをしているから私を遠ざけているだけで、そのために私への想いを単なる友情だと「言った」だけで、本当は、心の底ではドラコも私に恋をしてくれているはずだと、固く信じていた。

 

 そして、当のドラコは自分がアストリアのことをどう思っているのか考えないようにしていた。

 自覚してしまえば決意が揺らぎ閉心術が綻び杖捌きが鈍ると理解していたから。

 

「ねえドラコ。どうやってダンブルドア先生を殺すのかはもう思いついたの?」

 

 大急ぎで閉心術を使い無理やり冷静さを保ったドラコは、動揺が表情に出ていないという確信が持てなかった。なぜアストリアがそれを知っているのか、あるいはどうやってその質問に辿り着いたのかを正面切って訊くことは、ドラコにはできなかった。

 アストリアは、先日みんなと一緒に「地下聖堂」で守護霊呪文の練習をしていた時、ルーナだけがそれに参加も見物もせずにハリーの両面鏡でずっとシリウスさんと話し込んでいたのに気づいていたし、その内容も全て余さずではないが、ある程度聞こえていた。

 

 それに何よりその時ルーナが鏡の向こうのシリウスさんに語っていた、例のあの人に命令されて「ホグワーツで行う」達成不可能な任務だというのならそれはダンブルドアの暗殺だろう、という推測に、アストリアは目からウロコがじゃらじゃら落ちるほどの驚きとともに納得していた。

 

 だからアストリアはドラコが今年ホグワーツで何をするつもりなのか、より正確には「何をしなければいけないのか」を、しっかりと理解していた。

 

「オブリビエイト」

 

 ドラコがアストリアの記憶を消すのは、ここ一週間で3度目だった。

 

 消さなければいけない記憶以外は絶対に消してしまわないように細心の注意を払って忘却呪文を行使しているせいで、ドラコはすっかりこの呪文が得意になってしまっていた。

 新しく呪文を習得したことで気分が落ち込むのは、ドラコにとって初めての経験だった。

 アストリアの顔に正面から杖を突きつける勇気がどうしても湧かなくて、ドラコは今回もまた腕をそっとアストリアの背中にまわして、うなじの辺りにそっと杖を向けていた。

 ほんの一瞬だけ寝ているのか起きているのか判らない表情になったアストリアは、すぐドラコにもたれかかるようにして姿勢を崩して眠ってしまった。

 

「あまり感心はできんなミスター・マルフォイ」

 

 スネイプがいつからそこにいたのか、ドラコには全く判らなかった。

 

「趣味が悪いぞスネイプ」

「同じ寮の後輩の女子生徒に同意無く忘却呪文を施すことよりもかね」

 

 ドラコはスネイプに杖を向けそうになったが、ギリギリで堪えた。

 

「消灯時間は過ぎているぞミスター・マルフォイ。いかに監督生とて、消灯時間後にダラダラと出歩いて遊び呆けてもよいという権限は与えられていない」

 教職員の義務として一応そう警告したスネイプは、ドラコになどまるで興味が無いのを隠そうともしない冷徹な無表情のままアストリアが熟睡していることを素早く一瞥するだけで確認し終えると、普段スネイプがハリー・ポッターと会話する時のように冷たい口調で、ドラコに訊ねた。

「アテはあるのかね? 闇の帝王が吾輩に貴様さえ望めば手助けせよとお命じになったのを忘れたわけではあるまい? 吾輩が――」

「『僕がそれを願ったら』だ! 手助けなんか要らない!! お前の手なんか借りるもんか!」

 ほんの一瞬感情を抑えきれなくなったドラコは、発言の途中で慌てて声量を抑えた。

 

「閉心術の訓練が足りていないなミスター・マルフォイ。激しい負の感情に身を任せることで齎される喜ばしい結果など、ただのひとつも無いと学び給え」

 

 スネイプは相変わらず全くの無表情で、それがドラコには苛立たしかった。

 

「しゅネイプせんせ? こんばんぁ」

 

 どうやら起きてしまったらしいアストリアは、ドラコに肩を借りて体重を預けた姿勢のまま、ぼんやりとスネイプに挨拶した。

「寝るなら談話室ではなく己の寝室に行き給えミス・グリーングラス」

「そぉね。あたしねる。……んむあ、ドラコだ。ぁたしねるからまたねドあコ。あいしてるわ」

「……転ぶなよアストリア」

 最も聞かれたくないやり取りをスネイプに聞かれてしまった、という不快感と戦っていたドラコは、ぽってらぽってらと身体を揺らしながら危なっかしい足取りで歩いていったアストリアが女子寝室への入口扉が並んでいる通路の途中で、明らかにアストリアのベッドがある部屋ではない別の誰かの寝室へと間違えて入っていったのを見届けてしまった。

 

「アストリアあいつ、いま入っていったのトレイシー・デイビスの奴の寝室じゃないか?」

 

 女子寝室へ繋がる通路に男子は侵入できないので、ドラコにはどうすることもできない。

「いくら半ば寝ながらとはいえ、なんで4年生にもなって寝室を間違えられるんだ……」

 そう呟いたドラコは視線を眼の前の皿に戻して、独りでヨウカンの続きを食べ始めた。

 

 いつの間にやらスネイプが談話室から居なくなっていることにも、ドラコは気づかなかった。

 

 羊羹を食べ終えるまでの間ドラコは明かりの消えた夜中の談話室で独りきりだったが、心は孤独ではなかった。父上と母上をお救いしなければならないという使命感とは別に、羊羹を一口食べるたびに、その甘みがじんわりと口の中に広がるたびに、さっきまで隣に居たアストリアがまだそこに居て自分に体重を預けて寝息を立てているかのように、そして同時にこちらをじっと見て嬉しそうに、羊羹を分けてもらえると期待して笑っているかのように感じられたから。

 

「よりにもよっていま自覚すると、辛いんだがな」

 

 絶対に巻き込んでたまるかと自分が決意しているのと同じくらいに、アストリアは僕を放っておくわけにはいかないと決意しているのだろうと、ドラコは理解していた。

 そしてそれはアストリアに限った話ではないということも。

 

 間違いなく嬉しかったが、それは対処しなければいけない障害が増えたということでもあるという事実にすぐ思い至って、ドラコは再び閉心術を使い始めるのだった。

 

 そして、翌朝。アストリアが目を醒ましたのはいつもよりずっと早い時間だったが、それはトレイシー・デイビスとルームメイトたちの普段の起床時間よりも少し遅かった。

 だからトレイシー・デイビスが自分のベッドの中で目を醒ました時、アストリアはまだ眠っていた。同じベッドでトレイシー・デイビスにぎゅっと抱きついたまま。

 

「…………ほぉえ??!! 私ついに犯罪を???」

 

 自分の遵法精神を全く信用していないトレイシー・デイビスは寝ぼけた頭のまま、誘拐したのではなかろうかと己を疑って、昨日の夜寝る前に何をしたかを思い出そうと必死で記憶をたどる。

 

「んむぅ……お姉ちゃ……だっこ……」

「私がおねえちゃんですぅぅぅ…………」

 

 しかしアストリアに抱きつかれているので起き上がれず、かなり高いアストリアの体温どころか寝息まで寝巻き越しに感じられて、トレイシー・デイビスはすぐに何もかもどうでもよくなった。

 なんかよくわからないけど単に私は今すんごいラッキーなだけだろうと、だから私は悪くなくてこの幸運を甘んじて堪能してもいいだろうと、トレイシー・デイビスは判断した。

 

 そして奇しくも、その投げやりな推測は昨晩何があったのかという事実を正しく捉えていた。

 

(グリーングラスのやつが溺愛するわけだわ…………)

 

 ベッドの中でアストリアに抱きしめられたまま、トレイシー・デイビスはその寝顔を至近距離で観察して、1秒毎にその表情をだらしなくほころばせている。

(熱があるわけじゃないわよね? この子ったら平熱がこれなのね?)

「えへぇへえへへへ…………お姉ちゃんがハグぃッド先生みたいにおっきくてお髭もじゃもやになったわ……えへへぇ見て見ぇドラコぉ……えへえへぇへへ……あたしとおそろい…………」

「……あなたどうしてそれが嬉しい夢なの? 悪夢じゃなくて?」

 

 トレイシーがアストリアの独特の感性を目の当たりにして目を白黒させている時、気づけばいつからか隣のベッドから何やら揺するような物音が聞こえてきていた。

 それにはまるで魔法薬を患部に塗り込めているような湿った音が混ざっていて、さらにトレイシーの耳はそのベッドの主であるルームメイトの普段とは違う声も聞き取った。

 

(ちょっとあの子ったら!!!!)

 

 トレイシーはベッドの中で大至急アストリアの両耳を塞いだが、隣のベッドから聞こえてくる物音と声はだんだんと激しくなっていき、しまいにはトレイシーにも顔と名前と声が一致する男子生徒の名前すらそのルームメイトは繰り返し繰り返し呼び始めた。

 アストリアの両耳を手で抑えながら「時と場所をわきまえなさいよ」と思ってしまったトレイシー・デイビスだったが、考えてみれば皆が起きてくるより早い時間の自分の寝室の自分のベッドの中でというのは最大限に時と場所をわきまえた選択なのではなかろうかと思い直して、もう早く済ませてほしいと願いつつ、アストリアがどうか目を醒まさないように祈り続けた。

 トレイシーが何者に対してそんな祈りを捧げているのかといえば、ダンブルドアだった。

 

(ダンブルドアさま……お願いです…………いま私の大切な友人の性欲がすぐ隣で暴発しています……どうかこの無垢なアストリアをもうしばらく寝かせておいてください……)

 

 自分とてそういう行為を一切しないわけではないし、そんなもの見て見ぬふりをして聞こえないふりをしてお互い深くは踏み込まないのが暗黙の了解だったので、トレイシー・デイビスは心の中ですらそのルームメイトをそれほど激しく責めはしなかった。

 

「うるさいわよミランダもう少し寝かせて」

「ヒャァあらやだ起きてたのねごめんなさいもうしばらくごめんなさい!!」

 

 しかし別のルームメイトがピシャリと一言たしなめてくれたので、隣のベッドは静かになった。

 ただ、静かになったというのは相対的な評価であって、全くの無音という意味ではなかった。

 

(あの子ったらもう……なによ『もうしばらくごめんなさい』って……聞いたことないわよ……)

「あれえ…………? おねえちゃんじゃない……おねえちゃんよりない……あら……? トレイシー……? あらまあたしお部屋間違えちゃったのね……?」

「…………ごきげんようアストリア」

 

 アストリアの両耳を手で抑えたまま、トレイシー・デイビスは隣のベッドに「今すぐ二度寝を始めろ」と念を送りながら笑顔を作ってアストリアに挨拶した。

「あたしくっついて寝るのがすきなの。だからね、時々ね、時々よ? いつもじゃないのよ? お姉ちゃんのお部屋に行ってね、お姉ちゃんと一緒に寝るの。1人で寝なきゃダメでしょって追い返されることもあるけど、一緒に寝てくれることもあるの」

 

 アストリアの寝室のベッドには、アストリアが普段そこで寝る時に姉ダフネ・グリーングラスの代理を務めてもらっている、でっかいニフラーのぬいぐるみが鎮座している。

 

「トレイシーおねえちゃん、もうしばらくくっついてていい?」

「嬉いぃや時間あるからいいけど、あなた私が寝てから入ってきたのよね? それってあなた昨日すごく遅くまで起きてたってことよね? …………何してたのか訊いてもいい?」

 

 トレイシー・デイビスはルームメイトたちに配慮して、アストリアは眠いので、2人はベッドの中でくっついたまま囁き声で会話している。

「ううむえ…………あれえ? あたし何してたんだったかしら? あたしドラコに会いたかったのよね。だから談話室で待ってたんだけど…………ドラコに……会えたのよね? ドラコとお話したものね? ドラコとお話できた夢を見ただけかしら?」

「もしよかったら、どんな夢を見たのか教えてくれるアストリア?」

 これはたぶんグリーングラスの奴に報告するべきだと、トレイシー・デイビスは直感していた。

 

「えっとね。あたしドラコとね。お話したの。何をお話したのかは覚えてないんだけれどね、お話したの。それで、それでね、ドラコにねヨウカンをね。食べてもらいたかったのあたし。だからドラコにね、スラグホーン先生に昨日分けてもらったヨウカンをね、ドラコにあげたの」

 アストリアは、トレイシー・デイビスにますます強く、縋るようにぎゅうっと抱きついた。

「それで、おねえちゃんとね、ドラコのパパさんとママさんも呼んでね。あたしとお姉ちゃんのパパとママも呼んでね、一緒にヨウカンを食べたの。それで、あたし…………目がさめたの」

 

 どこまでが昨晩の記憶でどこまでが昨日見た夢の光景なのか判別できていないアストリアは、しかしドラコと会ったということだけは間違いないと、なんとなく確信していた。

 だから、ドラコとどんな話をしたのかを覚えていなくても、アストリアは嬉しかった。

 

 自分は覚えていなくともドラコはきっと覚えているに違いなくて、自分はきっとドラコに言葉をかけてあげられたのだと、励まして慰めて勇気づけて、うんと優しくしてあげられたのだと、アストリアはそう信じていたから。

 この調子で頑張るのだと、アストリアは決意を新たにしていた。

 

「あれえ? あそこにドラコがいるわ」

 

 アストリアが何を言い出したのか一瞬わからなかったトレイシー・デイビスは、この子ったらまだ寝ぼけてるのね本当に可愛いわねと、そう考えていた。

「これドラコよね? それでこっちはセオドールくん。…………これもしかしてトレイシーちゃんが描いたの?!! わああすっごく上手!! ドラコにも見せてあげなきゃ!!!」

 

 今までの微睡み具合が嘘かのように勢いよくベッドから飛び出していったアストリアがベッドのすぐ横の開けっ放しのトランクケースから何を見つけて持っていったのか、トレイシー・デイビスが理解した時にはアストリアは既に寝室から出ていってしまった後だった。

 

「――ひょおおああぁあ待っって!!! 待ってくださいお願いします!!!!」

 

 その本の中身を見もしないまま大喜びで談話室まで駆けてきたアストリアは、そこに1人だけいた人影が誰なのかを後ろ姿からすぐ判別して、元気いっぱいに声をかけた。

 

「あーー! ノットだ! おはようノット! ねえねえノット見てみてトレイシーとっても絵が上手なのよほら見てこの本の表紙!! ノットとドラコがすっごくそっくりに描けてるの!!」

 

 ヴォルデモート卿に「今年度中にダンブルドアを殺せ」と命じられた時のドラコと、今のトレイシー・デイビスは全く同じ顔をしていた。

 

「……おはようアストリア。…………それを、よく見せてくれるか」

「はいどうぞ!!」

 

 表紙に描かれているのは間違いなく自分とマルフォイの奴だと一目で判ったセオドール・ノットだったが、その表紙の絵の、構図に違和感があった。

 

 トレイシー・デイビスがゴトンと痛そうな音を立てて床に膝から崩れ落ちた直後、セオドール・ノットはそのあまりページ数が多くないように見える本の、表紙を捲った。

 

 ノットは眉間にシワを寄せてそこに書かれている文章と豊富な挿絵を凝視し、トレイシー・デイビスはアラゴグを初めて見た時のロンのように、あるいはマクゴナガルに叱られている時のハーマイオニーのように弱々しく打ちひしがれて、萎れて縮み上がっている。

 

 そしてノットはゆっくりとその本を閉じて、静かに口を開いた。

 

「トレイシー・デイビス。…………話がある」

 

 誰か僕に忘却呪文をかけてくれと、セオドール・ノットは心の中で願っていた。

 

 




 
 次回、主文後回し。

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