●1936年 11月〇日
昨日は、トムがジョナサンの家にお泊り。
友だちの家に泊まるなんて、いままでなかったことだから、私は凄くびっくりした。理由を聞くと、ジョナサンが自宅でフィルムを上映してくれるらしい。「フランケンシュタイン」と名犬リンチンチンの「狼の慟哭」を観るそうだ。
「ジョナサンがさ、『パパがフランケンシュタインのフィルムを借りて来てくれたんだけど、僕……怖くて観れないんだ。だから、一緒に観て』って頭下げてきたんだよ。そこまで頼まれたら、行かないといけないだろ?」
仕方なさそうに肩をすくめていたが、目は好奇の色に輝いていた。
旅行用のトランクに、ジョナサンが気に入りそうな楽譜や本を詰めている姿は年相応の子どもに見えた。もっとも、荷物を詰める作業は指先ひとつ動かすことなく浮遊の魔法で行っていたところは、普通の子どもではないけど――トム・リドルらしい。
うきうき気分のトムを見送ったあと、数年ぶりに夕食は1人だな……なんて思っていたら、ナティが「一緒にお酒でも飲まない?」と誘ってくれたので、2人で夜中まで飲んでしまった。
「今日はトムがいないでしょ? 寂しいかなって思ってね」
ナティは鍋とジンの瓶を抱えて訪ねて来てくれた。
トマトで味付けした山羊肉のシチューが入っており、これは嬉しかった。山羊や羊肉は癖があり、トムは好まないので食卓に上がることはないのだ。
「子どもの頃、母さんが作ってくれた料理なんだ。本当はサザと一緒に食べるんだけど、そっちの作り方は覚えてなくて……」
彼女はそう言うと恥ずかしそうに笑っていた。
ナティことナツァイ・オナイは、アフリカ南部出身の翻訳家だ。
10代の頃、母親の仕事の都合でイギリスに渡り、スコットランドにある全寮制の共学校に通っていたらしい。その後はアフリカに帰ることなく、イギリスで仕事を続けているのだそうだ。私より20歳以上年齢が離れているけど、同じく在宅の仕事をしていることもあり、彼女が引っ越してきた日から気が合い、いまでは友人同士だ。
昨夜だって、ナティと仕事の話題に花を咲かせていたが、途中でおかしなことに気づいてしまった。
ジンをジンソーダで飲んでいたのだが、一向に瓶の量が減る気配がない。私、お酒を飲むと顔がすぐ赤くなってしまうけど、頭はしっかりとしている方で、学生の頃は周りの皆が酔いつぶれていくなか、誰がどのような奇行を働いたのか細部まで覚えているのが自慢だった。
もっとも、トム曰く「酒を飲んでも飲まなくても、アイリスはうっかりしてる」らしいけどね。
だから、ナティがジンに増幅系の魔法をかけてるんじゃないかなって勘づいてしまう。
なんというのかな……ナティ、本当に良い人なんだけど、ところどころ魔法の影が見え隠れするんだよね。昔の私なら「気のせいかな」ですませられたけど、この世界に魔法が存在するって知ったあとだから、余計に気になってしまう。引っ越して来たタイミングもダンブルドアやクリーデンスと出会った直後だったし、彼女の母校――曰く、スコットランドにある全寮制共学の学校で名前を頑なに明かしてもらえないところとか――それ、どこのホグワーツですか? と疑ってしまうのだ。
ドイツでクリーデンスと接触してしまったから、私とトムは監視されてるのかな? 監視といっても、なにも窮屈に感じたことはないし、行動を制限されてるみたいなこともないけど……。というか、監視しているなら、早めに魔法使いだと明かしてもらいたい。そして、ホグワーツの存在をトムに教えてあげてほしい!
トムが進学先を決めるため、切実に!!
そういえば、夜の11時ちょっと前くらいだったかな。
ナティがこんなことを尋ねてきた。
「アイリスは米が好きなんでしょ? アジアに憧れてるの?」
「日本かな。ほら、ミステリアスな雰囲気あるでしょ?」
前世が日本人でした、なんて口が裂けても言えないから、いつもの理由で誤魔化した。
「ジャパン! 知ってるよ、テングやハラキリの国でしょ?」
「天狗知ってるの!?」
ハラキリ、ゲイシャ、ニンジャ、フジヤマを上げる人もいるけど、天狗の名を口にする人は初めて見たので面食らってしまった。
「え……うん。たしか、鼻の長い生物だよね」
「生物というか、妖怪や仙人に近いと思うけど……」
忍者がいまでも存在するって信じている欧米人は多いから、天狗を実際の生き物と勘違いしても仕方ない……のかな? まさか、この世界だと天狗は実在するの!? それは会ってみたいような、みたくないような……。
それから、少しばかり日本の妖怪について語った。
明治、大正あたりの時代を意識しながら話すのは、4時間近く飲んだ身には大変だったけど、なんとか乗り切り、アフリカの不思議な生き物についての話題を別の方へと逸らした。話の流れで、遠野物語の柳田國男や宮沢賢治の話題をぽろっと零しちゃったけど……たぶん、大丈夫だよね!?
両者とも、戦前の人だよね!?
やっぱり、お酒は少し控えよう。もともと、しっかり者じゃないのに、いろいろとボロが出ている気がする……。
あー、頭が痛い……。
ちょっと、お酒飲みすぎた……。
そろそろ、トムを迎えに行かなくちゃ。
●1936年 11月×日
「アイリス、お願いがあるんだけど」
トムがジョナサンの家から帰ってきて早々、真剣な顔で話しかけてきた。
なにかあったのか!? と身構えたけど、彼の口から飛び出したのはこんな話だった。
「犬……飼ってもいい?」
私の思考は一瞬、固まってしまった。
ちょっと意味が分からなくて、皿を洗う手が止まってしまう。
「蛇じゃなくて?」
「それは前に諦めたじゃん」
蛇を飼いたい、と頼んできたのは、2年近く前のこと。
まあ、いつか頼まれるよな……とは覚悟していた。蛇と会話できるのだから、一緒に暮らしたいと思うよね。あのときは、トムがきらきらと目を輝かせながら頼み込んできたので了承してあげたかったけど、一緒に蛇の餌を図鑑で調べた。そこで、蛇の餌になるマウスや小鳥を簡単に常時用意できないと気づき、トムは諦めたのであった。
だが、今回は違う。
「トム、犬好きだっけ?」
トムは動物に興味がない。
それは、引き取った頃から知っていた。この間、動物園に行ったときも本腰を入れて観たのは、やっぱり蛇だけだった。
昨日の今日だから、リンチンチンに影響されたのだろうか? いや、たしかに犬がヒーロー的活躍する子供向け映画だけど、それだけで簡単に趣味趣向が変わるとは思えない。
これは……大事になりそうだ。
しっかり腰を据えて話し合おうと、私はお茶の支度を整える。
「リンチンチン、気に入ったの?」
お茶をカップに注ぎながら尋ねれば、トムは「まあね」と短く言った。
「面白いとは思ったよ。でも、それが理由じゃない」
トムは私をまっすぐ見つめている。甘いもの好きなのに、目の前に置かれたビスケットにも手をつける気配がなかった。
「……ジョナサンの家にね、犬がいるの知ってるよね。その犬が赤ん坊を産むんだって」
「パピヨンのレベッカが?」
もちろん知っている。
とても可愛い女の子で、私も何度かスケッチさせてもらったことがある。優雅に垂れた耳とおとなしい顔つきは誰からも愛される犬そのもので、おっとりとした優しい性格をしていた。たしか……ジョナサンの母方の実家がフランスで、里帰りしたときに譲り受けた子犬だと、お茶の席で聞いたことを思い出す。
「だけど、ジョナサン君は一匹しか飼ってなかったはずよね?」
「父親は野良犬だって」
トムの話をまとめると、こんな感じだ。
ジョナサンの家には通いのお手伝いさんがいる。昼間に家の掃除や諸々の家事をするため、その間は犬を小さな庭に放していたらしい。ところが、庭を囲む柵の一部に隙間が空いていた。どうやらそこから野良犬が侵入し、夫婦になったのではないかということだった。
「犬のお腹は大きく膨らんでいて、触るとぴくっと動くんだよ。うん……赤ん坊は生きてるんだ、母犬の腹のなかで。まだ、いまは」
「いまは?」
トムの声色がどうにも寂しそうで、私は眉間に皺を寄せてしまう。
トムはしばらく黙っていたけど、ゆっくり口を開いた。
「赤ん坊が生まれ次第、母犬と子犬をテムズ川に捨てるんだって」
「えっ!?」
私は目を見開いてしまう。あまりにも驚いたものだから腕がテーブルの角に当たり、砂糖入れの蓋がかちゃんっと揺れた。
「最初、この話題が出たときにさ、ジョナサンのお父さんは言ったんだよ。『赤ん坊の貰い手には目星がついている』って。ジョナサンも『赤ちゃんと暮らせないのは寂しいけど、たくさん飼えないから仕方ないよね』って納得してたんだ。だけどさ、僕、夜……トイレに起きたときに聞いたんだよ」
トムは最初こそ静かにポツポツと語っていたが、だんだんと口調に熱がこもってくる。トムはジョナサンのお父さんのもったいぶった声色を真似ながら、目の奥に怒りの色が見え隠れしていた。
「『大丈夫だよ、ハニー。赤ん坊は君の希望通り、この家で飼うことはない。テムズ川に捨てるさ。ジョナサン? ああ、飼い主が見つかった、と言えばそれ以上の詮索はしてこないさ。おとなしい子だからね。――母犬も一緒に川へ置きにいくよ。親子を離すのは可哀そうだろ』ってさ! 酷いだろ!」
「ハニーって?」
「ジョナサンの新しいお母さん。僕、あいつは嫌いだ。僕には愛想よく接してくるのに、ジョナサンとは目も合わせようとしないんだ」
「…………そう」
私は、ジョナサンの継母となる人と会ったことがない。
だけど、トムの話しぶりから、ジョナサンのことを――もっといえば、前妻のことをあまりよく思っていないのは分かった。悪い人ではないだろうが、自分の愛した男が前に連れ添っていた相手に嫉妬心を抱いているに違いない。だから、前妻の愛した犬をこれ幸いと処分するつもりなのだ。
「だからさ、1匹でもいい。1匹でも、僕が引き取るって宣言すれば、それまでは母犬も他の子犬たちも一緒にいられる。生まれたての赤ん坊を母犬から引き離すのは倫理に反してるし、僕に譲渡できるくらい成長する頃には、他に貰い手が見つかっているかもしれない! いや、僕がジョナサンと協力して探してみせる!」
「トム……」
私は目頭が熱くなった。
断言するが、トムは忙しい。
来月には、BBC交響楽団との協演が迫っているなか、子犬の貰い手を探すのは容易ではない。そもそも、この計画を実行に移すためには、大前提として自分も犬を1匹譲り受けなければならないのだ。
「……犬を飼うのは、大変なのよ」
私は努めて静かに語りかけた。
「トムの考えは素晴らしいわ。でも、犬を飼うとなると餌の他に毎日散歩はあるし、ブラッシングも必要になってくるわ。部屋も臭いが付くし、抜け毛で掃除も大変よ。家具にも噛みつくし、トムの大事な楽譜をそのあたりに置きっぱなしにしてたら、そこで用を足してしまうかもしれない。泊りがけのお出かけだって、なかなかできなくなる。……一時の感情で飼うものではないわ」
「分かってるよ!」
トムは憤慨したように言った。
「だけど、犬には孤児院がないんだ! 野良犬は見つかり次第、保健所ってところに連れて行かれて殺されるんだってことくらい知ってる。それに川に捨てるってことは、死刑に等しい。 だって、これから冬になるんだ。ロンドンの寒さは、アイリスも知ってるだろ!」
トムは熱のこもった目で私を見てきた。
そこで、私は――なんとなく、なんとなくだけど、トムの気持ちを理解する。
生まれてすぐに望まれず、捨てられる赤ん坊たちに、幼少期の自分の姿を重ねているのだ。
「……どれだけ忙しくても、ちゃんと毎日お世話をするなら」
私が決定を告げると、ぱあっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「当たり前だ!」
それから、私とトムで計画を立てた。
ジョナサンのお父さんの逃げ道を減らすため、今度の夕方――トムを泊まらせてくれたお礼に伺うついでに、子犬を貰いたいという話を持ちかけること。
トムはもちろんだけど、私も犬を飼いたい人がいないか探すこと。
トムは悪戯を計画する子どものように、楽しそうな顔で作戦を練っていた。
今回は犬の境遇に同情した故の行動で、犬自体に興味があるわけではない。
でも、これをきっかけに、犬や他の動物にも関心を抱いてもらえると嬉しい。
余談だけど、今回のお泊まりで、トムはジョナサンに宿題をかなり手伝ってもらったそうだ。
ヴァイオリンの先生からの宿題で「作詞、作曲すること」と出たらしいのだけど、作詞も作曲も不得手らしい。
「僕はヴァイオリンを弾く名手になりたいけど、作曲家になるわけではないから」
トムは頬を赤らめながら開き直るのだった。