そこにいたのは、アイリスだった。
温かそうな毛布にくるまり、背を丸めて座り込んでいる。足元にはランタンが置かれ、その灯りがアイリスの横顔を照らしていた。まぶたを閉じ、すやすやと心地よさそうに眠っている。
「アイリス……? アイリス?」
トムはわけが分からなかったが、彼女に声をかける。しかし、よほどぐっすり眠っているようで起きる気配がない。仕方ないので、彼女の肩を優しく揺らした。
「……ん、あ……トム!」
ようやく、アイリスは目を開けた。眠たそうに目をこすりながらも、トムが視界に入った途端、朗らかな笑みが広がっていく。
「アイリス、どうしてここに? いや、そもそもここはどこ?」
「ここ? フェルドクロフトよ」
アイリスが欠伸の入り混じったような声で答えてくれた。
「フェルドクロフトだって!?」
トムは驚いて周りを見渡した。
月明かりが分厚い雲に遮られているので周囲を見通すことはできないが、ぽつぽつと置かれた街灯のおかげで見覚えのある古びた家屋がいくつか見受けられた。自分たちがいるのは、村に築かれた物見台で、すぐ近くにはオミニスの家に明かりが灯っている。フェルドクロフトだと気づくと、風がほんのりと潮の香りも混じっているように思えた。
「トム、寒くない? 毛布いる? 紅茶のポットもあるのよ」
「……いらない」
トムは少し強がって答えた。冬ほどではないにしても、まだ肌寒い。すっきりとした冷たい空気を思いっきり吸い込めば、ちょうどよい塩梅で眠気が遠のいた。
「どうしてここにいるのさ」
「トムと話したくてね」
アイリスはのんびりとした声色で言った。
「来年にはトムも卒業でしょ? もし、魔法使いの世界で生きていくと決めたとしたら、その世界でちゃんとやっていけるのか不安だったの。だから、こっそりトムの様子を観に行っちゃった」
「……アイリスは心配し過ぎだよ」
トムはがっくりと肩を落とし、はたと気づいた。
「待て。こっそり様子を観に来たって、どういうこと?」
「スラグホーン先生に透明にしてもらってね、こっそり授業参観してたの。凄いわね、守護霊の魔法! ダンブルドア先生の不死鳥! 私、感動しちゃったわ」
「……」
アイリスは頬を赤く染めながら楽しそうに話していたが、トムは対照的に血の気が引いていくのを感じた。
つい数時間前、トムは自分の後ろを何者かがつけていることに気づいた。てっきりゴーストの質が悪い悪戯だと思っていたが、それもアイリスだとしたら? もし、自分がスラグホーンに質問したところまで見られていたら? そこまで思い至ったとき、自分の指先が杖へと動いたことに気づいた。否、気づいてしまった。すぐに左手で右腕を押さえつけながら、呆然とする。
(僕は……いま、アイリスになにをしようとした?)
トムは必死に平静を装いながらも、自分のしようとしたことに驚きを隠せなかった。
いま、自分はアイリスの記憶を消そうとした。
記憶操作の魔法なんて、最も自分が嫌っていることの一つなのに、無意識とはいえ使おうとしていた事実に愕然とする。
(相手はアイリスだぞ? アイリスなら言葉で簡単に誤魔化せ……いや、そういうことじゃない。そういう問題じゃないんだ! よりにもよって、アイリスは僕の一番大切な――……)
「トム」
ぽすん、と腹のあたりに温かいものが当たる。
視線を下に向けると、銀色の筒が腹のあたりに突き付けられていた。トムがその筒をよく見ようと目を細める前に、アイリスがくすくすと笑いながら答えを口にする。
「温かいでしょ。さすが魔法瓶よね。淹れてから少し経つけど、まだまだ十分に温かいわ」
「……そういう驚かせ方って、顔とか首にするんじゃないのか?」
やや呆れ交じりの声で指摘すれば、彼女は口をわずかに尖らせた。
「だって、寒くて立ち上がれないんだもの……」
「アイリスは子ども?」
トムは大きく息を吐いた。
「隣に座って欲しいんだろ? だったら、さっさと言ってくれ」
すると、アイリスは目をぱちくりとさせた。
「どうして分かったの? まだ言ってないのに?」
「アイリスの考えてることなんて、簡単に分かるよ」
そう言いながら、どさっと腰を下ろした。
「初歩的な推理だよ。やれ毛布だ、紅茶だって勧めてきたのは、じっくり話したかったからだろ? で、僕が立っていたんじゃ話しづらい。でも、自分は座っていたい。だから、注意を引いて座らせようとした」
「すごい! 全部当たってる!」
「だから全部分かるんだよ、魔法なんて使わなくてもね。まったく、何年家族やってると思ってるんだ」
トムは肩をがっくりと落とし、横目でアイリスをうかがった。横に座ってもなお、アイリスは小さく見えた。
「で、話したいことってなに?」
「そうね……なにか悩んでいるなら話してほしいなって思ったのよ」
「なにも」
反射的に答えていた。
それと同時に、すらすらと言い訳のような言葉が口から流れ出る。
「万事が万全だよ。いまの僕は、マーリンよりも絶好調さ。なんだったら、魔法界とマグルの世界を両立させながら生きていける自信があるよ」
「そう……」
「本当だよ! それから、あー……」
しかし、それも青い目が悲し気に潤んでいることを見てしまい、淀んでしまった。
「あー、でも……たしかに寝不足かもしれない。やりたいことが多すぎるんだ」
「寝不足は良くないわ」
アイリスはぴしゃりと言った。
「どんな時でもちゃんと寝るのは大事よ。ゲゲゲの……画家の先生も言ってたもの」
「ゲゲ……?」
「ごめん、喉が詰まったみたい。……えっとね、徹夜自慢していた画家たちは若くして死んじゃったけど、ちゃんと寝ていた画家は90歳近くまで元気に生きたって話。寝不足は考えがぼんやりとしちゃうし、徹夜は寿命の前借ってこと」
アイリスは喉をさすり、こほんと咳ばらいをした。
「本当なら、いますぐにでも寝て欲しいの。スラグホーン先生には事情を話してあるから、今日は一日、オミニスさんの家で寝なさい」
アイリスの目には「問答無用」という言葉が浮かんでいる。いかに反対しても、自分の意思を曲げないと決めているときの目だ。
トムは肩を落とした。
「……はい、アイリス」
「あとね、他にも気になったことがあって……最後にスラグホーン先生と話していたことなんだけど、あれってどういう意味?」
「理論の話だよ」
トムは努めて普段通りに言った。
「僕が思いついたことなんて、グリンデルバルドも考えそうなものだろ? だから、先回りして理論を考えただけ。闇の魔術なんてぞっとするし、僕はやらないよ」
そこまで言い切り、トムは「完璧だ」と内心ガッツポーズをした。声色、表情、指やちょっとした動きや雰囲気も普段通りに振舞えている。アイリス程度に看破されるはずがない、と。
「怖いよね、グリンデルバルドが分霊箱を作っていたらって考えるとさ。しかも、最悪二人の奴が存在する可能性があるなんて……あいつ、殺人とか簡単にするだろうし、2つどころか、魔法界で最強の数字にあやかることもありそうだよ。例えば魂を7分割することで、自分を完全な存在にするとか――……」
「グリンデルバルドはやらないと思うわ」
ところが、アイリスが口を挟んできた。
「グリンデルバルドは、人を殺す恐ろしさを知っているから……分霊箱は作らない」
先ほど以上に真剣な顔で断言していた。
トムはちょっとだけイラっとした。魔法界のことを何にも知らないのに分かったようなことを言うものだから、しかも、それがあまりにも滑稽な理由だったから、トムはわずかに語気を強めてしまった。
「そこまで言うなら、なにか根拠があるんだよね?」
「グリンデルバルドがやらかした事件はたくさんあるけど、彼が直接殺したって話は少ない気がして」
「……そうか?」
「いや、ナティやニュートからいろんな事件の話を聞いているけど、ほとんど配下が殺したって事件が多くない?」
アイリスは言葉を選ぶように、ゆっくりと話し出した。
「パリの墓地で集会したとき、凄い炎で闇祓いを焼き殺したってことはあったけど、『殺すのは忠誠心のない者だけ』って限定してたし……裏を返せば、『こっちに鞍替えすれば、殺さないでやるよ』ってことでしょ? 『私は仲間になるチャンスを与えた。仲間になれば死なずにすむ。しかし、お前は自分の意思で仲間にならないと決めた。私がお前を殺したのではない。お前は自分から死を選んだのだ』みたいな屁理屈こねていそう」
彼女は、わざわざグリンデルバルドの声色を真似ながら言う。
「そんなことは…………そんなこと、あるのか」
「ニューヨークから逃走したときだって、本当に殺したのは爬虫類っぽい魔法生物だけだったもの。護送していた闇祓いたちや偉そうな人も危険な目に遭ったけど、姿くらましをしたり杖を手にしたりで助かってたわ――……って、前に聞いたことがあるよ」
「……」
トムは考え込んでしまった。
アイリスが最後に言った「って、前に聞いたことがあるよ」の部分だけ、不自然なほど無邪気っぽい口調になっていたことに気づかないほど、思考の海に沈んでいた。
アイリスの言ったことは、だいたい筋が通っている。
グリンデルバルドの起こした事件が多いのも、それにより亡くなった人が多いのも事実だ。しかし、よくよく考えてみると、グリンデルバルドが実際に手を下したという話は聞いたことがない。なにかあったはずだと考えるも、特に思い当たらなかった。
「ね、グリンデルバルドは分霊箱を作らなそうでしょ?」
アイリスの問いかけに、トムは無言で頷くことしかできなかった。
「私はね、分霊箱を作るのは、グリンデルバルド以上の闇の魔法使いなんじゃないかなって思う。複数作ろうとしている人なんて、魔法史に名を刻むレベルの最悪の魔法使いだよ」
「グリンデルバルド以上……」
「だからね、トム。理論だけにしてね」
アイリスが覗き込んでくる。
膝を抱えながら、慈愛に満ちた青い目で。
瞬間、トムはすべてを悟った。まるまる一呼吸分ほど目を大きく見開き、ゆっくりと緩めていく。
「……アイリスはさ、人の心が読めるの?」
「トムの心は読めるつもり。八割……いや、七割くらい?」
「そこは全部って言いなよ」
いつしか、トムは苦笑いをしていた。
もしかしたら、アイリスは――最初からすべて分かっていたのかもしれない。それこそ何か勘のようなものが働いたのだろう。ホグワーツで尾行するなんて馬鹿な真似をしたのも、嫌な予感がしたから乗り込んできたに違いなかった。
「たまにさ、アイリスは未来が視えるんじゃないかって思うことがあるよ。その目、未来視ができるんじゃない?」
「あら、そんな特別製じゃないわ。ちゃんと両親から譲り受けた目だもの。だいたいマグルよ、私」
アイリスは少し怒ったように――だけど、ほんのちょっぴりふざけたように笑った。けれど、すぐに真面目な顔に戻る。
「……で、トム。分霊箱を作ろうと思ったのは、ジョナサン君のため?」
「救うためだよ」
トムはあらいざらいすべてを話した。
アイリスに「分霊箱を作る」をバレてしまった以上、隠しても仕方がない。こっそり作ったところで、勘づいてしまうことだろう。
アイリスはすべて聞き終わったあと、きょとんとした顔で言った。
「ねぇ、トム。間違っていたらごめんなさい」
彼女はそう前置きをしたあと、こんなことを言い放った。
「不死鳥の涙は駄目なの?」
「え?」
「不死鳥の涙って癒しの力があるんでしょ? バジリスクの毒を治せるくらい強力なら、瀕死の重体でもなんとかなるんじゃない?」
トムは固まった。
呆けたように口を開け、まじまじとアイリスを見つめる。数秒間、じっくり考え、ほとんど零れ落ちるように呟く。
「……たしかに」
不死鳥の癒しの力は強力だ。
クリーデンスが死の淵に立ち続けながらも生きているのは、不死鳥の涙が命を繋ぎとめているからだ。ならば、いまにも死にそうな者に投与すれば、完治とはいかずとも息を吹き返すことくらいできるような気がする。
それに、自分は不死鳥を飼っている。
「なんで忘れていたんだろう……僕にはタイへーがいたのに」
「そ、そうね……きっと彼の力を借りれば、なんとかなると思うわ」
アイリスは何故か言葉を詰まらせていた。
「ひとまず、明日に不死鳥の涙を試してみましょう。今日はまず睡眠よ、オミニスさんが待ってるわ」
「……うん」
トムは大きく頷くと、勢いよく立ち上がった。そのまま階段を駆け下りようとしたが、ふと立ち止まって振り返る。
「アイリス。なにか他に聞きたいことはない?」
「他? ……そうね……もう一回だけ、守護霊の呪文を試してみない? 私、トムの守護霊が気になるの」
「守護霊か……」
授業でやったときは、そもそも「幸せな瞬間」なんて思い浮かべることができなかった。ジョナサンが死にそうなのに、己の幸せを想像する――そんなこと、到底許せるものではなかった。ましてや、分霊箱を作ろうと考える者が幸せであって良いはずがない。
しかし、いまは違う。
ジョナサンは分霊箱なんて作らずとも助かるかもしれない。
それに……アイリスを見ていると、幸せだった瞬間が湯水のように湧き出てくる。そのなかでも、最も幸せだったのは――……
(アイリスから「魔法使いね」と言ってもらった日。悪魔の子じゃなくなったあの日が幸せでなかったら、いつが幸せなんだ!)
セピア色に染まった遠い昔の思い出。
その色や香り、肌のぬくもりの細部まで想起し、トムは力強い声で告げた。
「
杖先から、銀の糸が紡がれる。
細い線が靄ではなく形を作り始めたとき、最初は蛇かと思った。帽子がスリザリンを選んだように、スリザリンの血を引く者の守護霊は蛇で固定されているのだろうと考えた。
ところが、蛇ではなかった。胴体を構成しながら、四肢が生えてきたからだ。
次にキツネかと思った。自己評価ではあるが、自分はキツネのような狡猾さを兼ね備えている。蛇でないなら、キツネだろう。
しかし、銀の塊はキツネでもなかった。
キツネよりも耳が縦に伸びたのだ。銀の糸は幾重にも絡まり合い、長い耳をわずかに垂らした小動物の姿をとっていく。その動物は軽やかにその場でくるりと一回転すると、悠々と夜空を駆けた。ちょうど分厚い雲も晴れ始め、隙間から月が顔を覗かせた。月に照らされ、銀色の小さな身体は殊更に輝きを帯び、星を渡るように夜空を跳ねた。
「野うさぎ……?」
アイリスが虚を突かれたように言った。
「綺麗だけど……ちょっと意外かも」
「家ウサギだよ、野ウサギじゃない」
トムは夜空へ溶けた銀のウサギを眺めながら、吐息交じりに呟いた。
「だから……あれは、アイリスだ」
「どういうこと?」
「さあ。なんとなく、そう思っただけだよ」
それだけ言うと、アイリスに背を向けた。
本当は、もっとはっきり分かっていた。
どこまでも明るくて楽観的で、無力だと思えるくらいか弱い。そのくせ、家族を守るためなら牙をむくところが、なんともアイリスのように思えるのだ。耳がピンと伸びたウサギではなく、だらんと垂らしたウサギだというところが、アイリスの風変わりさをあらわしているように感じる。
(「守護霊は、術者の人格に隠された『必要不可欠なもの』の姿をとるって聞いたことがある。つまり、僕の心には……」)
トムは胸をぎゅっと握りしめる。
そのとき、ふと――口元が緩んだことを感じた。数週間ぶりに、頬が緩んで自然な笑みを浮かべていた。
「トムーっ! ちゃんと寝るのよ」
トムが感傷に浸っていると、それを壊すように声をかけられる。
「クリスマス休暇のときみたいに、夜遅くまで友達と話してるのは駄目よ」
「分かってるよ」
トムは振り返らず、手だけ挙げながら階段を下りた。
分霊箱のこととか、かなり深刻な話をしたあとなのに、ふわふわっとした声色で話しかけてくるところなんて、まさにウサギのようだと思う。
そんなことばかり考えていたものだから、トムが奇妙な点に気づいたのは借り物のベッドに横たわったあとだった。
(……ん、待て。なにか変だ)
重い瞼を閉じながら、違和感を想起する。
(僕、ここ一年……家で両面鏡を使ったことはないぞ)
もちろん、クリスマス休暇は両面鏡を使っていない。
友だちとも話していない。
唯一、自室で言葉を交わしたのは……トランクから顔を覗かせたバジリスクのコウラクだけである。
(蛇語だったけど、なにかの会話と間違えたのか……? まあ、アイリスなら、そういうこともあるだろう……って、それはないはずだ。蛇の言葉は、人語と違い過ぎる……だめだ、ねむい……)
ただ、いかなる天才も眠気にはかなわない。
そもそも、この数週間はベッドに入っても、心が千切れているように寝付けなかった。だが、それも今夜でいったん終わりを告げる。今夜はひどく眠い。分裂しかけた心が一つに戻ったように……たったいま感じた奇妙なことだけが、きりきりと心に傷をつけていく。
(……いい。あした、考えよう……)
ひとまず、寝よう。
頭がすっきりした状態で考えれば、自分の勘違いに気づくかもしれない。
トムは一度違和感を手放し、夢のなかへと落ちていくのだった。