104年後からの今 作:requesting anonymity
「どっ、ドングしゅぜんぱっ、トンクスせんぱい、わたし、わ゙だじっ……うぇぇぇぇ………」
神秘部部長が所有しているカバンの中なのか、それともホグズミードにある何を売っているのやら判らない店の地下なのか、はたまた神秘部の内部なのかが判別できない、ポルターガイストのファスティディオが気まぐれに繋ぎ合わせたマラソンコースの途中。ニンファドーラ・トンクスがちょうど通りかかった一軒家の前に居たその若い闇祓いの魔女は、こちらを見るなり泣き始めた。
「アナタあのおかしな人に何かされたの? 酷いことされてない?」
「あ゙たしっ、あたし、もうおっ、おうちにっ……が、帰れないんでず………」
ニンファドーラ・トンクスに会えたことで安心したのか、その年若い闇祓いの魔女はまるでホグワーツに入学したばかりの小さな女の子かのように涙で顔をぐちゃぐちゃにして泣き続ける。ひとつ上の先輩でもあり友人でもある同僚のそんな振る舞いを間近で見て、トンクスはあの人をウィゼンガモットに突き出すべきかダンブルドアに告発するべきかと考えを巡らせる。
しかしそれらがどれも的外れな発想だったことを、トンクスは目の前で泣き続けているその魔女の、途切れ途切れの言葉によって知らされる。
「お゙ふとんがふわふわなんでず…………!!」
「なにが???」
トンクスは聞き間違いかと思っているが、対する年若い闇祓いの魔女にはトンクスの心中に生じた困惑など察せるほどの余裕はない。
「ム゙ーンカーフちゃんたちカワイイんです……ニフラ゙ーちゃんだぢもガワイイんでず……ポピーちゃんが作ってくれるお食事が美味しいんです……ポピーちゃんがっ、ポピーちゃんが優しいんでず……あだじちょっとしかお手伝いできてないのにいつもお礼言ってぐれでっ、お菓子つくってくれてっ、良い子だねって褒めてくれて……だから私っ、もうここから出られないんでず…………」
「じゃあ住みゃ良いんじゃないの」
一気にどうでもよくなってしまったトンクスは、まるでスネイプの近況を聞かされたハリーのように冷酷で感情の籠もっていない口調で、同僚をそう突き放してしまった。
「そんなコㇳい゙わなぃでくださいよぅ゙」
「アナタ闇祓い局本部じゃ
髪に糸屑がついているとでも指摘したかのような気軽さで告げられた己の現状に、その年若い闇祓いの魔女は愕然とする。
「あ゙たしここにい゙る゙のに……?゛」
「1コ上の先輩がこんなベソベソ泣いてるのを見せられてる私の身にもなってくれないかしら」
口では雑な対応をしつつも杖をその魔女の顔に向けて涙やら鼻水やらを拭ってあげたトンクスは、拭ってあげた端からまた涙が溢れてくるその魔女の顔を見て、事情を訊くにしてもどうにかして泣き止んで貰わなければいけないという気づきを得たせいで、さらに面倒臭くなってしまった。
第一この後に楽しみな予定が控えているので、正直さっさと立ち去りたい気持ちすらある。
では何故まだトンクスがこの場に留まっているのかと言えば、そうすることが闇祓いとしての責務だと考えていたからだった。目の前で4歳みたいな泣き方をしているこの人は誘拐の被害者であり同僚でもあるので、トンクスの心に定められた道徳に従えば、無視するわけにはいかないのだ。
「なに今晩おんなじベッドで添い寝してあげれば気が済む?」
「それ゙はぢょっどイヤでず」
「……この女…………!」
職責に起因する義務感と個人的な感情との間で揺れながらもまた涙と鼻水を魔法で拭ってくれたトンクスに、「テルジオ」で顔をキレイにしてもらってちょっと落ち着いたらしい闇祓いの魔女が今までしていた会話の内容とはまるで関係が無い質問をする。
「ところでトンクス先輩。……今日はどぉしてお胸だけちょっとおっきいんですか?」
「………………そぉ、れェは……リぃーマスにぃ…………逢う、からっ、かなあ……」
ニンファドーラ・トンクスは生まれてこの方、ダイエットというものをしたことがない。多感な学生時代も今も、お肌や髪質に気を遣った経験だって無いし、それらをより良くしようと、より美しく、あるいは可愛くなろうと努力したためしも無い。
なぜならニンファドーラ・トンクスにとってお腹のお肉とは付いてきたら減らせばいいもので、お尻とは大きくなってきたら小さくすればいいもので、肌が荒れてきたらキメ細やかにすればいいだけの話で、髪質とは気分で変更するものなのだから。
ニンファドーラ・トンクスにとってルックスとは、いくらでも選べるものなのだから。
だからニンファドーラ・トンクスは普段、自分で選んで自分本来の外見でいるのだ。パパとママに貰ったこの自分が好きだから、いつもは髪ぐらいしか変えないのだ。
しかし今では、トンクスは起床後なによりも先に鏡の前に立って「男の人ってもっとこういう体の方が好きだって聞いたもんね」とか考えながら、貴重な朝の時間のかなりの部分を費やして己の体型を細部まであれやこれやと調節してから魔法省地下2階の闇祓い局本部に出勤している。
そも体を動かすことが好きなのもあってこれまでの人生でたるんでいた時期など1日たりとも無い二の腕すら、もっと細いほうが良いかやっぱりもう少し筋肉がついてたほうがいやいやもう少しと、毎朝毎朝とめどなく調節し続けた末にいつも決まって「これだ」と納得するのではなく時間に追われた挙げ句に最終決定できないまま自宅を出て、闇祓い局本部へと赴く出勤中に、悩み続けても仕方ないかと今日の己の体型をなし崩し的に受け入れるのだ。
他者からどれほど羨望の目で見られていても当人としては己の外見に不満な点があるという意味では、ニンファドーラ・トンクスは至って普通の女の子だった。
「トンクス先輩そのカッコで闇祓い局本部に行くんですか? お肌出しすぎじゃありません?」
「私は今日は非番だし、そうじゃなかったとしてもこのまま出勤なんてするワケないでしょう。走り終わった後って決まって汗だくなんだから、シャワー浴びて着替えてそれからよ」
うまく話題が逸れてくれたとトンクスは思っているが、対する魔女は先程トンクスが口にしたその単語をしっかりと聞き取って、疑問を抱いていた。
トンクスの発言を聞いて生まれた疑問なので、その魔女は当然、トンクスにそれをぶつける。
「リーマスさんってどなたです? もしかして3年前に何回か『予言者』で記事にされてたリーマス・ルーピン氏ですか? それとも私がぜんぜん知らない別のリーマスさん?」
「…………そのリーマス・ルーピンさんよ」
トンクスは顔だけでなく、森に秋でも来たかのように耳も首もどんどんと紅潮していく。
闇祓いの魔女は、トンクスが今日は思い切ってかなり大きめにした胸を、凝視している。
そして闇祓いにあるまじき勘のニブさを持つその魔女は、数分かかってようやく理解した。
「……わたし結婚前の2人がそういうことをするのは不健全だと思いますトンクスせんぱい!!」
「ちっ違う違う!! デート!! デートするだけ!! 『純』異性交友!! なにもしない!」
「何もしないならどうしてお胸を大きめに調節しますか走りづらいでしょうに」
「そぉレはぁ、そのぉ、…………オトコのひとってこうぃうのスキかなって思って……」
その魔女は、尊敬するトンクス先輩を、ジットリとした疑いの目で見つめている。
「つまり会うなり即刻その場で手籠めにしてもらえれば願ったり叶ったりだけれど、それをしない人だから好きになったって面もあって、そんな展開にはならないと確信してもいるわけですね?」
今や顔を両手で覆っているニンファドーラ・トンクスは、1学年上の先輩であり闇祓いとしては同僚でもあるその魔女の指摘に、ただ無言で頷く以外には何もできなかった。
頑として一線を越えようとしないリーマス相手に色々とアプローチを試し続けているトンクスは、自分にこんな真似をさせているこの強烈な情動は決して性欲ではなく愛だと信じていたが、周囲の人間から己の振る舞いがどう見えるかという客観的視点には、あまり気を回せていなかった。
なぜリーマスがひとつのベッドで一緒に寝ることすらしてくれないのかを正しく理解しているからこそ、トンクスは決して引き下がるわけにはいかなかった。
そのためにトンクスが採る手段はともかく動機の方は、紛うこと無き純粋な愛だと言えた。
「……そんなに好きなんですか」
「そんなに好きなんです」
糖蜜ヌガーみたいな話をこれ以上ほじくり返す気にはなれなかったが会話をやめたらトンクス先輩はこの場に留まり続けてはくれないと理解しているその魔女は別の話題を探そうと頭を悩ませ始めたが、それがみつかるよりもトンクスがジョギングを再開するよりも先に、新しい話題の方が向こうから、2人の方へと近づいてきた。
「ヒッポグリフ?」
カラスのように艷やかな黒いヒッポグリフが向こうの森から姿を現して自分たちにお尻を向けてどこかへと歩いて遠ざかっていくのを、トンクスは見ている。
それだけでなくパフスケインやらニフラーやらハリネズミやら、トンクスにはいったいどこに隠れていたのやら解らない動物たちが地面を覆う草むらや向こうの森や一軒家の陰からぞろぞろとたくさん現れて、それらが皆、同じ方向へと移動を開始している。
トンクスが空を見上げてみれば、ピンク色のフウーパーやら青いジョバーノールやら真っ白なヒッポグリフやら茶色い毛並みの有翼馬やらが集団で、やはり同じ方向へと飛行していく。
動物たちが向かう方向にいったい何があるのかと考えて不安すら感じ始めているトンクスをよそに、その隣に立っている闇祓いの魔女には、何が起きているのかが理解できていた。
「あ、居た! ねえ一緒にピザ焼いて食べない?」
「ポピーちゃん!! 食べます食べます! 私つくるのお手伝いします!」
その小柄な老魔女は、遊牧しているのかと勘違いさせるほどに大量の動物を連れていた。
「エリエザーさんもピザ食べるんですか? 蛇って火が通った肉を消化できないんですよね?」
動物たちと同じようにその小柄な老魔女へと駆け寄っていった闇祓いの魔女は、小柄な老魔女の頭上にいる生き物に話しかけている。
数え切れない数の動物たちに囲まれながらやってきた小柄な老魔女の頭上の空中を這って移動してついてきているのは、ホグワーツ特急くらいあるんじゃないかとすら思わせる、巨大な白い蛇。それの頭からは枝分かれした立派な角が左右に伸びていて、僅かに黄色みがかった白い鱗は湖面のように静かな光を放っている。頭頂部に熟睡中のカラスを乗っけているその生き物が、かつて魔法生物飼育学の教科書で見た通りのホーンド・サーペントではないことだけはトンクスにも察せた。
〈私がそこらの蛇と同じ物差しで測れそうに見えるか〉
エリエザーと呼ばれたその巨大な白いホーンド・サーペントは会話に応じているが、その返答はシュウシュウというごく小さな音量の空気漏れにしか聞こえず、話しかけた闇祓いの魔女の耳には届かない。わざわざヒトの言語を発声してまで会話をしてやる義理は無い相手だと、この荘厳なホーンド・サーペントは若い闇祓いの魔女のことをそのように考えているのだ。
「エリエザーはなんでも食べるんだよ。でも食べるだけで自分では作んないんだ」
〈料理は作る物じゃなく奉納される物だからな〉
「なんにも手伝わない悪いエリエザーにはピザ食べさせてあげないよ?」
〈……わかってるよポピー〉
この小柄な老魔女が蛇と意思を疎通させている光景を既に何度も見ている闇祓いの魔女は、まさかポピーが蛇語を話せも聞き取れもしないなどとは露ほども思っていない。
まさかポピーが単なる観察と経験と思いやりだけで動物たちの考えを読み取り心を通わせているとは、全く予想だにしていない。
一方トンクスは、アレはたぶんアジアにしか棲息してない種類のホーンド・サーペントなんだろうなとは察していたし、それに加えて小柄な老魔女の隣で荷物をその背に乗せて運んできているのはどう見たってマンティコアだったが、そんなことは今トンクスにとってはどうでもよかった。
動物たちに囲まれている小柄な老魔女の斜め後ろ、グラップホーンとユニコーンの間に居たその人物の姿を見るなり、トンクスは一気に笑顔になった。
「リーマス! リーマスおはよ!」
「やあ。おはようニンファドーラ」
可愛い水の妖精という意味合いを持つ、いささか可憐が過ぎる己の名前をあまり好ましく思っていないニンファドーラ・トンクスは周囲の人間に自分のことをただ「トンクス」とファミリーネームで呼ぶように常日頃から要求していたし、誰かに「ニンファドーラ」と呼ばれると気を悪くしながら「ニンファドーラって呼ばないで」と訂正するのが親しい人々に良く知られたおなじみの振る舞いだったのだが、このリーマス・ルーピンが相手の場合だけは、どうやら例外らしかった。
ルーピンが以前にトンクスから告げられた「2人きりの時は」ニンファドーラって呼んでという要求に内包されていた条件は既に半ば形骸化し、今や他者の目がある場でルーピンが彼女を「ニンファドーラ」とファーストネームで呼んでもトンクスは訂正など滅多にせず、多くの場合は今そうしているようにただ嬉しさと気恥ずかしさの入り混じった表情で視線を逸らして笑うだけだった。
「さあ。このお家の裏にむかーしアイツと作ったピザ窯があるからそれ使いましょう」
小柄な老魔女にそう告げられてようやく、トンクスは人と会った際の当然の礼儀を思い出した。
「おはようございます。あの、貴女はシリウスの裁判の時にいらっしゃった、確か、マダム・スウィーティング……ですよね。……もしかして、本当にここに住んでいらっしゃるんですか? このっ…………こんな、住所もよくわかんない場所に?」
もしかして今わたし失礼な質問をしたかも、と訊いてしまってから思ったトンクスはマダム・スウィーティングが返事をしてくれないのでさらに不安になったが、しかしマダム・スウィーティングは、問いかけを投げたトンクスの目を見ていなかった。
マダム・スウィーティングは、トンクスの顔よりも低い位置に視線を向けている。
「アナタ若いお嬢さんがそんなお腹出してちゃダメよ。身体が冷えちゃうじゃない」
わあこのおばあちゃんウチのママと同じこと言ったと驚きながら、トンクスは目の前の小柄な老魔女に対する親しみが一気に湧き上がってくるのを感じている。
「ほらマクシミリアンを抱っこするといいよパフスケインはあったかいから」
「あの私ここまでずっと走ってきたばっかりで今むしろ暑いくらいなんだけど――」
気遣いはありがたいけれど必要ないとトンクスは説明しようとしたが、愛情と優しさで駆動する御年122歳のポピー・スウィーティングおばあちゃんは、説得など不可能だった。
「マクシミリアンはね、私の背より高くジャンプできるんだよ。カッコいいでしょ」
クアッフルくらいのサイズがある球体の身体をした、大きな2つの目玉もまんまるで毛並みがツヤツヤでふわふわの愛玩用ペットとして大人気の魔法生物を手渡されながら、トンクスは汗だくなのに抱きしめちゃったらこの子に迷惑じゃないだろうかと、自分いま汗臭くないだろうかと、考えれば考えるほどピザ作りの手伝いをするよりも先にやりたいことが思い浮かんでいた。
「……シャワー浴びてくる?」
マダム・スウィーティングにそんな提案をされたトンクスは、これからまだもう少し走るつもりだったので「今シャワーを浴びてもすぐまた汗をかくんだけどな」と逡巡したが、しかしランニングウェアが肌に張り付く不快感から解放されたいという欲求を無視しきることは不可能だった。
「お借りしたいです、マダム・スウィーティング」
「いいよー。このお家にあるから好きに使ってね。――ルーピンくんも一緒に行ってきたら?」
「いえ僕はお気持ちだけいただいておきます」
リーマスが己を律するために拒否したのか、それとも単にそこまでお世話になるのは申し訳ないと考えているのかはトンクスには判らなかったが、ただリーマスが決して自分と一緒にシャワーを浴びるのが嫌なのではないという確信だけはしっかりとトンクスの胸の中にあった。
そしてトンクスは、今は攻めるべき場面だと、そう思った。
「いいえ。一緒にシャワー浴びるのよリーマス・ルーピン。抵抗は無意味よ観念しなさい」
去年の、あのグリモールド・プレイス12番地でハリーたちや「騎士団」の皆と過ごしていたクリスマス前に、夜遅いのか朝早いのか判断が分かれる時間帯にキッチンで食料を漁っている自分を見つけた時と同じ、闇祓いの厳粛な目をしたトンクスがあろうことか耳だけ真っ赤にしたままこちらに杖を突きつけてそう宣告してきたので、従う以外の選択肢は無いのだとルーピンは理解した。
「キビキビ歩きなさいリーマスあたしと身体洗いっことかするんだからね」
「はい」
閉心術の練習でもしているのかと思わせるほどの完全なる無表情で、リーマス・ルーピンはニンファドーラ・トンクスによって、めくるめく夢の世界へと強制連行されていった。
この時の、すぐそこの一軒家へとトンクスに手首をがっしり掴まれて連れ込まれていくルーピンの姿は、まるっきり、闇祓いに現行犯逮捕された際のマンダンガス・フレッチャーのそれだった。
ルーピンは決してこれから自分の身に起きる出来事が嫌ではなかったが、不本意ではあった。なぜなら人狼症の感染経路は「変身した」人狼に噛まれることだというのは一般常識だったが、では変身していない人狼との粘膜接触が如何なる危険性も孕んでいないのか否かは、リーマス・ルーピンには推測するしかないのだから。万が一という危険性と懸念が拭えない以上は、可能な限り避けるという決定を下さざるを得ないのも、仕方がないと言えた。
仮に全ての懸念材料が無ければ、つまりヴォルデモート卿など存在せず自分が人狼症罹患者でもなかったとしたら、その場合はもちろんリーマス・ルーピンは喜んで今この己の内に渦巻く愛なのか肉欲なのか判別がつかない情動に身を任せただろう。
なにせニンファドーラ・トンクスは心根が美しいし、振る舞いが可愛らしいし、その姿ときたらいつまでだって眺めていたいと思ってしまうし、そもそもルーピンとて健全な男子なのだ。自分より10歳以上も若い20代半ばのお嬢さんに本気の好意を向けられて、嬉しくないわけがない。
なによりリーマス・ルーピンにとっては、これが人生初の恋なのだ。
だから共に幸せになる未来を思い描くのと同じくらいにトンクスのことを、死喰い人や例のあの人などからもそうだが何より己自身が抱える人狼症という危険から守りたいとルーピンが思ってしまうのも、それを理由に関係性に線を引いて、その線を越えないように時にはトンクスを拒絶すらしてしまうのも、決して誰にも非難などできない選択だった。
互いの粘膜の接触や僕の体液を彼女が摂取するような事態は避けなければと躍起になっているルーピンは、学生時代に自分がジェームズやシリウスやピーターと何度もお互いの飲みかけのバタービールやレモネードなどを交換していた記憶が、意識から抜け落ちている。
ホグワーツで過ごした7年間ずっと一緒にいたジェームズもシリウスもピーターも人狼症には罹患していないという事実も、ルーピンの意識からは抜け落ちている。
それで感染してしまうのなら人狼症の罹患者はもっと多いはずだし、第一あのフェンリール・グレイバックが――いくら当人が咬傷を負わせるという行為それ自体を好んでいるとはいえ――同族を増やすために「噛む」以外の手段を一切試していないというのは、考え難いのだから。
つまりこの時、当人たちにしてみれば知る由もない事とは言え、結論としてはリーマス・ルーピンの懸念は無意味な取り越し苦労であり、理に適った行動をしているのはトンクスの方だった。
しかし人狼症罹患者であるリーマス・ルーピンに「万が一」という不安が拭えるわけもなく、回避できる危険は回避しようという発想になるのも無理はなかった。
「ねえリーマスわたし今日はちょっといつもより胸を大きめにしてみたんだけれどどうかしら」
「卜ても似合ってると思うよ煮ンファド一らデモ前はっ隠してくれたほうが気が休まるかなァ」
裏手にピザ窯がある一軒家の中、自分とトンクスの2人しか居ないバスルーム前の廊下で。誰も聞いたことがないくらい早口で誰も聞いたことがないくらい高い声が出た今のリーマス・ルーピンをもし仮にジェームズ・ポッターが見ていたら、きっと転げ回って大笑いしただろう。
「わたし今朝いろいろ思い描いて今日こそはって期待して触り心地とかまで念入りに調整してから家を出たんだけど、リーマスあなたは私の願いを叶えてくれる世界一カッコいいダーリンよね?」
いい加減に観念したらどうだムーニーこのお嬢さんは「それでも」お前と一緒に生きていきたいんだぞ解ってるだろう、というジェームズの声が、ルーピンには聞こえた気がした。
(この状況できみが彼女に一切何もしなかったら、それこそ深く傷つけることになるぞ友よ)
リーマス・ルーピンの脳内に、シリウスの声までもが響いた。
脳内に妄想で作り上げた親友2人に意見を伺っていたリーマス・ルーピンには結局、自分がとうとう決意を固めたのかそれとも単に色欲に屈したのかが、判らずじまいだった。
「へっ、へへへへ…………リーマス顔まっかっかだ」
いま自分は見るに耐えない表情をしているという確信がルーピンにはあったし、いま仮に鏡など見せられたらその瞬間に自分の中の何かが閾値を超えて口から勢い良くクワガタムシの群れとか吐くんだろうと、トンクスに促されるまま手を動かしながらルーピンはそんなことを考えていた。
今のルーピンと比べたらO.W.L.試験2時間前のハーマイオニーなど、冷静そのものだと言えた。
トンクスがこの家に入ったのと同時に床に降ろされてほったらかしだったパフスケインのマクシミリアンは、とっくに再び玄関から出てポピーの元へとコロコロ転がっていった後だった。
「えっもしかしてトンクスせんぱい今わたしのおうちで愛を育もうとしてます?」
「ルーピンくんのことは誰かが抱きしめてあげなきゃいけないし、その役目を自分以外の誰かに譲りたくないって思ってるんじゃないかな、あのお嬢さんは。……オミニスとアンみたい」
そう推察したポピーの中にある「不死鳥の騎士団人物相関図」は完全に伝聞のみで形作られていたが、主な情報提供者があの神秘部部長であるからか、出来栄えはかなりの正確さを誇っていた。
「わたしのおうちなのにですか??」
「あらアナタのおうちだったの? じゃあこれからもずっとここに住んでくれるってこと?」
「ムゥンぐにゅわァ……それはぁ…………ポピーちゃんのことはァ……大好きですぅぅ…………」
苦悩をめいっぱい表現したその闇祓いの魔女の可愛らしいお顔が、ちょうど自分が今こねているピザ生地とおんなじに見えたので、ポピーは楽しくなってクスクスと笑ってしまった。
「あなたもピザ生地こねてみる? やったことある?」
「……やってみたいです」
こうして英国魔法界にまた1人、ポピーちゃんのファンが増えたのだった。
「おはよう。あなたもピザ一緒に作る?」
巨大な白いホーンド・サーペントの頭の上から寝ぼけて転げ落ちてきた首から上だけ真っ白なワタリガラスに、ポピーは答えの解りきっている問いかけをした。
そして目を醒ますのに10秒ほどを必要としてから、デミガイズを模した真っ白な仮面を身に着けたその青年は、両方の手を思いっきり上へと伸ばして勢い良く返事をする。
「僕もやる!! エリエザーもダニエルも一緒にやろ! 生地こねよ!!」
朝の日差しに照らされた森のそばの草原。小さな川のほとりにある一軒家の裏手で、ピザ窯のすぐ目の前に設置された木製の大きな長テーブルの上まで登ってきたニフラーと、宙に浮いた長大な胴体が作る日陰で一軒家を丸ごと覆い尽くしてしまっている真っ白いホーンド・サーペントのエリエザーにも小さめのピザ生地ととびきり大きいピザ生地がそれぞれ与えられ、周囲に集まっている大量の動物たちにハーブ類やら野菜やら肉やらのおこぼれを杖で操って給餌しているポピーと未だにちょっと怖い神秘部部長との間に挟まれた闇祓いの魔女は、全身を使ってピザ生地をこねるニフラーの頑張りなど眺めながら、もうしばらくここに居てもいいかと思ってしまうのだった。
「あら。あなたは出来上がるまで待っててねマクシミリアン」
結局ルーピンとトンクスはピザが全て焼き上がってさあ食べようという状況が整うまですぐそこの一軒家から出てこなかったし、出てきた時にはルーピンの左腕を自分の両腕でしっかりと絡め取ったまま歩いてくるトンクスは、まるで世界征服でも完遂したかのように艷やかで満足げで晴れやかな、威風堂々たる満面の笑みで己の勝利を誇っていた。
単にシャワーを浴びて汗を流すだけでなぜこんなに時間が掛かるのかとは、誰も訊かなかった。
建物に入ってきた時と同じようにトンクスに連行されてきたルーピンの顔に浮かんでいるのは、これだけの時間2人きりで更に風呂場でシャワーを浴びながらまさか単にじっくりキスしただけだなんて誰も信じちゃくれないだろうなという、チーズのようにトロリとした諦観だった。
「あたしのおうちのあたしのお風呂で…………」
ただ、トンクスを先輩と呼び慕う闇祓いの魔女だけは、自分のベッドの上にルームメイトの私物が散らかされているのを見つけた時のような、魔法薬学すら比ではないほどの渋い顔をしていた。
旧ポッターモア曰く、狼人間になる唯一の方法は、満月の夜に狼人間に噛まれることである。
あとルーピンにとってトンクスが初恋なのは公式設定。
次回、別に非難される筋合いは無いよねラベンダー・ブラウン。