その日は、風が少し強い日だった。
おまけに雨も降り、しとしとと湿った空気が漂っている。
トムはホグワーツを出ようとしていた足を止め、重苦しい灰色の空を見上げた。
「……傘」
小さく呟くと、すぐに首を横に振った。
雨といっても、少しぱらつく程度だ。傘をさすほどではない。それでも、傘を準備したくなるのは、子どもの頃から染みついた癖のようなものだった。
「いや、子どもの頃というか……」
アイリスと暮らし始めてからだ。
トムは言葉を飲み込み、大昔のことを思い出す。
孤児院から引き取られたばかりの頃、アイリスはどれほど小雨でも傘を差していた。それこそ、道行く人は雨で服が多少濡れたくらいで動じることはない。雨を気にせず普段通りに往来しているというのに、アイリスだけが律義に傘を広げている。
『かさはいらなくない?』
いつだったか、トムはアイリスと手を繋ぎながら聞いていた。
『さしているのは、アイリスだけだよ』
『うーん……なんというか、昔からの習慣かしら』
アイリスはそう言って笑っていた。
『あっ、でも、紳士は雨傘を差さないんだっけ。どうしよう、トムはささないほうが……でも、風邪をひいたら大変だし……』
アイリスはあまりにも真剣に悩み始めてしまう。
だから、トムは「ぬれるより、ぬれないほうがいいよ」と言いながら、アイリスの傘に入った。本当は「紳士だけじゃなくて、あっちのおばさんや子どももつかっていない」と伝えたかったが、別にいいかと思った。一つ傘の下で、アイリスと手を繋ぎながら歩く時間は特別だった。普段よりもわずかに近くて、世界が自分たち二人だけになったような不思議な温かさに包まれるのは――なかなかに悪くなかったのだ。
(このくらいなら大丈夫だ)
それでも、トムは傘を広げる。
ホグワーツの大扉をくぐりぬけ、雨空の下へと踏み出した。道行く人が傘をささないのは、ホグワーツでも同じだった。雨が降っているとはいえ、今日は休日。多くの生徒はホグズミードに早足で向かっているが、傘をさしているのはトムだけである。
「トム」
ホグズミード村へと続く橋を渡ったあと、聞き覚えのある声をかけられた。
しかし、声の主はどこにも見当たらない。トムは冷静に周囲を見渡し、曲がった家と家に挟まれた茂みへと足を向けた。
「……こんにちは、マダム」
片手で茂みをかきわけると、そこには大蛇がとぐろをまいていた。人間の足ほどの太さもある大蛇だったが、トムと目が合うと安心したようにシューっと息を吐く。
「風邪をひきますよ」
そう言いながら、トムは大蛇に傘をかける。
「今日は珍しいですね。クリーデンスの傍にいなくていいのですか?」
「……貴方を呼んで来ようと思ったの」
大蛇――ナギニは消え入りそうな声で呟いた。
「クリーデンスが貴方に会いたがっているから」
「クリーデンスが!?」
トムは眉間に皺を寄せた。
普段の自分であれば、迷うことなく頷いていたことだろう。
ここしばらくは、クリーデンスに意識があることの方が稀だった。それでも、彼の心臓は動いていた。ひとえに、彼が持ちこたえているのは、不死鳥の癒しの力とアバーフォースとナギニの献身的な看病のおかげだろう。もっとも、ナギニも蛇でいる時間の方が長く、人の姿を見たのは三か月前が最後であった。
(もしかしたら、これが言葉を交わせる最後かもしれない。でも、今日は……アイリスの様子を調べに行かないと)
一瞬、悩む。
天秤にかけ、心が揺れる。
それでも、ナギニの目から流れるはずのない涙が滲むように見えてしまう。トムは一度だけ目を閉じ、拳を握りしめた。
「……分かった。行こう」
トムはナギニに目を向けると、傘を持っていない方の手を差し出した。
ここでクリーデンスと話さないと後悔する。人間、死んだらそれっきりなのだ。死を回避する魔法は分霊箱のように存在するが、死者を蘇らせることはできない。
(一時間も話すわけじゃない。彼との話が終わってからでも、十分間に合う)
トムはナギニがするすると自身の腕に巻き付いたことを確かめると、ホッグズヘッドまで「姿現し」をした。
ホッグズヘッドの裏口から忍び込むように入ったのに、アバーフォースがすぐに姿を現した。だが、トムとナギニを見ると何も言わずに酒場の方へ戻っていく。自由に入れ、ということらしい。トムはそう解釈すると、クリーデンスの部屋へと一直線で向かった。
「クリーデンス?」
陽光が差し込んだ部屋は、殺風景ながらも温かな雰囲気に包まれていた。陰鬱な色ながらも木のぬくもりを感じ、ベッドサイドの鮮やかな黄色のラッパ水仙が囁くように歌っている。
それでも、トムは泣き出したくなった。
鳥かごの不死鳥がよぼよぼに老いぼれ、真紅のはずの羽が黒く朽ちていたことも苦しくなったが、白いベッドに横たわった男が骸骨に見えてしまったからだ。濃厚すぎる死の気配に、トムは喉を詰まらせる。入り口に佇んだまま、ベッドの方へ進むことを足が躊躇っていた。
「……ナギニ、ありがとう。つれてきてくれたんだね」
骸骨の首が動く。
うつろな眼差しがトムを捕らえた。目は白濁しており、恐らくほとんど見えていないのだろう。トムは彼に歩み寄り、何とかこう言えた。
「具合はどう?」
そう口にしてから、己を叱咤する。
(僕は馬鹿か! どう見えても、具合は悪いじゃないか!)
しかしながら、クリーデンスは微かに口元を綻ばせる。
「今日は調子がいいんだ。でも、すまない。トム……顔が見えなくてね。もう少し近づいてくれるかい?」
トムはクリーデンスの手を握った。彼の手は冷たくて、悲しいまでに硬かった。哺乳類に触れているよりも、手の形をした彫刻に触れていると表現した方が近いかもしれない。
「……トム。ずいぶんと、大きくなったね」
「今度の誕生日で18歳ですから」
「18歳か……」
クリーデンスはかすれた声で呟いた。
「11年も経つのか……これほど長生きできるとは、思ってもいなかった」
「悲しいことを言わないでください。まだまだ大丈夫ですよ」
「いや、今度こそ本当に終わりだ……もったところで、春までだろう」
クリーデンスは呟いた。しかし、その声は悲観していなかった。
トムはおずおずとこう尋ねていた。
「死ぬのは、怖くありませんか?」
「怖いよ」
クリーデンスは断言する。
「だけど、アルバスが前に教えてくれた。『死とは、一日の終わりに眠りにつくようなものだ』と……あちらに逝けば、僕の母がいる。それに、いつかは父さんも来るし、みんな来る。だから、寂しくはない」
「……」
「そんな顔をしないでほしい。今日は、お願いがあって呼んだんだ。ナギニのことを頼みたいんだ」
その言葉を聞き、トムは瞬きをした。
「ナギニさんのことを?」
「君も知っての通り、ナギニは蛇でいる時間の方が長くなってきている……僕が死んだあと、彼女は数十年……蛇のままだ。だから、せめて時々でいいから彼女と話してほしい。友だちとして……」
「クリーデンス……」
トムは死に瀕した魔法使いを見下ろした。
ちらっと視線の片隅でナギニを確認する。ナギニは何も言わず、落ち込んだように黙っていた。先ほどまで、彼女は自分の腕に巻き付いていたが、いまはクリーデンスの足元に頭をのせている。静かに、されど心が苦しくなるほど寂しそうにクリーデンスを見つめていた。
(そうだ。彼女の心はクリーデンスと共にあるんだ。いつまでも、永遠に)
数年前に抱いていた初恋は、とっくに思い出へ昇華されていた。
もし、自分が自分のことだけを考えて行動していたら――たとえば、彼女の心からクリーデンスを消し去り、自分一色に塗り替えてしまうこともできたかもしれない。
だけど、いまの自分にはできない。
ナギニからクリーデンスを取り上げ、クリーデンスからナギニを引き離すこともできなかった。
少しだけ、いや、かなり心が痛かったが、もう諦めていた。彼女を想い続けた先に待つ人生には、心当たりがあった。恋い慕う人の仕事の世話をし、なにかと気に掛け、苦言こそ唱えれど否定はせず、「結婚しよう」と言い出す勇気もない――
だが、トムはひどく苦しいように思えたのだ。
どこかのタイミングで、秘めていた想いが溢れ出してしまうだろう。関係が壊れてしまうだろうし、彼女が想いに応えてくれたとしても、永遠に彼女にとっての一番になれない世知辛さを味わい続けることになる。
ゆえに、トムはナギニの影を追いかけることを止めたのだった。
けれど、クリーデンスの頼みともなれば、少し話は変わってくる。
「もちろんです」
トムは手に力をこめた。
恋心は忘れる。ただ、自分に魔法界という可能性の扉を見せてくれた人の
「あなたの一番大事な友だちに寂しい想いなどさせません」
「ありがとう……トム」
クリーデンスは心から安心したように息を吐いた。
「トム……君のお母さんは息災かい?」
「……ええ」
トムは大きく頷いた。
「君のお母さんは……本当に良い人だ……ノーマジなのに魔法使いへの偏見もなく、君への愛に満ちている……」
クリーデンスはそう言うと目をつぶった。長く、長く目をつぶっていた。あまりにも長く目を閉じていたものだから、トムは「まさか」と思ったが、疲れて眠ってしまっただけのようだった。わずかに鼻が開き、胸が上下している。
「……また来ます」
「ありがとう、トム・リドル」
トムはナギニに一礼すると、その場を去った。部屋の扉を閉める前、もう一度だけクリーデンスの方へ眼を向ければ、大蛇が男に寄り添うようにベッドへ身体をもたれかけていた。
それから、トムはすぐに自宅の庭へ「姿現し」をする。ホッグズヘッド特有の埃臭さは初冬の涼やかな風が掻き消してくれた。トムは息を潜めながら、家の中を伺い見る。
リビングに姿はなく、フェンリールの気配もなかった。
(どこかへ出かけたのか。ってことは、アイリスは部屋かな)
トムはアイリスの部屋へ忍び寄ると、慎重に――物音ひとつ立てずに、扉を開けた。
アイリスは椅子に腰をかけ、うつらうつらと眠っていた。膝には読みかけの本が広げられている。
(……これ、僕が昔あげた本だ)
「ん……ん……あっ、えっ?」
青色の瞳がぼんやりとトムを映し出し、驚いたように目を見開く。
「え……っ、な、なんで……?」
「アイリス、ただいま」
トムはにっこりと笑った。
アイリスは驚いたようにまじまじとこちらを見つめ、呆けたように口を開く。
「アイリス。それ、ケンジ・ミヤザワの物語だよね。何の話を読んでいたの?」
「あ……え、ええ。グスコーブドリの伝記……」
アイリスは酷く動揺したように言った。
「グスコーブドリか……あれも可哀そうな話だよね」
「私は好き」
アイリスは本に目を落とし、優しく撫でながら言った。
「誰かを救うために、自分の命を犠牲にできる……言葉では簡単だけど、凄く勇気がいることだから」
アイリスは真摯な声で呟くと、本をそっと閉じる。そのまま机の引き出しを開け、奥の方から小箱を取り出した。
「いい機会だから、これを貴方に――いまは開けないで。寮に帰ってから」
「ビックリ箱?」
トムがふざけて言うも、アイリスは微笑むばかりだった。
「ポケットにでもしまって持ち帰って。やっぱり、私にはあわないから。大事に保管してくれると嬉しいわ」
「アイリス……どこか具合でも悪い?」
トムは箱を受け取りながら、心配そうに言った。
アイリスが起きてから、彼女はずっとトムと目を合わせようとしないのだ。心なしか、顔も火照って熱を持っているようである。
「そんなことはないわ。ただ、そう……これも夢かしら。だって、貴方は学校にいるはずでしょ? 本当に、そこにいるの?」
アイリスはふらっと立ち上がり、確認するように手で触れてくる。
「いるよ。心配ならハグでもする?」
「それは……いえ、大丈夫よ。でも、ちょっと眠くて……ここのところ、いつも眠いの」
アイリスはそう言うと、大きなあくびをした。
「分かった。一度帰るよ。ちょっと忘れ物があったから帰ってきただけなんだ」
「そう……いってらっしゃい」
アイリスはそれだけ言うと、眼を閉じる。すぐに心地の良さそうな寝息を立て始めたので、トムは部屋から出た。
(……やっぱり変だ)
一向に目を合わせないところもおかしいが、帰ってきたというのに「おかえりなさい」も言われてないし、名前を一度も呼んでくれない。アイリスの姿かたちをした別の何かのようにすら思えてくる。
(この小箱も怪しいな……)
トムは廊下にたたずんだまま、小箱を開けた。
そこには、金の指輪が収められていた。中央には宝石ではなく、黒い石が収められている。黒い石には三角や丸、線を組み合わせた幾何学模様が刻まれており、トムは瞬時に「モーフィンからの指輪だ」と気づいた。
(妙だな。こういう貰い物はちゃんと保管するはずなのに……!?)
しかし、問題はここからだ。
箱には用紙が折り畳まれて収められていたのだが、そこの表には確かにこう記されていたのだ。
《誰よりも大切なTOMへ》
と。
「っ、おかしい!」
トムは杖を引き抜き、アイリスの部屋へ飛び込もうとした。
しかし、そうはならなかった。突然、後ろから衝撃を感じ、ぐらりと視界が揺れる。
(足すくいの呪い!? いや、違う。失神呪文と何かを掛け合わせた魔法だ)
体勢を立て直そうとする間もなく、背中に次々と魔法を浴びせられる。これが外であれば、すぐに反撃できただろう。しかし、自宅にいたということもあり、すっかり油断していたのだ。トムは成すすべもなく音を立てながら豪快に床へ倒れ込み、視界に黒い幕が覆いかぶさる。
「――すまない、トム」
意識が遠ざかるなか、男の声が聴こえてきた。
「君が知るには、まだ早い」
(お前は……知るって……?)
トムは必死に抵抗したが、なにもすることができない。せめて自分を攻撃した相手の顔を見ようとするも、逆光でシルエットしか分からなかった。
(でも、どこかで……)
これが限界だった。
トムの意識は泥のように歪み、ゆったりと沈んでいった。
※
「あ……アイリス!?」
トムは飛び起きる。
荒い息を肩でしながら、辺りを見渡した。
「うわっ!? トム、朝から大声を出すなよ!?」
すぐ隣のベッドから、アルファードの驚く声が聴こえてきた。
なんのことはない、自分は7年間慣れ親しんだ寮の一室にいたのである。
「……アルファード。今日は何曜日だ?」
「月曜日だよ。しかも、一限から魔法史だぜ。あー、憂鬱」
「……昨日、僕は何をしていた?」
トムがそう尋ねると、アルファードは不思議そうに目をぱちぱちさせた。
「ホグズミード村に行って、ホッグズヘッドでクリーデンスさんと話してたんだろ。そのあと『三本の箒』で合流して、一緒にバタービール飲んだじゃないか。覚えてないのか?」
「……覚えてない」
「まじかー。でも、帰ってきて夕食もとらずに寝てたし、疲れてたんじゃないか。ほら、着替えてもないし……もう大丈夫か?」
「……ああ」
トムは頭を押さえながら立ち上がる。
三本の箒に行った覚えはない。
でも、アルファードが嘘をつくとは思えなかった。ひょうきんなところもある男だが、このような嘘をつく人物ではない。
トムは着替えようと、タンスに手をかけた。
「……夢か……ん?」
ズボンを取り換えようとしたとき、ふとポケットに膨らみがあることに気づく。取り出してみて、トムは言葉を失った。
(なんだよ、これ……)
トム・リドルは驚愕する。
そこには、確かに――モーフィンの指輪があったのだ。
まるで、最初からそこに潜められていたかのように。
次回は7月26日(日)に更新を予定しています。