肌が凍てつくような寒さで、トムの意識は覚醒した。
目を開けなくても、口から吐く息が白いことが分かる。
身体の芯まで震えるほど冷たくて、どことなく生臭い。
ここは、どこなのだろう?
トムが重たい瞼を開けると、そこに広がっていたのは陰気な空間だった。
巨大な蛇をかたどった石像がずらりと並んでいる。だが、よく注視してみると、石像ではなく柱だと分かった。蛇が絡み合うような彫刻を施した石の柱が上へ上へとそびえ、暗闇に吸い込まれて見えない天井を支えている。ずらりと並んだ柱の最奥には、人の顔らしき像が見えた。大きく口を開けた老人の像のようだ。まるで息を吸い込むかのように風が像の方へと吹いている。もっと詳しく見ようと目を細め、立ち上がろうとしたとき、ようやく手足が動かないことに気づいた。
(……縛られている)
トムは自身の身体に目を向けた。かなり太目の荒縄で乱暴に手足が拘束されている。どうやら、縛られている状態で床に転がされているようだった。トムはもがいてみたが、しっかり結ばれているようで、簡単に外れる気配はなかった。身体を少し曲げるようにしてポケットに目を向けたが、杖の姿が見当たらない。もしかしなくても、どこかに隠されているのだろう。
さて、どうするべきかと思考を働かせ始めたとき、低いしわがれ声が耳に届いた。
『ようやくお目覚めか』
トムが声の方へ顔を向けると、そこには男が立っていた。
『……モーフィン・ゴーント』
トムはその人物の名を口にする。
もともと不衛生を極めたような男だったが、さらに拍車がかかっていた。身体が一回りは痩せ、白髪交じりのもじゃもじゃとした髪は何年も洗っていないように見え、数年は伸ばしっぱなしのような髭をたくわえている。
『お前、アズカバンにいると聞いていたけど』
『脱獄したのさ』
モーフィンはにたりと笑った。薄汚い髭の合間から黄ばんだ歯が覗いている。
『俺には理解者がいるんだ。そいつは、俺こそが本物のスリザリンの継承者だって認めてくれた! モーフィン様をアズカバンまで迎えに来てくれたのさ!』
『……そいつ、ここにいるの?』
『いや。ここは俺の城。俺だけの城だ。誰にも渡さない』
『ふーん……』
トムは一度唇を結んだ。話そうと口を動かすたびに、頬に痛みが走る。もしかしなくても、腫れている。ここに来るまでに殴られたのか、蹴られたのか……トムは自分の置かれている状態を冷静に確認しながら、モーフィンに言葉を投げかけた。
『ってことは、ここが秘密の
皮肉たっぷりに言ったつもりだったが、モーフィンには伝わらなかったらしい。
『そうだろう! これだけの広さ! 荘厳! 偉大なるサラザール・スリザリンの尊顔もある!』
彼は両手を広げながら、高らかに叫んでいた。
『誰も気づかない! ホグワーツの地下にあるっていうのに、ふんぞり返って偉ぶっている輩は誰も見抜けなかった!! ここの在り処を知っているのは、真の純血たる俺だけだ!』
『オミニスさんはどうした?』
『あぁ? あー、血を裏切った奴には罰を与えたさ』
モーフィンはけたけたと笑いながら、爪の伸び切った指先をスリザリンの像の方へと向けた。像の口元の辺りに、ボロ雑巾のように人が転がっている。
『……殺したのか?』
『殺しはしない。あれでもサラザール・スリザリンの血を引く数少ない同朋だ。間違いなく純血だからな』
モーフィンはそうは言ったが、遠目から見てもオミニスの状態は良いとは思えなかった。
『オミニスさんに“磔の呪い”をかけただろ。何回かけた?』
『お前、これまでに食べたパンの数を覚えてるのか?』
『たいそうな趣味をお持ちなことで』
トムは軽い調子で返しながら、反吐が出る思いだった。やはり、こいつとは気が合わない。同じ血が流れているのかと思うだけで、嫌悪感が込み上げてくる。ののしりたい気持ちに全力で蓋をし、冷静になれと言い聞かせる。ため息にも聞こえる長い息を吐き終え、気持ちを整えてから、ゆっくりと口を開いた。
『だが、妙だな。お前、どうしてシグナスを狙った? あいつは間違いなく純血のブラック家だろう?』
『ブラック家だからさ!』
モーフィンは下品な笑顔を浮かべたまま、しゃがみこんできた。床に転がるトムと目を合わせながら、にやにやと話し続ける。
『ブラック家はいつもそうだ。自分たちこそ純血だと驕り高ぶっている。家系図を書き換え、都合の悪い家族を消し、さも自分たちは完璧な純血だと偽っている! あいつらの赤い血は、俺みたいに完全無欠な純血じゃない! 改竄された家系図の裏側に、薄汚れた穢れた血が混じっていることを貞淑に隠しやがって……あぁ、忌々しい!!』
モーフィンはわずかに顔を背け、唾を吐いた。
『ゴーストも同じだ。思い出すだけで、むしゃくしゃするな……俺がホグワーツに入学した日、俺に指図してきたんだ。あの男はサラザール・スリザリンに恩義があるはずなのになぁ!』
『指図って? あの男爵、生徒と積極的に関わる奴じゃないだろ』
『俺が! 偉大なるサラザール・スリザリンの血を引く俺様のことを! “スリザリンの末裔にふさわしくない”って言ってきたんだ!!』
モーフィンは唾を吐き散らしながら、怒りをぶちまけるように叫んだ。
『俺が穢れた血に説教しただけなんだぜ? 俺は何も悪くない! あいつは、俺にぶつかってきたんだ!』
『寮へ案内されたときにか?』
トムは嫌気を覚えながら、寮へ帰る道を想像した。
『わざとぶつかったわけではないだろ? そもそも、そいつはスリザリン生なのか? 大広間の出口は混雑するから……ハッフルパフ生あたりだろ?』
他の寮とのもめ事に、寮監ではなく「血みどろ男爵」が口を出すとは俄かに信じられなかった。
そもそも、男爵はおしゃべりな方ではない。グリフィンドールの首なしニックやハッフルパフの修道士みたいに寮生と積極的な交流をするゴーストではなく、トムも年に数回会話する程度である。
にもかかわらず、男爵がモーフィンに苦言を呈したことが事実なのであれば、よほどのことをしたに違いない。少なくとも、ただの説教ではないはずだ。
トムが訝しむことを知らず、モーフィンはだんだんと右足で地団駄を踏みながら話し続けていた。
『そうだ! 品のないハッフルパフの生徒だ……あやつめ、“こんな魔法みたいな世界があるなんて思わなかった”なんて、みっともなくはしゃいでやがった! んで、俺の肩にぶつかったんだ!! 純血を怪我させたらどうなるのか、分からせてやらねぇと! 説教してやった! “身の程を知れ!”ってな!』
『言葉だけで納得したのか?』
『甘ちゃんだな、坊や。ちゃんと“蜂刺しの呪い”もかけてやった。説教に痛みは付きものだろう?』
モーフィンはその時の快楽を思い出したのか、一瞬だけ恍惚とした表情になった。
一方のトムは、げっそりとした気分に陥った。
それは、血みどろ男爵でなくても怒るだろう。
トムは呆れた目をしそうになったが、すんでのところで堪えた。
『怒ったのは、男爵だけかい?』
『校長もだ! ブラック家の分際で、俺様に指図してきた! “相手が穢れた血だとはいえ、節度を持って行動せねばならん。我々は誇り高い魔法族なのだから”だと! 腑抜けたものだ! 腑抜けたもんだなぁ!!』
モーフィンは脂ぎった髪をぐしゃぐしゃに搔きむしった。
『穢れた血を擁護するだと? ありえないだろう、なぁ!? だが、俺は偉かった。我慢してやった。だから、次の日は、魔法薬学で一緒になったグリフィンドールの小僧を2人、大鍋に突っ込んでやったんだよ。呪いはかけてない。穢れた血とそいつと仲良くしようとした血を裏切るウィーズリーの小僧どもがいたから、熱々の湯が煮えたぎった大鍋に投げ入れてやったのさ。ちゃーんと頭からな!』
『で、また怒られた?』
『親父が呼び出された! でも、親父はまっとうだ。校長やゴーストなんかより、ずっと
トムは「ただの逆恨みじゃないか」と言い返してやりたくなった。
結局のところ、自分勝手に行動して退学しただけだ。社会に適合できず、自分と違う他者を受け入れようと譲歩することもせず、ホグワーツから追い出されたのだ。可哀そうなシグナスはとばっちりだし、血みどろ男爵も遺憾の意を示すことだろう。
『だが、モーフィン……お前は戻ってきた』
トムは言葉を選びながら疑問をぶつけた。
『どうして、誰も殺さなかった? バジリスクがハグリッドに殺しを禁止させられていたとはいえ、それを曲げることくらいできるはずだ』
『あぁああ! そこだ! そこなのさ!』
モーフィンは小さな目を限界まで見開いた。
『馬鹿でかい小僧は使い勝手の良い
『……ハグリッドは、お前のことを知っているのか?』
『俺とあのデカ物は人気のない通路で落ち合った。俺は奴と交渉した。“俺を通報したら、お前の友達はホグワーツの地下で何百年も眠り続けることになる。それは嫌だろう? 可哀そうだろう? お前が
『……なるほど』
トムの脳裏には、その時の光景をありありと思い浮かべることができた。
バジリスクの自由をちらつかせただけで、ハグリッドはころっと騙されてしまうことだろう。
『デカ物は騙しやすい。俺の言う通りに動く――バジリスクの自由をちらつかせればな』
『……だから、殺しをしなかったのか?』
トムは眉間に皺を寄せた。
そこだけが、いまいち腑に落ちない。
穢れた血というだけで、躊躇なく攻撃をしかける男が、バジリスクの主導権を取られたぐらいで殺しを諦めるとはとてもではないが考えられなかった。
『それとも、ハグリッドを利用したのか? ……僕を呼び寄せるために?』
『お前も驕り過ぎだぞ――トム・マールヴォロ・リドル』
モーフィンは顔をぐいっと近づけてくる。汗と脂のすえた臭いが、ぷんっと強く漂ってきた。
『“穢れた血”や“血を裏切る者”を殺すことなんて、
『……僕も……なにかの駒だって?』
トムが慎重に尋ねると、モーフィンは地獄の底から響くような声で嘲笑うのだった。
『この数年間、俺様の新しい狙いはただ一人……俺様を……この、モーフィン様を騙したマグルの女だ』
トムは目を見張って、モーフィンを見た。
「アイリス?」
あまりの不意打ちに、蛇語で話すのを止めてしまう。思考が止まりかけ、頭が空白になりそうになった。
「何故?」
『お前が問題を起こせば、保護者が来る。俺様のときと同じようにな。しかし、お前は問題を起こさない。あれほどまでに証拠がそろっているというのに、お前は“スリザリンの継承者”だと疑われなかった。だから、お前を誘拐する計画を立てた。綿密に』
『アイリスは来ない』
『来る!!』
モーフィンは叫ぶ。叫び声が反響し、部屋のなかを何重にも木霊した。その声が消え切る前に、モーフィンは重ねて吠えるように叫んだ。
『マグルのなかで――いや、俺たち魔法族を含めた全人類で最も頭のおかしい女だ! あの女は絶対に来る! お前を助けるために、蛇の巣に乗り込んでくる!』
『アイリスは頭がおかしくない!』
『お前は誘拐犯の家で掃除を始めるか? 食事を差し出すか? 朝までぐっすり眠れるのか?』
『それは……』
トムは言葉に詰まった。
『アイリスが楽観的過ぎるからだよ』
精いっぱい義母を擁護しながら、トムはモーフィンに新たに浮かんだ疑問をぶつけることにした。
『仮に――仮に、アイリスがのこのこと来たとして、お前はどうするんだ? 殺すのか?』
『殺しはしない』
モーフィンは黄ばんだ歯を見せつけながら言い切った。
『今度こそ俺に従うと誓うならな。しもべ妖精のように使ってやる』
『それだけか?』
『薄汚くて頭のおかしいマグルだが、家事の腕だけは認めてやる。俺に忠誠を誓うのであれば、騙したことを許してやってもいい』
『……?』
トムは何も返せなかった。
モーフィンの真意が分からなかった。
元々、モーフィン・ゴーントという男の思考には納得できない部分しかなかったが、彼の思考を基準として考えると理解はできた。あくまで彼の思考を定規とすれば、モーフィンの行動には概ね筋が通っている。
だが、アイリスだけは違う。そこだけ、これまでの言動と発言が一致していない。しかし、彼が嘘を口にしているようには思えなかった。そもそも、彼は上手に嘘をつける人種ではない。少し会話を交わしただけで、すぐに頭に熱が上り、感情に任せて行動しているのが伝わってくる。
『アイリスに家事をやらせなくても、しもべ妖精を雇えばいいんじゃないか?』
だから、トムの口から本音が零れ落ちた。
すると、モーフィンの表情が一変した。感情がすべて流れ落ち、きょとんとした表情になる。
『何故だ?』
『いや、だからさ……しもべ妖精を使役しているって、魔法族にとってのステータスなんだろ? わざわざ、マグルを家政婦として使うのは、純血の魔法族らしくないだろ』
それに、モーフィンの性格からして、マグルをこき使うようには思えなかった。もし、モーフィンがマグルを扱うことを推奨していたのであれば、それこそマグルを拉致してきて、服従の呪文を使って使役していたはずだ。だがしかし、あの家にはそのような痕跡は見当たらなかった。
『あの女は別だ』
モーフィンは少し戸惑ったように瞬きをしたあと、言い訳をするように話し出した。
『普通のマグルの女は魔法族を知らない。魔法族に関する教育をする手間も省ける。殺されるかもしれない状況下で進んで家事をやる特異性だってある。見目もそこまで悪くない。……いや、そもそも、お前は何を考えてる? あの女の価値を失くすようなことを言いやがって……あいつが俺に殺されてもいいのか?』
『まさか!』
トムは完璧な笑みで返した。
『だけど、お前の計画は理解した。分かったうえで言うけど、お前の計画は実を結ばない』
『いいや、坊や。成功するさ』
モーフィンの顔には、既に困惑の色はなかった。先ほどまでの勝ち誇った表情がすっかり戻っており、トムを見下すように嘲笑っている。
『坊やには分からないだろうよ。お前の大事なマグルの女は、お前を人質にすれば喜んで身を差し出す』
『アイリスは楽観的だけど、そこまで馬鹿じゃないよ。僕が魔法使いだって知っているから』
トムは口の端にほんのわずかな嘲笑を浮かべると、指を軽く曲げた。
『アイリスは心配だから来るだろうけど、僕がお前程度にやられないってことも知っている』
そう言いながらくるっと指を回し、無言で
『ば、馬鹿な……杖を使ってないのに?』
『杖は僕にとって後付けなのさ』
ホグワーツに入学する以前の時点で、ほぼ完ぺきに魔法を使いこなせていた。もちろん、杖を使った方が
それなのに、これまでやらなかったことには理由がある。
一番の理由はモーフィンの企みを把握することだが、他にも理由は別にあった。
『貴様ぁー!』
「
モーフィンがナイフを抜こうとしたので、手で払いのけた。モーフィンの身体はあっさりと宙に浮かび、部屋の反対側まで吹き飛んだ。蛇をあしらった柱に激突し、よろよろと座り込む。
トムはその姿を眺めながら、自身の杖を呼び寄せする。案の定、モーフィンのポケットから白い杖が飛び出し、自分の手に収まった。杖はあるべきところに収まると、じんわりと身体の芯まで温まるような安心感を覚えた。
『誰がスリザリンの継承者なのか、はっきりさせようじゃないか』
「スリザリンの継承者」なんて肩書には興味の欠片も抱かなかったが、そのせいで退学寸前までいったことには怒りを覚えていた。こんなこと、アイリスに知られたら「復讐は何も生まない」なんて正論で諭されるだろうが、知られなければいい話である。
アイリスが来る前に、三流以下の魔法使いに格の違いを見せつければいい。
『立ちなよ、モーフィン・ゴーント。まだ始まったばかりだろう?』
トムは杖を弄ぶように手の中で回しながら、モーフィンへ冷たいまなざしを向けるのだった。
祝100話記念のアンケートです! 以下のなかで、最も要望の多かった話を第四章の終わりに公開します。期間は8月17日までを予定しております。
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①トム(就学前)とアイリスのおはなし
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②フェンリールとミネルバの文通
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③死喰い人の日常
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④トムとジョナサンの思い出
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⑤トムと魔法生物の一日
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⑥番外編より、さっさと本編を進めて欲しい