※残酷描写があります。
※描写を追加しました(2026年1月12日)
それから二日目の朝のことだった。
ジェイコブは「九時に十五棟まで来い」との指令を受けた。
「九時か……」
ジェイコブは空を見上げた。
どんよりとした曇り空は、まるで自分の心を表しているようだと感じる。
ジョナサンと名乗った青年は、自分のために便宜を図ってくれたことにはありがたいが、ちょっとしたプレッシャーが押し寄せてくる。彼には「できる」と言ってしまったが、音楽系の学校に通ったこともなければ、アマチュアの楽団に参加したこともない。経歴を聞かれたら、その時点で不採用になってしまう。
どうするべきか考えたが、まるで良い案が思いつかない。
そもそも、自分にドラムが務まるのだろうか? とさえ思えてくる。
悩みながらも、十五棟を目指すことにする。九時と指定されたが時計なんてない。遅れるよりも、早めに着いた方が印象は良いだろう。そう考えて、収容所内を歩いていると、ときどき縞模様の服の男に絡まれた。
「おい、お前! こんなところで何してる!?」
男はいまにも殴りかかりそうな勢いで食いついてきた。
ジェイコブは努めて平静を保ちながら、正直に答えた。
「十五棟へ向かうように命令されてます。楽隊の試験を受けに……」
すると、どういうことだろう!
男は態度を一変させた。急に破顔したかと思えば、ジェイコブの肩を親し気に叩いたのである。
「ほう、音楽部隊だったか! そうか、そうか!」
男はそれだけ言うと、大股で立ち去った。
ジェイコブはぽかんとその背中を見送ることしかできなかった。このようなことが何度か繰り返された。その傍ら、骨と皮ばかりに痩せた縞服の男たちが担架で人を運んでいる。運ばれていた遺体の顔は紫に腫れ上がっている。その上、不自然に折れ曲がった腕が担架から落ち、ゆらゆらと揺れていた。こんな地獄でも、音楽だけは特権を得ているのだ。
さて、肝心の入隊試験だが、楽長は終始不機嫌であった。
リズムの書かれた楽譜を読み、これ以上ないくらい集中してステッキを振るったのだが、お気に召さなかったらしい。
「ジョナサンの推薦だが、まるで素人じゃないか」
楽長はそう言ったが、楽譜の束と服を押し付けてきた。
「まずは見習いからだ。徹底的に練習しろ」
楽長はそれだけ言うと、立ち去ってしまった。
少々冷ややか過ぎると感じながらも、ジェイコブは与えられた清潔な下着やきちんとした縞模様の服、そしてなによりサイズの合った靴を履くと、少しばかり尊厳を取り戻したような気がした。
しかし、いざステッキを持ち、ドラムを叩き始めると、部屋に残っていた楽隊員たちから「気が散るから外に出ていけ」と言われてしまった。
(見習いだから仕方ないか)
ジェイコブは小太鼓を抱えて外に出ると、小屋のすぐ脇でリズム打ちの練習を重ねた。
次の日も、その次の日も同じ場所で朝から夜までリズムを打ち続ける。そして、三日目の朝、ジェイコブに声をかける者がいた。
「ジェイコブさん! 良かった、無事に見習いになれて!」
顔を上げると、そこには青年がたたずんでいた。
「ジョナサンだったか? おかげさまで、石炭を掘らずにすんでるよ」
「それは良かったです」
「君も音楽隊なんだろう? 今日まで見なかった気がするけど……」
「ちゃんとした合同練習は週に3回ですから。それ以外は労役ですよ。貴方も正式に楽隊の仲間入りをしたら、そうなりますよ」
ジョナサンはあっさりとした態度で言った。
しかし、こちらが顔を曇らせたのを見たのだろう。彼はちょっとばかり不貞腐れたように口を尖らせた。
「でも、貴方は良いですよ。僕がここに来たばかりの頃、見習いでもなんでもちゃんとした練習はさせてもらえなかったんです。朝と夜の行進曲が終わったら、採石場に行かされて――……つまり、いまの方が環境がずっと良いってことです」
「君はいつからここにいるんだ?」
ジェイコブが訪ねると、青年は黙って腕を差し出してきた。そこに刻まれていた番号は、ジェイコブの番号より二桁も少ない数だった。
「年月を数えるのは忘れました。移送されたのは、1942年7月です」
「1年以上もいるのか!」
「だから、それなりに古参ですね。大体の人は、早ければ一か月で煙になって外に出ますから。いや、半分以上はここに着いたときに空へ昇るの方が正しいかも」
ジョナサンはのんびりとした声色で言った。さながら、今日の天気を語るくらいの気軽さでとんでもないことを口にする。
ジェイコブはなんて答えていいのか分からず、一瞬言葉に詰まった。
「あー、デミガイズになれば外に出やすいんだけどな」
「それなに?」
「魔法生物だよ」
ジェイコブはステッキを握りながら言った。
「白い毛の生えた猿とふくろうをあわせたような生き物で、ちょっと先の未来を視ることができるんだ。しかも、透明になれる。こいつを捕まえるのは、かなり大変なんだ」
「へぇー!」
ここで初めて、ジョナサンの目の奥が輝いた。
「そんな生き物がいるなんて、聞いたことない!」
「滅多にいない生き物だからな。だけど、そんなに怖い生き物ってわけでもないんだ。困ってる他の生き物を助けようとするくらい優しい奴なんだよ」
「凄いな……! ジェイコブさん、魔法生物に詳しいんですね!」
青年はとびっきりの飴を舐めているような眩い笑顔を浮かべた。
「僕の親友が魔法使いで、とびっきり魔法生物に詳しいんですけど、その生き物については聞いたことがなかったです。魔法界って奥深いな……」
「いや、俺も詳しいってわけじゃないんだ」
ジェイコブは弁明するように手を挙げた。
「親友が魔法生物学者でね。ニュート・スキャマンダーっていって、本を出してる。彼の受け売りだよ」
「その人、知ってます! 親友が彼の弟子なんです!」
ジョナサンは身を乗り出すようにして言ったが、はたと思い出したように表情を暗くする。
「あ、すみません……おしゃべりをすること、ここでは禁止されてるんです。でも、また後でこっそり話しましょう」
ジョナサンは口早に言うと、部屋に駆け込んでいった。
「…………こういうこともあるんだな」
誰もいなくなった軒下で、囁くように呟いた。
どこまでも青い空を見上げ、何年も会っていない親友の名を続ける。
「なぁ、ニュート。お前が俺の命を繋ぎとめてくれたよ」
それに返す声はない。
十五棟から響く楽器の音色を耳にし、自分のやることを思い出す。肉体労働から解放され、少しでも命を繋ぎとめるためにも、ステッキで太鼓を叩かなければならないのだ。
※
一心不乱で練習を続け、三週間が過ぎた頃だ。
ようやく、ジェイコブは晴れて楽隊の一員となれた。
とはいっても、一番下っ端の新人で、扱いが悪いことには変わりがなかった。まともに話してくれるのは、ジョナサンだけで、彼が「このあたりの行進曲を演奏するから、暗譜しないといけないよ」と言ってくれたおかげで、なんとか乗り切れた日も少なくない。
それでも、仕事はきつかった。
夜が明ける前に起き、楽器を抱えて所定の場所につく。
楽長が最前列で指揮棒を持ち、その後に楽隊が続いていく。ジェイコブの太鼓は最後尾だった。楽長の合図と同時に、ジェイコブは機械的で単調なリズムを刻んだ。最初の数日は間違えないことに必死で気づかなかったが、少し慣れてくると周りを見る余裕が生まれてきた。
自分たちの行進曲に合わせ、収容者たちが歩いている。それぞれの仕事場に向かって、蟻のように行列をなして進んでいった。
夜も同じように行進曲を奏で、今度は収容者たちが戻ってくる。しかし、なにもかも朝とは逆だった。行進する収容者たちは誰しもが酷い顔をしていた。頭を垂れ、肩を落として歩いている。なかには顔が殴られて腫れ上がったり、片足を引きずっている者もいた。
朝も骸骨の集団のように思えたが、夜はゾンビと骸骨の集団である。とてもではないが、直視できるものではない。ジェイコブは堪らなくなり、楽隊員たちの頭に視線を移した。そのなかで、ひときわ背筋を伸ばしている青年の頭が見えた。間違いなく、ジョナサンである。ここからだと顔は見えないが、クラリネットを吹く後ろ姿からは自信がみなぎっているように感じる。
(若いのに偉いな……いつもピンっとしてる)
そんなことを考えながら、太鼓を叩き続ける。
ジョナサン・ヴェイユは、とてもしっかりしている青年だった。
古参で少しばかり融通を利かせられる立ち位置にいるというのに、人を傷つけたり嫌がらせをしたりせず、パンの欠片を奪ったこともない。むしろ、自分のパンを分け与えるような極めて珍しい人だった。そして、どんなに辛いことがあっても、いつだって誰もを安心させるような柔らかな表情を保ち、不幸のどん底にいる人たちを励まし続けていた。
「大丈夫。前よりは良くなっているんです。これから、もっと良くなるはずですよ」
そんな彼が年相応の顔を向けられる唯一の相手が、ジェイコブであった。
夜の消灯までのわずかな時間、ジョナサンはジェイコブに話をせがむ。
「ジェイコブさん! 魔法界のお話してくれますか?」
ジェイコブは彼にせがまれるまま、ニュートとした冒険の話をした。とはいっても、すぐに終わらないように短く区切りながらだ。その上自分がノーマジであることを悟られぬように気を付けながら話すのだが、ジョナサンは気づいていないようだった。
「僕も魔法を使えたらな……でも、どっちにしろ、ここでは魔法が使えないから無理ですね」
いつだって、ジョナサンは最後は少しばかり寂しそうに締めるのだった。
そんなある日のことだ。
もうすぐクリスマスが近い頃、看守が音楽隊にハガキを配った。
「ドイツ帝国に対する誹謗や悲観的な内容は認められない。そのようなことをすれば、ハガキは破棄され、書いた者は厳しく罰せられる」
ジェイコブも看守からハガキを受け取った。ドイツの軍用ハガキを見ながら、悪態をつきたい気分だった。まっさきに浮かんだのは愛するクイニーや子ども達の顔だったが、アメリカに送れるわけがない。ポーランドに残っているであろう遠縁の親族に書くことも考えたが、はたして今もそこにいるのだろうか?
「なぁ、ジョナサン……ジョナサン?」
ジョナサンに話しかけようとしたが、彼は近くにいなかった。看守が彼だけを個人的に呼び、なにか笑いかけている。看守は親し気に彼の肩をポンっと叩き、リラックスした様子で歩き去ったが、ジョナサンはその場から動こうとしなかった。彼もまたじっとハガキに目を落としている。
「ジョナサン、どうした?」
ジェイコブが近づくと、ジョナサンは困ったように笑った。
「えっと、僕は親友に書けって命じられたんです。特別に捕虜扱いの郵便物として、イギリスに届くように手配してやるって」
「随分と気前がいいな」
ジェイコブが目を丸くする。
「で、なんでだ?」
「僕の親友、トム・リドルって言うんですけど、ドイツでも有名な天才ヴァイオリニストでして……トムはBBCのラジオで僕の安否を心配しているみたいなんです。なんというか、僕が優遇されているって伝われば、トムはBBCでそのことを世界に発信するんじゃないかって考えているみたい」
そう言うと、彼は口の端をさらに上げた。
「トムが世間知らずの子どもだって思ってるんです。トムの本当の強さを知らないのに」
「そりゃ、ニュートの弟子だからな。君の話を聴くだけでも、心の芯が強くて、優しそうだ」
「いや、それもあるけど……トムなら絶対に僕を助けに来るからですよ、ハガキに何が書かれていても、イギリスにいたままラジオで発信するだけなんてことはない」
彼は言葉を続けた。
「当たり障りのない話を綴っても、僕がこの場所に落ち着いているって書いても、絶対にここに来る。来るなってメッセージを忍ばせても、きっとね」
「良い友だちだな」
「はい……!」
それでも、ジョナサンは書く内容に悩んでいた。
いかにして、看守たちの目を掻い潜り、この場所の真実を伝えるのか考え込んでいた。
「トムには、この場所の悲惨さを先に伝えておいた方が心づもりできると思ったんです。でも、どう書けばいいんだろう……?」
そんな彼の心が定まったのは、クリスマスの日だった。
1943年の12月25日。
この日、ジョナサンは数人の楽員と病棟へ行った。
病棟といっても、働くことのできない者たちが一時的に寝るためだけの施設であり、ガス室への控えの間といっても過言ではない。ジョナサンたちは上からの命令を受け、そこで慰問のための演奏をすることになったのである。
ところが、この日――彼は珍しくしゅんと背を丸めて帰ってきた。
「ジョナサン、どうした? 悪い病気でも貰ってきたのか?」
ジェイコブはすぐに駆け寄って、ぎょっとした。ジョナサンの顔はいつになく青ざめ、今にも泣き出しそうなくらい歪んでいたのだ。ジェイコブはすぐに背中をさすり、自分の薄っぺらい毛布を彼にかけた。
「なにかあったのか?」
「……クリスマスだから、クリスマスキャロルを吹いたんだ」
ジョナサンはややあってから、消え入りそうな声で呟いた。
「クリスマスキャロルは、いつだって勇気と明るさをくれるって思ってたんだよ。でも、そうじゃなかったんだ……」
彼の声には、徐々に嗚咽が混ざる。肩が震え、ぽたぽたと土がむき出しの床に涙のあとが滲んだ。
「『すぐに止めろ!』って、怒られたんだ……それまで、みんな辛そうにしていたけど、音楽を待ちわびてたのに。でも、キャロルを吹いたとき……っ、……ぼ、僕、クリスマスキャロルが、あんな絶望を与える曲だったなんて、知らなかったんだよ!」
ジョナサンは嗚咽を押し殺しながら、さめざめと泣いた。
「少し考えればわかったのに……僕だって、うちに帰りたい……うちで、クリスマスをお祝いしたい……! でも、僕にも帰る家なんてないんだ……クリスマスも祝えないんだ……!」
ジェイコブはなにも言わず、小さく丸まった背中をさすっていた。多少他よりマシとはいえ、骨が浮きだった硬い背中を優しく労わるようにさする。
「……落ち着いたか?」
十分ほどして肩の揺れが収まった頃合いで、ジェイコブは声をかけた。
ジョナサンはこくりと頷いた。
「君の親友は、帰りを待ってるだろ」
「……そう、ですね」
ジョナサンは枯れた声で呟くと、ポケットから折りたたんだハガキを取り出した。
「僕、なにを書くか、決めました」
その日以来、ジョナサンは一層クラリネットに打ち込むようになった。
ときどき、遠い目で青い空を見つめることも増えた。だが、たいていは空を睨むだけで、諦めたように息を吐く。周りの楽員たちはその理由を知らなかったが、ジェイコブだけはトムが来るのを待っていることを知っていた。
「そのときは、ジェイコブも助けてくれるようにお願いします」
二人っきりのとき、ジョナサンは決まって言うのだった。
ハガキが投函され、来る日も来る日も空を眺め続ける。
一か月、二か月過ぎても、ジョナサンは期待を込めて空を見つめていた。
「トムはきっと来る」
ジョナサンは、最後までそう言っていた。
そう、最後まで。
3月末、ジョナサンはビタミンの欠乏症で意識を失った。
一般的な囚人より多少食事がマシとはいえ、わずかなパンと具のないスープで過ごしてきたせいで、免疫が弱りすぎていたのである。ときどき、自分のパンをジェイコブを含めた周りの人たちに分け与えていたことも身体を弱らせた一因だったかもしれない。
「ジョナサン! こんなところで死ぬんじゃない! 死ぬんじゃないぞ!」
ジェイコブは合間を縫って、とにかく病棟へ通った。
なんとかして、彼を助けようと方々を駆け回り、自分の分のパンを分け与えようとした。だが、彼は息こそしているものの意識が明瞭になることはない。このままでは次の選別のとき、彼が煙になるのは火を見るより明らかだった。
医師たちも、懸命に治療を続けてくれた。
ジェイコブは知らなかったが、収容所の各病院はレジスタンス活動の中核にもなっていたのだ。限りのある薬を工面しながら、懸命に治療に当たってくれていた。ジョナサンが音楽隊のメンバーだと知ると、収容所では金より貴重なリンゴを入手してくれた看護師もいた。
「同じ病状でも、復活した患者もいるから。希望を捨てるな」
なかには、励ましの言葉をかける医師もいた。
それでも、日に日に彼の息が弱っていく。
ジェイコブは、たまらず病棟の外に飛び出した。ずっと隠し持っていたスネークウッドの杖を握りしめ、忌々しいくらい青い空を睨みつける。
「トム! 来い!」
願うように呟くも、白い雲が苦悩も知らずに悠々と流れるばかりだった。今度は杖が折れるくらい強く握りしめ、空に向かって叫ぶ。
「来い!
しかし、杖は応えない。
何も起きない。
ジェイコブはまだ雪が残って湿った地面に崩れ落ちた。
「親友が死んじまうぞ……!」
されど、その祈りが届くことはない。
ジェイコブはノーマジだ。非魔法族は杖で奇跡や魔法を起こすことは不可能なのだ。杖にすがり、祈っても願っても、目の前の現実を変えることはできない。
「いま、僕の名前を呼んだ?」
そう、思われた。
「……へ?」
疑問形ながらも、誰よりも力強い声を受け、ジェイコブは顔を上げた。
「親友が死ぬって、どういうこと?」
そこにいたのは、縞模様でもなく看守の制服でもなく、ごくごく普通の服を着た青年だった。黒髪の綺麗な顔立ちをした青年は、まじまじとこちらを見下ろしている。
「君……トム・リドル?」
ジェイコブは震える声で尋ねた。
「ジョナサンの親友で、ニュートの弟子の?」
「はい。僕、ジョナサンを助けに来ました。でも、これは一体……? 変な臭いがしますが……?」
どこから見ても好青年といった風貌で、あたりに漂う肉の焼ける臭いを怪訝そうに嗅いでいる。
そんな彼を見上げ、ジェイコブは杖を強く握りしめた。
ああ、奇跡が起こせた――と。