104年後からの今 作:requesting anonymity
自分が何から逃げているのか、アストリアにはよく解らなかった。ただ逃げなきゃダメだという直感だけがあって、立ち止まってはいけないという強迫観念だけがあった。
大好きなドラコからどうして逃げなければいけないのか、アストリアには解らなかった。
以前、ドラコが今年ホグワーツで何をしようとしているのかというルーナの推論を聞いた際、もしドラコが本当に「それ」をしてしまって、それで皆がドラコのことを悪者だと言っても自分だけはドラコを抱きしめてあげるんだと、そう決心したはずなのに今どうしてそのドラコから逃げているのか解らないまま、どこを目指しているのかも解らないまま、アストリアは必死に走っていた。
自分の足がとっても遅いことくらいアストリアは知っていた。
でもアストリアは、自分が今ドラコに追いつかれてしまったらそれはドラコが本当にひとりぼっちになってしまうことに繋がると解っていた。
もしこのまま逃げ切れたとしてどうするのか、何を見て何を聞いてしまったのかを誰かに伝えてドラコを止めてもらうのか、止めてもらったらドラコはどうなってしまうのか、ドラコのパパさんとママさんはどうなってしまうのか。きちんと理解できていたからこそアストリアには、自分が何を願っているのか、何を願えばいいのか解らなかった。
ダンブルドア先生をドラコが殺せるわけはないと、アストリアは知っていた。
ドラコはとっても優しいから誰かを殺すなんてことできやしないとアストリアは無邪気に信じていたし、アストリアはドラコに、それが例え誰であっても、殺してほしくなどなかった。
そんなことをしてしまったドラコがどれだけ苦しむのかアストリアは知っていたから。
自分がこのまま逃げ切ったとしたらドラコの計画は阻止されて、ドラコとパパさんとママさんは闇の帝王に殺されてしまう。
けれど自分がここでドラコに捕まったらドラコは計画を隠すために私を魔法で攻撃しなきゃいけなくて、そうしたらドラコの心から幸せがなくなってしまって、ドラコはダンブルドア先生でも誰でも殺すことに耐えられるようになってしまう。
精一杯頑張ったけれどうまくいきませんでした、なんて言っても闇の帝王は赦してくれないと、ザビニもハリーも言っていた。
みんなが今あの先生の特別授業を受けているハグリッドの小屋はホグワーツ城のお外にあって、すぐ後ろは入っちゃいけない森が広がっていて、一方で自分が今いるのはホグワーツ城の地下の隅っこだから、他の誰かにバッタリ出くわしたいならどこか階段を登って1階とかもっと上を目指すよりもむしろこのまま廊下を頑張って走ってスリザリンの談話室に行くべきだと、そう考えを固めたアストリアが頭の中に思い浮かべたホグワーツ城の地図は、禁じられた森とハグリッドの小屋とホグワーツ城の位置関係も、森に対してのホグワーツ城の向きも、ホグワーツ地下のどこにスリザリンの談話室があってアストリア自身が今いるのが地下のどこなのかも、全部間違えていた。
アストリアがまだドラコに追いつかれていないのは、ひとえにドラコがまだアストリアに追いついたあとどうやって隠蔽工作をするのかという決心を固めていないからだった。
誰かによってアストリアが傷つくなんて耐えられないのにどうしてこの僕がアストリアを傷つけなければいけないのか、ドラコには解らなかった。
ドラコにしろアストリアにしろ、解らないというのはそのことについて考えたくないという意味であって、理解できていないという意味ではなかった。むしろ本当は理解できてしまっているからこそ、理解したが故の苦悩から逃れたくて、解らないという言葉に逃げ込もうとしているのだ。
アストリアは自分がいまドラコから逃げ切ったとしても逃げ切れないとしてもいずれにせよドラコが辛い思いをすることにはなると理解していたし、ドラコも自分がアストリアを傷つけなければいけないのは背後に誰かついてきていないかという確認を自分が怠ったからで、自分が苦しむことこそが闇の帝王から父上への罰だからだと、闇の帝王がそうあれかしと企図したからこそ自分はアストリアを傷つけて苦しむのだと理解していた。
避けられないようにすら思える破綻から、アストリアもドラコも逃げようともがいていた。
精一杯の速さでホグワーツ城地下のあんまり明るくない廊下を走っているアストリアは、どうして涙が止まらないのか解らなかった。
ただ自分でもドラコでもない誰かが居たら、それだけでもこのどうしたらいいのか解らない今が 何か良い方向に変わってくれるのではないかと願って、アストリアはスリザリンの談話室への最短ルートだと思う道筋を辿っていた。
しかしアストリアが思い浮かべている方向にスリザリンの談話室は無いので、実際にはアストリアはどちらかといえばハッフルパフの談話室がある方向へ、にもかかわらずハッフルパフの談話室へ繋がるわけではない廊下を頑張って走っていた。
さっきまで自分とドラコが居た場所からは一度地上階に出て城内を横断しなければスリザリンの談話室へは辿り着けないし、その過程で必ず1階の特に人通りの多い廊下をいくつか通ることになるのでそもそもスリザリンの談話室まで行く必要も無いとは、アストリアは思いもしていない。
そうしてアストリアがドラコの行く手を塞ぎたくなくて夢中で走った果てに行き着いたのは、アストリアが今登り終えた階段と地上階へ直接繋がる階段との間にある薄暗い廊下の、壁の大きな絵に紛れていた扉を通った先の隠し部屋だった。
そこには左右にいくつもの魔法使いや魔女の石像が並んだ短い通路があって、その奥の部屋には狼人間を描いたタペストリーを始めとするいくつかの品が展示されていて、すぐ後ろまで接近して来ていたドラコの足音が止まったことで、ようやくアストリアはそこが行き止まりだと気づいた。
「おや。こんなところに何か用かね。授業があるのではないのかねミス・グリーングラス」
だからその薄暗い部屋の一番奥で狼人間のタペストリーを眺めていたスネイプ先生がこちらに振り返った時、アストリアは「ああ助かった」と思って安堵したのだ。
「スネイプ先生! あのね、あのね大変なの! ドラコがっ……ドラコがね――」
自分が何を見たのかをスネイプ先生に伝えてしまったらドラコとパパさんとママさんがどうなるのか、想像してしまったアストリアは続きを言うことができなかった。
「落ち着き給えミス・グリーングラス。慌てても何も解決しない。おやミスター・マルフォイ」
「ステューピファイ!!」
ドラコが鋭く放った失神呪文の赤い閃光は、アストリアの頭上を通過してスネイプに迫った。
「なんのつもりかねミスター・マルフォイ。決闘の訓練の相手をしてほしいのならそう言い給え」
ドラコの失神呪文を虫でも払うかのように素手で叩き落としたスネイプは、煩わしさすら感じていないらしい冷淡な無表情でドラコを問いただした。
「お前こそなんのつもりだスネイプ。お前、今。アストリアに何をしようとした」
自分がなぜスネイプに杖を向けているのか、なぜアストリアの横を素通りしてわざわざスネイプとアストリアの間に割って入ったのか、なぜ今スネイプがアストリアに行使しようとした忘却呪文を自分は防がなければと思ったのか、ドラコには自分が今なにをしているのかが解らなかった。
解らなかったが、今のスネイプの行動と言動から垣間見えた何かが、ドラコは赦せなかった。
何がそんなに赦せないのかもよく解らないのに、赦せないという気持ちだけが確かだった。
「吾輩ではなくきみがやろうとしたことではないかね、ミスター・マルフォイ」
スネイプの方が自分より正確に精密に忘却呪文をやれるに違いないのだからスネイプにやらせたほうがより確実かつ安全にアストリアの記憶から見たものと聞かれてしまった言葉を消去できるが、しかし1回でもスネイプの手を借りてしまっては遠からずスネイプに手助けを乞うことが状態化してしまって計画そのものすらスネイプの手柄になりかねないという焦燥と、しかしそれでも今アストリアにこれ以上の逃走を許すわけにはいかないという危機感があるのに、ドラコはそれらの苦悩を全てかなぐり捨てて、なぜかスネイプからアストリアを守ろうとしていた。
「授業でなら褒めてやれる程度の反応速度だ。だが必要充分には程遠い」
ドラコが無言で放った呪詛の閃光を、スネイプは事も無げに左手で掴み取った。
「……杖なし無言で盾の呪文が使えれば、そういう曲芸もできるってわけか」
「左様。我輩は16の頃、友人ともどもこういった実戦で使えるわけもない宴会芸の類をひとつでも多く身につけることに没頭した……掌を幾重かの保護魔法で覆い、着弾する前に呪文を掌で包む。盾の呪文は強度で負けさえしなければ呪いを弾き、サルビオ・ヘクシアなどは呪詛の軌道を曲げるのだから、適切なタイミングと力加減をもって掴んでしまえばこのように――」
ドラコが放った稲妻のような一筋の閃光は今、スネイプの左の掌に包みこまれて、まるで小さなガス灯か何かを握りしめているかのように、スネイプの掌の中から眩い光だけを放っている。
「――サーペン・ソーティア」
スネイプが呪文を唱えると、スネイプの左手の隙間から漏れていた眩い光が嘘のように消えて、代わりに一匹の白と黒に近い茶色の縞模様のヘビが握られたスネイプの左手の中から抜け出すように現れて、ロープのように長い身体を伸ばして床に降りた。
「オーストラリアの固有種だ。主に自分より小型のヘビを捕食し、弱いながらも毒をもつ」
わざわざそんな解説をお聞かせいただけるあたり僕は脅威どころか手間ですらないらしいという気づきと、その評価を妥当なものだと判断してしまえる自分自身の冷静さがドラコを苛立たせた。
「ヴィペラ・イヴァネス――」
「閉心術のやり方を忘れたのかねミスター・マルフォイ」
スネイプの口調には、ドラコと両親がどうなろうがそこに至る過程でアストリアがどうなろうが知ったことではないという無関心さがあからさまに表れていて、それがドラコの怒りを誘った。
床を這って迫る白黒のヘビは明らかに攻撃の意思を見せていて、そのヘビのシューシューという空気漏れのような唸り声がドラコにはあたかもそこに闇の帝王の御意志が宿っているかのように聞こえて、ドラコの心からそこまでしなくてもいいはずの過剰な警戒を呼び起こした。
どうして自分がスネイプなんかに怯えているのか、実際には自分が何をそんなに怖がっているのか、ドラコには解っていた。
父上よりも母上よりも自分自身よりもアストリアの方が大切だと、ドラコは自覚していた。
「逃げろアストリア。逃げろ」
「だっ、だめよ! あたしドラコも一緒じゃなきゃ逃げない!」
ドラコとアストリアを見ているスネイプの目は、昨日までだと言い渡していたはずの宿題を今持ってきたグリフィンドール生を見ているかのように冷めきっている。
「闇の帝王は吾輩に『本人がそれを望んだ場合は』手を貸すようにとお命じになった。お前が吾輩の手助けを望まぬというのなら、手を貸すわけにはいかんだろうな」
「前の夏休みに母上とお前が『破れぬ誓い』を結んだことくらい知ってるぞスネイプ。僕を助けろと母上がお前に頼んだことも。あいにく僕はお前の助けなんか要らないし、お前が『誓い』を履行しそこねて死のうが知ったことじゃない。お前の命は、僕にはどうでもいい」
スネイプは、ドラコとアストリアを見てもいない。向こうの壁に飾られている狼人間の剥製らしきものを、他に興味を惹かれるものが何ひとつ無いがゆえの消去法で仕方なく、とでもいうような感情の無い目をして、退屈そうに眺めている。
「きみの家族の末路がどうなるのかを吾輩に心配してほしいのかね」
「クルーシ――」
「だめよドラコ!」
アストリアはドラコの腰にしがみついて、ドラコが唱えてはいけない呪文を唱えるのを必死になって止めようとする。
「我輩に杖を取り出させることすらできないのに、どうやってダンブルドアを殺すつもりかね」
アストリアの記憶を消さないという選択肢をその一言でドラコから奪い去ったスネイプは、それきりドラコからもアストリアからもとうとう完全に興味を失くした様子で、一瞥すらせずにドラコとアストリアの横を素通りして、その薄暗い行き止まりの隠し部屋から去って行った。
遠くで扉が閉まった音が背後から聞こえてきたのと同時に、ドラコとアストリアに迫っていた白黒のヘビは一気に攻撃性を喪失して、その場で蜷局を巻いたきり動こうとしなくなった。
「ほらドラコ、あたしの記憶を消すんでしょ?」
私からそう提案するのが一番ドラコが悩まずに済むと思ったから、アストリアはそうした。
「…………すまない、アストリア」
自分がもう既に何回アストリアに
誰にも知られてはいけない物事を何度アストリアの記憶から消しても、そもそもアストリアは自分をとても大切に想ってくれているのでずっと心配してくれていて、だからこそ何度記憶を消そうとも再び同じ状況に陥るのだと、アストリアは何回でも僕を見つけると、ドラコは気付いている。
そう何度も記憶を消したり修正したりするべきではないことくらいドラコは承知している。
「大丈夫よドラコ。あたし見ててあげるもの。ドラコにならきっと上手にできるわ」
アストリアが僕を想う気持ちや、それが培われた原因である僕との幸せな交流に関する記憶までアストリアの心からきちんと消せば、つまりアストリアから僕への恋心と愛を忘却呪文で消してしまえばもう二度と同じ危機に陥らずに済むことくらい、ドラコは承知している。
そんなことをすればダフネ・グリーングラスは確実に愛する妹の態度と言動から違和感を抱くだろうが、しかしそれで何が露呈しようとも、僕が憎悪されようとも、金輪際アストリアが僕の背中を追いかけて来なくなるなら、それでアストリアが危険な目に遭わなくなるならと願って、ドラコは杖をアストリアの小さなオデコに向けた。
「アストリア」
「なあにドラコ」
「愛してる」
「私もよドラコ。愛してるわ」
躊躇わないなんてことはドラコには不可能だった。しかしドラコは、ダンブルドアを殺す時にもそうやって躊躇うのかと自分に言い聞かせて、それは決定的破綻に繋がるだろうと自分に言い聞かせて、今こうして逡巡していることも破綻に直結しかねないんだと心の中で3回繰り返して、そうしてドラコはようやく決心を固めることができた。
「オブリビエイト」
他の誰でもないドラコの呪文によって、ドラコ自身の意志と決断によって、アストリアからドラコへの親しみや憧れや恋慕や執着や愛情といったものが、それを形作っている過去のたくさんのアストリアとドラコの幸せな思い出の数々が、アストリアの心の中からこぼれ落ちていく。
アストリアがドラコを忘れてしまう。
そうして消さなければいけない全てがアストリアから失われた時、アストリアの目はもうドラコを見てはいなかった。
「…………あら? ……こんにちは……あなた、もしかしてマルフォイくんじゃないかしら……? お姉ちゃんの同級生の……あっ、間違ってたら、ごめんなさいね……?」
途切れ途切れになんとかそれだけ言えたのを最後に寝息を立て始めてしまったアストリアに、ドラコはまだ杖を向けなければならなかった。
「インペリオ」
服従呪文を浴びせられたアストリアは、眠ったまま目を開けて、自分の足で立ち上がった。
「きみは今から、談話室の、きみの寝室のベッドに戻って、自然に目が醒めるまで眠るんだ」
返事もせずに指示に従うアストリアが廊下へ出ていった可愛らしい足音が聞こえなくなってもまだ、ドラコの涙は止まらなかった。
こうする以外には無かったと、いつかこうなるのは時間の問題だったと、これが一番アストリアのためだと、ドラコは叫びたいのを堪えて心の中で自分にそう言い聞かせ続けている。
けれどそれすらも、何ら事態を打開することには繋がらなかった。
「おォやぁぁぁぁぁあ? 俺様いまバーッチリ見ちまったぜェお坊ちゃんよぉーーー!! 今のは服従の呪文だよなあ?!『いかなる理由であれ』ヒトに向けて唱えたのならそれだけでアズカバンでの終身刑に値するって俺様ちゃーんと知ってるぜぇーー!! 終身刑! しゅーう身刑!! マルフォイ坊っちゃんがアズカバンで終身刑!! お先真っ暗終身刑!!」
急に姿を現したピーブズがはしゃぎながら天井をすり抜けて飛び去るのを、ドラコは茫然自失のまま何もできずに見送ってしまった。
そういえばピーブズの奴は生徒の規則違反を教師に告げ口するのがトイレで泳ぐのと同じくらい大好きだったなと、ドラコはそんな知識だけをぼんやり思い浮かべていた。
閉心術が間に合ったので、ドラコは自分で自分に杖を向けてアバダ・ケダブラと唱えてしまいたい衝動にだけは、なんとか耐えることができた。
しかし、これから先アストリアが自分に向けてくれるのは先ほどのような単なる知り合いに向けた笑顔だけなのだと再確認してしまうと、クリスマス休暇中の探索がついに実を結び計画のための最後の障壁が明らかになったという大いなる成果など、レタス喰い虫の汁ほどの価値もないように思えてならなかった。ピーブズは言動からして僕が服従の呪文をアストリアにかけるところしか目撃していないらしいからアストリアの記憶を消したこと自体が無意味になったわけではない、という希望的観測だけが、ドラコの心を辛うじて支えていた。
しかし、そんな絶望にも近い心境とは別に、あの壁たぶんバカ正直に保護魔法の解除なんかしなくてもドロホフあたりをあそこまで案内して悪霊の火とかで焼き融かしてもらえばそれで開通するよなという冷静な打算も、相変わらずドラコの胸の裡には存在していた。
今ですらドラコの心は半分だけで冷静で、より正確に表現するなら絶望に打ちひしがれているドラコとは別に冷静に現状を客観視しているドラコが居て、その冷静なドラコは絶望してうずくまっているドラコを見下ろして「お前が招いたことだろう」と、無情な事実を突きつけているのだ。
「独りになってしまった」
劇場で悲劇を鑑賞しているかのように、自分ではない他者の身に起きた不幸かのようにドラコは己の現状を声に出したが、しかし奇妙なことに、自分が陥った窮状であるにもかかわらず、ドラコは不思議とそこまで興味が持てなかった。あるいは一度でも直視してしまえば耐えられないから、ドラコの心がドラコを守るために勝手にそうしているのかもしれなかった。
「…………ホグワーツでは、退学させられて然るべき行いが露呈してから、それをやらかした生徒に対して実際に退学処分が執行されるまでに、どのくらいかかるんだ?」
入学前の準備として父上と母上からホグワーツの話を色々とお聞かせいただいたよなとドラコは幼かった当時を思い返してみたが、しかしこれから入学する我が子に退学処分の話をする親など居ないので、ドラコが退学手続きに関する知識を与えられていないのは当然だった。
退学になるのなら自分がやるべきは「今すぐルックウッド城に赴いて地下遺跡を経由してホグワーツの地下に来て、行き止まりの壁を悪霊の火で焼き払って道を開けてそこから侵攻しろ」という内容の手紙をオーガスタス・ルックウッドの奴に送りつけることだとドラコは解っていたが、しかしドラコは今どうしても、立ち上がるための行動意欲を捻出することができなかった。
そうして結局なにをしようともしないまま暗い行き止まりの隠し部屋の冷たい床に座り込んで考え事ばかりしていたドラコは、扉が再び開く音を聞いた。
ピーブズの奴がマクゴナガルあたりを連れてきたのかと警戒して目眩まし呪文で逃れられるかと無駄な努力を始めようとしたドラコだったが、その必要は無かった。
「…………ああー、悪い。悪かった。そう言えばお前が放ったらかしだったなヘリオトロープ」
ルックウッド城から続く知られざる通路の突き当りの壁がホグワーツ城地下階のどこの壁なのかを探し当てるために動員するべくクリスマス休暇の初日に父上に買っていただいたイタズラ好きの新たな相棒が、ようやく見つけた飼い主めがけてまっすぐに駆けてきて、ドラコの腹に衝突した。
その暗い青紫色の毛並みをしたニフラーに「ヘリオトロープ」と名付けたのはアストリアだったと、クリスマスパーティでの幸福な一幕を思い出してしまったドラコはまた自分の頭に杖を突きつけてしまいたい衝動に駆られたが、しかしドラコは両腕でニフラーの「ヘリオトロープ」を抱き上げていたので、自分で自分に呪いをかけることなどできるはずもなかった。
「部屋の隅に活けてあった花の名前をザビニのお母上に教えてもらって、そのあと僕がお前を皆に披露して、そうしたらアストリアがさっき新しく知ったばかりのその言葉をさっそくお前の名前に採用したもんだから、ダフネ・グリーングラスの奴が可笑しそうにクスクス笑っていたな」
この「ヘリオトロープ」がどうしてこれほど自分に懐いてくれているのか――もちろんそれでもニフラーなので片時も目は離せないのだが――ドラコには解らなかった。
用が済んだら早々に手放すつもりだからという主張でどうにか綺麗好きの母上を説得したはずなのに、今やこの好奇心旺盛な小動物だけがドラコの心の拠り所で、このニフラーのヘリオトロープを構ってやっている時間だけが、多少なりともリラックスできる安息のひとときだった。
ドラコにはもう、このしょっちゅう持ち物をメチャクチャに散らかしてくれる窃盗常習犯を手放すことなど考えられなかった。
闇の帝王といいベラトリックス伯母様といいドロホフといい、いま現在の我がマルフォイ家の屋敷にはニフラーなんか視界に入ったらすぐ磔の呪文で弄んで楽しもうとしかねない人物がどう少なく見積もっても1ダースは居るのだからもっと安全な家の子になったほうがお前は幸せに生きられるはずだぞと思いながらも、抱き上げたヘリオトロープの宝石みたいにキラキラした真っ黒い目を見つめてしまうと、その目に宿った危なっかしい好奇心の光がアストリアに似ている気がして、抱きしめずにはいられないのだった。
一方、壁も天井も床も地面も何もかもすり抜けて最短距離を直線で突き進んだピーブズは、今しがた目撃したばかりの大ニュースを真っ先に共有したい相手の目の前まですでに辿り着いていた。
特別授業が終わって少し経ったハグリッドの小屋の前にはもう生徒は誰もおらず、皆とっくに各々の次の授業へと向かって城の中へと姿を消していたが、その特別授業の講師役だった魔法使いだけは、相変わらず大きなカボチャに座ったまま、相変わらず熟睡中のクローディアを見守りながら未だにそこで何をするでもなく佇んでいた。
「いよう兄弟! 俺様が今仕入れたばっかりの特別とっておきの耳寄り情報を持ってきてやったってのにその嬢ちゃんはいったいどうしたってんだ?」
「やあピーブズ。どうしたも何も、何日寝てなかったんだろうねクローディアったら」
自分のすぐ横で、自分が椅子代わりにしているのと同じような巨大カボチャの上に横たえられたまま毛布にくるまって寝息を立てている年若い神秘部職員の魔女クローディア・クランウェル=ブラックの寝顔を眺めながら、その魔法使いは呆れ気味の感想を述べた。
「そいつはいけねぇなあーー! 睡眠不足は睡眠の大敵だってのによ!」
ピーブズが冗談を飛ばすと、その魔法使いはそうするのが礼儀だとでも言うかのように笑った。
「ところで何を告げ口しに来たんだいピーブズ。他の誰でもない僕のとこに来るってことは、単なる規則違反じゃあないんだろう?」
時間が惜しいというピーブズの心境を察したかのように、その魔法使いは本題に入った。
「お前のその勘の鋭さはどっから来るんだ兄弟? ああそうだとも。単なる規則違反じゃあない。減点だけで済ましちゃもらえない――ドラコ・マルフォイ坊っちゃんがアストリア・グリーングラスの嬢ちゃんに服従の呪文をかけてるのを俺様は確かにこの目でバッチリ見ちまったんだな」
「ピーブズそれ僕以外の誰かに話してないだろうね?」
「俺様がお前の他に誰にこんな大ニュースを最初にお届けするってんだアンブリッジか?」
ピーブズがまた冗談を飛ばしたが、今度はその魔法使いは全く笑おうとしない。
「いいかいピーブズ。今すぐその話をアルバスに告げ口するんだ。ただしアルバスがスネイプ先生以外の誰かと一緒に居たら話しちゃダメだよ」
「なんだよ、マルフォイ坊っちゃんがなんか企んでるのをお前知ってて放ったらかしてたのか?」
「そうだけど、そうじゃないんだ。説明してほしいなら一緒に校長室行くかい? 僕とシリウスくんもアルバスにいい加減に報告しなきゃいけないことがあるし――シリウスくーん!」
その魔法使いがすぐそこにあるハグリッドの小屋へ大きな声で呼びかけると開いた窓から返事が聞こえて、すぐにシリウス・ブラックと屋敷しもべのクリーチャーが小屋の玄関扉から出てきた。
「せっかくホグワーツに来たんだしシリウスくん今から一緒にアルバスに会いにいかないかい」
「喜んでお供します先生――お前も来るのかピーブズ?」
「そりゃもちろん。校長先生陛下に謁見できる機会を逃す俺様か?」
シリウスは命令などしていないのに、クリーチャーも黙ってついて来るのだった。
そして校長室に居たアルバス・ダンブルドアが訪問客たちを快く歓迎した頃、ようやくドラコは立ち上がって、その狼人間のタペストリーが飾られた薄暗い地下階の隠し部屋から廊下へと出ていくだけの気力を捻出することができた。
明らかにピーブズは誰かしら先生方に告げ口しに行ったというのになぜまだ誰も僕を捕まえに現れないのかはドラコには全く解らなかったが、しかしそのことについて現実的な推測など今のドラコには不可能で、ドラコはただ「ピーブズの発言など誰も真に受けないのだろう」とか「スネイプが上手く黙らせてくれたんだろう」というような、そんなわけはないと理解できているはずの希望的観測に縋って、それでどうにか最低限の行動意欲だけは保っていた。
「次は…………防衛術だったか」
気づけばドラコは何故か授業に、それもよりにもよってスネイプの授業に向かおうとしていた。
ドラコはニフラーのヘリオトロープを抱えたまま薄暗い廊下を歩き、階段を登り、ここから地上階だとすぐにわかる日光が窓から差し込む明るい階段を登りきって鐘楼塔1階に繋がる扉を開けた途端、ドラコの足は再びピタリと止まった。
アストリアがそこに立っていたために。
まさか服従の呪文に抵抗できたのかアストリアが、と驚愕し気が動転したドラコは、思わずアストリアに声をかけてしまった。
「……どうした? 何をそんな突っ立ってるんだ?」
振り向いたアストリアは、あたかも今起きたばかりでまだ眠くて仕方がないというような表情をして、こちらまで眠くなってしまいそうな声でドラコに返事をする。
「あたしスリザリンの談話室に行かなきゃいけないのにね、どっちに行ったらスリザリンの談話室に行けるんだか判んなくなっちゃったの。だからあたし今ね、困っちゃってたの」
それを聞いたドラコの胸にまず湧き上がったのは、どうしようもないくらいの愛情だった。
「…………僕でよければ案内するよ」
方向と道筋だけ教えればいいのに、ドラコはそう申し出ずにはいられなかった。
「そーお? ありがとう。お兄ちゃんお名前はなんて言うの?」
アストリアの何気ない口調が、予測できていたのに、ドラコには辛かった。
「…………ドラコだ。ドラコ・マルフォイ。6年生だ」
「6年生! あのねあたしのお姉ちゃんも6年生なのよ。お姉ちゃんはすっごく美人だから、会ったらきっと仲良くなりたいって思っちゃうはずよ」
そう言いながら歩き始めたアストリアは、道案内を買って出たドラコよりも前を歩いていく。
「そっちの階段じゃない。こっちの廊下だ」
「そうなのね! ねえお兄ちゃん、あたしお兄ちゃんにお願いができちゃった」
アストリアが少し恥ずかしそうな顔をしてそう言った途端、今すぐ会話を切り上げて立ち去るべきだとドラコは直感したが、ドラコにはそんな決断は不可能だった。
「……僕に、できることなら」
「ドラコって呼んでもいーい?」
良いともダメだとも返事ができないまま、ドラコの心に思い浮かんだのは、去年何度か聞いた、あのおかしな先生の言葉だった。
愛には不思議な力がある。
「ありがとう、アストリア」
ドラコは結局、アストリアを拒絶できなかった。
これでは次またアストリアが自分の後を付け回すようになるまでの時間が多少伸びただけじゃないかと、それならなぜアストリアの心から僕との思い出を全部消して代わりの当たり障りの無い記憶で補填までしたのか判りやしないと激しく悔やんでいるのに、ドラコはアストリアの歩く姿を見ているだけで心の中が幸福で満たされていくのを感じていた。
その幸福は棘のようにドラコの心に喰い込んでいて、そうしてできた傷口からは様々な感情が血のように漏れ出て、少しずつ確実にドラコの心から無くてはならないはずのものが喪われていた。
「ねえドラコ、その可愛い子ってもしかしてニフラーちゃんかしら?」
「そうだ」
「お名前はなあに?」
「……ヘリオトロープだ」
「まあ! あなたヘリオトロープちゃんって言うのね! 素敵なお名前ね!」
ドラコの閉心術の腕前は上がる一方だった。
今更ですが、今回に限らず、ホグワーツ各所の位置関係や外観および内装などの細かな描写は、原作小説と実写映画版とホグワーツ・レガシーの「良いとこ取り」をしています。