〇1931年1月 その日、運命と出会った
●1931年 1月〇日
今日は、特別な日になった。
ことの発端は、ウール孤児院を訪れたことから始まる。
今回の仕事で孤児院が舞台の本の挿絵を担当することになったのだが、私は孤児院についてよく知らない。そこで、孤児院に勤める友人に見学を頼み込み、「今度、養子縁組を希望する人たちが来る日があるから、それで良ければ」と許可をもらったのであった。
ウール孤児院は、お世辞にも印象はよくない場所だった。
重々しい鉄門に無機質な高い塀。塀の上には、ご丁寧に有刺鉄線が張り巡らされていた。申し訳ないが、子どもたちが暮らしているというのに「重苦しい監獄のようだ」と思えてしまう。
建物自体も古びており、玄関ホールも全体的にみすぼらしく寂しげな雰囲気だったので、若干不安を抱いたのだが、意外にも埃やシミひとつなく清潔な場所で驚いたことをよく覚えている。
玄関ホールを抜けた先の小部屋は、賑やかな雰囲気に満ち溢れていた。よちよち歩きの赤ん坊が集められ、何組かの夫婦が微笑ましそうに見つめている。
見学者たちは確か……こんなことを言っていた気がする。
「すてきな笑顔だなぁ」
「お人形さんみたいね、可愛いわ」
「この子、頭が良さそうね」
私は一歩引き、彼らの様子を眺めながらスケッチをした。
彼らは愛らしい赤子たちを眺めて楽しみ、実際に「抱いてみますか?」と言われ、おずおずと触れてみる。途端、泣き出してしまった子にあたふたする淑女、ふにゃりと微笑みかける赤子の姿に笑みを深める夫婦、彼らのやり取りを優しく見守る保育者たち……そのすべてを描こうと、私はペンを動かし続けた。
入れ替わり、立ち替わり、養子を求める人たちが部屋を訪れ、立ち去っていく。
笑顔で保育者たちと事務室へ入ってく者もいれば、不満そうな顔で玄関へ戻っていく者もおり、こうして眺めているだけでも飽きない。
とはいえ、孤児院と無関係な大人がいるという状況は、子どもたちにとって非日常であることに変わりがないようで、なにも分からぬ赤子たちですら、そわそわと落ち着かない様子が見て取れた。
私が通されたのは、赤子たちばかり集められた部屋なので、少し大きい子どもたちの生活風景を見れないのが不満でもある。
まあ、私が無理を言ったのだし、仕方ないか……。
そんなことを頭の片隅で感じつつ、孤児たちのスケッチを続け、2時間ほど経った頃だっただろうか。
「アイリス、調子はどう?」
このとき、一回で応えていれば……いや、過ぎたことは仕方ない。
私はスケッチに夢中で、友人の声かけに気づかなかった。拳を握りしめながら、むずむずと寝返りを打つ赤子の姿が可愛らしく、ペンが止まらなかったのだ。
「アイリス! アイリス・リドル!」
「ん……あれ、オリヴィア?」
幼馴染の少し怒ったようなキビキビとした声で、私はようやく我に返った。
「仕事熱心なのはいいけど、一回で返事をしてちょうだい」
「ごめんなさい、気がつかなくって」
「……本当、アイリスったら……何かに熱心になると周りが見えなくなるのは、昔と変わらないのね」
オリヴィアは、あきれ果てたように首を横に振る。
「ところで、アイリス。いい絵は描けそう?」
「もちろんよ、ありがとう! オリヴィアのおかげで助かったわ」
「だったらいいのだけど。こっちに来てちょうだい、院長が帰る前にお話をしたいそうよ」
「分かったわ。もう少しだけ待って。これを描き終えてから……」
そこまで口にしたとき、こちらを眺める視線に気づいた。
部屋の入口の所に、黒髪で青白い顔をした男の子が立っている。3,4歳くらいだろうか? 非常に整った顔をしているのだが、目だけが興奮でぎらぎらと輝いている。
なんとなく、どこかで見覚えがあるような気がしたので、「あの子は誰?」と尋ねることにする。
すると、オリヴィアは非常に難しい顔をした。
「え……え、ええ、あの子は……トムよ。トム・リドル」
「トム・リドル?」
私は思わず聞き返していた。
トム・リドル!
たしかに見覚えのあるわけだ。
だって、トム・リドルといえば、かの有名な「ハリー・ポッターシリーズ」の最大の悪役「ヴォルデモート」の本名。ちょっとした本屋や図書館に行けば必ずある児童書だし、映画だってTVで繰り返し放送されたから、洋物に疎かった私ですら知ってる。
ただ、当たり前だが……いまの私がいるのは、1930年代のロンドン。
作者女史が「ハリー・ポッターと賢者の石」を世に発表するのは、はるか先の未来のことであり、女史自身も産まれていない。
この日記では、何度も書いているが……私には未来の記憶がある。
正確には、前世の記憶。確か、21世紀の日本で暮らしていた。死因については、あまり覚えていない。大学を卒業し、正社員になれた記憶までは辿れるけど、そこから先は靄がかかったように曖昧なのだ。
気がつくと、20世紀初頭のロンドンで産声をあげていた。
過去に転生したと気づくのは、少し大きくなってからだった。洋風な街並みと街を往来する馬車を見て、「異世界転生?」と喜ぶのもつかの間、聞こえてくる言語は英語だし、霧の向こうに時計塔が見えたので「過去に転生したのかぁ」と、がっかりしたのは内緒である。
未来を知っているからといって、私にできることはほとんどない。
男なら政治家になって第二次大戦回避とか世界恐慌を未然に防ぐとかできたかもしれないが、なんの因果か前世と同じく女性なのだ。そりゃ、もっともっと昔に比べたら女性の社会進出は進んでいるけどね。それでも、私にはイギリスの階級社会を覆して、政界やらなにやらに食い込んで行けるほどの力はなかった。
たとえ、できたとしても……めんどう極まりない。どんな戦が起きるのかは知っているので、その日が来るまで備えておこう。そんな程度の消極的な転生者であった。
しかし、まさか……こんな形で未来の知識を使うことになるとは……。
「トム・リドル……トム・リドル……?」
口の中で、彼の名前を繰り返してみる。
同姓同名?
トムなんてよくある名前だし。だがしかし、私を熱心に見つめる姿は、ハリポタの映画に登場した若き日のリドルをさらに幼くさせたような男の子そのもの。
彼の顔を見れば見るほど、私は過去の世界ではなく、ハリポタの世界に転生したのでは? という疑いが濃くなるのは必然だった。
「彼のミドルネームは?」
念のため、オリヴィアに聞いてみた。
「マールヴォロよ。彼の祖父の名前らしいわ……サーカスみたいな名前よね」
オリヴィアは囁くような声で付け足した。
私は「へぇ……」と空を仰ぎ、曖昧な返事をすることしかできなかった。
トム・マールヴォロ・リドルともなれば、ヴォルデモート以外の何者でもあるまい。
ここは、ただの過去ではない。
この世界は「ハリー・ポッター」シリーズの過去なのだ!
予測が確信に変わり、私はもう一度……しっかりと、トム・マールヴォロ・リドルを見つめた。
非常に痩せており、本を脇に抱えている。粗末な服を着ているが、とても清潔に整っていた。将来、蛇のような鼻になるとは思えないし、髪の毛だってふさふさ生えている。なにより印象的なのは、やはり目だ。頬がこけた細くて小さな顔に、ぎらぎらとした目が異様に大きく見える。こちらをまっすぐ見上げる目の奥には、激しい情念のようなものがちらついていた。
「ねぇ、貴方の名前は?」
私は彼に近づくと、軽くかがみこんで目線を合わせる。
「トム・マールヴォロ・リドル」
独特な声だった。
子どもらしい幼い声色なのに、緊張と警戒でがんじがらめになったように険しい。
「私の名前は……」
「アイリス・リドル」
私が名乗る前に、トム・リドルは口にする。
「さっき、あのヒトがいってた」
「聞こえていたのですね」
だから睨まれているのだろうな……と、思いながら、トム・リドルに右手を差し出した。
「では、改めまして……私はアイリス。アイリス・ソフィア・リドル。よろしくお願いしますね、トム・マールヴォロ・リドル」
トム・リドルは躊躇したが、その手を取った。
「小さな手ね……」
小さな手は、私の手のひらにすっぽりと収まる。最初こそ乾燥しており、冷たく硬い感触がしたが、徐々にじんわりとした熱が伝わってきた。
この手が将来、多くの魔法使いやマグルを殺すことになるなんて……と思うと、なんだか無性に切ない気持ちが込み上げてくる。
「あなたは、僕の姉? それとも、しんせきか?」
トム・リドルの声色自体は、先ほどと変わらない。
しかし、どこか素っ気ない声とは真逆に、まるで溺れる人間が一本の藁を見るような目つきをしていた。「お願いだから、僕を引き取りに来たと言ってくれ」と言わんばかりの視線から、私は目を離すことができなかった。
「姉ではないわ」
私はそう答えることしかできない。
「親戚かどうかは分からない。リドルの親戚は全員アメリカに渡ったと聞かされていたから」
でもね、と手を握ったまま話を続ける。
「リドルは、あまり聞いたことがない家名だもの。どこかで、繋がっているかもしれない」
トムのぶらんと垂らされたもう片方の手をつかみ、祈るように両手を握った。
「うちにおいで、トム・マールヴォロ・リドル」
まあ、あれだ。
原作ブレイクという奴である。
新連載です。
よろしくお願いします。
※1930年代の英国について調べて執筆していますが、あくまで趣味の範囲であり、細かいところや抜け落ちている部分、史実と異なる個所も多々あると思います。
そのあたりはフィクションとして受け止めていただけるとありがたいです。
※アンチ・ヘイトタグをつけていますが、念のためです。