〇1936年9月 動物園に行こうよ!
お願いだから、心に指を入れないで。
いっそのこと一思いに殺してくれたら、どれだけ楽になれるだろう!
真綿で首を絞めるような、永遠の牢獄なんて必要ないのに。
※
●1936年 9月×日
「アイリスが気にしてたニュース、載ってるよ」
朝食の準備をしていると、トムがぽんっと新聞紙を投げてきた。
だけど、私はフライパンに卵を落とすところで両手が塞がって受け取れるはずがない。もちろん、そんなことは、ちゃんとお見通し。トムが投げた新聞は宙に浮いたまま、私の前でひとりでに広がっていた。
いやー、魔法って便利!
私も使いたいや……!
「ありがとう!」
トムに礼を言うと、スクランブルエッグを作りながら記事に目を通した。
そこには、女性飛行士が大西洋を無着陸単独横断したことが綴られていた。イギリスを出発したニュースは耳にしていたけど、天候不順でアメリカではなくカナダに着陸したらしい。無事に横断できたようで胸をなでおろした。この時代、たった一人で大西洋を飛行すること自体が非常に勇敢なことだ。心から尊敬する。
でも、トムの前でこのニュースを気にしていたなんて話したことがあったかな?
「トムは本当によく気付くわね」
「だって、アイリスは飛行機が好きだろ」
トムはさらっと返した。
飛行機が好きだなんて、何年も前に話したっきり。5年以上経っているんじゃないかな? それを覚えているのが凄い!
そういえば、ずっと前にトムが「アイリスを空に連れて行ってあげる」と約束してくれたっけ。あれ以降、その話題が出ないけど……そのことを覚えているのか興味が湧いた。
トムの魔法は日々向上している。
物体を浮かすのは息をするよりも簡単にこなし、指先を振らずとも任意の物を浮かせて移動させることができるらしい。でも、トム自身が宙に浮いているところを目撃したことはなかった。もっとも、トム自身に飛行する理由がないのかもしれない。魔法を使うことが許される室内で、わざわざ飛んで移動する必要は皆無。さほど天井が高くないし、ちょっと浮き上がっただけで頭がぶつかりかねない。
どちらかといえば、トムは飛行よりも瞬間移動を極めていた。
食事の支度を始めると、ぽんっとリビングに現れるのだった。
……あれ?
いま気づいたけど、これって「姿あらわし」?
ホグワーツ高学年で習得する高難易度な魔法なのに、9歳の少年が使いこなしているってこと?
失敗すると身体がばらけるって記述があった気がするけど、トムは大丈夫なのかな? 私が見た感じ、どこかを痛がっているような素振りを見せたことはないから平気だと思うけど……今度から瞬間移動したときは様子を注意することにする。
「ところで、トム。手に持っているのは?」
スクランブルエッグを皿に移しながら、トムの右手に目を向ける。彼の手には、リボンで結ばれた小冊子が握られていた。
「別に。たいしたものじゃないさ」
トムは素っ気なく言うと、冊子をテーブルに置く。
「ジョナサンへのプレゼント。あいつ、誕生日だから……プレゼントくらい用意してやらないとなって」
「なにを用意してあげたの?」
冊子に目を落とせば、トムの几帳面な文字で「魔弾の射手」と記されていた。
「先生が持っていた楽譜を写したんだ」
トムは蜂蜜の壺を呼び寄せながら答えた。
「あいつ、この曲がやりたいって話してたんだよ」
私は微笑ましくなった。
数年前、ジョナサンと「2台のためのヴァイオリン協奏曲」を弾いたときから、2人は良き友達関係を築いている。どちらかといえば、トムがジョナサンを引っ張るような感じだったが、そこに上下関係はなく、実にのんびりとした空気を保っていた。もしかすると、ジョナサンの境遇に同情心が芽生えたのかもしれない。
今日も、ジョナサンの誕生日を祝うために、トムから「僕は忙しいけど、この日は時間があるんだ。ジョナサンも暇なら、どこか遊びに行ってもいい」と提案したのだった。そこで、今日は「ロンドン動物園」に行くことが決まったのである。
まさか、トムが友だちの誕生日を自ら祝う日が来るなんて……成長したものだ。
さて、朝食を終えると、私とトムでジョナサンを迎えに行った。
さすがに、9歳と10歳の子どもたちだけで「ロンドン動物園」に行かせるわけにはいかない。
「トム! アイリスさん!」
ジョナサンの家に着くと、彼は玄関の前で座って待っていた。小柄な男の子は暇を持て余すように足をぶらぶらさせていたが、トムが目に入ると、嬉しそうに立ち上がった。
「おはようございます! トム! いそがしいのに、今日は動物園に誘ってくれてありがとう!」
「別に。たまたま時間が空いただけ。ほら、さっさと行くぞ。時間は有限なんだ」
トムはそう言うや、ジョナサンに背を向けて歩き出してしまう。
「うんっ! 僕、とっても楽しみにしてたんだ!」
ジョナサンはぴょんぴょんと跳ねるように駆けだすと、すぐにトムの隣に並んだ。
「僕ね、ペンギンが見たいんだ! ペンギンプールが出来てから、一度も行ってないから。トムはやっぱりヘビ?」
「当然だろ。蛇ほど崇高な生き物はいない」
「ヘビって頭良さそうだもんね」
「実際、頭が良いんだ。人間が思っているより、ずっとね」
2人はそんなことを話しながら歩いている。
私はその半歩後ろに続きながら、2人のやりとりを見守っていた。
「ところで、これ。忘れないうちに渡しておくよ」
トムはいま思い出したかのように、プレゼントを渡した。
ジョナサンは最初のページに目を落とした途端、顔全体を輝かせる。
「魔弾の射手! これ、トムが写してくれたの!?」
「勉強のためさ」
トムは顔色を変えずに答えた。
「本当に勉強のためだよ。先生から『有名な曲には目を通すように』と指導を受けてね……でも、途中で間違えたパートを写してることに気づいて、捨てようと思ったけど……たしか、君、欲しがってただろ」
ちゃんと「誕生日のプレゼント」だと伝えればいいのに、トムは回りくどい言い方をする。
間違えて写したものなら、わざわざリボンで結ぶ必要はない。リボンだって、トムは「あいつの好きな色ってなんだったっけ?」と悩みながら魔法で青く染めていた。素直じゃないな、と思いつつも、それがトム・リドルらしい。
私同様、ジョナサンもトムの不器用な優しさを理解していて、へにゃっと笑った。
「えへへ、そうなんだ。すごく嬉しい!!」
ジョナサンはわざわざ一度足を止めると、プレゼントされた楽譜を丁寧にしまいこむ。
「ありがとう! この曲のね、クラリネットのソロが神秘的でね、とっても素敵なんだ!」
「そういえば、ジョナサン君はクラリネットを始めたんだっけ?」
私が言葉を投げかければ、ジョナサンは大きく頷いた。
最初こそヴァイオリンを習っていたが、いつのまにかクラリネットに転向していた。こうして、直接話す機会は少ないので、ここぞとばかり尋ねることにする。すると、彼ははにかみながら答えてくれた。
「音色が穏やかで、ヴァイオリンより好きだなって思ったんです。それに、ママもクラリネットを習っていたから」
「……そう。お母さんの……」
それっきり、私はなにも言えなくなってしまった。
ジョナサンのお母さん――アルヌール・ホワイト夫人は、とても穏やかで感じの良い方だった。トムとジョナサンの演奏を涙を流しながら喜んでくれたし、私も何度か2人でお茶を楽しんだっけ……。
「今度、聴かせてね」
なんとかそれだけ口にすれば、ジョナサンは大きく頷いてくれた。
ロンドン動物園は土曜日だから客足も多く、うっかりすると迷子になりそうだった。よって、手を繋いで歩くことにする。ジョナサンは手を差し出すと握ってくれたけど、トムはポケットに手を突っ込んでしまった。
まあ、これは仕方ない。
今年の春ごろから、トムは手を繋いでくれない。私のことを嫌いになったわけではなく、これも成長の一環だ。空いた手のひらはちょっぴり寂しいけど受け入れている。
だから、このときも「はぐれないようにね」と言うつもりだった。しかし、私が口を開く前に、トムがつんっと冷たい声を出した。
「アイリスは心配性だな。はぐれないから大丈夫だよ。でもさ……」
すました顔で言い切るも、彼の眼はジョナサンと繋がれた手に向けられている。
「ジョナサン、君は10歳になったんだろ。恥ずかしくないの?」
「んー? べつに。それに、迷子になっちゃう方が大変だと思う」
「僕はならないさ!」
トムは口を尖らせると、両手を握ったり開いたりを繰り返していたが、観念したように私の右手に指を絡ませる。
「僕は平気でも、アイリスたちが迷子になるかもしれないから」
トムは言い訳のように呟く。耳まで真っ赤に染まっており、煙が立ちそうなほど熱を帯びていた。そのあと、くいっくいっと手を引っ張って来たので、どうしたのかと顔を近づければ、トムは私にしか聞こえないくらいの囁き声でこう告げる。
「僕がアイリスと一緒に暮らしているんだから。ジョナサンは誕生日だけど……そこ、うっかり忘れないで!」
あー! もう、思い出すだけで尊い。
ジョナサンと手を繋いでいるからって嫉妬しているのが丸わかりで……やっぱり、まだまだ子どもだなって再確認した。
それからは、3人で手を繋いで歩いた。
両手に天使である。
熊のウィニーはもういない。熊の展示付近は空いている一方、新しく出来たペンギンプールやゴリラ舎は人が押し寄せており、身動きをとるのも難しい状態だった。結局、ゴリラは諦めてペンギンだけちらっと見る。白と黒の生き物といえばパンダの名前を上げる人も多いけど、私はペンギンを思い浮かべるくらいには好き。よちよち歩きも可愛いし、鳥なのに飛翔することはできず、水のなかを飛ぶように悠々と泳ぎまわれるギャップが素敵だなって感じる。
そのあとは、ジョナサンの希望で鳥類の展示を主に回った。
「本当、君って鳥が好きだな」
ジョナサンがきらきらとした眼差しでカモメを見つめる一方、トムは興味なさげな言葉を零していた。
「鳥のどこがいいの?」
「んー、どこまでも飛んでいけるところかな」
ジョナサンはカモメを眺めながら言った。
「翼があれば、どんな壁があっても平気でしょ。すいーって海も山も越えていける!」
「……それなら、こういうところの鳥は苦手なんじゃないか?」
カモメの周りには、逃げられないように鉄の檻で覆われていた。四方は当然のことだし、青い空を遮るように格子が張り巡らされている。とてもではないが、やすやすと青空へ逃げられるとは思えなかった。
「ここから逃げられない」
「でも、ここの子たちは幸せだと思うよ。ちゃんとご飯貰えてるし、お世話してもらえるし、それに……ほら、家族もいるから!」
ジョナサンが指さした先を見れば、カモメの足元に小柄な個体が2羽いた。まるで、母親の傍に寄りそうように枝に止まっている。本当に家族なのか、たまたまなのかは分からないけど、仲が良いことだけは確かだった。
「……家族、か」
トムがちらっと私を見上げたが、すぐに逸らされてしまう。
それっきり、トムは蛇のコーナーに行くまで何も言わなかった。ここに展示されてるニシキヘビとは、もう顔馴染みといっても過言ではなく、トムに気づいた途端、むくりと起き上がり、するすると近づいてくる。ただ、今日は隣にジョナサンがいるので蛇語を使わず、蛇の目を黙って見ていた。
「トムって本当にヘビが好きだね。心が通じ合ってるみたい!」
「まあね」
トムは得意げに鼻を鳴らす。
「さっきも言ったじゃないか。蛇は賢いって」
トムはいつもの笑顔で応えていた。
以上が、今日のお出かけについて。
あとは特筆すべきことはない。しいてあげるなら、2人にアイスクリームを買ってあげたことくらいだろう。拳大ほどもあるチョコレートアイスクリームを頬張る姿、カメラがあれば写真として残したかった……仕方ないので、記憶を頼りにスケッチとして残しておくことにする。
●1936年 9月〇日
昨日、書き忘れてたことがある。
そういえば、今後の進路の話題も上がっていたのだ。
ジョナサンは明確な進路を持っているようで、
「王立音楽院を受験したい」
と答えていた。
彼曰く、将来はBBC交響楽団のクラリネット奏者になりたいのだそうだ。
「トムは? やっぱり、ジュリアード? それとも、カーティス? 前に誘われたって聞いたけど」
「アメリカは遠すぎるよ」
トムは即座に否定する。
「僕も王立音楽院かな。先生も『君なら試験をするまでもなく、主席で特待生だ。誰も文句は言うまい』だってさ」
そう、トムは王立音楽院を目指している。
このときはジョナサンと2人で「一緒に合格するぞ」と誓い合っていたけど、ホグワーツから入学許可証が届いたら、どちらを選ぶのだろう?
いや、そもそも、ホグワーツの入学許可証ってくるの遅くない!?
ハリー・ポッター11歳の誕生日直前に送付されてたはず。つまり、入学許可証が届くのは初等教育終った夏だよ、夏!? ハリーもダドリーも進学先が決まってたのに……ハリーは良かったけど、かなりの問題じゃない?
トムに当てはめたら、イギリス音楽院へ合格して、正式に通う準備も最終段階に入ったところで、魔法界からの誘いが来るってことだよ!?
まさに、入学のダブルブッキング!
そりゃ、最終的にどちらの道に進むか決断するのは私ではない。それは、トムが決めることだ。でも、あまりにもギリギリ過ぎる……トムが「入学金支払っているから」と忖度して、本当は行きたいホグワーツを諦める可能性だってありえる。というか、このままではそうなる可能性が高い。それは、とても可哀想で……せめて、受験前にホグワーツからの誘いが来れば、自分の心の赴くままに決められるのだろうけど……うーん……。
本当、どうしよう……。