●1932年 6月×日
もうすぐ夏休み。
トムが友だちと遊びに行く気配はない。
というか、トムに友だちはまだいない。学校の成績はトップで、先生曰く「学業は今まで見た生徒の中で、間違いなく1番。運動神経も悪くない。しいてあげるなら、友人がないことが不安な点」だそうだ。まあ、それに関してはおおむね同意である。
簡単に友だちができるのであれば、ヴォルデモート爆誕はしないって!
友だちどころか同級生に関する話は聞いたことがないし、ヴァイオリンの練習に寝ても覚めても励んでいる。珍しく練習をしていないなというときは、必ず例のレコードを流していた。ここのところ、ヴァイオリンの音色を耳にしない時間の方が少ない。弦が擦り切れてしまって、新しいのを購入したくらい練習している。
それなのに、不思議と隣近所からの苦情はない。
なぜだろう……? トムの上達っぷりには目を見張るものがあるし、私はとても心地の良い作業BGMとして受け入れているけど、プロのレベルには至ってない。今度、時間のあるときに、それとなく隣近所に尋ねてみよう。
隣近所といえば、マーチバンクスさん!
しばらく見なかったけど、今日久しぶりに顔を合わせた。トムをクインシーのレッスンに送り届け、レッスン中はいつもの喫茶店で時間を潰そうかと思っていたとき、ばったり会ったのである。ひどく疲れたような顔をしていたので心配したら、最近の仕事が忙しかったらしい。
「ねぇ、アイリス。そろそろ夏休みでしょ? 夏はどこか旅行に行くの? もし、行く先が決まってないのだとしたら、国内にしておきなさい。海外へ行くとしても、オーストリアは危険よ。詳しくは言えないけど、最近……ちょっと嫌な噂を聞くから」
マーチバンクスさんから真剣な声で言われてしまった。
「オーストリアですか? ドイツではなく?」
私がちょっと驚いて返すと、マーチバンクスさんはすぐに「ドイツも危険かも! 行っては駄目よ!」と付け足してくる。
「旅行するなら、国内にしなさいね。本当、これから海外は危険よ」
私は本当に困ってしまった。
いまのうちにオーストリアやドイツに行こうと思っていたので口ごもってしまう。トムを音楽の都に連れて行ってあげたい。いまでないと、軽く見積もって10年は行けなくなりそうだ。特に、ベルリンなんていま行かないと見ることもできない建物が多いのだ。
だけど、マーチバンクスさんの言おうとしていることも分からないでもない。
ドイツで有名な髭の人はまだ大統領になってないけど、今度の大統領選にはドイツ国籍を取得して出馬するって噂を新聞で見かけたことがある。大統領選に出馬するってことは、それだけそういう風潮や下地が現在のドイツ国内にはあるに違いない。
だからこそ、いまのうちに旅行したいという気持ちがある。
なので、私はなにも知らない人間のふりをすることにした。
「私も嫌な噂は聞きますけど、噂は噂ですから。それに、トムは音楽に興味がわき始めていますので、特にオーストリアは早いうちに行かせてあげようと考えてまして」
「オーストリアは絶対にダメ! 危険すぎるわ!」
「危険って……どうして?」
「それは……貴方は……こほん、私は政府のお役所に勤めてるでしょ? そこでもっぱらの噂になってるの、オーストリアにはね、極悪人の根城があるって! 人を人とも思わない連中の! そんな連中のいる国にいま行ってごらんなさい。無事に帰って来られたら御の字、運が悪ければ、誘拐されたり殺されたり……イギリスには二度と戻ってこられないわよ」
あまりにも熱心だったので、ちょっと……いや、かなり引いてしまった。
それにしても、政府関係者の間でも髭の人に関する噂は広まっているのか。
というか、オーストリアも危ないってやばいでしょ。オーストリアが危ないとか、まだまだ私たち一般人の耳には入ってないぞ!? 新聞でも噂話でも聞いたことがない!
極悪人の根城って表現も凄いけど、髭の人が活動しているのはドイツなのでは?
なぜ、ドイツよりオーストリアを危険視しているんだろう?
はぁ……こうして、戦争の足音を聞くのはしんどい。
せめて、戦争が始まるまでは、トムにのびのびとさせてあげられるように努力しよう。
※
●1932年 7月〇日
ジョージ五世がランベス橋の開通式に参加したらしい。
かれこれ20年近くイギリスで生活しているけど、いまだに王様には違和感がある。絶対に人前では口が裂けても言えないけど。私にとってのイギリスっていえば、女王陛下の国ってイメージが根強くて……。ぽろっと零そうものなら「え、ヴィクトリア女王のこと? 実はおばあちゃんなの?」と思われかねない。
にしても、ジョージ五世か……。
ジョージ五世はかなりの高齢だから、お亡くなりになられたあとは長男の殿下が継ぐのだろうけど、彼には娘はおろか伴侶すらいない。もっとも、まだ独身だから、これから高貴な女性と結婚して、未来の女王陛下の父になるのだろう。でも、気になるのは弟殿下の娘にエリザベスって名前の王女様がいるってこと。しかも、彼女は王様溺愛の孫娘だって雑誌に載ってた。
これって、偶然?
まあ、身内に何人も同じ名前がいるなんてよくあること。確か弟殿下の奥方の名前もエリザベスだし。私のミドルネームのソフィアだって、若くして亡くなった叔母さんに由来する名前だ。よくある名前だから、殿下と未来の奥方との間に産まれる長女の名前もエリザベスになるのだろう。
ちなみに、トムは王家についてあまり関心がない。
今日、夕食後にランベス橋についての話をしても、「ふーん」と興味なく返されてしまう。魔法で自分の部屋から呼び寄せた新しい練習曲の譜面を宙でキャッチすると、すぐに目を落とした。
本当、興味のあるなしが分かりやすい。
ロサンゼルスのオリンピックが近々始まるのに、それについても関心はなし。少し外に出れば、誰しも金メダルがとれるかどうかという話で持ちきりなのに!
それにロサンゼルスといえば、ついに有名なアニメスタジオがフルカラー短編映画を公開したらしい! イギリスでも早く公開してくれないかな……「蒸気船ウィリー」が公開されたときは、何度も何度も映画館に足を運んだっけ……。
アメリカも行ってみたいな……憧れるな……。
※
●1932年 8月×日
今日はトムの初リサイタル!
いや、私もびっくり。トムもびっくり。
おばあちゃんの家へお泊り旅行をしたわけだけど、まさか、トムの初舞台に発展するなんて!
トムを引き取ったことは、おばあちゃんにずーっと黙っていたわけだが、モーリスのおせっかいのせいでバレてしまったから大変……!
今回、トムの顔見せもかねて泊りに行く代わりに、あの人には黙ってもらえるように約束をとりつけた。あの人に知られるのは、おばあちゃんに知られるより遥かに大変だもの。トムとあの人を会わせたくないし……。
とりあえず、おばあちゃんもトムのことを気に入ってくれた!
もっとも、トムは
「アイリスにほかの家族がいるなんて、僕は聞いてないぞ!」
って、怒っていたっけ。
だって、言ってなかったし、トムからも「リドルの親戚はいないの?」とは聞かれたけど、「血のつながった人は他にいないの?」と尋ねられなかったので、これ幸いと黙っていた。
だから、トムには「父はとっくに死んでいて、母とは疎遠。母方の祖母とはクリスマスカードを贈り合う程度の付き合い」とだけ伝えることにした。トムは根掘り葉掘り聞きたそうな顔をしてたけど、私のあまり言いたくなさそうな表情で言葉を濁すのを見てからは、なにも聞かなくなった。
トムがもう少し大人になって、まだ気になるようなら正直にすべてを話すことにする。
母方のヘレンおばあちゃんは、悪い人ではない。
おばあちゃんはコッツウォルズの田舎町で暮らしている。
子どものときは長期休みになると、必ず預けられて一緒に暮らしていた。子どもの私を育ててくれたので、悪い人ではない。ただちょっと詮索好き。何でもかんでも聞いてくるので、うっかり前世のことを口を滑らせそうになる。それに、私が仕事を続けて、なかなか再婚しないこともよく思っていない。おばあちゃんの考えは、ちょっと古いのだ。まあ、田舎のおばあちゃんなので仕方ないのだが……「苗字が一緒だったから」なんて理由で孤児を養子にしたなんて話をしたら、絶対に反対されるに決まってる!
実際、おばあちゃんは事実を知った瞬間、「えたいの知れない孤児を養子にするなんて! なにを考えているの!? 考え直しなさい!」というお叱りの手紙が届いた。
だから、トムのことを黙っているつもりだったのに……。
ところが、まさかの事態が起きる。
ヘレンおばあちゃんは、トムに懐柔されたのだ!!
おばあちゃん、たぶん最初は文句と不満をぶつけるつもりだったのだろう。実際、家の戸を開けたときのおばあちゃんの眼は鋭く尖っていたし、眉だって吊り上がっていた。
しかし、トムの顔を見た瞬間、きょとんと固まってしまったのである。
「はじめまして、ヘレン・ウォルパートさん。トム・マールヴォロ・リドルです。スペルはTHOMのトムです、よろしくお願いします」
トムが丁寧に頭を下げても、おばあちゃんは何も言わない。家に入れてくれる気配もないので、私がおばあちゃんの名前を呼びかけて、ようやく我に返ったらしい。おばあちゃんは怒っていた顔をすぐに嬉しそうに緩ませて、トムに笑いかけたのだ。
「あ、あらあら、ようこそ、トムくん! ロンドンから長い旅だったでしょ、おあがりなさい。ケーキを焼いたのよ、いっしょに食べましょう」
ヘレンおばあちゃんは温かい声で迎え入れてくれた。
「私のことは、気軽におばあちゃんと呼んでいいのよ! 家族なのだからね!」
そのあとも、おばあちゃんはトムに対してはうんと優しい。
耳にタコができるくらい「トムは可愛いわね! 素敵な男の子がひ孫になってくれて嬉しいわ!」と口にしていた。
きっと、予想外の美少年が現れびっくりするのと同時に、トムの礼儀正しさに惚れてしまったのだろう。
おばあちゃん、私に対してはちょっと冷たいくらいなのに、トムに対しては甘々である。
二日目に開かれたお茶会では、トムを物凄く褒めちぎって自慢していたもの!
いや、たぶん「孫娘が勝手に拾ってきた孤児を受け入れる、なんて心の広い私!」を演出するために呼びかけていたのだろうけどね。お客様たちの前で、私とトムをこき下ろすつもりだったのだろう。
でも、蓋を開けてみれば、おばあちゃんはトムを絶賛! お客様のおばさま方もトムにベタ惚れ!
いや、トムが可愛いのは知ってるよ!
まじ天使だもん!! トムはものすごーく可愛いのは重々承知だけどさ! あまりにも甘々なものだから考えもの。さすがにトムの笑顔が引きつってた。
さて、そのお茶会でおばあちゃんは「トム君はね、ヴァイオリンを習っているのよ。どう? ここで、皆さんの前で弾いてくださる?」と言いだしたのである!
私は最初反対したよ。
「トムは見世物ではありません!!」
ってね。
でも、おばあちゃんは聞き入れてくれない。それどころか、私に対して怒りだしたのだ。
「トム君がヴァイオリンが上手だって言っていたじゃない! それが嘘だって言うの!?」
「それは嘘ではないけど……人前でいきなり弾けっていうのは、心の準備とか必要でしょ?」
「なによ、せっかくトム君のために晴れ舞台を用意してあげようっていうのに! わからず屋の孫だこと……あなた、本当にトム君のことを考えているのかしら?」
「トムのことを考えているからです。おばあちゃんの気持ちは分かるけど、トムを自分の満足のために使うのは違うと思うわ」
「まぁっ! 自慢のひ孫を紹介して何が悪いの!?」
私が指摘するたびに、おばあちゃんは反対意見をあれこれ口にする。
私とおばあちゃんが口論しているうちに、トムが静かに呟いていた。
「ヴァイオリン、弾くよ」
私が困っているうちに、気がつくとトムはヴァイオリンを構えていた。
「アイリスは黙って見ていて」
トムはヴァイオリンを弾きだした。
私は息をのんだ。
おばあちゃんやお茶会に集まった人たちも。
美しかった。
ただただ聴き惚れてしまった。
「きらきら星変奏曲」の一音、一音が正確かつ滑らかで、音符の粒が星のように輝いているように思えてしまう。弾いている姿が様になっているのはいつものこと。それに加え、この日は窓から差し込む陽光がステージライトのようにトムを照らし出し、ハリウッドの映画スターがいるかのように目が惹きつけられてしまう。
トムが最後の一音を弾き終わったとき、溢れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
「素敵! どうしたらそんな音が出せるのかしら!」
「ねぇ! 有名な音楽家のレッスンを受けるべきよ!」
「素晴らしいわ、素晴らしいわ! 神童だわ!!」
おばあちゃんを含め、お茶会に集まった女性陣がこぞってトムを囲む。
私は茫然として座り込んだままで、事態を理解するまで時間がかかった。いつも家で何気なく仕事をしながら耳にしていたはずなのに、今日の曲はまったく違った。あまりにも違い過ぎて、理解が追い付かなかったのだ。
一瞬、トムが魔法を使ったのかと思った。
だが、すぐにその考えを否定する。トムはヴァイオリンを弾くときに魔法を使うことを嫌がる。弦の調子を整えるときに魔法を使うことはあるようだが、実際に演奏をするときは魔法を封印する覚悟で弾いているらしい。
「どう、アイリス?」
トムの誇らしげな顔を見て、私はすぐに微笑みかける。
「立派だったよ。いい演奏だったわ」
「当然だよ。
「……ありがとう」
これがトムの初リサイタル。
しかも、次回の予約までとれてしまった。
おばあちゃんの友人がドイツに住んでいるみたいなんだけど、「ホリデー休暇にサロンコンサートを開くから、ぜひ来て演奏して欲しい」って!
せっかくの機会だし、お邪魔することにした。
冬の旅行が決まって良かった!
いまベルリンに行かないと、二度と機会が巡ってこない!
ついでに、オーストリアに……とも考えたけど、マーチバンクスさんの忠告もあるから、ドイツの最低限な場所だけ行くことにする。
でも、ドイツはいま行かないと!
トムにも海外旅行は良い経験になるだろうし、結果オーライだよね!