104年後からの今 作:requesting anonymity
ホグワーツの校長室に、その部屋の主が1人で立っている。
アルバス・ダンブルドア。史上最も偉大なホグワーツの校長だと、創設当時の初代校長や今なお使用され続けている薬草学の教科書「薬草ときのこ千種」を記したフィリダ・スポアなどの輝かしい先達を差し置いてそう称賛されている、現代最高の魔法使い。
そんなアルバス・ダンブルドアがこの呪文を唱えるのは、51年ぶりだった。
51年前から使用しているニワトコ製の杖を取り出したダンブルドアは遥か遠くを見るかのような不思議な表情をしたまま、腕を真っ直ぐ前方へ伸ばして杖を目の前の空中に向けた。
そして同じ時、このホグワーツで、もう1人の現代最高の魔法使いもまた、アルバス・ダンブルドアがそうしているのと同じように片手を真っ直ぐ前方に伸ばして、何も無い空中へ向けて、実に51年ぶりにその呪文を唱えた。
「ハーモニア・ネクテレ・パサス」
それは、魔法で接続されて一対になっていたがその接続が途切れた品を、元通りに繋ぎ直すための呪文。この呪文を知っている者の多くが、例えば「映りが悪くなった両面鏡」などに使用されるだけの、高度ではあるが用途が限られる、特殊な修理のためだけの呪文だと、そう考えている。
しかし、その2人にとっては違った。
ダンブルドアの杖の先から空中が引き裂かれて割れ広がり、その向こうに覗いている星空のような暗がりから、宝石細工だと言われれば信じてしまいそうなモルフォ蝶の群れが溢れてくる。
真っ青な蝶の群れに押し広げられるようにして大きく口を開けた暗い裂け目に、アルバス・ダンブルドアは追加の茶菓子でも探しに行くかのように、気楽な足取りで踏み入っていく。
アルバス・ダンブルドアの全身がその空間へ入った途端に裂け目は縫い合わされるようにして消え、蝶たちも数匹を残してどこへともなく飛び去っていった。
「苦労をかけておるの、ゲラート」
そこは当時ティーンエイジャーだったアルバス・ダンブルドアとゲラート・グリンデルバルドが、2人のためだけに作った秘密基地だった。
グリンデルバルドの大叔母であるバチルダ・バグショットによって引き合わされた当時の2人が誰にも邪魔されずに過ごすための、地面の位置を決めるところから共に創り上げた大空間。
「私がお前にどれだけの苦労を強いたか、忘れたのかアルバス」
「はて。お主が儂に苦労など押し付けたためしがあったかの。お主と過ごしていた頃は、あの1945年の決闘までずっと、夢のような日々じゃったと記憶しておるんじゃがのう」
歴史に大きな傷跡を残すあの世界魔法大戦でどれだけの命が喪われたのかを正確に把握していながら、彼ら彼女ら1人ひとりを今も悼み遺族の心に寄り添い続けているのにもかかわらず、アルバス・ダンブルドアにとってゲラート・グリンデルバルドを打倒すべく心血を注いでいたあの日々は、今思い返してみれば青春だった。
自分がもうすぐ死ぬからこそ、そう考えるようになったのかも知れない。
「あの頃の私が結局、徹頭徹尾お前しか見ていなかったことは認めるが。ああ、そうだとも。魔法界の行く末など、知ったことではなかったのだ。あれがお前と立てた計画だったから、だから私はあの理想にこだわっていたのだ。……未熟で、幼稚で、愚かだった」
「あの頃だけかの? ゲラート」
ダンブルドアとグリンデルバルドは、真っ直ぐにお互いだけを見ている。
「変わらんとも。今も。己の過去の行いは消えん。私はゲラート・グリンデルバルドで、お前はアルバス・ダンブルドアだ。この事実にだけは背など向けられん。私は私の罪を背負っていくことしか許されていない。お前はお前の栄光を背負うことしか許されていない」
そう言い終えた途端に、ゲラート・グリンデルバルドの姿は変わっていく。そうするように言いつけられているので近頃ずっと借りている赤の他人の外見から、彼本来のそれへと。
左右に分けて撫でつけられた灰色の髪と、見るからに高級そうな暗い色のジャケット。老いや衰えなどという言葉とは無縁なのではないかとすら思わせる上品な老翁は、左右で色が違う目で、今また未来を垣間見ていた。
「……相変わらず、知性が感じられんやつだなお前の弟は」
「儂などよりよっぽど称えられるべき男じゃが、まあ……知性とは無縁じゃのう……この間ひさしぶりにホッグズ・ヘッドに寄ってみたらヤギをカウンター席に座らせようとしておったからの」
ゲラート・グリンデルバルドがいま見ているのはきっと一大事の、おそらくは戦闘の光景だと理解できていながら、アルバス・ダンブルドアはあくまでも弟の日常の姿の話だけをした。
何も無いようにしか見えない完全に透明な地面を踏んで、その2人は立っている。
「時にゲラートお主、杖はどうしたのじゃ」
「お前こそ、杖はどうしたアルバス。それはお前が11歳になった年にオリバンダーの店で購入した杖ではないだろう? あれを捨ててしまうようなお前ではあるまい」
自分たちがいま何について話しているのか、齟齬が生じるような2人ではない。
「トムとて、捨てはせんじゃろう。4年生のハリー・ポッターを打倒できなかったことで己の杖を疑ってはおるじゃろうが、さりとて己自身が長年使用した品じゃ。トムが偉大な秘儀だと考えておる数々の成果を生んだ杖じゃ。執着はしておることじゃろう」
「お前があの杖を大切に保管しているのとは、理由が違うな? あのヴォルデモートは過ぎ去った日々を慈しんだりしないだろう」
その時、3匹のモルフォ蝶がどこからともなく飛んできて、2人のすぐそばで椅子と丸テーブルふたつに変わり、グリンデルバルドとダンブルドアが向かい合って椅子に着座するとまたモルフォ蝶が数匹飛んできて、それは器に山盛りのお菓子へと姿を変えた。
今の一連の光景のどこからどこまでが2人のどちらによる魔法でいつ何をしたのか、たとえミネルバ・マクゴナガルがこの場に居たとしても察せなかっただろう。
「ドラコは計画を固めたようじゃの」
「自分を暗殺する準備が進んでいるのが朗報だとは、妙な境遇もあったものだな」
グリンデルバルドは紅茶にも菓子にも手を付けないが、対するアルバス・ダンブルドアは百味ビーンズの箱に手を伸ばしている。
「儂は死なねばならぬ。そうでなければドラコが、ルシウスとナルシッサが助からぬ。儂のような老いぼれ1人死ぬだけで可愛い教え子が3人も助かるのなら、ああ。喜んでそうするとも」
アルバスの奴がそう言いながら開封した箱を差し出してきたので、グリンデルバルドは仕方なく百味ビーンズを1粒手に取り、赤なのか焦げ茶なのか紫なのかで意見が分かれそうな色のそれを、まったく見もせずに口へと運ぶ。
「お前が死ぬことで、一体どれだけの人間が庇護を失うのか。解っているだろうに」
どうやら美味しかったらしいグリンデルバルドは、少し表情が柔らかくなった。
「だからこうしてお前と話しておる。ヴォルデモート卿にはできん選択が儂らにはできる。頼むとか託すとか頼るとか、そういった軟弱で気高い選択がの」
アルバス・ダンブルドアはそう言いながらもグリンデルバルドの顔などは一切見ず、あれでもないこれも違うこれも怪しいと、ひたすらに百味ビーンズを吟味し続けている。
「お前が先輩とどのような契約を交わしているのか、探ったりはせんよ。ゲラート」
箱の中にたっぷり入っている色とりどりの百味ビーンズを視覚と指で探り続けながら、アルバス・ダンブルドアはそう嘯いた。
上下の区別などできないようにすら見える、全ての方向を星空に囲まれた何も無い空間で同じテーブルについて向かい合うその2人の会話は忽せにできない議題ばかりを取り扱っていたが、それでもグリンデルバルドもダンブルドアも、何を話すのかなど、正直あまり重要視していない。
意思を疎通しようと行動を起こさなければ互いの考えが判らないような浅い間柄ではなかったし、魔法界が抱える目下の懸案事項についても、ホグワーツが抱える懸案事項についても、わざわざ交換などせずとも、自分が持っている情報は相手も持っていると、ゲラート・グリンデルバルドとアルバス・ダンブルドアは、思案すらせずそう確信している。
得た情報からどう考えて何を目指し何をするのか、互いが互いを理解している。
アルバス・ダンブルドアが自身の延命に取り組んでいるのは適切なタイミングで適切に死ぬためだと、グリンデルバルドは理解している。
「答えの解りきった、既に結論に達した疑問をわざわざ改めて蒸し返すようなお前ではないだろう。お前が想像している通りだとも。アルバス」
グリンデルバルドのそんな言葉を受け止めながら、ようやくこれと決めたらしいダンブルドアは百味ビーンズをひとつ口に入れた。
「なんと、毛虫味じゃ!」
「懲りない奴だなお前も」
ゲラート・グリンデルバルドはほんの一瞬だけクツクツと笑って、すぐ静かになった。
「私は私のやりたいように動いているぞ、アルバス・ダンブルドア」
「儂も儂のやりたいように動いておるよ。ゲラート・グリンデルバルド」
また数秒の沈黙が流れ、2人は互いの言葉を吟味している。
「…………ドラコ・マルフォイの計画は成就せねばならぬ。その結果として儂は死なねばならぬ。『これ』が死因だとは、誰にも思わせてはならぬ」
アルバス・ダンブルドアはそう言いながら、萎えた右腕を掲げてグリンデルバルドに見せる。
「分霊箱という可能性に感づき捜索し発見し破壊を進めているなどとは、疑念すら抱かせてはならぬ。分霊箱という言葉自体おいそれと口にしてはならぬ。知らぬと思わせねば。ヴォルデモートが最優先で保護している秘密は秘密のままであると思わせねばならぬ。そうでなければ――おそらくトムは、複数個作っておるのじゃろうの。日記と指輪だけではないのじゃろう」
そこまで話したところで、ダンブルドアの目に僅かな憐れみが浮かんだ。
「儂は結局、トムを導いてやれんかった。しかしドラコ・マルフォイは、まだ助けられる。儂はドラコの計画が成就した結果として死ぬ。そうでなければならぬ。しかしドラコの手で殺されてはならぬ。ドラコの心は殺人には耐えられぬからじゃ。ドラコはおそらく、なんらかの手段でホグワーツに死喰い人を招き入れるじゃろう。そうでなければならぬ。儂は衆人環視の中で、誰の目から見ても明らかにそうだと判る形で、生存しているのではないかという疑念が湧く余地無く、クッキリハッキリと死ななければならぬ。ドラコの手によってではなく、しかし確実にドラコの手柄だと言える状況で。ドラコに招き入れられてきた死喰い人たちが儂の死を見て歓喜しながらドラコを賞賛していなければならぬ。それだけがドラコを助ける。儂の死を招いたという手柄と、儂を殺したのがドラコ当人ではないという免罪符の2つが」
ダンブルドアのそんな言葉を聞いたグリンデルバルドの顔からは、全ての表情が消えている。
「お前は自分の失態の尻拭いを自分の生徒にさせるのか。このままではヴォルデモートが分霊箱に施した呪いにその命を蝕まれて死ぬお前にとって、準備万端整えて死ねば『己の命と引き換えに生徒を救った』という浅ましい慰めが得られるのだから、成程、願ったり叶ったりだな。今このまま衰弱死すればお前は、誘惑に負けた挙げ句ヴォルデモートに手の内を晒した大マヌケなのだから」
グリンデルバルドもダンブルドアも、紅茶に手をつけない。
「どれだけ必死に拭い去ろうとしても、どれだけ巧妙に隠蔽しようとも、時間逆転魔法で時系列を改変しようとも。一度それが引き起こされたという事実は変わらぬ。そうだとも。儂が死ぬのは儂のせいじゃ。ヴォルデモートの呪いのせいでもなく、ドラコの仕業でもなく、誰の罪でもない。儂は儂のせいで死ぬのじゃ。セブルスのせいでもないのじゃ。決して」
「お前のあの『先輩』が、黙ってそれをさせると思うのか」
先輩という言葉を聞いた途端に微笑んだダンブルドアを見て、グリンデルバルドの眉間にほんの僅かなシワが一瞬だけ寄った。それはすぐに解消されグリンデルバルドは落ち着いた表情に戻ったが、ダンブルドアの目は確かにそのグリンデルバルドの一瞬だけの険しい表情を捉えていた。
「……お前は先輩になれんし、先輩もお前になどなれぬ。解っておるじゃろうゲラート。魔法は他人に成りすます手段を提供してくれるだけじゃ。成り代わることはできぬ。お前の代わりなどおらぬ。先輩の代わりもおらぬ。どちらも大切で、それぞれ全く異なるのじゃ」
そう述べたダンブルドアの表情は、浮気を疑われて弁明する夫のそれだった。
「セブルス・スネイプは大切な生徒ではないのか? あいつは掛け替えがあるのか? 破損しても構わん単なる駒なのか? 死の呪いは魂を損傷させると知らぬお前ではないだろうに」
「殺人は魂を損傷させる。知っておるとも。じゃからドラコにはそれをさせられぬ。しかしセブルスには、衆人環視の中で儂を殺して見せることで、得るものがある。それは、ハリーの味方をするものたちからもヴォルデモートの味方をするものたちからも『真の忠誠心は敵方にあるのでは』と疑われ続けているセブルスが、誰がどう見てもヴォルデモート側の人物じゃと、そう周囲から確信されるという利点じゃ。セブルスが儂を殺せば、セブルスの立場は確固たるものとなる。そうなればセブルスは儂の死後、ヴォルデモートの影響下に取り込まれたホグワーツで生徒たちを守ることができる。ヴォルデモートに忠誠を誓う死喰い人の校長だと、皆に信じられるという方法でじゃ」
罪を自白しているかのような重い口調でそう言ったダンブルドアの目を見つめたまま、グリンデルバルドはここで初めてティーカップへと手を伸ばして、紅茶を一口飲んだ。
「哀れなセブルス・スネイプの心と魂は、どうなろうが知ったことではないと?」
「あやつの心と魂は、今もう既にどうにもしてやれぬのじゃ」
リリー・エバンズが死んだ時点でスネイプの全てが潰えたことを、ダンブルドアは説明しない。閉心術で強固に隠匿した心の内に、その真実はしまい込まれている。
「とうに引き裂かれ打ち砕かれているものは、もはや引き裂かれも打ち砕かれもせぬ。血みどろ男爵や
そう告げたダンブルドアも、ここでようやくティーカップを手に取った。
「……トムを導いてやってくれ。ゲラート、お前にしか頼めぬ」
「その言葉は『死と敗北へ』という意味だと、誰もがそう解釈するぞ。ヴォルデモートを未だ己の教え子だと考えているのも、あやつに対して憐れみを抱いているのも、この世にお前1人だぞ」
「ただ憐れんでおるだけじゃ。寄り添ってはやれん。つまるところ、これは憐れんでおらぬのと同じじゃ。儂があやつを憐れんでおるという事実があるだけじゃ。あやつにそれが伝わるわけでも、何かが起きるわけでも、なんらかの結果に到達するわけでもない。ただ憐れんでおるだけじゃ」
そのくらいしかトムにしてあげられることがない現状が、ダンブルドアを後悔させていた。
トムが「ただいま」と挨拶できる場所をどこかに見いだせた可能性もあったのではないか、その未来を自分の選択が潰したのではないかと、アルバス・ダンブルドアは今でもそう考えていた。
「教訓にするわけでもなくただ単に悔やむのは自己満足でしかない。お前の悪い癖だ、アルバス」
そう指摘したグリンデルバルドは、アルバス・ダンブルドアの表情を見ている。
ダンブルドアは手に取ったティーカップの中の、紅茶の表面の揺らぎを見ている。あの先輩に優しく諭された時と同じ、納得できないと反論したいのを堪えているかのような、苦渋の無表情で。
「心残りの無い死など無いぞ」グリンデルバルドは相変わらず、アルバス・ダンブルドアだけを真っ直ぐに見つめている。「お前は多くを遺すが、多くをやり残して死ぬ。全ての死者がそうであるように。お前はヴォルデモートとハリー・ポッターの運命に決着がつく瞬間を見届けられずに死ぬ。ヴォルデモートとハリー・ポッターの運命に決着がついた時に誰が死んでいて誰が生き残っているのかを知らないまま死ぬ。お前はこれから誰が死ぬのかを知らない。お前は最後の死者ではないし、最後の犠牲者でもない。お前がどれだけ策を弄しても、その策謀の終着を見ることはない。お前が死んだ結果マルフォイ家がどうなったのかを、お前が知ることはない」
ホグワーツ城に飾られている肖像画が生前の本人かのように話し振る舞うのは、生前の本人に関する知識が注ぎ込まれているからに過ぎない。校長室の肖像画が生前の本人と同じ考えや語彙や知識を有するのは、生前に本人がそれを肖像画に教え込んだからに過ぎない。
肖像画はあくまでも肖像画であり、決して本人ではない。なのでたとえ肖像画に生前の本人が知らなかった知識を後から与えたとしても、それはこれからの肖像画の振る舞いに反映されるだけで、死んでしまった人物と意思を疎通できたわけではない。
どれだけ予想が正確でも、的中していたとしても、予想は予想でしかない。
ヴォルデモート卿が滅びるより早くに死ぬアルバス・ダンブルドアには、ドラコとルシウスとナルシッサを自分が守れたのかどうかを、知ることはできない。
「……ドラコ・マルフォイは近頃、オーガスタス・ルックウッドに関心を向けているな。お前を暗殺するためにはオーガスタス・ルックウッドが必要不可欠だと考えているのか」
そう言ったグリンデルバルドが紅茶を飲み干し、ティーポットが独りでにおかわりを注ぐ。
「オーガスタスは確か、死をもって罰されてはおらぬのじゃったな。ゲラート」
そう訊いたアルバス・ダンブルドアは紅茶を一口飲み、ティーポットの隣に待機している山盛りのお菓子の中からマカロンを見つけ出して2個いっぺんに口へと投入した。
「そうだ。ただし『ピーター・ぺティグリューの手が空いていない場合に駆り出される予備人員』という、およそ最下級と表現していい哀れな地位に追いやられているがな。奴は基本的に、屋敷しもべがやるような日常の雑務ばかりを割り当てられている――ともすればドラコ・マルフォイは、オーガスタス・ルックウッドに同情しているのではないか。お前を暗殺する過程でオーガスタス・ルックウッドを役立てれば奴の名誉を多少なりとも挽回してやれると考えているのか」
グリンデルバルドは自身の見解を述べながら、百味ビーンズを箱からもうひとつ取って食べた。
「レモンのようだがずいぶん甘い……ああ、レモンキャンデーか。シャーベットレモンだな。お前が美味いと言っていたマグルのお菓子だ。これはその味だな」
また好ましいフレーバーを引き当てたからか、グリンデルバルドの興味はマルフォイ家やヴォルデモートなどの目下の課題から百味ビーンズへと、ひいてはアルバス・ダンブルドアへと移る。
「アルバスお前なぜ毛虫の味を知っている」
ゲラート・グリンデルバルドとアルバス・ダンブルドアの2人以外には何ひとつ居ないように見える、星空のようなその大空間で、ダンブルドアは露骨に視線を逸らして回答を拒否した。
しかしグリンデルバルドの沈黙の圧に屈したのか、あるいは単にその話をする覚悟を決めるのに少々の時間が必要だっただけなのか。アルバス・ダンブルドアは10秒ほどしてから口を開いた。
「11歳の頃、チェスでアバーフォースを負かしての。アバーフォースは儂に負けると悔しいらしくての。殴りかかってくるのじゃ。すると儂は当然アバーフォースを抑え込もうと、引き剥がそうとするのじゃが、当時はアバーフォースの方が儂より身体が大きかったために、儂は往々にして抵抗虚しく引き倒されるわけじゃな。そしてアバーフォースは儂の口いっぱいに無理やり大量の毛虫を詰め込み、兄弟喧嘩に敗北した儂の泣き叫ぶ声を聞きつけて先輩が来てくれたというわけじゃ」
幼い頃に数え切れないほど経験した弟相手の敗北はアルバス・ダンブルドアにとって、もちろん積極的に語りたくなどない苦い記憶であるのと同時に、今となっては時々思い返して懐かしむ、幼少期の大切な記憶でもあるのだった。
弟のアバーフォースと、まだケンカができる関係だった頃の思い出。
「そんな顔をしなくとも、何も聞いていないことにしておいてやる」
そう保証したグリンデルバルドはしかし、心底愉快そうに嗤っている。
「3年生の半ばまで、お前は同学年の誰より背が低かったのだったな」
それはゲラート・グリンデルバルドが、アルバス・ダンブルドアから何度と無く聞かされた話。
「そうじゃ」ダンブルドアは懲りもせず百味ビーンズを選り好みしながら言う。「2年生になった時、自分は新入生たちよりチビだという事実から目を背けるために、儂は組分けの儀式が終わるまでずっと、順番に名前を呼ばれて組分け帽子を被る新入生たちの顔だけに意識を集中していた」
グリンデルバルドはダンブルドアの話を聴きながら、ダームストラングを思い起こしている。
「1年生たちは皆、喜びや不安や好奇心などの何らかの感情や思いが顔いっぱいに表れておった。初めてできた後輩たちの顔と名前を1人ひとり覚えながら、儂は『あの先輩たち』はもうホグワーツには居ないのだという事実を、夏休み前に卒業式を見たのにもかかわらず、新年度が始まった1893年9月1日の夜になってようやく身に沁みて理解しておった」
ダンブルドアは緑色のゼリービーンズをつまみ上げて凝視し、眉を顰めて箱に戻した。
「やあアルバス、と今にも声をかけられるのではないかと期待しながら、結局そんな出来事には遭遇しないまま、儂はグリフィンドール寮の自分たちの寝室にまでやってきて、橙と緑の派手な色の目をしたワタリガラスがどこからか飛んでくるのではないか、と期待しながら就寝した」
グリンデルバルドは、紅茶を味わいながら微笑んでいる。
「それで結局すぐに耐えきれなくなって、新年度が始まってから1週間と経たぬ内に『隻眼の魔女像』の裏から続く隠し通路を通ってホグズミードにある『その先輩』の店に行ったんだったな?」
グリンデルバルドにそう確認されて、ダンブルドアはどこか恥ずかしそうに微笑んだ。
「そうじゃ。ホグワーツに入学した、あの1892年9月1日からの1年間は絶え間なく賑やかだったのじゃ。儂はその賑やかさに慣れきっておった。騒がしさに親しんでおった。それに何よりあの先輩に『あそこに行こう』『あれをやりたい』と有無を言わさず連れ回される目まぐるしい日々がもう既に己の日常ではないのだとは、2年生になったばかりの儂にはどうしても信じられんかった」
「お前は幸運だアルバス。ダームストラングには、私に比肩する者は居なかった。私の目を惹きつける者も居なかった。私の目が節穴だったからだ。居たのだろう、本当は。しかしあの頃の私の目には、どいつもこいつも低レベルに見えていた。魔法の腕と実力と知識しか見ていなかったから」
そこでグリンデルバルドは唐突に言葉を切り、霧の向こうを識別しようとしているような、集中力を必要としているのだとすぐに判る険しい眼差しで、何も無い方向を凝視し始めた。
「お初にお目にかかる、プロフェッサー・シビル・トレローニー」
グリンデルバルドの対面に座っているアルバス・ダンブルドアはグリンデルバルドが視線を向けている方向を自分でも確認したが、当然そこには誰も居ない。
グリンデルバルドが見ている光景は、ダンブルドアには見えていない。
「そのお姿は、まさかあなたは――そんな、それは、そんなわけが――どこに利用価値が――」
10秒ほど黙りこくってから、グリンデルバルドは視線をダンブルドアへと戻した。
いま未来を見たグリンデルバルドに、ダンブルドアは何も質問をしない。グリンデルバルドが言葉をまとめ終わるのを、ダンブルドアは静かに待っている。
「お前の先輩が私にいま課している任務の、目的が解った…………確かに有効な策だ。それで戦況が変わるわけではないが……確実に味方をより粘り強くしてくれるだろう……」
これは本題ではないと、グリンデルバルドの発言を聴いているダンブルドアとて気付いている。
「私がいま見た未来において、私の大叔母のバチルダは、既にヴォルデモートに殺されている」
大叔母の死を避けるべく行動するべきか、避けてはいけないのか。ヴォルデモート卿を打倒するためには、アルバス・ダンブルドアの望みを叶えてやるためには大叔母の死が不可欠なのか否か、大叔母の死を避けるべく行動している間に本来やるべきだったことをしなかった、あるいは遅れたために致命的な崩壊を招くのではないか。グリンデルバルドは垣間見たばかりの未来と、そこに居た魔女から齎された情報を慎重に考察している。
そしてグリンデルバルドは、すぐに結論を出した。
「ダメだ。私の大叔母は私にとって重要なだけだ。戦況にとって重要なわけではない。私がどちらの勝利を目指しているのかをヴォルデモートが見極めるための判断材料を与えてはならない」
魔法史家バチルダ・バグショットはゲラート・グリンデルバルドの唯一の肉親である。この高齢の老婆はゴドリックの谷に居住しており、そこにはハリー・ポッターの生家も、かつてはあった。
我が子のように扱ってくれたバチルダは、グリンデルバルドにとって決して軽い犠牲ではない。
あの忘れもしない1899年の夏、バチルダ・バグショットによってゲラート・グリンデルバルドは、アルバス・ダンブルドアと引き合わされたのだから。
「私がお前と出会えたのは、大叔母のお蔭だ。大叔母は私に人生の全てを与えてくれた」
そう呟いたグリンデルバルドは数秒沈黙した後で立ち上がってマフィンを2ついっぺんに口へと放り込み、それをムシャムシャと荒々しく味わってからダンブルドアにひとつの許可を求めた。
「会いに行くことを許してくれるか、アルバス」
今まだ生きている大叔母にこれから訪れる死を、グリンデルバルドは避けない。
「あのステーキ・キドニー・パイのレシピを、バチルダはまだ覚えておるかのう」
「大叔母に口やかましく手際の悪さを指摘されながら私とお前で作ったのが、昨日の事のようだ」
来た時と同じように何も無い空中がほつれていき、星空のようなその空間はカーテンのように引き裂かれていく。そして数秒で人が通れる大きさになった裂け目から、その2人はホグワーツの校長室へと移動していく。
校長室の空中にできていた空間の裂け目が縫い合わされるように閉じて消えた時には既に、ダンブルドアの隣に立つグリンデルバルドは彼本来のそれではない他人の姿へと変身していた。
「そうじゃの。お主が、お主の姿のままゴドリックの谷を訪れるのは、避けるべきじゃろうの」
ゲラート・グリンデルバルドとアルバス・ダンブルドアは、それが魔法で防止されているはずのホグワーツの校長室から、できて当然かのように、完全に無音で「姿くらまし」した。
【シャーベットレモン】
イギリスにおける「sherbet」はシュワシュワとした味わいのラムネ菓子のようなキャンディーを指す単語であり、これはアルバス・ダンブルドアの好物でもある。
原作日本語版では「レモンキャンデー」と訳されていたが、まあ「シャーベットレモン」のままだとほとんどの日本語話者はレモンあじの氷菓子を連想するから仕方ない。