●1931年 10月◇日
鍵のかかった部屋。
正確には、鍵を失ってしまった部屋だ。
「この部屋、いつもカギがかかってるけど……なにがあるの?」
ある日、トムがそんなことを尋ねてきた。
初日から「この部屋だけ鍵がかかってる」という疑問をぶつけられ、はぐらかしてきたけど、だんだんとそうではいかなくなってきた。
まー、そろそろ話してもいいか。別に隠していたわけではない。ただ、明かすタイミングがなかったというべきである。
「僕に見せたくないものがあるんだろ? それとも、かたづけがおわってないだけ?」
「本当に鍵がないの。だから、開けられないってだけ」
「ほんとう?」
トムの疑いの眼差しに、私は苦笑いをするしかなかった。
片付けられないのは事実だし、トムが養子になると決まるまでは――……うん、リビング以外はひどい有様で、いわゆる汚部屋が多かったけど、根性でなんとかした! いや、まだ気を抜くと大変なことになってしまうけど、そのあたりは、トムが「まったく、アイリス……」といって、浮遊魔法で片付けてくれる。本当に申し訳ない。
でも、あの部屋は本当に鍵がないから開けられないだけだ。
「なくしたのか?」
「なくなった、というのが正しいわね」
長い話になるので、とりあえずお茶を淹れることにする。
ジンジャービスケットがちょうど焼けたところだったのも幸いした。
「どこでなくしたの?」
「空の上。いえ、正確に言えば海のなかというのが正しいかしら」
トムはジンジャービスケットに伸ばしかけた手を止めた。
だから、私は「食べていいわよ」と促したあと、これまでのいきさつを話すことにした。
「あそこはね、ルークの部屋なの。婚約者の部屋と言った方が、分かりやすいかもね」
「こんやく……?」
「結婚する予定だった人ってことよ」
この日記では、彼を思い出したら悲しみが押し寄せてきてしまうから書かないように注意してたけど……まさか、こういう形で追想することになるとは普通に思わなかった。
「ルキウス・ホークアイ。ルークはね、RAF……イギリス空軍のパイロットだったの」
ルークと知り合ったのは「飛行クラブ」。
軍服に身を包んだハンサムな兵士で、まばゆい金髪の持ち主であった。こんな素敵な人、絶対に彼女がいるはずだと思ったけど、口を開けば飛行機のことばかり。デートのときも「この彫刻の曲線美は翼断面にも通じるものがある」とか「英国にはまともな戦闘機が一台もない。ドイツに後れをとりすぎている。空中飛行の原則をわすれたのか?」とか、そんなことばかり。ごくごく普通の若い女性ならうんざりとしてしまう内容が半分以上を占めていた。
でも、彼が飛行機の話題をするときは決まって「口が勝手に動いている」とき。照れくささと恥ずかしさを誤魔化すために自分の好きな話をしていると知ると、ますます可愛いなって思えた。
前世では考えられなかったラブストーリーの幕切れは、あっけない航空機事故。
「航空母艦へ着艦するときにね、エンジントラブルで海に転落してしまったの」
冷静に考えれば、第二次大戦のイギリス空軍はドイツ空軍にボコボコにされたので、将来的には同じように彼を亡くす結末になっていたかもしれない。だけど、こんなに早くに死に別れることになるなんて――いまでも信じられなかった。
「結婚式の一週間前だったわ。私、茫然としちゃって……そこの床に染みのあとがあるでしょ? 私が電報に驚いて、持っていた花瓶を割ってしまったの」
「カギをもってしんだってことか」
「遺体は回収できたのだけど、損傷が激しくて……」
ちょっと思い出したくなかったので、私はここで口をつぐんだ。一呼吸置くようにお茶を飲み、気持ちを切り替えてから、やっと話を続けた。
「彼はね、『結婚したら見せたいものがあるから、部屋には入らないでくれ』というのが口癖だったの。だから、彼の部屋は見たことがないわ」
外から見ても、3階の部屋は青いビロードのカーテンが閉まっていて、なかの様子をうかがい知ることはできなかった。
「彼、変なところで几帳面でね……弁護士に遺言書を預けていたの。だから、この家を含めて数軒――彼が所有してたものが全部、私のものになった。おかげで、家賃収入もあるし、雨風がしのげる家もある」
ルークの遺言書がなければ、どうなっていただろう?
少なくとも挿絵画家だけの収入源では、トムを引き取る余裕などなかったはずだ。
「……だから、私は再婚しないの。本当はホークアイを名乗ってもいいのだけど、遺言書の一件で彼の親族と揉めに揉めちゃって」
わざと滑稽に笑って見せたが、トムは渋い顔のままだった。
「ということで、あの部屋は『開かずの間』になってるってこと」
「あたらしいカギ、つくればよかったのに」
「なんだか忙しくて忘れてたのよ。あのときは遺産の相続やら仕事探しやらで、寝ている気がしないくらい動き回っていたから」
とりあえず、そう説明した。
確かにその通りなのだが、作ろうと思えば機会はいくらでもあった。それに気づかないふりをして過ごしていたのは……たとえ新しい鍵を作ったとしても、一人で開ける勇気がなかったって話。
幸いなことに、トムは私の説明を深く追及することなく納得してくれた。
「アイリスは、いがいとぬけてるところあるからな」
「それ、どういう意味?」
「なにを買うかわすれてたり、ごみ出しをわすれてたり、ケーキをオーブンにいれたままわすれてたり」
否定できない。
トムがちょっとした物忘れを教えてくれるので、本当に助かっているのであった。
私が「ごめんね、次から気をつけるから」と笑いながらお茶を飲むと、トムはどこか挑戦的な目つきになった。
「あのさ、魔法であけてみようか?」
トムは控えめに問いかけてくる。
もしかしたら――トムはこの言葉を口にしたくて、ずっとずっとここまで話に付き合っていたのかもしれない。
私はカップを置くと、しばらく間をおいてから――ゆっくりと答えた。
「……そうね、お願いしようかしら」
トムは魔法を試したい気持ちで言ったのだと分かっているけど、あの人の部屋がどうなっているのか……私に何を隠していたのか気になる。
一人なら無理だけど、トムの前なら――自分を強く保とうと意識できるかもしれない。
「よし、いこう!」
トムは机をたんっと叩いて立ち上がった。
いつのまにか、ジンジャービスケットはトムの口に消えていたようだ。彼の口元に食べカスがついている。ハンカチを取り出し、拭いてあげようとしたら拒否されてしまった。
残念、この前は拭かせてくれたのに。
トムも男の子だから恥ずかしいのだろう。
さて、結論から言えば、扉は簡単に開いた。
トムが手をかざしてから数秒すると、かちゃりと乾いた音が聞こえる。私はトムと顔を見合わせ、頷きあうと真鍮のドアノブに手をかけた。
2年間、帰らぬ主を待ち続けた部屋。
ベッドは乱れていて、いま誰かが起きたばかりのような雰囲気を保っている。そういえば最後に顔を合わせたときは「やばい、遅刻する」と寝ぐせが目立つ髪のままで慌てふためいて階段を下りて来たんだっけ……と、記憶がよみがえってきた。
壁にかかった絵や家具はうっすらと埃で覆われ、衣装ダンスと本棚の間には蜘蛛の巣が張っていた。部屋はほのかに薄暗い。私がカーテンを開き、2年ぶりに窓を開けると、新しい空気が待ってましたとばかりに吹き込んできた。
「このヒト……ほんとうに、ひこうきが好きだったんだ」
トムがそんなことを言っていた。
振り返ると、トムがポスターについた埃を払っていた。やや色褪せた複葉機のポスターだった。そのとなりには写真が貼りつけられている。飛行クラブ時代、みんなで協力して完成させたグライダーを背景に撮ったものであった。
「……ミセス・コールがいる」
トムは淡々と呟いた。
私の隣で、結婚前のオリヴィアが微笑んでいた。いつも固く結んでいる口元をほころばせ、目じりは幸せそうに緩んでいる。彼女の隣にはのちに結婚することになったコール青年がたたずんでいた。
「こんなかんじでわらうんだ」
「笑ったところを見たことがなかったの?」
「いつもおこってた」
「まあ、そういう人よね」
普段はきりきりてきぱき動く女性で、私もほとんど笑っているところを見たことがない。そう説明しようとして、ふと――使い古されたテーブルの上に小箱が置かれていることに気づいた。
「これって……」
小箱の傍には彫刻刀が転がり、木屑がテーブルの周りに散乱している。
「……馬鹿な人」
小箱に刻まれたのは、アイリス――アヤメの花。
箱を開けると、シンプルな結婚指輪がおさめられていた。
「私、凝らなくていいってあれだけ言ったのに」
あまり派手なことが好きじゃなかったので、シンプルな式にしようと相談していた。これから暮らしていくうえでお金がいくらあっても足りないのだから、指輪は高いものでなくていいと。彼は大きなダイヤモンドがついたものを買おうとしていたけど、私が「気持ちが大事よ」と説得して、裏側に記念日と互いのイニシャルの刻まれるシンプルな指輪に決めたのであった。
「アイリス?」
トムの声で、記憶の海に沈みかけていた意識が浮上する。
「アイリス、これにはなにがはいってるの?」
トムが指していたのは、本棚にたてかけられるように置かれたヴァイオリンケースであった。
「ヴァイオリンという楽器ね。彼、得意だったのよ」
なんでも、子どもの頃に習わされていたとか。
本当、私にはもったいないくらいなんでもできる人だった。まあ――得意なことはいろいろあっても、結局はすべて飛行機がかっさらってしまうわけだけど。
「バイオリン!」
「ヴァイオリンね。知っているの?」
「孤児院でもっているやつがいた!」
トムが弾む声で説明してくれた。
「あいつ、いつもじまんしてた。『ぼくはバイオリンがひける音楽家なんだ』って。ヘタなのにさ」
「そうなのね……」
私がケースから取り出せば、トムはちょっと興味深そうに見ていた。
「弾いてみようか?」
「アイリス、ひけるの!?」
「ちょっとだけなら」
前世でアニメの名曲を弾きたくて、大人になってからヴァイオリンを買って練習したものだ。
もっとも、弾けるようになったのは有名なサビだけで、そこから先の記憶は途絶えている。
私はルークのヴァイオリンを手にすると、軽く音を鳴らしてみた。長年使っていなかったけど、ドレミのずれは聞きづらくない程度。チューニングしなくてすんでよかった……あまり、ペグとか触りたくない。前世ではアプリを使ってチューニングしてたけど、とっても難しくて……本当、あっというまにチューニングできる人は尊敬する。
「……いくよ」
トムの視線を感じながら、私はヴァイオリンを奏でた。
私が唯一まともに弾ける曲はサビだけで――しかも、この時代には存在していない曲だけど、必死に指と弓を動かした。体勢がきつかったし、そこに気を取られると弓の角度がおろそかになりそうで、とても難しかった。
「あんまりうまくないね」
トムは拍手をしてくれたが、正直な感想がぐっと胸に刺さる。
「だけど、たのしそうだった」
「好きな曲だからね」
そう答えてから、トムの目が輝いていることに気づいた。
「もしかして、やってみたい?」
「え、いや、そういうわけじゃ……」
トムはそう言いながらも、ヴァイオリンに目が釘づけになっていた。
「習ってみる?」
「おしえてくれるの!?」
「私は初心者中の初心者だから、教えられないけど……適任の人は知っているわ」
すると、トムは嬉しそうに目を見開いて頷いていた。
トムは本気でヴァイオリンを弾いてみたいらしい。魔法大好き男の子が音楽に興味を持つなんて……私はあまりにも前のめりだったので不思議に思ってしまった。
聞いてみればよかった。明日、聞いてみよう。