※残酷描写があります。
ジェイコブ・コワルスキーは、多くの旅をしてきた。
うんと幼い頃にポーランドからアメリカへ渡り、第一次世界大戦に従軍するためヨーロッパに戻り、終戦とともに帰国した。これだけでも、それなりに壮絶な経験をしてきたと自覚しているが、どうしても瞼を閉じたときに思い出すのは、そのあとの旅だった。
(魔法使いの旅。そうだ……あれは、なかなかエキサイティングだった)
ジェイコブは瞼を閉じたまま、小さく頷いた。
銀行で融資を断られた次の瞬間、ニューヨークを揺るがす魔法騒動に巻き込まれ、いろいろとあって愛しのクイニーとロンドンへ渡り、移動キーでパリへ。他にも、ドイツへ渡ったり、イギリスの魔法学校を垣間見たり、ネパールの山奥にだって赴いた。怖い思いもした。死を予感する強烈な痛みを味わった。だが、それを覆すくらい興奮や驚きに友情――そして、かけがえのない
もちろん、移動キーを使っての旅は洗濯機に巻き込まれるような気持ち悪さがあったが……いまになって思えば、その吐き気さえ懐かしさを覚える。
「――おじさん、ジェイコブおじさん」
しかし、郷愁に浸ってる時間はなかった。
足元から聴こえるか細い少女の声に、ジェイコブは重たい目を開けた。瞬間、現実が否応なしに目に飛び込んでくる。いたるところに人の頭や背中が見えた。家畜用の貨車にはあまりにも大勢の人が押し込まれ過ぎて、これ以上は一人も入らないほど足の踏み場がない。これでは横になるどころか、座ることすらままならなかった。冬だというのに密集しすぎたせいであえぐほど暑く、窓も小さくて細長いせいで空気も薄い。せめて、喉を癒せたらよいのだが、貨車に押し込まれて一日以上経つというのに、水は一滴も与えられなかった。
「ジェイコブおじさん……」
「ん、ああ、どうした?」
ジェイコブは乾きで喉と舌が張りつくのを感じながら、自分の足元に目を落とした。5歳の女の子が自身のズボンの袖を握りながら、不安そうに見上げてくる。
「のどがからからなの。魔法でお水をだせない?」
「あー、前にも話しただろう? 魔法は人前で使ってはいけないんだ」
ジェイコブはウィンクをしながら、胸ポケットをぽんぽんっと叩いた。胸ポケットには、スネークウッドの杖が大事に仕舞われている。
ジェイコブは、この子の前で「魔法使いのおじさん」を演じていた。
体感にして数十年……しかし、実際にはたった数年前、ドイツがポーランドを占領した。
ニューヨークでこのニュースを知ったとき、ジェイコブは即座にポーランドへ渡る計画を立てた。まだ、このときポーランドには祖母が住んでいたのだ。パン作りの楽しさを教えた優しい祖母を救うため、単身ポーランドに渡り、祖母を救い出すことに成功はした――が、自分は逆に囚われてしまった。ゲットーと呼ばれる強制収容地区に住まわされ、そこで出会った身寄りのない少女に杖のせいで魔法使いだと勘違いされ、2人暮らしをしながら、なんとかその日を生き延び続けていた。
手品を魔法と偽り、少女に希望とわずかなパンを分け与えながら。
しかし、その悪運もここまでのようだ。
一昨日の晩、強襲に遭い、着の身着のまま家畜用の貨車に詰め込まれて現在に至る。
「水はないが、新鮮な空気ならあげられる」
ジェイコブは微笑みながらそう言うと、少女の軽い身体を持ち上げた。細長い窓に少女の顔を近づけさせる。窓から逃がしてやりたいが、鉄条網がついていた。
「何か見えるかい?」
「なにも。夜だもの」
「電気の灯りが見えないってことは、野原か畑が広がってるってことだ。ほら、思いっきり息を吸ってごらん。牧草の柔らかい匂いを感じるだろ?」
「……牧草かどうかはわからないけど、ここよりずっときれいな空気よ」
少女の言葉にジェイコブは頷いた。
少女を降ろしたあとも、汽車は音を立てながら進んだ。どこへ向かっているにしろ、水が欲しい。押し合いへし合いでまともに休めることもなく、ポケットにはパンのかけらもない。自分が持ってるのは、魔法使いの杖のみだった。それも、ノーマジの己には純粋な女の子を騙す程度にしか使えない。
それから、どのくらい経ったことだろう?
汽車の緩慢な速度がさらに遅くなり、軋む音を立てながら止まった。ドアを乱暴に叩く音と同時に開く。
「全員、外へ!」
ジェイコブは少女と手を繋いで出た瞬間、胸が悪くなるような強烈な異臭を感じた。貨車のなかも鼻が曲がりそうな汚物の臭いが充満していたが、遥かに不快な悪臭だった。
「おじさん。空気をよくする魔法はない?」
少女は涙目になってすがってくる。さすがに少女が可哀そうに思い、ジェイコブは杖を取り出した。少女の額に杖を軽く置き、短く呪文を唱える。
「あー、待ってろよ。たしか……
「……何も起きないよ?」
「それでも、少しマシになったはずだ――待った、深呼吸は駄目だ。魔法が解けちまうからな」
ジェイコブは少女の気を紛らわせようとした。もう一つくらい魔法を唱える真似をしても良いかもしれない。そんなことを考えていた矢先だった。
「持ち物は全部プラットホームに置いていけ! その枝もだ!!」
軍人が鞭を振るいながら叫んだ。
「よく見てください。ただの枝ですよ」
しかし、軍人は杖を奪い取ると放り投げてしまった。スネークウッドの杖は誰かの置き去りにした荷物の陰に落ち、ダンブルドアからの贈り物は見えなくなってしまった。いまさら取りに行けるはずもなく、ジェイコブは肩を落とす。
「男は右! 女は左へ!」
だが、落ち込んでいる暇はなかった。
嵐が起きたように強い力が巻き起こり、男女の選別が始まった。ジェイコブは少女の手を離さないように、少女もジェイコブから離れないように強く握りあっていたが、焼け石に水だった。軍人はここに集った他の家族たちのように強引に引き離し、別の列に無理やり並ばせた。
「あとで必ず探しに行くからな!」
ジェイコブは精いっぱいの声で叫んだが、その声も群衆のどよめきと軍人の怒声、彼らが連れているシェパードの吠え声にかき消されてしまった。少女は恐怖と不安に目を染めたまま、他の女性たちが並ぶ列へと引きずられていき、そのまま見えなくなった。
そこから先も怒涛のようにことが進んだ。
一列に並ばされた男たちは、右と左に分けられた。右に行くように命じられた者もいれば、左を指示される者もおり、どちらかといえば右の方が短い列だった。
ジェイコブは右の列に進めと命じられた。
そのままシャワーを浴び、髪や身体中の毛を剃られ、刺青を彫られ、縞模様の服と木靴を与えられた。悲しかったのは、服を着るときだ。数年前までは腹が膨れていたせいで服のサイズを選んだが、いまはどんなズボンを履いても腰からずり落ちてしまった。
寝床も酷く、ぼろぼろのバラックにはみっしりと三段ベッドが詰まっている。それも1人1段なんて贅沢なことはできず、1つの段を3人から4人で共有しなければならなかった。棺桶に入ったミイラさながら、まっすぐ横になるのは精神的にも休まらず、ますますプラットホームで別れた少女のことが気になってしまった。
(……今頃、あの子も同じ思いをしているのかもしれない)
少しでも時間を見つけて、少女の様子を確認しに行こう。そのためには、女性の収容舎がどこにあるのか探す必要がある。
ジェイコブはバラックの先人に聞くことにした。
「5歳の女の子と一緒にここに来たんだが、途中ではぐれてね……女や子どもが収容されてる場所はここから近いかい?」
すると、先人は言った。
「煙が見えたろ? 四六時中酷い臭いを出してる煙だよ。その子が5歳なら、あそこにいったはずだ」
ジェイコブは深堀りしなかった。
悲しいくらい十分すぎる説明で、その先の言葉を聞きたくなかった。涙など枯れたと思っていたのに、頬を冷たいものが伝った。少なくとも、独りぼっちだった少女はこれ以上の辛さを経験せずに楽になれた。そのように思い込もうとした。それと同時に、こんな現実も思ってしまうのだ。
5歳の少女も殺せる冷徹な連中が、他の者たちを殺すことを躊躇うだろうか?
(クイニー……マイハニー……!)
重たい瞼の裏で、アメリカにいるであろう愛しの妻を描いた。
クイニーはジェイコブの渡欧を何度も止めた。「貴方がどうしても行くなら、私も一緒に行くわ」とさえ言ってくれた。だけど、彼女は赤子を産んだばかりだった。長旅をするには母子ともに危険すぎる。ジェイコブは彼女の制止を振り切り、祖母の救出に向かったのだ。
そのことを後悔した日はない。
だけど、いつかは妻と子のいるアメリカに帰るつもりだった。そのつもりで、ここまでの困難を乗り切ってきた。だが、ここでは――いったい、その希望が叶う日は来るのだろうか?
(ああ、でもよかった。クイニーがこんな地獄に巻き込まれなくて)
少なくとも、アメリカにいれば安全だ。
その夜、ジェイコブは少女の安らかな眠りと愛しの家族への祈りを胸に抱きながら、浅い眠りに落ちていった。
ここから、ジェイコブにとっての地獄が始まる。
暗く悲しい一日が繰り返された。看守の軍人は拷問官に等しく、労役なんて言葉では生温い作業を強いられた。朝は列になって行進しながら作業場へ赴き、夜も列を作って小屋に戻る。ご丁寧に音楽隊がマーチを奏でているのは、皮肉としか思えなかった。
そんなある夜のことだ。
横に長い小屋の入り口の扉が開き、こそこそと誰かが入ってきた。ガリガリに痩せた青年だった。なにかを手にしながら、ベッドで横になった囚人たちに話しかけている。
「これを知っていますか?」
かたことのポーランド語やドイツ語、ときに英語を使いながら、手にしたものを見せている。囚人たちは眠るのに忙しく、青年の相手をあまりしていないようだった。ジェイコブも遠目から、青年を鬱陶しそうに見つめ、はっとした。青年が手にしていたのは、生き別れになったスネークウッドの杖だったのだ!
「それ、俺の杖だ!」
ジェイコブは部屋の奥から駆け出し、青年に走り寄った。
「俺の杖だ! スネークウッドの杖だ!」
「……どこの店で買いましたか?」
青年はちょっと驚いたように瞬きをしながらも、どこまでも真剣な声で聴き返してきた。
「買ったんじゃない。貰ったんだ。アルバス・ダンブルドアから、友だちのよしみで」
「ダンブルドア!? その人はどんな人か言えますか?」
青年はジェイコブをバラックの隅に案内すると、流暢な英語で囁きかけてきた。
「いい魔法使いだよ。ホグワーツって学校の先生をやっていて、闇の魔法使いと戦ってる。キリンって小鹿みたいな魔法生物がいるんだが、そいつが礼をするくらい才能がある人なんだ。それから――……」
「いや、もう大丈夫。貴方の言っていることは本当だって分かったから」
青年はそう言うと、杖を返してきた。
ジェイコブは杖を握りしめる。少し捻じ曲がった枝が手に馴染み、ぼうっと心の内側から温まるような気がした。まるで、離れ離れだった片腕が戻ってきたような安堵感に全身が包まれ、思わず鼻をすすった。
「……貴方は魔法使いですよね? 杖があれば、瞬間移動の魔法が使えるんですよね!?」
青年は声をさらに潜めて、どこか期待を込めるように言った。
これこそ、青年が夜に訪ねてきた目的だったらしい。
ジェイコブはバツが悪くなった。
「あー、すまない。俺には無理だ――……いや、この杖は本物なんだ。だけど、ここら一帯は魔法の力を制限する魔法がかかっているみたいでね。杖があっても、この制限が解かれない限りはなんとも……」
それでも、思わず嘘をついてしまったのは――ジェイコブが謝罪した瞬間に青年の目が潤んだからだった。いまにも泣き出しそうなその目が、自分の救えなかった少女の目と重なったのだ。
それに、ジェイコブは青年の協力が欲しかった。ここには数多の収容者がおり、誰も彼も骨と皮だけの状態だったが、そのなかでも青年は比較的マシな体格をしていた。指先も比較的綺麗で、あの苦難の労役をしているとは到底思えない。ならば、この青年についていけば、拷問よりはマシは仕事に就けるのではないかと考えた。
「だが、時期があえば、もしかしたら……できるかもしれない。もっとも、それまで生き残ることができればの話だけど」
嘘をつくのは苦手で、心苦しかった。それでも、自分のついた嘘のおかげで、青年の目から涙は消えた。絶望で縁取られかけていた眼には、希望のような光が芽生える。それを見て、ジェイコブの罪悪感は少しだけ薄れた。
「本当にすまない。期待させたのに悪かった、魔法が使えなくて」
「……なにか、貴方の得意とすることはありますか?」
「パンを焼くのは得意だ」
「それは難しいや……」
青年は腕を組んで考え込む。
「英語がとっても上手ですけど、他に使える言語は?」
「ポーランド語。ドイツ語はちょっとだけ」
「ドイツ語がぺらぺらだったら通訳の仕事を紹介できたんだけどな……楽器は弾けますか?」
「ギターなら少し」
趣味の程度だけど、と伝える前に、青年の顔が華やいだ。
「つまり、楽譜は読めるってことですよね!? 太鼓はいける? リズム感は?」
「あー、できなくはないと思う」
「決まりですね! 明日、楽長に相談してみます!」
青年はそう言うと、ジェイコブの刺青を確認した。そこに刻まれた数字を何度も口のなかで反芻し、覚えるように噛み締める。
「あんたは、ここで楽器を弾いてるのか? そもそも、俺の杖をどうやって手に入れた?」
「僕の仕事は朝と夜の行進曲を吹くことですからね。その間は、カナダの仕事を――……えっと、貨車の掃除と荷物の簡単な選別を手伝ってるんです。そのときに杖を拾いまして、まだ持ち主が生きているなら、ここにいると考えたんです」
青年はジェイコブにしか聞こえないくらい小さな小さな声で、しかも早口で言い切った。
「運が良ければ、貴方は音楽隊に選ばれると思います。もしかしたら、ここから生きて出ることができるかもしれない――魔法を使わなくても」
青年はそれだけ告げると、立ち去ろうとした。夜、他の小屋にいるのは禁止された行為らしい。
「おい、待て。あんた、名前は?」
ジェイコブはその背中に慌てて声をかける。
「俺はジェイコブ。ジェイコブ・コワルスキーだ」
青年は背筋を伸ばし、どこか胸を張って名を答える。
「僕はジョナサン。ジョナサン・ヴェイユ、クラリネット吹きです」
ジョナサンは無邪気そうな笑みを浮かべた。
その姿は青年というよりも、必死に背伸びをした少年のようだった。
・ジェイコブがどうなったのかは、完全にオリジナルです。ファンタビシリーズの続編が出ていないので、このように推測させていただきました。
ファンタビ1の時点で、ジェイコブにはポーランドに在住する祖父母の存在が出ていました。また原作者様が「ジェイコブはハッフルパフ生ではなく、グリフィンドール生だ」と語ったエピソードもありました。その他諸々から推察し、「グリフィンドール生なら窮地に陥った肉親を助けに向かうだろう」と考え、このような展開にしました。
ジェイコブのファンの方々、本当に申し訳ありません。
私個人としても、ジェイコブにはNYでクイニーと幸せにパン屋を続けて欲しいです。
今回が今年最後の更新となります。
こんな暗い話が最後になってしまい、申し訳ありません。今後も週一ペースで投稿を続けるつもりですので、来年には完結できたらいいなと考えております。
それでは、皆さま良いお年をお迎えください。
来年も本作をよろしくお願い致します。