11月ともなれば、ロンドンの街は木枯らしが吹き荒れる。
頬を刺す冷たい風が日を追うごとに冷たく、鋭さを増すに従い、クリスマスや休暇の足音が一日ごとに迫ってくるのを実感する。まもなく、雪も降り出すことだろう。学校の廊下を歩けば、誰もが浮足立っているのが分かった。クリスマスの話題を口にしたり、休暇にはテムズ川でスケートをしないかと相談していたり、誰もが笑顔で話に花を咲かせていた。
しかしながら、トム・リドルは違う。
「ふん、くだらないな」
トムは彼らの様子を横目で見ながら、音楽室へと急いでいた。
ホリデーの休暇には、ドイツへ演奏旅行をすることが決まっている。クリスマスと誕生日を祝ったら、ドイツへ向かうことになっていた。なので、トムはいつになく気合がはいっていた。授業と授業の合間の長めの休憩時間の折りには、音楽室に併設された個室に駆け込み、一分一秒を惜しんでヴァイオリンの練習をするほどである。
ただ、教室から音楽室まで移動するのは大変だ。階段を二つ上がって、長い廊下をひたすら歩いて突き当りの角を曲がるので、移動だけで4、5分はかかってしまう。いっそのこと魔法で瞬間移動できたらと思わずにはいられない。
実際、瞬間移動の魔法を目下開発中なのだが、これがなかなか難しい。たとえば、「リビングに行きたい」と強く願っても、その場でくるんっと不自然に回るだけで終わってしまう。これを強引に魔力で押し切れば移動できそうな気もするが、同時に身体がバラバラになってしまう予感が浮かんでしまい、その決断に踏み切れないでいた。
「……ん?」
廊下の角を曲がり、音楽室に到着したところで、トムは個室の前にたたずむ男の子に気づいた。くしゃくしゃな茶髪が特徴的な男の子は、自信なさげに足元に目を落としている。注目すべきは、彼の手にもヴァイオリンが握られていたことだった。
「そこ、君がつかうつもり?」
トムが話しかけると、男の子はびくっと身体を震わせる。
「あ、えっと、その……」
「つかわないなら、僕がりようするけど」
トムがぶっきらぼうに告げると、男の子は不安そうに目を泳がせていた。うじうじと内気な空気に、トムはだんだんイライラしてきた。
トムは同級生からだけでなく、上級生からも遠巻きにされていた。
学年どころか学校で一番勉強ができる自負があったし、それは事実である。運動神経も悪くないのも、学校中のみんなが知っていた。普通なら、学校の人気者になれるステータスなのだろうが、トムは一匹狼を貫いている。彼の纏った冷たく人を寄せ付けない空気は、子どもたちも察しており、誰も近づいてこないのだ。おまけに自分の親を馬鹿にした同級生に殴りかかったともなれば、みんなが遠巻きにするのは当然だし、トムはそのことに特別な不自由さを感じていなかった。
「トム・リドル君、ですよね」
トムがイライラを募らせていれば、男の子はようやく分かり切ったことを口にする。
「そうだけど?」
「あの、僕、となりのクラスのジョナサンっていいます。ジョナサン・ホワイトです」
「そう。で、どうするの?」
「えっと……あの……」
ジョナサンと名乗った男の子は深呼吸をすると、緑色の目をまっすぐ向けてきた。
「お、おねがいします! 僕とヴァイオリンのアンサンブルやってくれませんか!?」
「ことわる」
即答すれば、ジョナサンは「そこをなんとか!」と頼み込んで来た。
「僕、ともだちがあまりいなくて……それに、ヴァイオリンならってる子もすくないですし……だから、リドル君しか、たのめそうな人がいないんです」
「かんけいないだろ。僕はいそがしいんだ」
トムは鬱陶しそうに言い放つも、ジョナサンは必死に食い下がってくる。ヴァイオリンを握りしめ、個室の扉の前から動く気配がない。トムは大きくため息をついた。
「アンサンブルって、2人でヴァイオリンをひくってことだろ? 君の先生とすればいい」
「先生はピアノをひくから……それに、僕、ママをあんしんさせたいんです」
ジョナサンの言葉に、トムはぴくっと眉を上げる。
「どういうこと?」
「僕のママ、からだがよわくて……もうながくないんですって。ママ、僕に友だちがいないことをすごく気にしていて……だから、3月のはっぴょうかいで、ともだちとヴァイオリンのアンサンブルをやって、ママをあんしんさせたいな……って」
「ふーん」
トムは彼の言葉に耳を傾けているうちに、先ほどまでのイライラが減っていることに気づいた。さっさと邪魔な男の子を突き飛ばしてしまいたくなる衝動と戦っていたというのに、そんな気持ちは消え失せてしまっている。それどころか、少しばかり心が動いている自分に驚いていた。
「君の母親。そんなにぐあいが悪いの?」
「うん……ガンってびょうきらしいです。パパも『いまのうちに、ママとたくさん思い出つくろうな』って」
「父親はげんきなんだね」
トムはちょっと冷たい口調で言うも、ジョナサンは弱々しく笑った。
「パパはげんきですけど、しごとがいそがしくて……あんまり家にいないんです。安息日もかえってくる日とこない日があるくらいで……リドル君のパパは?」
「しらない。どこにいるのかも、顔もしらない」
そう言い切れば、ジョナサンは「ごめん……」とうなだれる。
「君があやまることじゃないさ」
トムはぶっきらぼうに言うと、ジョナサンに手を伸ばした。
「で、曲は? なにをひくつもりなの?」
「やってくれるんですか!?」
「がくふを見るだけだよ」
そう言っても、ジョナサンは一変して目を希望で輝かせると、いそいそと楽譜を手渡して来た。
トムは「2つのヴァイオリンのための協奏曲」と書かれた楽譜に目を通す。子ども向けにアレンジされているのか、随分と分かりやすく弾きやすそうだった。
「バッハの曲か……へー」
「どうかな? リドル君できる?」
「かんたんさ。練習すればね」
「なら――っ!」
「で、君は僕になにをしてくれるの?」
トムは言葉を返せば、ジョナサンは見るからに戸惑っていた。
「なにをって?」
「とうかこうかん。ものを買うのに、お金がひつようだろ? 僕のきちょうな時間をさくんだから、君もなにかくれないと!」
「え、ええーっ!?」
ジョナサンは目を丸くすると、大きな声を出す。
「そ、それは、そうかもしれないけど、うーん、うーん……リドル君、僕、こどもだからなにももってないです。おかねはないし、おかしとかおもちゃも、パパがおしごとでかせいでくれたおかねだし……」
ジョナサンが悩む姿は、どこまでも平凡な同級生。特別なところはなく、つまらなく退屈な子どもであった。
「あ、そうです! おもしろい本をしってますよ! ちょっとむずかしい本で、僕はよむのにじかんがかかって……でも、すっごくカッコイイたんていものがたりなんです! リドル君もきにいるとおもいます!」
「たんていもの……ホームズってやつ?」
トムが尋ねれば、ジョナサンはこくこくと頷く。
「シャーロック・ホームズ」という探偵物語は、アイリスの仕事部屋に置いてあった。アイリスが好きな本らしく、何度も何度も読み返したあとが目立つ。それだけ面白い物語なのは明確で、以前から興味はあったのだが、アイリスが「トムには、まだちょっと早いかな」と遠ざけられている。アイリス曰く「残酷なシーンがあるから」とのことだったが、「同級生から借りてきた」と主張すれば他のシリーズも読ませてくれるかもしれない。
そう思うと、悪くない提案である。
「3月だよな。それなら、まあいいか。アンサンブルってやったことないから、べんきょうになる」
「ほんとうに!? ありがとう!!」
ジョナサンが笑ったところで、休み時間終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
これが、今日起きた出来事。
「詳しい話は明日しよう」と別れ、ヴァイオリンの練習はできなかった。それなのに、自分の胸に湧き上がったのは貴重な練習時間を邪魔された怒りではなく疑問符だった。どうして随分と甘い条件で提案を受け入れてしまったのか、自分のことが理解できない。
「そうだ、日記だ!」
トムは帰宅して早々、日記帳を開いた。
去年の誕生日、アイリスから贈られたプレゼントはなかなかに重宝している。最初はなにを書いたらいいのか分からず、その日あったことを記録しているだけだった。だが、その記録を見返したとき「そうか、だから僕はこの選択をしたのか」と発見に気づくことができたのである。たとえば、休憩なしに魔法やヴァイオリンの練習をしたときより、途中で休憩を挟んだときの方が上達することが発見できた。お菓子を食べた方が効率よく練習できるとか子どもっぽい気もするが、事実なので認めるしかない。
日記を書き、自分を客観的に見返すのは、なかなかに興味深かった。
「さて、書こう」
とりあえず、ジョナサンとの会話を思い出せる限り順序立て書き出してみる。
トムは記載された事実を読み返し、思考の海に浸るように、じっくりと考え込んだ。
「……びょう気の母親、か」
一番最初に目に入った会話を見下ろし、唸りながら腕を組んだ。
自分の心情が変化したのは、間違いなくここである。死を待つしかない母親を安心させるため、トム・リドルとヴァイオリンを弾きたいという切なる願いに、同情心が芽生えてしまったのかもしれない。そのうえ、元気なはずの父親も仕事を理由に帰って来ないともなれば――、とここまで考えたとき、トムは自嘲染みた笑みを浮かべていた。
「なんだか、僕らしくないや」
少なくとも、孤児院にいた頃の自分ならまず考えなかった。
自分の周りはもれなく親がいない子ばかりだったということもあるが、それを踏まえても「誰かのために力を貸す」なんて思いつきもしなかった。孤児院に「悪魔の子」の力を借りようとする子がいなかったということもあるが、土下座して頼まれたって一蹴していたに違いない。
間違いなく、アイリスと出会ってから自分が変わったのだ。
その最たる例が、怒りに任せて同級生相手に魔法を使わなかったこと。少し前の自分なら、躊躇なく魔法を使っていた。実際、魔法で吹き飛ばしてやろうと思ったが、アイリスの悲しそうな顔が脳裏に浮かび、既のところで堪えたのである。
「……アイリスはすごいや」
彼女の前では、絶対に伝えられない言葉を呟く。
魔法が使えないのに、魔法みたいな人だ。ずっと一緒にいたいし、絶対に手放したくない。だから、将来のことを想像すると、足元に底の見えない穴が開くような恐怖感を覚える。
年齢的に、アイリスが自分より先にこの世を去ることになる。そのくらいのこと、子どもでも容易に推測できた。
だから、アイリスのいない世界を想像する。
彼女のいない世界で、自分はどのように過ごすのだろう? 孤児院で過ごしていたような一人に戻るだけだと理解しても、心に隙間風が吹いてしまう。世界に置いて行かれたような、幸せだった日々が指の隙間から落ちていく姿が脳裏に浮かび、恐ろしくて叫びだしたくなる。
だから、いつか来るであろうその日が怖くてたまらない。
もう、ひとりぼっちになりたくない。
「……やめた」
恐怖を振り払うように、日記帳を閉じた。
恐ろしい未来のことではなく、もっと直近の幸せについて考えることにする。
「そういえば……」
ふと、ジョナサンに父親のことを聞かれたことを思い出した。
孤児院にいた頃は、自分と同じ名前を名乗る男が迎えに来る日を夢見ていた。父親が生きているのか、死んでいるのか分からないし、アイリスと過ごすようになってから、父親の存在を思い出すことも少ない。久しぶりに、父のことに想像を膨らませる。
父親は、どのような人だったのだろう?
もしかしたら、父も――自分のように魔法を使えたのではないか?
母は魔法を使えないことは明確だ。魔法が使えたら、あんな惨めな死に方はしない。魔法を駆使して、自分のために生きてくれたはずだ。
父が魔法を使えるなら、ぜひとも会ってみたい。
自分のように魔法を使える人に、会ってみたい。魔法を使える素敵な人なら、アイリスも父のことを気に入ってくれるはずだ。都合の良い推測かもしれないけど、大好きなアイリスと魔法を使える父が一緒の家族になってくれたら、もっともっと自分は幸せになれるのではないか。そこまで空想を膨らませたとき、自分の口角が上がっていることに気づいた。
でも、どうやって父を探せばいいのだろう?
トムはしばらく考え、傍に置かれたヴァイオリンとレコードが目に入ったとき「これだ!」と頷いた。
「僕が、ゆうめいになれば……!」
レコードが出せるくらいの腕前になれば、新聞に「トム・マールヴォロ・リドル」の名前が印字されるようになれば、同じ名前の父も息子がどこにいるのか気づくはずだ。もし、悲しいことに父がこの世にいなくても、父を知っている人から連絡が来るかもしれない!
「よし!」
トムは気合を入れるように、ヴァイオリンを手に取る。
黒々とした瞳は、希望で輝いていた。