マグルの女は、観光客だったようだ。
(裕福ではなさそうね)
デルフィーニはホテルの一室を見渡し、小さく鼻を鳴らした。シングルベッドが2つ押し込まれ、ソファーすらない。テーブルと椅子はあったが、薄い板がテーブルの大部分を占拠しており、カップ一つ置ける程度のスペースしか残されていない。トランクと思われる鞄が床に置かれているせいで、歩く場所もかなり狭まっていた。箒小屋よりも狭い部屋だったが、マットレスは柔らかく弾力性がある。
「寝る分には困らないわね。雨もしのげるし、このくらいが丁度いい」
デルフィーニは綺麗な方のベッドに腰を下ろした。
マグルの女はもう一つのベッド……おそらく、滞在中に使っていたのだろう乱れたベッドに座った。いつのまにか靴を脱いでおり、ベッドの下にはスリッパが置かれている。もしかすると、綺麗好きなのかもしれない。
デルフィーニがそのようなことを考えていると、マグルの女はあせあせと口を開いた。
「エット……アラタメテ、ハロー。マイ、ネーム、イズ――」
「興味ない」
デルフィーニはぴしゃりと言いきった。
マグルの女は聞き取れなかったようだが、こちらの言い方に棘があることだけは分かったらしい。おずおずと翻訳できる機械と思われる板を差し出してきた。
デルフィーニは大袈裟にため息をつき、ゆっくりと話した。
「お前の呼び名は、マグルで十分。それで、いつまでブリテンにいる? 一週間? 二週間?」
デルフィーニがそう聞くと、マグルは端末に何かを打ち込んだ。
『分かりました。ですが、あなたの名前は教えてください。滞在期間は、明日の朝までです』
女性感のある機械的な声が小さな板から響く。
デルフィーニはわずかに眉を寄せた。
「短い。伸ばせ」
体勢を整えるにしろ、明日までしか身を寄せられないのは面倒だ。体力も完全に戻り切っていないのに、マグルの隠れ蓑がなくなるのは少しばかり惜しかった。
『明日の朝、9時からヒースローを出発します。14時間のフライトで羽田空港到着は13時頃。次の日は9時から仕事です』
「職場に言え。ブリテン旅行が楽しいから、あと1週間バカンスをとると」
デルフィーニが足をバタバタさせながら命令すると、マグルは真っ青になってぶんぶん首を横に振った。
『無理です。ようやく5日勝ち取った休みですので、これ以上は無理です』
「……たったの5日だけ? 随分と仕事熱心なのね」
小馬鹿にするように笑ったが、マグルは困ったような顔をするばかりである。
デルフィーニは少し考えたが、ずいっと身体を前に乗り出した。
「お前の国は?」
『日本です』
「ジャパンか……」
デルフィーニは極東の島国の名前を繰り返した。
太古の昔からある魔法学校があるくらいの知識しかないが、逆に言えば、自分にとってそれくらいしか接点のない国である。
(これは、チャンスかもしれないわ)
デルフィーニは口元を歪めた。
闇祓いたちは、まずは血眼になって国内を探すはずだ。国外逃亡の可能性も視野に入れるだろうが、普通の魔法使いが国外を超えるためにとる手段を考えるだろう。具体的に挙げるのだとすれば、箒やセストラルで国境を突破する可能性や違法移動キー屋を頼ることを真っ先に考慮するに違いなかった。
(まさか、ヴォルデモートの娘がマグルの乗り物で国外逃亡するとは思いもしないはず。しかも、行き先が縁もゆかりもないアジアの島国とはね)
国外だとしても、レストレンジ家にゆかりのあるフランスを逃亡先に選ぶだろう。デルフィーニは「レストレンジ」の名前を想起したが瞬間、わずかに苦虫を嚙み潰したような思いに駆られたが、すぐに胸の奥へ追いやった。
「……マグルは空を飛ぶ鉄の鳥で帰るのか? それは本当に安全か?」
『飛行機のことでしたら安全です。滅多に落ちません。……それより、あなたは私のことをマグルと呼びますね。なぜですか? あなたもハリーポッターシリーズが好きなのですか?』
「あー、なるほど」
デルフィーニは腕を組む。
しばし悩んだが、どうせ忘却術をかけるのだと思い、面倒なので明かすことにした。
「私の名前は、デルフィーニ。本名はデルフィーニア・モルガナ・ゴーント。闇の帝王の娘といえば分かる?」
『……それは、お辞儀様のことですか?』
「……お辞儀?」
私が首を傾げると、彼女はしまったとでも言うような顔をした。
『ヴォルデモート?』
「闇の帝王と呼べ」
そう言いながら、デルフィーニは杖を取り出した。手始めに軽く杖を振り、近くにあったカップを呼び寄せた。そのままカップを鳥の羽に変え、マグルの手元に落として見せる。
「いかがかしら?」
これで魔法使いであることは十分に伝わっただろう、と思った。さすがに、マグルも危機感のようなものを抱いたらしい。あるいは恐れからか、顔を真っ青に染めると、羽を大事に持ちながら物凄い速さで板に文字を打ち込んだ。
『大丈夫? これ、元に戻りますか? カップはホテルの物品ですので、破損もしくはなくした場合、弁償しないといけません。元に戻りますよね?』
「……そこ?」
すっかり呆れ果てた顔をしたが、マグルは大真面目らしい。必死の形相で文字を打ち込み続ける。
『私はそこまでお金はありません。英語も苦手ですので、交渉は難しいです。そもそも、カップが羽になったなんて説明できませんし、ホテルマンに信じてもらえません』
「元に戻すから、安心しなさい!」
デルフィーニは声を荒らげると、再び杖を振った。羽は瞬く間にカップへと姿を変え、ぽとんっと女の手に収まった。マグルは心底安心したように長く息を吐き、へなへなと肩を落とす。
(何よ、この女)
デルフィーニの知り合いにマグルはいない。彼女が初めてである。しかしながら、魔法使いを目にしたマグルの反応として、これは果たして正しい反応なのだろうか?
(馬鹿なマグルを捕まえた? それならそれで騙しやすいから良いのだけど、調子が狂う)
マグルはカップを大事そうに抱え、じっと見つめていた。そのうち、だんだんと魔法のことが胸に落ちたのだろう。目に光が灯り、うずうずと好機に満ちた表情を向けてきた。
『あなた、魔法使いですか? てっきり、あれはファンタジーの話だと思っていました』
「マグルにとってはね」
デルフィーニはそう返した。
とはいえ、デルフィーニもそのあたりの事情について詳しいわけではない。純血主義のロウルに育てられ、自身もそのように育ってきた。ロウル自身は指名手配されているので、常に姿を隠し、魔法省からは距離をとって生きてきた。それ故に、闇の帝王敗北後の魔法省がとった政策については疎いところがあるのである。それでも、聞きかじった情報から推測できることはあった。
「神秘部の魔法使いが過去に送ったのよ。ハリー・ポッターの物語をマグル世界に広めるためにね」
『なぜ?』
「マグルの社会では、機械の発展が著しいそうね。特に伝達技術が守護霊よりも早く、それも世界の裏側まで広まってしまう。魔法界の秘密がマグルに発覚するのも時間の問題だと踏んだそうよ」
デルフィーニは説明しながら、くだらないと思った。発覚したら忘却魔法を使えばいいだけの話だ。魔法省の及び腰には、ほとほと理解しかねる。そんなことを思いながら、デルフィーニは話を続けた。
「だから、魔法界で最近起きたなかで、かつ、マグルが興味を持ちそうな出来事――ハリー・ポッターの物語を過去に情報だけ送ったの」
『でも、この物語は列車でロンドンに帰るときに思いついたって聞いたことが……』
「そのとき、上手い具合に波長が合ったのでしょう。運が良いことに、波長が合ったのは素晴らしい作家で物語の才能に溢れている人だった。受信したことからイメージを膨らませ、より深みがあって面白い物語に昇華された」
仮に受信したマグルがセンスの欠片も持ち合わせていなければ、ハリー・ポッターの物語は広まらなかっただろう。目の前の観光客すら知っているほど大きな物語に発展したのは、ひとえに作者となったマグルが抜き出て優れたセンスと才能と書き続けることができる根気を持ち合わせた逸材だったからである。
そこまで説明すると、マグルの女は感心したように頷いていた。
『つまり、本当に魔法界であったことを脚色しているということ?』
「私も詳しくないけど、実際と名前や年代、歴史の流れが一部違うと聞いているわ。そうね……例えば、マクゴナガルの年齢かしら」
これに関しては、とある宿に潜伏していたときに聞いた話である。マグル贔屓の魔法使いが、マグルの世界で広まっている魔法界の矛盾を楽しみながら語ってくれたのだ。
「本来のマクゴナガルは1935年生まれ。だけど、ニュート・スキャマンダーの物語では彼の学生時代に新米教師として登場しているわ。あれは面白いアレンジの一つね。他にも探せばいろいろ出てくるはずよ」
私は知らないけど、と心のなかで付け加える。
『凄い! 凄い! そうなると、あなた、もしかして、本当にヴォルデモートの娘ですか?』
「闇の帝王と呼びなさい」
「スゴ……」
マグルはきらきらとした顔を向けてくる。あまりにも純粋な憧れの表情に、デルフィーニは鬱陶しそうに舌打ちをした。
「……ねぇ、本当に分かった? 普通は信じられない話でしょ?」
『大丈夫です。信じます』
「……本当に?」
『Mr.石ノ森のSFみたいですね、理解しました』
デルフィーニは黙り込んだ。
自分でも俄かに信じがたいことであるが、どうやらマグルは信じているらしい。彼女と関わった時間は極めて短いが、それでも本心から言っていることは嫌というほど伝わってくる。
「イシノモリが誰か知らないけど、分かったならいいわ」
『Mr.石ノ森は偉大なる漫画家です。特におすすめの作品は――』
「興味ない」
デルフィーニは面倒になり、杖を真一文字に振った。途端、マグルの唇が強く結ばれる。マグルは必死に口を動かそうと悪戦苦闘しているが、「黙らせ呪文」に敵うはずもなかった。
「とにかく、魔法界のことがマグルに広まれば、こちらの存在が発覚しかかっても、一旦は『物語の真似事』としてとらえられるでしょ? その間に忘却魔法をかけるなりなんなりの対応ができるということらしいわ。ここまでいい?」
デルフィーニが声をかけると、彼女はこくこくと頷いて返してきた。
そのまま話を続けようとし、はたと随分と砕けた口調になりつつあったことに気づく。アルバス・ポッターのように騙して周到に心をつかむならまだしも、相手はたかがマグルだ。利用できないと判明次第、服従の呪文をかけるというのに、優しく接する必要はない。デルフィーニは気持ちを修正するように咳払いをした。
「さて、本題に入る。私は日本に行こうと思っている。お前には、日本での案内役を命じる。なにしろ、日本は不慣れな土地だからな。イエスかノーかで答えてもらおう」
デルフィーニが冷酷な眼差しを向け、淡々と言い切る。
マグルの女は端末に映った言葉を見て、心から嬉しそうに頷いた。悩む姿も見せない即決の反応に、またしてもデルフィーニは怪訝な表情になりかけた。
「……本当に良いのか? なにか言いたいことがあるなら言ってみろ」
デルフィーニは杖を先ほどとは逆向きに横へスライドさせる。すると、黙らせ呪文が解かれ、マグルは息を大きく吐き出した。マグルは開かれた口をぺたぺたと触り、感極まったように呟いた。
「……ユバーバだ……セントチヒロだ……っ!」
「ユバ……なにそれ?」
困惑しきっていると、マグルは興奮しきった顔でこう伝えてきた。
『超強い魔法使いです。お客様を第一に考える素晴らしい魔女の一人です。凄いですね、魔法。魔法があれば、いろいろな作品の名シーンが再現できそうです! 一緒にいろいろと再現してみませんか? 例えば、指パッチンして――』
「そんなことより、他に言うことないの!? 私を手伝うことについて!」
これは、本格的に「マッドなマグル、マーチン・ミグズの冒険」のマグルよりもおかしいマグルを捕まえてしまったかもしれない。
しかし、次に返ってきた言葉は思ったより理性的な解答だった。
『あなたを助けると決めています。日本の案内でしたらよろこんで。ただ、飛行機の座席の指定までは難しいです。あらかじめ指定席が決まっていますので、そのあたりの都合を調べないといけません』
「その程度、問題ないわ」
適当なマグルの記憶を操ればいい、と伝えるも、それはマグルによって激しい抗議にあってしまった。
曰く「英国に旅行に来る日本人の多くは、貴重な有給休暇を消費してきている。日数ギリギリで調整しているだろうから、記憶を操られてフライトが変更されるのは可哀そうだ」とのことだ。
(日本人とやらは、ずいぶんと休みが少ないらしいな)
かなり熱弁されたので、最後には面倒になり「席が空いていたら、日本を案内する」ということに落ち着いた。
『パスポートはあるの? 出国審査大丈夫?』
「平気だ」
『それならいいです』
マグルは安心したように頷くと、食事をとろうと提案してきた。もっとも、こちらは逃亡中なのでここから出ることはできない。
「適当にスナックでも買って来い」
そう言うと、マグルはトランクをおもむろに開けた。
『食べてないカップ麺があるから、出国前に消費しましょう』
彼女は白いコップのようなものを取り出すと、そこにお湯を注ぎ始めた。上から覗いてみれば、コップの中には硬そうな固形物が詰まっていた。
「……私にあれを食べろと?」
『3分だけ待って』
「ふざけるな」
デルフィーニは怒り心頭だった。百歩譲ってマグルの食べ物を口にしないといけないにしても、あのように硬くてマズそうなものを食べたくはない。すぐに用意しなおせ、と命令したかったが、なんとか思い止まった。悲しいことに腹は減っている。アズカバンの味気のない硬い黒パンよりかは腹に溜まるかもしれない。そう我慢していると、嗅いだことのない良い香りが漂い始めた。マグルの食べ物など興味はないが、奇妙な香りのせいで腹が鳴り、注意していないと身体がそわそわと動きそうになった。
「3分待たないといけないのか?」
『そうしないと硬いままですよ』
翻訳機はタイマーも兼ねているらしく、二人で減っていく時間を見つめた。
そして、3分のタイマーが鳴ると、マグルは弾かれたような笑顔でカップを差し出してきた。
『どうぞ、熱いから気を付けて』
フォークと一緒に、すっかり熱くなったカップを渡される。カップだと思ったが、どうやら陶器ではないらしく持てる程度の熱量だった。それでも、なかの麺とスープは熱々で濃い香りが鼻をくすぐってくる。デルフィーニは麺をフォークで突き、パスタのように絡ませる。パスタをスープに入れて食べる文化があることを知っていたが、明らかにパスタではない。細くてちぎれた麺の硬さは、自分の知る麺とはまるで違う。はたして、本当に食べてよい物なのだろうか?
(いや、麺だけじゃない。なんだ、これは……?)
麺の横には、乾燥したピンクの何かがあった。
『それは海老です。食べて平気ですよ』
「この肉は?」
『謎の肉です。たぶん、豚肉ね。美味しいですよ』
「……」
『黄色は卵ですよ』
「それは分かる」
解説されたら、なお奇妙である。
海老とは、オマール海老の仲間ということだろう。それなら、平気だ。平気なのだが、魔法薬の材料に見えてきてしまう。肉もそうだ。はっきりと肉の種類を断定しないことが不安さを煽った。
「イタダキマス」
少しためらっていると、マグルは自身のカップの麺をすすり始めた。熱いらしく、ときどき息を吹きかけて冷ましながら、実に美味そうに食べている。デルフィーニはごくりと自身の喉が鳴るのを感じ、覚悟を決めた。
(これは異文化体験。なにごとも経験よ。そう思えば行ける!)
デルフィーニは麺をすすり、愕然とした。
「……これは……」
美味い。
味が濃すぎるし、ひとつひとつの食材の質は高いとは言えない。
だが、美味い。
純粋に美味い。麺と絡まる塩気のあるスープは濃厚で、食欲を肥大化させた。具材も美味い。ふわっとした卵は柔らかく、海老も悪くない。肉は恐らく豚肉だろう。
(ただの豚肉じゃないわ。なにか……肉ではないものを混ぜている?)
最初こそ分析していたが、次第に無心になって麺をすすっていた。麺とスープと具、それらを絡ませながら味わう時間は、アズカバンを出てから固まっていた心が和らぐのを感じた。
「あ……」
だが、悲しきかな。
あっという間にカップは空になってしまった。スープまで全部飲み干し、空っぽになったカップを恨めしそうに見つめてしまう。
『……まだ余っているのありますよ?』
「あんた、旅行に来たのでしょう? どうして、自国の食品を持ってきてるのよ」
新たに取り出されたカップ麺に湯を注ぎながら、デルフィーニは質問を投げかけていた。
『外国を旅していると、日本食が恋しくなると聞いたことがありまして』
「たった5日でしょう……」
頭を抱えたが、それはそうとカップ麺には抗えない。
結局、デルフィーニは2杯目も完食し、マグルのあまったスープまで腹に収めるのであった。
※
さて、飛行機の旅はあっけないほど簡単に終わった。
実際には、英国人マグルが
『ラッキーですね』
マグルは楽しそうに指を二本立てながら笑っていた。
「私、悪運は強いのよ」
デルフィーニは開いた席に座った。何回か乗組員のマグルが「お客様、席をお間違いでは?」と訪ねてこようとしたが、それらすべて杖で記憶を改ざんして追い返した。
パスポート?
マグルが寝ている間に、それっぽいものを偽造し、出国関係の手続きはすべて忘却呪文と錯乱呪文でやり過ごした。
「……」
狭い席に座り、小さな窓から故郷を見下ろす。箒で眼下を見下ろすよりも家々は小さく、ぐんぐんと遠ざかっていく。あっというまに海上が映った。海には、白い風車が大量に立ち並んでいる。
(さよなら、私の祖国。いつか戻ってくるわ、必ず)
デルフィーニは決意を静かに固めるのだった。
それから、13時間後――デルフィーニはついに日本の地に降り立った。
「熱いッ! なによ、これ!」
むわっとした湿気とうだるような熱さ、じりじりと肌を焼く太陽に、デルフィーニは不快感を隠すことなくあらわにした。
『日本へようこそ。今日は涼しい方ですよ』
「ずいぶんとお気楽な性格をしているわね。ええ、そうね。地獄の炎よりは涼しいわ」
『素敵な言い回しですね。お褒めの言葉、ありがとう』
「褒めてないわ」
早速、日本に来たことを後悔し始める。
むしろ、このマグルを案内役に選んだことも間違いだったかもしれない。さっさと案内役を解任して、もう少し頭の良さそうなマグルに乗り換えるか……と思案し始めた矢先、マグルは大きな書店の前で足を止めた。
『せっかくだから、日本語を勉強してみる気はありますか?』
「……それは少しは滞在するのだから、日常会話に困らない程度にはね」
そう言ってから、くすりと笑った。
「なに? もしかして、テキストでも買い与えてくれるのかしら?」
『はいっ! 素晴らしい教科書を購入してきます』
マグルはそう言うと、大きな書店に足を進みいれた。入り口近くの籠を手に取ると、迷いのない足取りで進み始める。
(ここは涼しいから、過ごしやすいわ)
けれども、周りは日本語・日本語・日本語。
読めそうな本は見当たらない。英語の書籍はないかと思っていたが、ふいに視界に飛び込んできたのは英語表記の本の棚だった。不思議なことに、どれもカラフルな絵がついている。
マグルは棚を背にして、胸を張ってこう言った。
『日本の素晴らしい文化の一つが漫画です。どうでしょう? 英訳された漫画と日本語本来の漫画を読み比べることで、現代日本語を学んでいくのは? もちろん、真面目なテキストも購入しても良いのですが……それでは、味気ないような気がします』
「あんた、漫画を読ませたいだけでしょ」
マグルは笑って頷いた。
裏表のない正直さだけは、このマグルの利点である。
「で、どれがお勧めなの? とりあえず、全部読んであげる」
『いいの? お勧めたくさんありますけど?』
「あんたと違って、時間はたくさんありそうだからね」
デルフィーニが呆れ交じりに呟くと、マグルは勢い良く頷いた。
『分かりました! 良い日を過ごせるように、お勧めの本全部買いますから!』
さっそうと何巻もある本を籠に入れ始めた。あまりにも詰め込むものだから、最終的に二つに籠を分けて、デルフィーニも持つ羽目になった。
「なんで私まで……」
忌々しく思いながら、元凶となった本の題名に目を落とした。
(これは……錬金術の漫画? くだらないわ。どうせ、賢者の石も出てこないようなお遊びが記されているのでしょうね)
せいぜい錬金術との違いを嘲笑いながら読んでやろう。
8月の照りつける日差しを鬱陶しく感じながら、デルフィーニはマグルの家へ向かうのだった。
次回更新は9月6日を予定しております。
(原作の扱いについて、皆様思うところもあると思います。あくまで、私の本作における考察・設定に過ぎません。それでも、この世界に魔法があるといいなとは感じてしまいます)