104年後からの今   作:requesting anonymity

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66.心ここにあらず

 イギリスにひとつしかない、住民全てが魔法族の集落。ホグズミード。このホグワーツ魔法魔術学校から程近く、魅力的な店が通りを埋め尽くし買い物客や飲んだくれ共が集い、ホグワーツから生徒たちもよく訪れる賑やかな村の一角で、1人の魔法使いが静かな老後を過ごしていた。

 

「……いい加減に、いくらなんでも……さすがに……もうそろそろ……朝食を。摂らなければ」

 

 長年ホグワーツで魔法生物飼育学の教授を務めていたがハリー・ポッターが3年生になったのと同じタイミングで「自分の手足が残っている内に余生を過ごしたい」という理由で教職を引退した、片足と左手そしてもう片方の脚の半分を義肢で補っているシルバヌス・ケトルバーンは、日々衰えていく体力と活力を保とうと気持ちを奮い立たせて、やっとベッドから起き上がった。

 

 遅めの朝食と言うべきか早めの昼食と言うべきかの判断に迷いながら、シルバヌス・ケトルバーンは緩慢に杖を振って、よく見ればところどころ汚れが残っているティーセットを呼び寄せた。

 

「……スコージファイ。テルジオ」

 

 よほどのものでなければ呪文2つで済んでしまう食器の洗浄すら、老いたケトルバーン元教授にとっては、もはや敢行するために一呼吸置いて気合を入れ直さなければいけない作業だった。

「ああ、茶葉がそろそろなくなってしまうな。明日か、明後日にでも買いに行かなければ」

 まだホグワーツで教授をしていた頃なら「幸運にも散歩の動機が与えられた」と解釈して今からすぐに出発していただろうに、こういった気づきも今では単に雨が降り出したような気分になるだけの、毎日の小さな不幸のひとつでしかなかった。

 

 最後にドラゴンの棲息地を訪れてから気づけば1年以上経っている。

 

 以前なら「次はいつ頃行けるだろうか」と考えていたはずのところ、今は、ルーマニアの保護区やヘブリディーズ諸島のマクファスティー家が管理している区域などを訪れた時のことを思い出して「楽しかったなあ」と、あのドラゴンたちは今どうしているだろうかと思いを馳せこそすれども、それを実際に確かめるためにいま再びドラゴンたちに会いに行こうとは、もう考えない。

 明日は何をしようとか、来週は、来年は、将来いつか時間ができたら――そんな風に未来について計画を立ててあれこれ想像を膨らませながら心を踊らせることは、しなくなってしまった。

 将来いつか時間ができたらやりたいと思っていた事柄がまだ幾つも残っているのに、もう別にかまわないと考えている。

 

 そんな自分を残念にも思わなくなった。

 

 普段とは違う茶葉を買ってみることすらしなくなって久しいシルバヌス・ケトルバーンは、今や1日のほとんどを、昔を懐かしんで過ごしていた。

 

「…………また罪もないひとが殺されたのか」

 

 ただ、日刊予言者新聞に近頃は毎日必ずと言っていいほど載っている「例のあの人」とその信奉者たちの非道な行いにだけは、鮮烈な怒りを覚えるのだった。

 しかし、だからどうするということもなく、ケトルバーンは嘆息して紙面を読み進める。

 

 そんな老いさらばえた隠居人のシルバヌス・ケトルバーン元教授にとっての最高のヒーローは、なんの前触れも無く玄関口に現れて扉を叩いた。

 

「はいはい、ただいま向かいますよ」

 

 独り言と大して変わらない声量で必要最低限の応対をして、ケトルバーンは玄関の扉を開けた。

 

「あ。えっと、お久しぶりです。ケトルバーン教授」

「スキャマンダー先生…………! お久しぶりです! なぜ急に――いえ、いえ! またお会いできて嬉しいです! 片付いてませんが、どうぞどうぞお入りください!」

 

 夢でも見ているのではなかろうかと思いながらニュート・スキャマンダーを家の中に招き入れたケトルバーンは、随分久しぶりに自然と笑顔を浮かべていた。

 

「すいません。こんなものしかお出しできなくて」

 

 大慌てで杖を振っていそいそと紅茶をもう一杯用意してニュート・スキャマンダーをもてなしながら、ケトルバーンは自分も椅子に座るタイミングを見計らい損ねて、ダイニング中を落ち着き無くウロウロと歩き続けていた。

「ううん、そんな。美味しいですよ。ありがとうケトルバーン教授」

「いえ、いえそんな。安物しかお出しできなくて……」

 そう言いながらケトルバーンは跳ね上げるように鋭く杖を振って、小さな丸テーブルを挟んだニュートの正面に自分の椅子を用意し、何度かタイミングを見計らい損ねてからそれに座った。

 

「それで、本日はどのようなご用でいらっしゃったのですか? スキャマンダー先生」

「あ。ああそれね。えっと、ケトルバーン教授、その、僕と世界一周旅行に行く気はない?」

 

 久方ぶりに輝いていたケトルバーンの瞳が、再び煌めきを失って萎んでいく。今の自分にはもうそんな元気は無いんですと、ケトルバーンは誰より尊敬するニュート・スキャマンダーにそう告げるのが辛かった。もしその提案を承諾できればどれだけいいか、絶対に楽しいし夢のような時間を過ごせると確信できているのに、今シルバヌス・ケトルバーンは、茶葉を買い足さなければいけないからとか、義足の具合が良くないからとか、行かない理由ばかり探していた。

 

 そして、そんなケトルバーンの心の内を、ニュートは見抜いていた。そもニュートがあの神秘部部長にシルバヌス・ケトルバーンを連れて行って「あげたい」と言ったのは、教職を引退したケトルバーンが今こんな有り様なのを、ホッグズ・ヘッドのバーテンから聞かされたのが理由なのだ。

 

「あいつ見てられないから旅行にでも連れてってやってくれニュート」

 

 ホグワーツ魔法魔術学校校長たる「あの有名な」アルバス・ダンブルドアの実の弟にしてホッグズ・ヘッドでもう永いことバーテンをしている気難し屋のアバーフォース・ダンブルドアから以前なされたそんな提案を、ニュートは律儀にも「大切な約束」として、履行しようとしていた。

 

「お気持ちは、嬉しいですけど。…………僕にはもう、……そんな元気はありませんよ」

「あのケトルバーン教授、僕は――」

 何か言おうとしてやめたニュートは、自分が前を開けて着ているコートの襟の辺りを見ている。

 

「――どうしたんだいヴィッキー。まだお昼寝の時間だろう?」

 

 コートの裏に幾つもある内ポケットのひとつから這い出てきて自分の身体をよじ登ろうとしている、その片手に収まる程度のサイズしかない小さな生き物に、ニュートは優しく話しかけた。

 そしてそのふさふさした毛並みの茶色い小動物はニュートの頭の上まで登って、そこからテーブルへ、シルバヌス・ケトルバーンの目の前へとこぼれ落ちた。

 ごろりとテーブルに仰向けになったままのその生き物はどうやら落下するつもりはなかったらしく、今その小さな生き物がとてもビックリしているのが、ケトルバーンにもわかった。

 

 ケトルバーンが見ている前で、その生き物はスルリとティーカップに変身した。

 

「……また尻尾が出しっぱなしだよヴィッキー」

 

 そこだけ変身しないままティーカップから相変わらず伸びていた尻尾はニュートのその言葉に反応して向きや角度を整えるように何度か動いてから、ティーカップの取っ手に変わった。

 シルバヌス・ケトルバーンはこの生き物を、かつてホグワーツの生徒だった頃に図書館で読んだ本の記述でだけ知っていた。

 

「バケダヌキですか」

 

 ケトルバーンがそう呟いた途端、ティーカップにふさふさした茶色い毛並みの手足が生えた。

 

「そうだよ。ニホンにしかいない魔法生物。バケダヌキ。魔法生物じゃない普通のタヌキは極東地域から広がって東アジアに広く棲息しているけれど、ニホンには変身術の才能を持つタヌキの亜種が棲息してる。ティーポットに変身して皆の前で踊ったり、お腹を太鼓にして群れで夜毎マーチングバンドしたり、馬のウンチを食べ物に変身させてお腹すかせた人の傍にそーっと置いといたりするイタズラ好きの魔法生物。あと頑張って練習した個体は空を飛べるようにもなるんだけど、具体的にどういう方法で空を飛ぶのかは、紅茶を飲みながら説明していい内容じゃないかな」

 

 まあヴィッキーは練習を始めてもないからまだ飛べないけど、というニュートの言葉も耳に入らない様子で、シルバヌス・ケトルバーンはその妙な生き物をじっと観察している。

 

「ヴィッキーは見ての通りまだ子どもだから、変身術は練習中なんだよね。ほらヴィッキー、ケトルバーン教授にきちんと挨拶できるかな」

 ニュートにそう声をかけられたティーカップは短い手足をわさわさと忙しなく動かして10秒ほど姿勢を変えようと悪戦苦闘してから、どうやら諦めたらしく手足を投げ出して休憩し始めた。

「1回変身解いたらいいんじゃないのかいヴィッキー?」

 そう指摘されるまでその手段に思い至らなかったのか、ティーカップはスルリと自分本来のイヌのようなイタチのようなもったりした小さな動物の姿に戻って後脚だけで立ち上がると、真っ黒なまんまるの目でケトルバーンをじっと見つめる。

 

 そして幼いバケダヌキの子ども「ヴィッキー」は、テーブルの上で何かしようとして一歩前に踏みだして、ケトルバーンのティーカップが乗っているソーサーを踏んづけて滑って転んだ。

 てこの原理で跳ね上げられたティーカップは勢いよく宙を舞い、その中にまだ残っていた少量の紅茶を全身に浴びて放心状態のヴィッキーが呆然としたままニュートを見ている横で、ティーカップが床に落ちて割れるガシャンという大きな音が部屋中に響く。

 

 めんどくさがらずに氷を用意してアイスティーにしてよかったと、昨日と同じ温かい紅茶だったらこの子がヤケドしていたかもしれないと、ケトルバーンは肝を冷やしていた。

「レパロ、テルジオ――ごめんねケトルバーン教授……大丈夫かいヴィッキー? そうだねビックリしたよね…………大丈夫だよ、大丈夫。気にしないで。どこも怪我してないね?」

 ケトルバーンをどうやって説得して連れ出すつもりだったのかも、ここに来るまでに散々考えてやっと思いついたはずの幾つもの言葉も、ニュートは、頭が真っ白になっているのが顔に出ているヴィッキーを抱っこしてあげた拍子に何もかもすっかり忘れてしまっていた。

 

「僕、ぼく代わりの紅茶を――」

「ねえケトルバーン教授!」

 

 なんの作戦も無いまま、ニュートは立ち去ろうとしたケトルバーンを大きな声で呼び止めた。それはニュートの他にはハリー・ポッターも時々見せる、ニュートが学生時代に所属していたハッフルパフ寮よりもむしろグリフィンドールの生徒に多い特徴だった。

 自分に今「なにができるか」ではなく、自分が今「なにをすべきか」を重視する行動原理。讃えられるべき勇敢さにも嘆かわしい無謀さにもなりうる、類稀なる英雄の素質だった。

 

「ねえ、ケトルバーンくん。僕と同じくきみもダンブルドアの『不死鳥の騎士団』には、参加していないよね。でもきみだって、僕と同じように『例のあの』――ううん、『ヴォルデモート』を。討ち果たそうとしている人たちの味方だよね。彼らを、そして何より魔法史に長く残るだろう運命のもらい事故をわずか1歳で被ったハリー・ポッターを、僕らが何か、助けてあげられるなら」

 

 ニュートの言葉をそこで遮ってケトルバーンは、ぽつりと呟く。

 

「僕は、彼らの力になってあげることができません。足を引っ張って迷惑をかけるのがオチです」

 

 老いるというのは精神にとってこそ重篤な影響があるのだろうと、もしかして気持ちにそれが現れることこそを老化と言うのではないかと思いながら、ニュートはケトルバーンの説得を試みる。

「僕だってそう。けどケトルバーンくん。僕らにもひとつだけできることがあるよね。それはヴォルデモートにもグリンデルバルドにもできないことで、ダンブルドア先生がとっても苦手なこと」

 

 ニュート・スキャマンダーは今、同じ道を歩み同じものを希求し尊敬し合い論文を引用し合う研究者仲間としてではなく、師として、大切なかつての教え子ケトルバーンに言う。

 

「ねえ、ミスター・ケトルバーン。覚えてる? きみの心は今どこにある?」

 

 ニュート・スキャマンダーがそう問うた瞬間、シルバヌス・ケトルバーンはビクリと激しい反応を一瞬だけ示して、立ち尽くしたまま動かなくなった。

 スキャマンダー先生がいま自分に何を訊いたのか、何を覚えているかと確認したのか、問い返さなければ察せないようなシルバヌス・ケトルバーンではなかった。

 ケトルバーンはその時のことを思い返すだけでいつでも、今でも、最高の気分になれた。

 だからケトルバーンは、この質問にだけは、自信を持って即答することができた。

 

「ヒッポグリフの背に乗って、雲より高い空の上に。貴方の特別授業を受けたあの日からずっと」

 

 それは老いてしまった今でもシルバヌス・ケトルバーンの心を一番深いところから照らし続けている、何より輝きを放つ幸福な記憶。彼が魔法生物に興味を持った、一番最初のきっかけだった。

 何十年も前、ケトルバーンがまだホグワーツの3年生になったばかりだった時のこと。

 

「どの教科も自慢できるような成績じゃなかった僕は、他のよりは楽しそうだという消去法で、かろうじてワクワクしながら、初めての魔法生物飼育学の授業に臨んだ。そして、本来授業をするはずだったあの元気なお婆さんのホーウィン先生が急用だとかで、その代理でいらっしゃったのが貴方だった。あなたは僕らにヒッポグリフを見せてくれた。スリザリンの男子に押されて皆より一歩前に進み出ちゃったから、僕は誰より先にそのヒッポグリフに挨拶することになった…………」

 

 あの真っ白で立派なヒッポグリフの「アルフィルク」が自分にお辞儀を返してくれた時の高揚感を、スキャマンダー先生に「乗ってみるかい?」と提案をされた時の困惑を、アルフィルクの大きな翼が太陽の光に照らされてダイヤモンドのように輝く様を、あの当時のどんな箒も比較にすらならないほど速く空を駆けるアルフィルクの背に必死でしがみつく自分の全身を押しつぶさんばかりに殺到する大気の圧力を、それが身体を避けて後方へと去っていく爽快感を、足元よりも低い位置に広がる、まるで地面か海面かと錯覚してしまいそうな一面の雲と、その切れ間から遥か遠く薄青色に霞んで見える地上を、そして勇気を出して身体を起こしてみたら視界一杯に広がった、どこまでも続く大空の広さを、シルバヌス・ケトルバーンは今でもハッキリと思い出すことができた。

 

「ねえミスター・ケトルバーン。僕らは助けを求めることができる。『助けてくれ殺される』と、大きな声で叫ぶことができる。『大切な人たちを助けてあげるために力を貸してほしい』と頼んで周ることができる。ねえミスター・ケトルバーン。確かに僕らはもうヨボヨボのおじいちゃんだ。階段登るのにもゼエゼエ言わなきゃいけないし、ましてや戦闘なんてね。けどヴォルデモートと戦う人たちの、力になってくれそうな昔馴染みがさ。きみには本当に1人も思い浮かばないかい?」

 

 ニュートは再びそこで、今度は遮られるのではなく自分の意志で言葉を切ってケトルバーンの目を真っ直ぐに見つめた。ニュートに両腕で抱っこされている幼いバケダヌキの「ヴィッキー」も、まるでニュートの真似をするかのようにケトルバーンにじっと視線を注いでいる。

 

「1人いる」口を開いたケトルバーンの表情は先程までとはまるで異なっていた。「教え子です。あのハリー・ポッターと同級生たちが入学してくるのと入れ替わりにホグワーツを卒業した生徒。チャールズ・ウィーズリーやニンファドーラ・トンクスにメルーラ・スナイド、キアラ・ロボスカなどと同じ時間をホグワーツで過ごした生徒です。あの子は私が見た中で、最も不思議な生徒だった。けれどあの子は、僕が声をかけるまでもなく、既に不死鳥の騎士団の協力者として行動を開始していると聞いているから、…………やっぱり、僕にできることは無いように思う」

 

 発言が尻すぼみになったかつての教え子の目を見たまま、ニュートは最後の質問をした。

 

「じゃあ、一緒には来ないのかい? シルバヌス・ケトルバーン」

「いいえ。行きます。何もしないなんて耐えられない。たとえ何もできないとしても」

 

 そこに居たのはもう、昔を懐かしみながら老後を静かに過ごすくたびれた隠居人ではなかった。

 誰より尊敬するニュート・スキャマンダーに刺激を受けて心に再び火が入ったシルバヌス・ケトルバーンは今や、かつての姿に戻っていた。経験豊富で誰より無鉄砲で軽率な、危険な魔法生物との距離感を測りそこねて失った手足を見て「これは勲章だ」と喜びを感じペットの12匹のニフラーたちに自宅と家財を破壊されてなお嬉しそうに笑い、追加のニフラーを12匹手に入れる日を今か今かと待ち望んでいた、火事の原因になりやすい要注意の魔法生物アッシュワインダーに肥らせ呪文をかけて巨大化させて案の定の事態を引き起こし、ダンブルドア校長がホグワーツでの演劇を禁止する原因の一端を担った、ホグワーツの教職員で一番の問題児に。

 

 ダンブルドアを不死鳥だとするなら、ケトルバーンはウィーズリーの暴れバンバン花火だった。

 人々を癒し心に寄り添い誰をも安堵させる不死鳥の炎ではなく、強烈で眩しくて制御が効かない、一瞬たりとも絶対に目を離してはいけない色とりどりの騒がしい炎だった。

 それはケトルバーンの授業を受けたかつての教え子たちの記憶に今でもハッキリと残っている、現役時代のケトルバーンの目に常に灯っていた無尽蔵の行動意欲と好奇心の炎だった。

 ダンブルドア校長が今でも「先輩」と呼んで慕うあの賑やかな魔法使いの目にずっと宿り続けているのと同じ種類の、周囲の人間にまで燃え広がる騒動の炎だった。

 

「じゃあ、行きましょうか『ケトルバーン先生』。といっても実は僕これからホグワーツで魔法生物飼育学の特別授業をする予定で…………もし、よろしければ。手伝ってもらえたらなぁって」

 

 まさかまたホグワーツで授業をできるだなんて夢にも思っていなかったケトルバーンはニュートの言葉を聞いてその両目を歓喜で潤ませながら、顔を隅々まで歪ませて思いっきり笑った。

「もちろん喜んでお供しますスキャマンダー先生。今すぐ出発しましょう!」

 聞きたかった言葉が聞けて嬉しいニュートの腕の中で、幼いバケダヌキのヴィッキーが、まるで眠気と闘っている子犬のように小さな声で「クウ」と短い鳴き声を上げた。

 

「ところでスキャマンダー先生、授業では何を?」

「それなんだけど、実はね――」

 

 そしてその特別授業が始まる時間が迫ってくるにつれ、ホグワーツ城とそれに隣接する禁じられた森との間に位置するハグリッドの小屋の傍の屋外に集まってくる生徒の数は増す一方だった。

 

「あ、もうみんな居る! あれがスキャマンダー先生かな?」 

「おやハグリッドの奴も居るのか――そりゃそうか。こんなのあいつが見たくないわけない」

 少しでもいい場所を取ろうと押し合いへし合いしている生徒たちの中にあって、最前列の真ん中という特等席を確保しているのは他でもない、ハグリッドだった。

 あろうことかハグリッドが最前列に陣取ってしまっている以上、何も見えないと判りきっているハグリッドの背後をその場にいる他の全員が避けて、左右に分かれて人だかりを形成している。

 

「おいそこのグリフィンドール生3人組! お前ら1年生だろ。何やってる!」

 

 かなり遠くの茂みに隠れていた1年生たちを目ざとく見つけて声をかけたスリザリンの7年生、純血を標榜する由緒正しい家系出身のセルウィンくんは、ビクリと怯えて逃げようとしたそのチビたちを、さらにもう一度大きな声で呼び止める。

 

「そんな最後列から何が見える。もっと前に来い前に! こんな機会二度と無いんだぞ! そこのハッフルパフの女子2人、お前らもだ! そんなとこで遠慮してないで最前列に来い1年生!」

 

 思っていたのと真逆の意味の言葉が飛んできてビックリ仰天していた1年生たちはしかし、それじゃあお言葉に甘えて、といった態度で1人また1人とぞろぞろ最前列に出てきた。

 しかし最前列に陣取っているのがハグリッドと1年生だけになったわけでもなく、今年から3年生になったナイジェル・ウォルパートとデニス・クリービー、4年生のアストリア・グリーングラスと姉のダフネ、そして来るつもりは無かったがアストリアに捕まってしまったドラコ・マルフォイも1年生たちに混じって一番前に、ハグリッドの周囲に各々の場所を確保していた。

 

 一方、あなた背が高いんだからというハーマイオニーの意見をもっともだと感じたロンを筆頭に、ハリーたちD.A.の主要メンバーを含む「地下聖堂」の利用者たちは、そのほとんど全員が集団の後ろの方に固まっている。

 

「隣いいかの。ハリー」 

 

 いつのまにやらそこに居たダンブルドアのすぐ横にはマクゴナガルと、ダンブルドアに手首を掴まれて嫌そうな顔で立っている、どうやら連行されてきたらしいスネイプの姿があった。

 自分は教師なのだからと遠慮して後方に居たフリットウィックは、何度か飛び跳ねたり生徒たちの身体と身体の隙間から前を覗こうとした後、何も見えないと悟って大人しく最前列へ移動した。

 

「去年の『あの先生』の授業を、ニュート・スキャマンダーといえど超えられるのか?」

「どうだかな。まあ、お手並み拝見といこう」

 

 そして、懐かしいホグワーツ城を背景にしてどやどやと集まってくる生徒たちと教職員たち、そして驚くべきことに城から出てきて生徒たちの上に浮かんでいる何人かのゴーストたちを彼ら彼女らの真正面から眺めていたその老魔法使いは、予定の時間になったのを確認して、口を開いた。

 

「じゃあ、そろそろ始めようか。みなさんはじめまして。僕はニュート。ニュートン・アルテミス・フィド・スキャマンダーです。『幻の動物とその棲息地』って本を書いたりしてます。今日これからは僕のことを『スキャマンダー先生』って呼んでくれたら嬉しいかな」

 はじめましてスキャマンダー先生、と生徒たちが声を揃えた。

「ありがとう。よろしくね皆。……そして、お久しぶりですダンブルドア先生。マクゴナガル先生。…………ビンズ先生。さて、僕は普段、まあ皆のご想像の通り、魔法生物のお世話をしながら暮らしてる。ごはんをあげて、ブラッシングして、やっちゃいけないことをやらないように躾をして――もちろん彼らにとって土台無理な要求はしないようにしながらね――、そして気付いたことはノートに纏める。そんなことばっかりしてたらこんな大人になっちゃうから皆は気をつけてね」

 

 気難しそうなスリザリンの生徒たちを何人か笑わせることに成功して、ニュートは心の中でグッと拳を握ってささやかに勝利を喜ぶ。

 

「おととしだね。2年前。当時ね、実は僕、引退しようと思ってたんだ。飼育していた魔法生物たちを息子の職場に――神秘部に――引き受けてもらう約束を取り付けて、やっぱりさみしいから嫌だって息子に連絡しようとしてティナに叱られて、キメラのアンドレアスを抱きしめて泣いてた。まさにその時に依頼が舞い込んだ。フクロウが持ってきた手紙は、トルコ魔法省からだった」

 

 そこでまた言葉を切って、ニュートは生徒たちに問いかける。

 

「この中に、南アメリカ大陸にあるパタゴニアって土地が、何故パタゴニアと呼ばれているかを僕の代わりに説明してくれる人はいるかな? はいきみ。一番早かったね、名前は――ありがとう。それじゃあ、ミス・ハーマイオニー・グレンジャー。どうぞ」

 ハーマイオニーは人だかりの最後列から、いつものようにくっきりハッキリとした発声で、いつもより少しだけ緊張しながらかつて本で読んだその回答を述べる。

 

「16世紀頃、マグルの冒険家が『現在ではパタゴニアと呼称されている地域』に辿り着いて、そして出くわした巨人たちに『パタゴン』という呼び名をつけたからです。パタゴンが住んでる土地だからパタゴニア。でも実際には彼らは巨人ではなく、巨人の血を引く人々がそこに集落を作っていただけで、俗に『真のパタゴン』と呼ばれた本当の巨人はもっと内陸に棲息していたそうですが」

 

 ニュートはハーマイオニーに1点与えたが、すぐに加点が少なすぎるかそれとも軽率に加点しすぎたかと心配になって、縋るような視線を生徒たちの頭上に向けた。

 そこに浮かんでいたゴーストの「太った修道士」が穏やかに微笑んでくれたのでニュートは安心して、大勢の前で続きを話せるだけの勇気を取り戻すことができた。

 

「そう、そのとおり。そして今ではもう、少なくとも僕が知っている限りでは、南アメリカ大陸に巨人は棲息していない。けれど今回の授業で大切なのは『僕が知っている限りでは』って部分だ。では次に、この生き物が何か。答えられる人はいるかな――2人とも、その子たち連れてきて!」

 

 スキャマンダー先生の背後に広がる禁じられた森の木々の奥、その暗がりの向こうから並んで姿を現した2頭の大きな生き物を見て、一目でその正体を判別できたのは教師陣でも極一部だった。

 

「…………スフィンクスか?」

 

 ドラコの呟きは正解を言い当ててはいなかったが、ドラコとてそれは理解していた。ただドラコが知っている魔法生物の中では強いて言えばスフィンクスか、もしくはマンティコアに似ていた。

 四足動物の胴体に、ヒトの頭部。大きな身体。明らかにスフィンクスでもマンティコアでもないが、では何なのかと問われると、ハリーにもロンにもノットにも、サッパリ検討がつかなかった。

 

 そしてその生き物の正体を一目で見抜いたからこそ、ダンブルドアとハグリッドは驚いていた。

 

 正しい知識を有するダンブルドアとハグリッドにとって、それは古代遺跡の彫刻にのみ姿を残す、ホグワーツができるよりも遥か昔、腐ったハーポによって最初のバジリスクが創り出されるよりもずっと昔に姿を消したはずの、そも実在したのかすら未だ議論が続いている魔法生物だった。

 

「はい。どうぞ、ハグリッド教授。あなたしか手を挙げていないからね」

 

 草むらにどっかりと腰を下ろしていたハグリッドは自分の左足に座っていたアストリアに退いてもらってから立ち上がり、周囲の生徒たちはその大きな身体に押し出されて左右に広がった。

 あのニュート・スキャマンダーに「教授」と呼ばれたのが嬉しくて仕方がないハグリッドは、訊きたいことが山程あるのをどうにか我慢して、もっと近くで観察したいと叫ぶ自分の好奇心をギリギリ押さえつけて、どうにかこうにか口を開いた。

 

「そいつぁ『ラマッス』だ。今じゃあトルコとかシリアに含まれる辺りがまだメソポタミアと呼ばれとった頃に、ローマ帝国どころか王政ローマですら影も形も無かった頃に、アナトリアらへんに棲んどった……と、残っちょる遺跡の彫刻だとか、文献とかを頼りにそう推測されちょる、とっくの昔に絶滅した魔法生物だ。牛の身体。ヒトの頭。それにヒッポグリフみてえな翼。間違いねえ。けんどスキャマンダー先生、いったいそれをどこで――どうやって……」

 

 そこまで言ってからやっと自分が立ち上がっていると生徒たちの邪魔だと気付いたハグリッドはそっと草むらに座り、その衝撃で吹っ飛んだアストリアがドラコの膝の上に倒れた。

 ドラコから咎めるような視線を向けられていることに気づいてもいないハグリッドをよそに、これ幸いとドラコの膝枕を堪能し始めたアストリアは、断固起き上がるまいと心に決めていた。

 

「それね。さっきも言ったとおりトルコ魔法省から依頼が届いたんだよね。『力を貸してほしい』とかなんとか。それで、引退するつもりだったのもあって時間に余裕があったのと、ちょうどいいからこれを最後の仕事にしようって気持ちで、僕はギョベクリ・テペに向かった。そこではちょうどマグルの考古学者たちが発掘作業をしていたんだけど、僕が案内されたのはそこから少し離れた、けっこう広い範囲に大規模に存在してるギョベクリ・テペ遺跡の別の地点だった。そこではトルコ魔法省の正式な許可を受けた、もちろん魔法使いと魔女の考古学者たちが、マグルの目から自分たちを隠す保護魔法のドームの内側で、作業を中断して困り果ててた」

 

 生徒たちの半分はニュートの話に惹き込まれていて、もう半分はそこにいる有翼人面雄牛の雄大な姿に興味を惹かれて、その2頭並んだ大きな身体をじっと見つめている。

 

「辿り着いた僕はまるでダンブルドア先生が来たみたいに大歓迎された。『助かった!』って。で案内されたのが、彼らが掘り当ててしまった、ギョベクリ・テペ遺跡の、存在が知られていなかった広大な地下区画だった。そこにこの子たちが、群れで暮らしてた。トルコの魔法使いたちは、その空間を調べたいけどこの子たちが居たもんだから困っちゃって、地元の魔法生物学者を呼んだけどその人にも解決策が判らなくて、で、僕が呼ばれたみたい。僕はとりあえずその地下区画に降りてみて、危害を加えるつもりはないって理解してもらうために3日費やして、それでやっと、3つのことが判明した。ひとつは彼らが間違いなく『ラマッス』だってこと。もうひとつは、彼らがヒトの言葉を話せるってこと。そしてもうひとつは、彼らがアッカド語しか話せないってこと」

 

 それは果たして『ヒトの言葉が話せる』にカウントしていいのかと、ザビニは首をかしげている。それもそのはず、アッカド語とはそれこそアッカドやバビロニアやアッシリアといった文明が隆盛を誇っていた頃に話され、1世紀に消滅した、今では話せる人間がいない言語なのだから。

 

「僕が今こうして彼らを連れてるのはトルコ魔法省からの『適切な飼育方法を確立させてほしい』という依頼を遂行中だから。改めて紹介するよ。君たちから見て右、目元がキリッとしてるのが『アルウィウム』で、口がむいってしててかわいい左の子が『カルムム』だ。年齢はだいたいダンブルドア先生くらいだってさ。そしてここからが大事なところ。僕は今、彼らからアッカド語を習っている。そしてそのお返しに彼らに英語を教えている。で、この子たちはとても頭が良い」

 

 アルウィウムとカルムムの顔の違いが判らないハリーがスキャマンダー先生の発言の意味するところを理解するより先に、そのアルウィウムとカルムムのどちらかが、板のように編み上げられた強いカールのかかった長い髭を揺らしながら、口を開いた。

 

「さっきの麦酒はもう無いのかニュート」

 

 ドラコの膝から跳ね上がるように身体を起こしたアストリアの目が、好奇心で輝いた。

 アストリアと同じようにナイジェルとデニスも、コリンもハグリッドもその目を輝かせている。

 一部の生徒は明らかに怯えているが、それでもその有翼人面雄牛を観察せずにはいられない。

 

 そして彼らと同じくらい大興奮している人物が、何匹ものラマッスの子どもを引き連れて、そしてもう1人の「ニュートの助手」と一緒に、森の奥から生徒たちと教職員の前に姿を現した。

 

 その人物の姿が視界に入った瞬間、ハグリッドは驚きを声に出すことを我慢できなかった。

 

「ケトルバーン…………! 爺さんあんた、元気にしちょったのか!」

「おや、こりゃあ久しぶりだ! ハグリッド見てくれこの子たちを! そんなところに座ってないでこっちに来たらどうだいハグリッド! この子たちすっごくかわいいんだよ!」

 

 そこにいたのはホグワーツで教師をしていた頃と全く同じの、魔法生物に対する親愛と情熱が留まるところを知らずに全身から轟々と発散されている、危なっかしいシルバヌス・ケトルバーンその人だった。義足の付け根やらローブの裾やらを子どものラマッスたちに齧られながら、ケトルバーンは自分が授業をする側の立場だということを忘れていると誰の目にも明らかな、心の底からの歓喜に溢れた表情で、一番小さなラマッスの子どもの歩みを見守りながらそこに立っていた。

 

 今朝までの、無気力で年老いた物静かなケトルバーン元教授は、もはやどこにもいなかった。

 

 




 
【シルバヌス・ケトルバーン】Silvanus Kettleburn
 1993年8月いっぱいで引退した、ハグリッドの前のホグワーツの魔法生物飼育学教授。
 もちろん魔法生物が大好き。生徒だった頃に所属していた寮はハッフルパフ。
 ハグリッドとは違って身体の耐久性は普通なのでディペット先生が校長だった時代から頻繁に怪我をしており、そしてその怪我を彼は「魔法生物に対する熱意と献身の証」だとして誇らしく思っていた。引退した時点で片手と片足、そしてもう片方の足の半分が無かったそうな。
 どう考えてもレガ主と同じ種類の人間。

【ギョベクリ・テペ】Göbekli Tepe ※ハリポタの公式設定ではありません※
 トルコ南東部に存在する、紀元前9500年頃に設立され紀元前8000年頃に放棄されたと考えられている、現在発見されている中でも特に古い時代のヒトの都市というか定住地の遺跡。
 宗教施設らしき遺構や動物の彫刻などが見つかっている。

【ラマッス】Lamassu ※ハリポタの公式設定ではありません※
 遺跡の彫刻としてその姿が残る古代メソポタミアの守護神。有翼人面雄牛。
(ここから私の妄想)
 当時実在した魔法生物なのか、それとも空想の産物なのかについて様々な学説が混在していた。 
 ニュートは「スフィンクスとかマンティコアの親戚なんじゃないかな」派を支持している。

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