●1932年 8月×日
いそがしい、いそがしい!
冬休みの旅行に向けて、トムも私も大忙し。
まさか『ぜひ、冬のサロンコンサートでトム君に演奏してもらいたいわ!』と頼まれるなんて、1年前は想像もしなかった。
現に、ヴァイオリンの先生ことクインシーは、この話を聞くと非常に複雑そうな顔をしていた。
『僕より先に単独コンサートを開くなんて……べ、別に羨ましくなんてないんだからな!』
そうは言いながらも、トムに意地悪することなく、これまで通り真面目に指導を続けてくれている。その最中、彼はちょっと不安そうな顔で私に囁いてきた。
『でも、ドイツなんて大丈夫なんですかね? ほら、ヤバい奴が政権とろうとしてるって聞きますよ』
クインシーに指摘されて思い出したけど、いまのドイツも結構世情が不安定だ。
ヒゲの人が大統領に就任する前ならギリ平気かなっていう楽観的な考えと、ベルリンは空襲で現在の風景が失われてしまう前にこの目に収めておきたいという希望的観測。そのうえ、冷戦時代は西と東に別れてますます行きづらいし、ベルリンの壁が崩壊する頃には、私はこの世にはいないだろう。その考えが先行し過ぎて、「いまのドイツも結構ヤバいし、ユダヤ人ほどではないにしろ、ドイツ人にイギリス人は嫌われてる」ということが頭から抜け落ちていた……。
滞在先はちゃんとした所だけど、万が一の備えはしっかりとしておこう。トムにもドイツ語を少し教えておいた方が良いのかもしれない。子どもの頃は使う機会なんてないと思ったけど、ちゃんと勉強しておいてよかった……。
トムは、ますますヴァイオリンに熱中するようになった。
「ドイツだから、バッハとベートーヴェンだ!」
そう言いながら、トムは自分で演奏曲リストを作成し、毎日朝から晩まで練習を重ねている。学校の宿題は大丈夫かしら、と不安になったが、杞憂に終わった。トムは最初の三日間で全部終わらせたらしい。
「めんどうなことは、さっさとおわらせるのは当たりまえだろ?」
トムは逆に不思議そうな顔をして尋ねてくる。
さすがでございます、トム・リドル様……。
そうそう!
今回の旅行に関してだけど、マーチバンクスさんには言ってない。
あれだけ「ドイツとオーストリアには行かない方がいい」と心配してくれたのに、強行しようとしてる事実は申し訳なくて……どこかでタイミングを見て、実は……と明かすようにしよう。トムのことを可愛がってくれているから、お土産を渡したい。
そういえば、ドイツにも魔法省ってあるのかな?
たしか、アメリカやフランスにも魔法省があったからドイツにもあると思うけど。もし、現地でトムの魔法になにかあったら、ドイツ魔法省がなんとかすることになるの?
まあ、細かいことは気にしない!
魔法の暴発みたいなことは起きてないし、トムも人前で魔法を使うことはないから……きっと平気だ。予想外な事件が起きてしまい、ドイツ魔法省にお世話にならないことを祈るとしよう。
●1932年 9月×日
トムは1年生!
やっぱり友だちはいないみたい。
まあ、それは仕方ない。
学年が上がったくらいで友だちができるなら、誰も苦労はしないよね。もちろん、友だちができるに越したことはないけど、長い目で見ていこうと思う。
ママ友グループの話なんだけど、ちょっと興味深い話が一つ。
夏休み前、ママ友の一人が自慢げにこんなことを話していた。
『毎年夏はイルフラクームのビーチに行くのよ! そこに旦那の実家があるの』
イルフラクームとは、ウェールズの南にある地域のこと。
海辺のリゾートで、ママ友たちは「いいなー」と羨ましがったものだ。私はそこまで海に興味がないので、同調して羨ましがってるふりだけど。
ところが、件のママ友さん。
顔を合わせて夏休みの話題になっても、イルフラクームの思い出話をしなかったのだ。
他のママ友が不思議がって、
「ねぇ、イルフラクームはどうだったの? 素敵な海水浴はできた?」
と話を向けたとき、彼女は途端にぼんやりとした顔になったのだ。
「たぶん、楽しかったと思うわ」
なんて、他人行儀というか口を濁したような答えに、私も他のママ友たちと顔を見合わせた。
「たぶんって、どういうこと?」
「楽しかったのはそうなんだけど……」
彼女はうーんと唸ったあと、急に怒ったような顔になった。
「そう! 変な人に絡まれて、本当に嫌だったのよ!」
彼女曰く、いきなり変なおじさんに絡まれたそうだ。
家族と浜辺に立っていたら、近所に住んでいるダークという名の男が「さっきのトカゲ、怖かったよな」と話しかけて来たらしい。
「酷い作り話って、私たちが相手にしなかったら、あの男……凄く驚いてきたのよ。なんでも『お前たちも見てただろ!? 巨大な醜い空飛ぶトカゲに俺のエアマットをパンクさせられたところを!』って。阿片でもやってたんじゃないのかっての! せっかくの夏休みなのに気味わるかったー」
ママ友はいらだちながら話を切り上げたので、そこから先のことは知らない。
ただ、私としては……魔法案件を疑ってる。
私たちマグルから隠されてるけど「巨大な空飛ぶトカゲ」こと「ドラゴン」は存在する。ドラゴンがウェールズの浜辺を襲ったところをママ友が目撃してしまい、魔法省によって忘却術をかけられたとかありえそうな話だ。ダークという男は、おそらく忘却術から運よく逃げられたのだろう。
いつかドラゴンを見てみたいけど、たぶん無理だろうなー。
ハリポタ読む限り、ドラゴンは魔法族ですら日常生活で目にする機会なさそうだもの。
これは魔法に関係する話なので、トムに話してあげたいけど我慢した。
魔法省とか忘却術とか、トムにまだ話せないから。私も生粋のマグルだから知らない設定だし……。
ちなみに、ママ友たちから
「リドルさんは素敵な夏休みを過ごせた?」
と聞かれたので、コッツウォルズの祖母を尋ねたと話した。
祖母がトムを気に入ってくれてよかった、と話したら、「よかったわね」と言ってくれた。
「おばあさんに許してもらえてよかったわね」
「若いからお金とか大変でしょう? トム君は大人しい子だけど、いろいろと」
ママ友は心配するような感じで言っていたけど、私は知っている。
この人たちが、影で私を悪く言っていること。そのくらい空気で分かる。事を荒立てたくないし、表面上は良好に付き合えているから、黙って気づかないふりをしているけど、そろそろ潮時かもな……かといって、他のママ友グループにいまから入るのも気が滅入る。でも、一人を貫くのは勇気がいるし、学校行事に関する細やかな情報が入りにくい。実際、クリスマスの劇で親が用意する物とかママ友がいたからなんとかなったようなものだ。
うーん、どうしよう。
トム自身は学校生活で問題が起きている節はないし、まだ先送りにしちゃおうかな。
※
●1932年9月〇日
馬鹿馬鹿馬鹿!
私の馬鹿!!!
自分の都合で、トムに迷惑をかけてどうする!!
駄目だ、冷静になろう。
落ち着け、落ちつけ……冷静になって、時系列にあったことを書き出してみる。
今日、学校から呼び出しを受けた。
どうやら、トムが同級生に危害を加えたらしい。
急いで学校に駆けつけて、私は愕然とした。
トムの左頬が真っ赤に腫れあがっていたのだ! もとより白い肌なだけ、左頬は痛々しい。私も一度手をあげてしまったことがあったけど、それとは比べ物にならないほどの力で叩かれたのは明白である。
トムは痛みに耐えるようにむすっと押し黙り、私を見ても表情一つ変えずに担任の先生を睨みつけていた。
「トムっ!? どうしたの、その怪我? すぐに冷やさないと……ッ!」
「リドルさん、落ち着いてください」
私の質問に答えたのは、担任の先生だった。
「トムも悪いんですよ。同級生のメイソン・トンプソンに殴りかかって――」
「ちがう!」
ここで、トムが初めて口を開いた。
「あいつ、アイリスをばかにしたんだ!!」
「私を?」
「『おまえの母ちゃん、わかいからミズショーバイってきたない仕事してるんだろ。きたねー金でバイオリンとかならって、はずかしくないのか』って!!」
私はガツンっと殴られたような感じだった。
トンプソンという苗字には聞き覚えがあった。ママ友グループのうち、一人の子どもである。ママ友のなかでも私を見下している一人なので納得はいったが、まさか息子の前でもそのようなことを口にしてるとは思わなかった。
私が茫然としていれば、トムは憤慨したように言葉を続けた。
「ミズショーバイはしらないけど、アイリスをばかにしてるのはまちがいない!! アイリスは、きたない仕事なんかしてない!」
唯一の救いは、トムが水商売の意味を具体的に知らなかったことだろうか。私は水商売も立派な仕事だと思っているけど、トムは……ちょっと潔癖症なところもあるから、たぶん、意味を知っていたら、もっと苛烈に激怒していたに違いない。
私は混乱する頭に鞭を打ち、担任の先生に向き直った。
「……メイソン・トンプソンと喧嘩になって、殴られた理由はそれですね」
「メイソンの顔も腫れあがってましてね……いま、別室で寝かせています。彼の保護者はまもなく到着すると思いますが……」
「わかりました。10分でいいので、トムとふたりっきりで話させてください。あと、氷をいただけませんか?」
担任の先生は渋い顔をしながらも了承し、氷を用意してくれたあと、二人っきりにしてくれた。
「じっとしてね」
トムの頬に袋に詰まった氷をつければ、彼は痛そうに眉間に皺を寄せた。
「痛い?」
「……いたい」
トムは強張った顔のまま頷いた。
「……アイリス、おこってる?」
「それはね。でも、それ以上に心配してる。……ごめんね、トム」
「なんで、あやまるんだよ!」
トムが声を荒げた。
「アイリスはなにもわるくないじゃないか!」
「そうね……でも、私が油断していたから。まさか、私の悪口をトムの前で言うとは思わなかったの」
ママ友との付き合いは、考え直すことにする。
トムの学校生活を円滑に進めるためと我慢していたけど、それを台無しにするようなことをされたのだから、これはもう縁を切るしかない。
「私のために怒ってくれてありがとう。でもね、殴るのは駄目よ」
「……だって、わるいのはあいつだ」
「それでも、手を出した時点でそっちが悪くなるの。相手が悪くても、その場では我慢しないと」
「アイリスは、やられっぱなしでいいのかよ!!」
そのとき、トムの目が――黒かった瞳が赤く染まる。
ハリポタ原作で描写されるヴォルデモート卿の目だった。本当は怖いはずの目なのだが、不思議なことに、このときばかりは嬉しく思えた。
だって、トムが本気で私のために怒ってくれたということだから。
もちろん、駄目なことは駄目。
嬉しく思えた心をひとまず押し殺し、彼の赤い眼をまっすぐ見すえた。
「だから、私たち大人がいるし、法律やルールがあるのよ」
私はトムに言い聞かせるように、ゆっくりと語りかけた。
「たとえば、先生はトムだけを叱った?」
「……メイソンのこともおこってた。バカにするなって。なぐりかえすなって」
「そうでしょ」
トムから言葉を引き出せ、ちょっとだけ安心する。
先生がメイソン側だったら頭を悩ませてたところだったけど、まともな神経の持ち主でよかった。
「嫌なことがあったら、先生や周りの大人に言うこと。正しく解決してくれるわ。殴るのは駄目。相手が悪いのに、こっちも悪くなっちゃう。悪い奴のせいで、自分も悪者になったら悔しいと思わない?」
トムは赤い眼のまま頷いた。
「だけど、まもってくれない大人もいる」
「そうね。でも、私は違うわ」
氷を持っていない方の手を伸ばし、トムの肩に優しく添えた。
「嫌なことがあったら、私に伝えて。しかるべき対応をするから」
「……じぶんでやりかえしたい」
「その気持ちも分かるけど、トムにはまだ早いわ」
私は努めて微笑みながら伝える。
「どうしても仕返しをしたいなら、法の範囲で。10年……いえ、15年後も仕返しをしたいと思えたときにすること」
10年も経てば、たいていの怒りは忘れてしまう。
もちろん、10年経っても思い出せばムカつくことはあるし、仕返しをしたい!と思うことはあるだろう。だが、その頃には「止めようかな」だったり「あんな奴のために時間を割く方が無駄」だったり思うものだ。
本当は10年と切りの好い数字を口にしたかったけど、いまのトムは5歳。10年後は15歳という思春期真っただ中なので、本当に「仕返し」を実行しそうで恐ろしい。法の隙間を縫って、百倍返しとかしそうである。20歳にもなれば、ひとまずは問題ない――と思うけど、どうなんだろう?
トムがヴォルデモート卿のように育てば、20歳でも何歳でも「仕返し」する。というか、20歳になる前にその場で百倍返し実行だ。私がそうならないように育てるしかない……改めて、頑張ろう。
「……仕返しはダメじゃないんだ」
「その気持ちは、誰だって持つものだから。それと折り合いをつけられるようになることが、大人になるってことじゃないのかなって」
「……」
トムはなにも答えない。
だけど、赤い眼は揺らぎ、徐々に元の黒い瞳に戻り始めていた。そのうち、ぷいっとそっぽを向くと、皮肉交じりな声色でこんなことを口にした。
「アイリスって、すてきなかんがえをするね。りかいできないよ」
「お褒めの言葉と受け取っておくわ」
「……あのさ、僕……」
トムはここでまた一度黙り込む。だけど、意を決したように――されど、こちらと目を合わせることなく呟いた。
「……魔法、つかわなかったよ……こういうことにつかうのは、わるい魔法使いなんだろ」
その言葉を理解するまで、瞬き二回ほど要してしまった。
そこで、原作トム・リドルが怒ったときは魔法を行使して人に危害を加えていたことを思い出す。彼は私のために激怒したけど、殴りかかったのは「魔法を使っては駄目」という約束を守るためだったのだ。頭の回転が悪い私はようやく思い至り、無性に泣きたくなった。
「……よく我慢したね!!」
私はトムを思いっきり抱きしめた。
自己評価ではあるが、私の子育てには間違いが多いと思う。
子どもを育てた経験はなく、保育教育系の知識も少ない。この時代の育児書を読んでも「笞を使う」とか「子どもを縛る」とか当たり前に記してあって参考にしたくないから、なにもかも手探り。だから、きっと間違いだらけで、トムをちゃんと育てられるか心配で仕方なかった。
たとえるなら、暗闇のなかを灯りもなしに歩いている感覚だった。たった一人で正解の見えない闇を歩く感覚は底冷えするような恐ろしさがあって、不安で押し潰されそうになることも多かった。
そのなかで、今日――一筋の希望が見えた。
ああ――それは、どれだけ嬉しかったことか。
「約束、守ってくれてありがとう!!」
トムに語りかける声は、みっともないくらい震えていた。
トムはなにも言わない。
最近は抱きつくと「はずかしいからやめて」と言うのに、このときはされるがままになっていた。
……駄目だな。
これを書いてる、いまも嬉し涙が止まらないや。
ちなみに、このあと――トムは私が何も言わなくても、相手に謝っていた。
正確には、相手のお母さん――トンプソン夫人に。
「ごめんなさい、トンプソンさん。僕はあなたの息子になぐりかかってしまいました」
トムは心の底から悲しそうに顔を歪めると、声を震わせてこう言った。
「どうか、ゆるしてください。アイリスは孤児院から僕をひきとってくれたのに、そのしんらいをうらぎるようなことをしてしまいました……同級生をなぐるだなんて……いくら、メイソンがアイリスをばかにしたとしても、僕はがまんするべきだったのです。僕にとってアイリスはいのちのおんじんだから、がまんできずにおこってしまって……僕のこうどうは大人ではありませんでした。どうか、ゆるしてください」
トムは頭を下げる。
肩が震えており、言葉の節々からは真摯な姿勢を感じられた。
だが、この謝罪には疑問が残る。
私はトムの泣き出しそうな声を聞きながら「謝りながらも、暗に相手を批判してない? というか、メイソン君には謝ってなくない!?」って冷や汗が流れたけど、トンプソン夫人は違ったらしい。
「顔を上げなさいな。もう泣かないでおくれよ。うちの子もアンタの顔を真っ赤になるまで殴って悪かったね。あんたの気持ちも分かるよ、自分の恩人が馬鹿にされてたら、そりゃ怒りたくなるものさ。うちの旦那なんて、もっと単純なことも我慢できずに四六時中怒るものでね。それに比べたら、あんたは年の割に十分我慢強いよ。……ほら、あんたも謝りな!!」
トンプソン夫人は押し黙った息子の頭をぐいっと下げさせ、無理やり謝らせていた。
「ほんとうにゆるしてくださるのですか?」
「ええ、ええ! 許しますとも。すぐに自分の非を謝れる子は良い子ですから」
トンプソン夫人はトムに向かって励ますように告げると、そのまま私の方へと歩いてきた。なにを言われるのかと身構えたが、トンプソン夫人はにっこりとした顔でこう囁くのだった。
「友だちを作らない変わった子だけど、しっかりと礼儀を躾けてるようだね。間違いを認められ、素直に謝るところもいい。随分と良い子を貰ったものだ。うちの子と取り替えたいくらい」
トンプソン夫人は、トムの魅力にやられてしまったようだ。
帰り際、トムがちょっと得意げな顔でこう言った。
「あんなかんじでいいだろ。うまくあやまれた」
「ちょっとやりすぎじゃない? 謝らないよりかは良いけど」
「そうだろ! ここであやまっておいて、15年後にし返しすると、あいつもびっくりするだろうし、ダメージおおきいはずだから!」
「仕返しのことを楽し気に語るものではありません……」
うーん、まだまだ道は険しい!
けど、希望が見えたようで安心した。
これからも、頑張ろうと思う。
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