●1944年 4月×日
ジョナサンは目を覚まさない。
ニュートのところで預かってもらっているけど、いまだにハッキリとした意識がないのだ。
今日までは私もロンドンの家にいる予定だから、お見舞いに行ってきたけど……つらかった。
彼は地獄から救い出されたが、私の目から見ても生還は絶望的だ。
まず、ビタミンの欠乏症だけでも大変なのに、チフスまでかかっている。まだ腸に穴は開いてないらしいが、いつ起きても仕方ない。彼の身体はボロボロだ。だが、文字通り骨と皮だけの状態でまともな栄養をとらせることは難しい。
そう、魔法が存在しても。
ニュートも辛そうな顔で言っていた。
「ちゃんとした栄養をとらせてあげたいけど、いまは逆効果になるんだ」
彼は長期にわたる栄養失調のせいで、お腹が弱っているのだ。そんな状態の彼に栄養度の高いものを食べさせるなんて言語道断。それを消化するだけで少ない体力を使ってしまうし、逆に腸を傷つけて穴をあけさせてしまう可能性が高い。というか、固形物を摂取すること自体が危険な状態だ。
「だから、まずは脱水を防ぐために水をとらせないと」
ジョナサンは「
未来なら抗生物質とかあるのかもしれない。
でも、いまはない。
「すみません、お任せしてしまって……」
私が頭を下げる。
本当なら、彼はマグルだ。マグルの病院に入れるのが筋なのだ。でも、トムが連れて帰ってきた経緯はマグルの病院に説明できないし、入院させたところで……治療は限られている。ほとんど、ここにいるのと同じだろう。かといって、聖マンゴにも任せられない。彼はマグルだし、トムが国際魔法機密保持法を破ったことを知られてしまう。だから、いまはニュートに頼るしかない。彼の専門は動物で人間ではないが、医療――いや、魔法界流に表現するなら癒者の心得があるのは、ニュート・スキャマンダーしかいないのだ。
「あなたも忙しいのに……」
しかし、ニュートは「そんなことはない」とすぐに言ってくれた。
「彼は僕の友だちを助けてくれた恩人だ。必ず助けるよ」
ニュートは断言する。
そう、トムが助けたのは、ジョナサンだけではない。
ジェイコブは、ファンタスティックビーストシリーズで最も好きなキャラクターだった。だから、会えて嬉しかったのと同じくらい驚いてしまった。いや、驚くなんて言葉では生温い。驚愕という言葉でもまだ足りない。息が止まってしまったことにも気づかぬくらい、ジェイコブの変貌ぶりに驚いてしまった。
彼も痩せていた。
ふくよかだった頃が嘘のように、がりっがりに痩せてしまっていた。髪も剃られ、ひげもなく、丸かった顔も細くなり、「ジェイコブ」と言われなければ分からないほど変わり果てた姿だった。
ただ、そこはさすがジェイコブ。へこんでしまった腹をさすりながら、苦笑いをしていた。
「ダイエットになったと思うようにするよ」
ってね。
……ぜんぜん笑えなかった。
「ぐっすり眠れたのは久しぶりだ。隣に寝てる奴に殴られるんだよ、『寝言で料理の名前を言うな』って。これからは、その心配はなさそうだ。シーツもマットレスもあるなんて、素晴らしいよ」
これも笑えなかった。
収容所での悲惨な体験は口にしないように努力しているようだったが、代わりに出てくる言葉も辛さが滲み出ており、ジェイコブもそのことにすぐ気づいたのだろう。何も言わなくなった。
……クイニーの行方が分からない、ということもあるのかもしれない。
ジェイコブを追いかけて、単身で大陸に渡ったあとの消息がつかめないのだ。
「……もしかしたら、グリンデルバルドのところにいるのかも」
ニュートは呟いていた。
ヌルメンガード城に捕らわれているかもしれない、とのことらしい。マグルと愛し合ったり、マグルの味方をしたりするような魔法使いは、そこに捕らわれているのだそうだ。
「だけど、ジェイコブ。君に必要なのは休養だよ。クイニーを助けに行くのは、そのあとだ」
ニュートも……彼と暮らしているティナや助手のバンティも痛ましそうな表情でジェイコブを見ている。彼との仲が深い分、ジェイコブのクイニーを想う愛情と絆の強さを知っている。「行くな」と止めることはできないと知っているに違いなかった。
人間……誰が止めても、無謀だと分かっていても、危険な地へ飛び込んで行ってしまう。私もトムやフェンリールたちが死に瀕していると知ったら、相手がグリンデルバルドでも関係なく立ち向かうだろう。
……。
そう、トムだ。
気になるのは、トムのことだ。
トムは「学校に戻らなくちゃ。法を破ったことがバレる前に」って、ホグワーツに帰って行った。いつのまにか、アルファードも誘って収容所に乗り込んでいたみたいだけど、彼の表情も暗かった。がくがく震え、顔は真っ青になっていた。当然の反応だろう。
でも、私が気になるのはトムなのだ。
私は……トムが無事に帰ってきたことを褒めて、抱き着いた。背中を撫でて、無事で良かったことを喜んだ。……その程度でショックが柔らぐとは思っていない。彼が負ってしまった深い傷は、私の言葉程度で完治するものではないと知っている。それでも、なんだろう……違和感があった。
心ここにあらず、というか……どこか別の方を見ているような……。
明後日、ダンブルドアと話す機会がある。
そのとき、それとなく聞くことにしよう。
●1944年 4月▼日
ダンブルドアからトムの様子を聞いた。
いつも通りの学生生活を送っているらしい。
本当に……?
私が訝しみ、ダンブルドアに今回の出来事を伝えることにした。
『トムたちが国境を越えたことは知っているよ』
どうやら、ダンブルドアはナティから事情を聴いていたらしい。
そういえば、ナティにトムのことを護ってもらっていた。もっとも、彼女は移動キーでの移動にはついていけなかったらしく、「ごめん、なにもできなかった」と謝られてしまったけど……。
『そのあとに起きたことは、ニュートから聞いた。ジェイコブを助け出してくれてありがとう。まさか、彼があんな目にあっているとは思わなかった』
「ジェイコブが言っていましたよ。貴方から貰った杖が救ってくれた、と」
『それは良かった』
ダンブルドアは頬を緩めたが、すぐに真剣な顔になった。
『君がトムに違和感を覚えた。それは間違いないね?』
「はい……たぶん、ですけど」
とはいえ、トムも17歳。
もうすぐ、18歳だ。
私にとっては、いつまでも小さな可愛いトムだけど、様々な経験を積み重ねて、心や考えも成長しているのが分かる。だから、いつまでも私の知っているトムでない。今回、私が気づいた妙な感じも成長なのかもしれないけど……そうとは思えなかった。
「ショックを受けるのは分かるんです。私なんかでは慰められないほどの衝撃だって」
ジェイコブを目にしただけで、私は雷に打たれる以上の衝撃を感じたのだ。
つまり、トムはそれ以上の経験をしている。アルファードの方がまだ自然な反応だった。でも、トムは……違う。
「揺さぶられ過ぎて、心が無になっているみたいな……閉じてしまったような」
そこまで分かっているのに、私はなにもできない。
いつの間にか、スカートの裾をぎゅっと握っていた。
「だから、学校生活でなにか変わったところがないか気になったんです。でも、本当になにも変わりがないのですか?」
『アルファードや死喰い人の面々との距離は少し空いているようだが、学生生活は何も変わっていない』
「そう……ですか」
つまり、私の気のせいか?
そう思ったとき、ダンブルドアはすぐに否定した。
『アイリス、あなたの感覚は正しい』
ダンブルドアは指を組みながら、真剣な顔で続けた。
『トムの心に影響は必ずある。わざと、いつも通りに振舞っているのだろう』
「国際魔法機密保持法を破ったことをバレないようにするため?」
『…………アイリス。この件は私が少し調べてみよう』
やや間をおいてから、ダンブルドアは言った。
『ところで、アイリス。例の原作の話だが……いまは全7巻のうちの5巻目だったね』
「え? あ、はい」
いきなり話題が変わったので、私は戸惑ってしまう。彼の真意を測りかねていると、ダンブルドアは口を開いた。
『ヴォルデモートの復活を認めない魔法省……そして、残りは2巻。恐らく、5巻の最後で魔法省がヴォルデモートを認める事件が起き、ハリーは巻き込まれる』
はい、その通りです。
そう思いかけて、すぐに考えを消そうとする。だけど、彼は大丈夫だと手を挙げた。
『これは私の想像だが、ハリーは何かを失う。セドリックに続いて、なにか大きなものを……それを糧に、次へと進むのだろう。6巻では決戦に備える準備をし、7巻で最終決戦が繰り広げられる。そのためにも、5巻の最後では誰かが命を落とさなければならない』
「……ちなみに、それは誰だと思います?」
おそるおそる聞いてみる。
『私ではないだろう。
「分かりました」
ダンブルドアはそれだけ言うと、去ろうとした。
だが、ふと思い出したように振り返る。
『そういえば、アイリス。君の誕生日はもうすぐだったね』
「え、ええ。まあ」
『誕生日おめでとう。今年も良い年であることを祈っているよ』
彼は軽くウィンクをすると、鏡から消えた。
「誕生日か」
静まり返った部屋で、私は小さく呟いた。
イギリス人って誕生日を大切にする文化があるから、なんやかんやこの年になっても祝ってもらっている。いつのまにか、今年で33歳になる。前世で亡くなった年齢を越え、両方足し合わせると60歳だ。すっかりおばあちゃんになったような気もするし、昔から何も変わっていないようにも思える。年だけ無駄に重ねたような感覚を抱きながら、ベッドを振り返ったときだった。
「……あっ!」
ベッドの上には、洒落た箱がぽつんと置いてある。
ついさっきまでなかったはずの箱を開けてみると、レモンキャンディーの包みが入っていた。包みを手に取ると、一枚の紙が落ちてくる。
「『疲れたときには、甘いものを』」
細く繊細そうな文字で綴られたそれを見て、送り主が誰なのかピンときた。レモンキャンディーを舌で転がすと、酸味とほどよい甘さが口いっぱいに広がる。ころころと久しぶりの飴を堪能しているうちに、やっと強張っていた頬が緩んだ。
「……トムにも甘いものを贈ろう」
彼の心も安らぐように。
私の想像できぬよからぬ道に進んでいるのだとしたら、足を止めるきっかけになるように。