「……それは、お母様のこと?」
ルクレティアは怪訝そうに目を細めた。
「アイリス・リドルが後天的に蛇語を習得できる可能性のことかしら?」
トムが頷くと、ルクレティアは黙り込んだ。最初、トムは呆れてものが言えないのだろうと思ったが、すぐに違うことに気づいた。ルクレティアの瞳は果てしないほどに真剣だった。口元に指を添え、深く考え込んでいる。一分ほど経ち、ルクレティアは顔を上げた。
「……不可能でしょう」
しかし、歯切れが悪かった。
ルクレティア自身、戸惑っているのが伝わってくる。
「理由は?」
「お母様はマグルですもの。魔法薬の作り方や材料が分かっていても、マグルには決して調合できない。それと同じですわ」
「……そうですね」
トムは、もう一度頷いた。
アルファードたちに同じ問いを投げかけたときも、似たような返答だった。実際、その通りだろう。マグルが習得できる魔法要素といえば、古代ルーン文字学や魔法史のような学術的なものに限定される。
蛇語は古代ルーン文字とは違う。
まず、蛇語は遺伝的なものだ。先祖から引き継がれた血によって発現する能力である。この時点で、世間一般的な魔法使いはもちろん、純粋なマグルには習得が不可能なのだ。そう考えると、トムは小さくため息をついた。
「そもそも、
だから、後天的な習得は不可能なのである。
もちろん、例外はある。
その最たる例は、ルビウス・ハグリッドだ。彼は己の魔法生物への圧倒的な情熱で、蛇語を習得してしまった。蛇の言葉を聞き分け、どのようなときにどのような声を発するのか研究したのだろう。もしかしたら、トムが蛇と話しているときの会話から、声と言語を関連付けて記憶していたのかもしれない。
しかし、そうでもしなければ不可能なのだ。
「ですが、どうして即答しなかったのです?」
トムはルクレティアに問い返した。
「アルファードたちは、考える間もなく答えてくれましたよ」
「……」
ルクレティアは何かを言おうとしていたが、喉元まで出かかった言葉を堪えるように押し黙った。珍しく目を泳がせ、最適解はなにか必死に考えを巡らせている。ただ、それは本当に一瞬で、すぐに普段通りの堂々と落ち着いた表情に戻っていた。
「……そもそもですわ。トム、どうして分かり切ったことを聞こうとしてますの?」
扇子で口元を覆いながら、こちらを伺い見てくる。
「彼女は純粋なマグル。それも人畜無害かつ息子を心より愛する圧倒的な善人だということは、十分知っているでしょうに」
「同じ言葉、そのまま返しますよ」
トムは言った。
「あなたは僕を婚約者にしようと、アイリスを使った。自分が駒として使う者がどのような人物なのか、徹底的に調べたことでしょうから」
「……そうね。その通りだわ」
それっきり、ルクレティアは少し虚を突かれたように目を見開いた後、どこか寂し気に呟いた。
「何度もお母様とはお茶会をしましたわ。ええ、とても楽しいお茶会をね。彼女の人となりは、それなりに理解しているつもりですわ。ですが……」
ルクレティアは口を閉ざしてしまう。
そうして、沈黙が必要の部屋を支配した。
暖炉の爆ぜる音だけが、部屋に木霊する。
(……やっぱり、なにかおかしい)
トムは、ルクレティアが戸惑う様子を眺めながら、密かに抱いていた疑惑を確信に深めていった。
ここ最近、アイリスの様子がおかしい。
違和感の始まりは、数か月前――アイリスがバジリスクの声を聞いたかもしれないと気づいたときだ。アルファードたちに蛇語を聞かせたことはあったが、誰も言語だと認識できなかった。にもかかわらず、アイリスは「人の話し声」だと確信をもって話していたのだ。そんな話が一度であれば勘違いですんだかもしれないが、二度もあったともなれば、本当に聞こえていたのだと考えるしかない。
だが、アイリス・リドルはマグルだ。
間違いなく、マグルなのだ。
(未来が視えているようなところはあったけど、これは別だ)
少なくとも、自分が子どもの頃は蛇語を理解していなかった。
では、どうして蛇語を習得してしまったのだろう? アイリスが蛇語を覚えようとする素振りはいままでになく、ハグリッドのような魔法生物に対する情熱もない。
(フェンリールの様子も気になる。なにかあったに違いない)
トムは小さく息を吐いた。
いつもの手紙は、アイリスとの生活や
(アイリスとの生活を書けない。つまり、アイリスになにかあったんだ)
トムは奥歯を噛み締める。
本当は、すぐにでも確かめに行きたい。実際、トムは一度だけ――こっそりと帰宅したことがあった。アイリスの様子を観察したが、その時は特に変わった様子は見られなかった。
フェンリールの様子も確かめたかったのだが、そういうときにかぎって彼は家にいなかった。もう少し時間を調整していれば……と思わずにはいられない。
そんなことを考えていたとき、ルクレティアは言葉を零した。
「……お母様ですけど、様子が変でしたの」
「変?」
トムはルクレティアに注意を向けた。
「つい先日、お母様とお茶をしましたの。ですが、帰り際……少し、本当に少しだけ、様子がいつもと違いまして……いえ、本当に気のせいだと思うのですが」
ルクレティアは歯切れ悪く言った。
「どのあたりが?」
「視線や仕草に違和感が……他愛もない話をしているのに、蛇の舌にいるような感じがしましたの」
「確かなのか?」
「これでも、人を見る目には自信がありますのよ」
ルクレティアはそうは言ったが、いまだに確信は持つことはできていないようだった。
「最初はいつも通りでしたのよ。話していて、心地よいお方でした。ですが、帰る間際にこう言いましたの。『間違っても、惚れ薬なんて使わないでくださいね』と」
「図星なことを言われたと?」
「滅相もない!」
これには、ルクレティアも毅然とした態度で返してきた。
「惚れ薬などに頼らずとも、私は――……ではなく、アイリス・リドルの言い回しとは違うように思いましたの。目つきも少し違いましたし、敵意すら感じましたわ」
「それは穏やかではありませんね」
アイリスが敵意を向けることなど、よほどの事態でない限りありえない。
ルクレティアがアイリスの地雷を踏み抜くような真似をするとは思えなかったし、経緯はどうであれ、友好的に接してきたのだろうことは伝わってきた。
では、なにがアイリスを怒らせたのだろうか?
「婚約が気に入らなかったのでは?」
「婚約の話を出したときは、怒ってはいませんでしたわ。驚いてはいましたけど、普通の反応の範疇でしてよ。まるで、人が変わったようでした」
「……」
トムは黙り込んだ。
一種の心の病かとも思った。しかし、要因が思いつかない。蛇語の説明もつかない。
「アイリスがもう一人いる?」
トムの口から考察が零れ落ちる。
あまりにも飛躍した考えかもしれない。しかし、そうでもしないと説明がつかなかった。
「ですが、それはありえませんわ。私、ずっと前にいましたもの。入れ替わる隙など、どこにも……」
「……そうですね」
遠くから、消灯時間を告げる鐘の音が響いてきた。
そろそろ、寮に戻らなくてはならない。ルクレティアもあまり長くは滞在できないだろう。トムは小さく首を横に振った。
「人格が入れ替わっていたとするなら話は変わってきますが、一つの肉体に宿る魂は一つだけ。二つの魂が一つの肉体に宿るなんて……ありえない」
自嘲気味にそう言ったあと、アイリスの顔が脳裏過った。
こういうとき、アイリスは必ずこう返すのだ。
「いや、『ありえないことなどありえない』」
実際、その言葉を口のなかで繰り返す。
一度「ありえない」と却下しかけた案を再検討する。一つの肉体に複数の魂が宿っている状態、それを可能とする魔法について脳内で片っ端から検索をかけた。すると、ほんの数秒で結論に辿り着いてしまう。
「分霊箱なら、ありえるのか」
数ヶ月前、自分の考えていた計画が、再び形を成して目の前に現れた。アイリスの肉体に何者かの魂が宿ったのだとすれば、突然蛇語を理解できるようになったことにも、ルクレティアの抱いた奇妙な違和感にも説明がつく。
「分霊箱……?」
さすがのルクレティアも知らないらしく、不思議そうに首を傾げていた。
「ありえない話ですよ。それも、アイリスの身体でやろうとした意味が分からない」
だから、これはありえない。
だいたい、分霊箱を作るのは闇の魔法使いだ。
アイリスの近くに闇の魔法使いが迫っていたことになるし、思い出すのも恐ろしい魔法を扱える魔法使いなど、世界に数人程度しかない。そのような魔法使いが彼女の周りを歩き回っていたともなれば、まさに大事件だ。そもそも、なぜアイリスを分霊箱にしたのか? 彼女は少し変わったところはあっても、ただのマグルでしかないのだ。
しかしながら、「ありえない」なんて悠長なことを言っていられる場合でもない。
可能性がわずかでもあるのであれば、検討にあたいするのだ。
仮に分霊箱だとして、一つの肉体に二つの異なる魂が入ったのだとすれば、魂が干渉しあうこともあるだろう。
(いや、それも違う。蛇語を理解できる魂なんて存在しない)
サラザール・スリザリンの末裔は指の数もいないのだ。残された者で、分霊箱を作れる人物は存在しない。1人はアズカバン、残りの2人は闇の魔術を嫌悪しているのだから、物理的に不可能なのだ。
(次の休日には、なにがなんでも帰らないと)
いずれにせよ、アイリスに起きてる異変を確認する必要がある。
トムは拳を握りしめた。
その先に何が待ち受けているかなど、考えることもなかった。
次回更新は7月19日を予定しております。