●1944年 3月〇日
仕事の都合で、ロンドンの家に戻った。
フェンリールは自宅でお留守番。満月まで時間はあるし、ロンドンにいる間はナティが家に泊まり込みで護衛してくれるから安心――……うん、実はちょっとだけ窮屈で申し訳ないけど、私の命が狙われているのだから仕方ない。
そんなことを考えていたら、今日の夕方――訪問者があった。
ルクレティア・ブラックである。
一応、何日か前にブラック家のクリーチャーが「ルクレティアお嬢様がお会いしたいとおっしゃられております」っていう先触れはあったから、驚きはしたけど準備はしていた。
だから、私よりもナティの方が驚いていた。
「ブラック家の長女? どうして、貴方に会いに来るの!?」
ってね。
「トムが婚約者候補らしいの。それも婚約者リストのトップなんだって」
「そんな話、聞いたことがない! 貴方、騙されてるのかも……同席しても良い?」
ナティは私のことを心配してくれた。私も逆の立場だったら案ずると思う。ブラック家といえば、ごりごりの純血主義の筆頭だ。そこの本家の長女ともあろう者が、マグルに会いに来るなど前代未聞過ぎる。
念のため、ルクレティア側に許可を求めたところ、快く了承してもらえたので、ナティと一緒に出迎えることにした。
「御機嫌よう、トムのお義母様。そして、ご友人の方」
ルクレティアは屋敷しもべ妖精を連れ立ち、戸口に立っていた。
ホグワーツから直接来たらしく、蛇の紋章がついたローブを纏っている。そう、ただのローブ。しかし、西日が彼女の身体に差し掛かり、さながらスポットライトのようで、ありふれたホグワーツのローブが麗しい緑で縁取られた黒いドレスのように見えてしまう。
「ようこそ、ルクレティアさん。どうぞ中へ」
彼女をリビングへ通し、ナティを紹介してからお茶を淹れたのだけど……あまりに急だったものだから、ビスケットを焼くのが精いっぱい。秘蔵のお茶の葉を出したけど、本物の貴族から見たら貧相極まりない茶会だったに違いない。ちょっと恥ずかしいな、と思っていると、彼女はくすっと微笑んだ。
「お義母様、お気になさらず。家庭の味が楽しめて嬉しいですわ。トムもこちらのビスケットを?」
「ええ。ヴァイオリンの練習の合間に摘まんでましたわ」
私がふふふと笑いながら言ったら、ナティが足を軽く踏んできた。
「それで、ブラック家のお嬢様が訪ねてきた理由はなにかしら?」
ナティが厳しい表情のまま、本題に切込みにかかる。
「わざわざ来たのだもの。何か理由があったのよね?」
「……そこまで警戒しなくても、よろしくってよ」
ルクレティアは涼やかな顔でお茶を一口飲むと、音を立てずにティーカップを置いた。
「私はトムのことを知りたいだけ。将来の伴侶となる方ですもの」
「本当にそれだけ?」
「あらあら、さすがは元闇祓いさん。疑り深いこと」
ルクレティアの目が細まり、小さな唇は綺麗な弧を描いた。
「そうね……しいて例を挙げるとしたら、忠告ですわ」
「忠告ですか?」
「近々、従弟のアルファードが貴方を訪ねてくると思います。ですが、その申し出は断ってくださいな」
「アルファード君が?」
私は瞬きをした。
アルファードといえば、トムの親友だ。調子は軽いが気の良い少年のイメージが強い。いつだったか「ブラック家にもかかわらず、マグルに対して偏見がない」って、トムが手紙に書いていた気もする。
「どのような申し出でしょう?」
「私の口からは言えませんわ。杞憂に終わるかもしれませんもの」
ルクレティアはそう言うと、何でもないかのようにティーカップに白い指をかけた。
「あとは、ヴァイオリンですわ」
「ヴァイオリンですか?」
「以前、おしゃべりしたとき、トムがヴァイオリンを始めた理由の一つに『家にあったヴァイオリンに興味を示した』からだとおっしゃられてましたよね?」
ルクレティアに言われ、そういえばそんなことも話したっけと思い出す。あのときは、なんだか口が異常に軽くて、トムの可愛らしい思い出を楽しく話してしまったのだ。
「……それが、なにか?」
「家にあったヴァイオリンということは、お義母様も嗜まれていたのかと思い……実は持ってきたのです」
ルクレティアはそう言うと、クリーチャーに手を伸ばした。彼女の傍で控えていた屋敷しもべ妖精の手のなかには、いつのまにかヴァイオリンが置かれている。
「あ……えっと、もしかして、弾けと?」
「トムのお義母様の音色を聴いてみたいと思ったのです」
「私、下手ですよ? もう10年以上弾いてません。一曲だけなんとか弾けるようになって、それで終わりにしてしまったので……」
「それでも聴きたいのです」
きらきらと青い目を輝かせて言われては、私は喉を詰まらせることしかできない。
ナティがなんとか打開してくれることを願い、彼女に視線を向けてみる。だが、彼女も「ちょっと聴いてみたいかも」と好奇心をくすぐられたような顔をしている。これでは援軍は無理そうだ。
「あの……ペグとかチューニングも難しいので……」
「ご安心を。すべて万全な状態にしてありますわ」
最後の逃げ道とばかりに言ってみたが、あっけなく退路を塞がれてしまう。
仕方ないので弾いた。
唯一まともに弾ける曲――それもサビだけ。必死に記憶をたぐり寄せ、指と弓を動かした。あまり指に気を取られると、弓の角度が疎かになるし、そっちに集中すると体勢が崩れる。サビだけだから、たった30秒に満たない時間だったけど、全身に汗をかいてしまった。背中につうっと汗が伝うことを覚えながら、「やっぱり、トムは凄いな」と改めて痛感する。
「ありがとうございます!」
そんな演奏でも、ルクレティアは拍手を送ってくれた。
ナティも苦笑いしながら手を叩いている。
「アイリス、いい曲だね! マグルの曲?」
「え、ええ、まあ」
弓を持つ手のひらに、さらに汗が滲んだ。
「アイリス、曲の名前を教えて」
「……カントリーロード。ずっと昔、どこかで耳にしたの」
「歌詞はあるの?」
「うーん……どうだっけ?」
日本語の歌詞なら、すらすらと歌うことはできる。というか、一人暮らしの頃はよく歌っていたし……だけど、それを脳内で英語に直して曲に乗せて歌うとなると、どうしても違和感があった。
トムを養子に迎える前――一人暮らしだった頃は、カントリーロードに限らず、よく作業しながら前世の歌を口ずさんでいた。しかし、それを英語に訳してから歌おうとすると、どうもリズムがずれてしまう。カントリーロードも同じようにしたのだけど、どうしてもしっくりこない。元は英語の歌だったはずなのに、なんだか不思議な話だ。
「では、思い出したら教えてくださいな」
ルクレティアは静かに微笑んだ。
そこから、ちょっとだけおしゃべりをして――ルクレティアは帰って行った。おしゃべりといっても、そんな変なことは話していない。戦争はもうじき終わるといいですねーって世間話を少しした程度である。
ナティは気を張っていたらしく、彼女が帰宅して早々、とても疲れたようにソファーに沈んでいた。
「なにか企んでそうだったけど、真意まではつかめなかった。今度、少し探ってみようかな……」
彼女はそんなことをぶつぶつと呟いている。
「別に悪い人には見えないけど」
「アイリスって、ここまでの人生……悪い人によく騙されずに生きてきたね」
「ナティもトムみたいなことを言うのね。お褒めの言葉として受け取っておくけど」
そう言って笑って、部屋に戻った。
……自室に戻って気付いたけど、最近はカントリーロードを口ずさんでいない。一人暮らしの頃は、自分に言い聞かせるように歌っていた。そのことを理解して、くすくすと笑ってしまう。
前世の故郷は恋しいけど、いまは帰りたいと思っていない。
私の帰る場所は、フェンリールが留守番をしている家であり、トムとラシェルが戻ってくる我が家だから。
●1944年 3月◇日 <極めて乱雑な字が連なっている>
どうしよう。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!
気持ちを落ち着かせるため、自宅へ帰る列車のなかで筆を走らせているのだけど、やっぱりだめ! こんなことに直面して、混乱しない人間がいるはずがない!
家を出る直前、ポストに手紙が投函されていた。
大抵は、ちらしの類。あとは、私が引っ越したことを知らない人からの手紙だ。今朝もちらしばかりで、ナティに燃やしてもらおうと口を開きかけたとき、ひとつだけハガキが混じっていることが分かった。消印がいくつかあるハガキだったけど、問題はそんなことじゃない。
ドイツの総統が描かれた切手にベルリンとスコットランドを経由した消印で、私の心臓は早鐘を打ち始め、鉛筆で記された住所に世界が止まった。
「おーい、アイリス。そろそろ出発するよ。手紙の整理は終わった?」
ナティの明るい声が遠く聞こえる。
「アイリス、どうしたの?」
とんっと肩を叩かれ、ようやくひゅうっと息をする。ここで初めて、自分の呼吸が止まっていたことに気づいた。でも、戻ったのは呼吸だけで、声を出すことができない。目も一枚の官製ハガキに奪われてしまっている。
住所の一部は読めない。ドイツ語は少し話せるし多少は読めるけど、そこまで完璧というわけではないのだ。それでも、分かってしまうことはある。
「
住所に書かれた文字が口から零れ、血の気が完全に失せる。
しかもハガキの差出人は――ジョナサン・ヴェイユ。
宛先は、トム・マールヴォロ・リドル。
これ、トムに見せちゃ絶対駄目!
なにも知らぬふりをして、暖炉にくべるのが一番なんだろうけど……そんなこと、できるはずがない。だけど、これを見せた暁には、トムがすべてを投げ出して、ポーランドへ向かうことは火を見るよりも明らかだ。そんな危ないこと、絶対にさせられない! なにか罠があるに決まってる! ああ、でも、この筆跡はどう見ても、ジョナサン君本人で間違いないし……いや、本人からの手紙だとしても、あんな場所へ我が子を行かせるわけにはいかないのだ。万が一にも、縞模様のパジャマの少年みたいなことになったら……!!
どうしたらいい?
私、どうしたらいいの!?
次回から少し重めな話となると思います。
(官製ハガキにするかレターシートにするか悩みましたが、総合的に考えて、最終的に官製ハガキに決めました)