トム・リドルは、誕生日が待ち遠しくなかった。
孤児院で誕生日を祝ってもらったこともあったが、非常に義務的なもの。いちいち孤児たちの誕生日を祝っている余裕などないので、一か月に一回まとめて祝われる。故に特別感など皆無であり、孤児同士も互いを祝う気持ちなどさらさらなく、「ちょっとよいお菓子がもらえる日」でしかない。むしろ、先生たちが「忙しいなかで、可哀そうな孤児の誕生日を祝ってあげた」という満足感に浸る日であった。
さらにいえば、トムの場合は誕生日当日こそ最も嫌な日である。
12月31日を迎えると、孤児院の先生たちはこぞってこの話をするのだ。
「あなたが産まれた日は忘れないわ。だって、私たちがとりあげたんだから」
1926年12月31日。
身を切るような冷たい雪の日、いかにも身なりの貧しい醜い女性が孤児院のドアを叩いた。女性は一時間後に赤ん坊を産み、そのまた一時間後に息を引き取ったそうだ。
「『この子がパパに似ますように』と『パパの名前をとって“トム”と自分の父親の名前をとって“マールヴォロ”、この子の姓はリドルだ』……それだけ言い残して、あなたの母親は亡くなったのよ」
自分が産まれた日は、母親が死んでしまった日。
自分が天涯孤独になった日。
トムもマールヴォロもリドルの一族も探しに来ることなく、たった一人で生きていくことが決まった日。
トム・マールヴォロ・リドルの一年で最も溜息をついてしまう最悪な一日。
故に、トムは4歳にして誕生日が大っ嫌いだった。
大っ嫌いだった。
「トム! 5歳の誕生日おめでとう!」
アイリスの無邪気な声を聞くまでは。
「どうしたの? ぽかんとして……?」
アイリスはいつものような能天気な笑顔を浮かべながら、パンケーキとベーコンを焼いている。ただ、トムが階段の前に立ったまま動かないのが気になったのか、こてんと首を傾げた。
「べつに、1さい年をとっただけだよ」
トムは少し驚いた気持ちをおさえつつ、なるべく平静を装いながら蜂蜜の壺を取りに行った。
アイリスは誕生日を祝ってくれるという確信はあったが、実際に開口一番「おめでとう」と祝われるのは不思議な気がした。
実のところ、トムは朝の6時に目が覚めていた。はやくリビングへ降りていきたかったが、アイリスが起きて朝食の支度を始める7時まで待っていたのである。さっさと着替えたあと、ベッドにもぐりこんで必死になって耳をすまし、7時ちょうどになってアイリスがリビングで動く音を聞いてから、さも「いま起きた」とでもいうような雰囲気で階段を降りたのである。
「おおげさにお祝いするものでもないさ」
トムは興奮で声が裏返りそうになるのを抑えながら言えば、彼女は料理の手を止めずに言葉を返してきた。
「あら、生まれた日を祝うのは当然じゃない?」
「そういうものか?」
「そういうものよ。少なくとも、私は誕生日をお祝いされるのが嬉しいわ。何歳になってもね。……とりあえず、はやく朝食をとりなさい。終わったら、一緒に誕生日会の飾りつけをしましょう」
「だから、そういうのはいらないって!」
トムは冷たく言いながらも、心がやや浮き立つのが分かった。
「誕生日会なんて、よぶ人なんていないじゃないか」
学校に通っていると、どこかの誰かが誕生日会を開いたとか呼ばれたとかいう話は耳にするが、トムは友だちづきあいなんてしていない。だから、呼ばれることもなく、誰かを呼ぶ気もまったくない。そのことは、アイリスも十分わかっているはずである。
ところが、アイリスはころころと笑った。
「私がいるじゃない。私とトムで誕生日を祝いましょう」
「それって、誕生日会?」
「クリスマスだって、二人でお祝いしたでしょ? ケーキと御馳走があれば、パーティーになるわ」
トムは「そういうもの?」と首を傾げた。以前から、アイリスはトムには分からない理屈をこねて、正当化しようとする節がある。二人しかいないのであれば、パーティーではなくちょっと豪華な夕食でしかない。それなのに、わざわざ部屋を装飾してまで祝おうとしている。トムからしてみれば、アイリスの行動は無駄としか思えなかった。
「前からおもっていたけど、アイリスってさ……」
しかし、トムはそこで一旦口を閉ざす。テーブルの上に、数枚のカードが置いてあることに気づいたのだ。普段は見慣れないカードの存在に近づいてみると、3枚のカードすべての宛名に自分の名前が書かれている。トムは思わず、あっと叫んだ。
「これって……バースデーカード!?」
「そうよ。お隣のおばさんとマーチバンクスさん。あと、クインシーからね」
「……はじめてもらった!」
トムは壺をテーブルに置くと、カードをしげしげと見つめた。近所のおばさんとヴァイオリンの先生からとはいえ、はじめてもらった誕生日祝いのカードだ。たった3枚のカードを眺めているだけで、心の奥がさわさわと揺れる。何度も何度もお祝いの文面を読み返し、満足感に浸っていたとき、ふとこんな言葉がトムの口から零れ落ちていた。
「ねぇ、アイリスからは?」
トムは期待を込めて、アイリスを見上げた。
「私からのカードは誕生日のプレゼントに挟んであるの。あとで渡すわ」
彼女はにこやかに言いながら、朝食の皿を運んでくる。
ベーコンがいつもより分厚いのは気のせいではないだろう。アイリスはガサツなところも多いが、こういうところに気を回す。家の掃除や料理の手伝いをした日の夕食はリンゴがひと切れ多かったり、「これ、あげる」と肉の炒め物をわけてくれたりするのだ。
「ふーん、そっか」
トムはそれだけ言うと、普段より厚くて心なしか味が良いような気がするベーコンを頬張るのだった。
トムがアイリスと一緒に暮らし始めて、そろそろ1年が経とうとしている。
結論から言えば、アイリスとの二人暮らしは悪くはない。
孤児院時代から考えると、はるかに良い生活を送っていた。
アイリスは小奇麗な衣類を着せてくれるし、高価なヴァイオリンを習わせてくれる。どんなに仕事が忙しくても、食事は必ず一緒に食べてくれた。彼女がいろいろな場所にトムを連れて行こうと努力してくれるのを感じるし、買い物に行ったときにはお金についていろいろと教えてくれる。しかも、お手伝いを頑張っていたり、学校のテスト成績が良かったりするときは、カップケーキやチョコレートを買ってくれるのだ。これまでの環境では、考えられなかったことである。
なにより、トムが一番安堵したのは、アイリスが自分だけが持つ不思議な力――「魔法」の存在を好意的に認め、「悪魔の子」だと怖がらないことだった。
アイリスは、トムの力を「悪魔の力」ではなく「魔法」と定義してくれた。
アイリスに「誰かを助けることのできる力が、悪魔の力のはずがない。貴方は魔法使いなのだ」と言ってもらったとき、トムは目頭が熱くなった。引き取られて以来、ずっと――院長先生から「悪魔の子」だと蔑まれたときから、心のどこかで「アイリスに“力”がバレたら、同じように蔑まれ、孤児院に送り返されるかもしれない」と恐怖していたが、彼女からの「ありがとう」が杞憂を吹き飛ばした。
アイリスは「トムは悪魔の子ではない」「ここにいていい」と認めてくれた。
このときの喜びを例える言葉を知らない。
もちろん、アイリスとの暮らしは嬉しいばかりではない。
たまに怒られることもある。たとえば、特別なとき用の白い皿を魔法で赤くしたとき、食べ終わった食器を下げなかったとき、自分の部屋の掃除をさぼって埃まみれにしたとき、それから、ゲーム中にトランプの絵柄を変えたとき、アイリスの表情から笑顔が消える。
とはいえ、怒るといっても木のムチで叩かれることもなければ、食事抜きのような罰を受けることはなかった。基本的に「どうしてそれをやってはいけないのか」説明してくる。だいたい彼女の言い分は納得できるし、ちゃんと謝れば許してくれる。
だから一度だけ……頬を叩かれたときは、かなりの衝撃だった。
トムがアイリスの「熊のウィニーが観たい」という願いを叶えるため、魔法で熊を浮かせて見せたら「それは駄目なことだ」と頬を叩かれたのである。
最初、トムはなにが悪いのかまったく理解できなかった。
アイリスは動物が好きだということは、前々から知っていた。彼女が仕事で描く絵のほとんどはウサギや犬、熊などの動物たちが人のように生活する不可思議な作風だし、ハロッズで購入した熊やウサギのぬいぐるみが彼女の部屋にいくつも置かれている。
トム自身、この家に来たばかりの頃、アイリスから
『トムもぬいぐるみが欲しい?』
と、聞かれたこともあった。
ところが、トムは動物に興味がどうしても持てなかった。
アイリスが言うのだから可愛いのだろうけど、抱きしめたり撫でたりしようとは思えないのだ。唯一の例外が蛇になるが、それも互いに言葉を交わせるからであり、言葉の通じない動物はどうでもよいと感じてしまう。
なので、アイリスに頬を叩かれたとき、謝罪より先に怒りが込み上げてきた。
魔法をかけた相手はただの動物。それも、アイリスを喜ばせるために魔法を使ったのに、どうして怒られないといけないのだと怒りに任せて叫びたかった。
しかし、アイリスのいつになく厳しい口調と真剣な眼差しで――トムは、自分がしてはいけないことをしたのだと悟った。怒りによる熱が急激に冷め、さあっと血の気が全身から引いていくのが分かった。
動物を傷つけるのは、優しいアイリスが物凄く怒るくらい悪いこと。
だから、動物実験はやらない。
動物を傷つけるような悪い魔法使いになったら、アイリスが悲しむから。
「……トム? トム、どうしたの?」
アイリスの声で、トムは我に返った。
気がつくと、アイリスも朝食をとるところだった。いつものように対面の席に腰を降ろし、きょとんとした目でこちらを見ている。
「美味しくなかった?」
「おいしいよ。かんがえごとをしていただけ」
トムは率直に感想を伝えた。
アイリスの作る料理はそれなりに美味しい。
味はもちろんだが、なにより盛りつけ方が素敵だ。たまに学校で昼食持参のときに持たせてくれるランチボックスは、小さな箱に夢が詰まっているような彩の豊かさと美味しそうな雰囲気満載。食べるときはちょっとワクワクする。ソーセージに妖精のような足を生やすようなカットをしたり、リンゴは少し皮を残してウサギみたいなカットしたりという楽しい工夫をしてるのだ。
ところが、アイリス自身は料理はそこまで好きというわけではないらしい。食材を買うときや台所で「だめだ、エイヨウバランスが悪い」「青野菜がない……ビタミン……」「ショウユとメンツユがあれば……なんとかなるのに!」と、よく苦し気にうめきながら献立を考えている様子が見受けられるので、好きでもないのにどうしてこういう工夫をするのか極めて謎である。
「考えごと? なにか困ってることでもある?」
「……アイリスって、かわってるなって」
トムはそう答えると、ぺろっとパンケーキをたいらげた。
「いつも思うけど、そんなに変わってるかしら?」
「まあね。……それで、アイリスからのプレゼントは?」
「はいはい」
アイリスは紅茶を飲み干すと、よっこらせっと席を立った。
「はい、これ。誕生日おめでとう、トム!」
アイリスは両掌に収まるほどの小さな包みを渡してきた。緑のラッピングペーパーと青いリボンで綺麗に包装されたプレゼントを弾む気持ちで受け取るも、想像以上に軽いことにちょっとだけ落胆する。自称サンタクロースから貰ったしかけ絵本ですら、もう少し重かったような気がした。プレゼントをもらえるだけで嬉しいことには変わりはないのだが、軽くて小さいとなれば期待外れなような気がしてならない。
「……本?」
包みを解くと、そこには青い布表紙のノートと小さな鍵が収まっていた。普通のノートとは異なり、留め金がついている。しかけ絵本かと心を躍らせ、さっそく鍵を開ける。ところが、ペラペラとめくってみるも、どのページも何も書かれていない。まっさらなノートだった。なかに誕生日カードが挟まってはいたが、いつものノートより上質で鍵がついている他は特徴のない一冊である。
「なにも書いてない」
「日記帳よ」
アイリスは、なにが楽しいのか微笑みながら教えてくれた。
「にっきちょう?」
「その日にあったことや自分の感じたことを記録していくの」
「おもしろいの?」
「人それぞれかな。でも、トムならきっと面白く感じてくれると思う」
「アイリスは日記帳を持ってるの?」
「まあね……見せるのは無理よ!」
トムが「見せて」と頼もうとする前に、アイリスから断られてしまった。
「日記はね、自分と向き合うために使ってるの。その日にあったことを思い返して、自分の気持ちを整理する感じかしら。だから、トムには見せられないな。ほら、トムも自分の思ってることや感じたこと全部が全部、私に話せるわけではないでしょ?」
「それは…………」
否定しようとした口を閉ざした。たしかに、アイリスの言う通りである。たったこの瞬間まで、初めて祝福された誕生日に浮足立って喜んでいることなんて、あまりにも幼稚すぎて話せない。
「もちろん、トムが『日記はつまらないなー』って思ったら日記を続けなくていいよ。来年の誕生日はもっと喜んでもらえるものを用意するから」
「……ふーん」
トムは真新しい日記帳を右脇に抱え込んだ。
「とりあえず、もらっておくよ」
「よかった!」
「べ、べつによろこんでるわけじゃないって!」
トムはそれだけ言うと、いそいそと食器を片付けることにした。いままでにない速度で片付け終わると、そのままの勢いで階段を駆けのぼり、自分の部屋へ戻る。
「さてと」
トムはベッドに転がると、アイリスからの誕生日カードを取り出した。
アイリスお手製の誕生日カードには、バースデーメッセージと共に蛇のイラストが描かれていた。
「『トム、5歳の誕生日おめでとう!』か……!」
最初の一文を口に出して読んだだけで、あたたかな気持ちが胸に広がった。嬉しさが込み上げてきて、頬だけでなく耳の後ろまで熱を帯びている。
「よかった……」
感嘆の息と共に、喜びの言葉が零れ落ちる。
アイリスの口から『来年の誕生日』という言葉を聞けただけで、トムの心は舞い上がってしまっていた。彼女は来年の誕生日まで祝う気持ちでいる。来年も、再来年も、きっとこの先もずっと一緒にお祝いしてくれるつもりなのだろう。
日記帳を貰ったことよりも、アイリスとここの家にいられることが嬉しくてたまらない。
トム・リドルは、生まれて初めて誕生日が嬉しいと思えた。