●1936年 12月11日
エドワード陛下が退位を表明した。
陛下には申し訳ないけど、私としては凄く納得!
ずっと悩んでいた点と点が綺麗に結ばれたので、とてもスッキリした気分だ!
奇妙だな、って思っていたんだよ。
これまで、エドワード陛下は女性に人気があるはずなのに結婚の話題が上がらず、未来の女王陛下が誕生する気配がまったくないことに、ずっと違和感を覚えていた。それと同時に、ヨーク公の長女の名がエリザベスは同姓同名の別人なのか、はたまた――と、ここ数年かけて悩んでいた答えが、12月に入って明かされた。
エドワード陛下は国王に就任してから、1年も経たないうちに王冠を弟に渡すことになったのである。
それも、愛する女性と結婚するために!
ライトノベルやWeb小説もびっくりな展開だけど、これが現実なのだ。タイムズからデイリーメールまで、どの新聞も一面に「王冠をかけた恋」を特集し、英国民の誰もが顔を合わせた途端に口にするビッグニュース!
「王冠をかけた恋」の話題が食卓に上がらないのなんて、我が家くらい。
トムは数日後に迫ったコンサートと犬の里親探しでそれどころではなく、たとえ気持ちに余裕があったところで興味を持たなかったに違いない。
私としては、この話題についてたくさんおしゃべりしたいところだけど、しゃべりすぎそうなので口は堅く閉ざし、代わりに日記に吐き出すことにする。
あくまで個人の見解なのだが……「王冠をかけた恋」はロマンチックだし、私としても好きな展開だけど、幸せは長く続かないと確信している。こんな大事になった以上、エドワード元陛下は英国本土にはいられない。新聞には彼の愛するウォリス女史はフランスに渡ったという記事が掲載されていたけど、彼女の後を追いかけるのではないだろうか? いまのところ、フランスは欧州諸国のなかでは比較的安全だし都会だ。1、2年以内にアメリカへ渡り、新婚様は悠々自適な生活を送るのだろう。
もっとも、その情熱がいつまで続くのかは知らない。
熱々で仲睦まじかった芸能人カップルが別れるなんてよくあることだし、王室を出ると決め、一般人になると決めた以上、エドワード元陛下はどうしても生活の質を下げなければならない。王室からの援助金はあるだろうけど、生まれながら王太子であり国王として享受してきた生活は望めなくなる。自分に対する周囲の対応だって、王族から元・王族及び一般人のものへと変わるだろう。
そのうえ、彼らが暮らすのは異国の地。最初は愛する人と結婚できた喜びで気にならないだろうけど、年月が経つうちに元の生活が恋しくなるのではないか?
たとえば、英国に戻りたいとか、王族の地位を復活させてほしいとか、やっぱり王位に返り咲きたいと夢を抱くとか……。
あーあ、なんて冷めたことを書いてるのだろう!
末永くお幸せに、と素直に思えない自分が情けない。
もっと、夢を持ちたいな。
※
●1936年 12月〇日
トムの公演は大成功!
舞台の上で、トムは誰よりも輝いてた。
当初、BBC交響楽団の大人たちに混じり、コンサートマスターの隣で必死に背筋を伸ばす姿は一際小さく、9歳の幼い顔立ちに誰もが「可愛らしい男の子」だと思ったはずだ。私の隣の席の御夫婦なんて、くすくすと笑いながら
「素敵な御遊戯会になりそうね」
と囁き合っていた。
しかし、彼がヴァイオリンを奏でた瞬間、微笑ましいものに対する眼差しから一変し、観客たちは驚愕の視線を向けることになる。
トムの演奏は完璧だった。1年ほど前は楽譜通りに完璧に弾くことに専念していたが、いまの先生に師事してから更なる情感が乗るようになった。一音一音がクリアかつ、非常に深みがあり、優雅さを感じつつ、まったくの嫌味がない。技巧も天才の領域に踏み込んでおり、細やかな指の動きは大人たちと遜色なく感じた。これは、凄いことだ! そもそも、トムのヴァイオリンは子ども用の物。それも、そこまで高い品とは言えない。にもかかわらず、プロのヴァイオリニストたちに並び立ち――いや、オーケストラを率いているような堂々たる音色を奏でられるのは、天賦の才能と称しても過言ではないはずだ。
BBC交響楽団のコンサート、トムが参加した楽曲はアンコール含めて4曲しかなかったけど、私にはトムがいない曲は物足りなく感じた。もちろん、他の曲も素晴らしいものだったけど……親馬鹿かもしれない。それでも、トムの存在感は圧倒的だったのである。
最初、トムを小馬鹿にしてた隣の席の御夫婦は、溢れんばかりの拍手と「ブラボー」の歓声を上げていた。
すべてが終ったあとの、トムの表情はとても晴れ晴れとしていた。
ここ数日、ぴりぴりと常に毛を逆なでるかのように張り詰めていた空気がすべて洗い流され、にこやかに控えめな微笑を浮かべる姿は、物腰柔らかな美少年そのもの。あの笑顔を見れただけで、これでよかったと胸をおろすことができた。
私がトムのためにできたことは、本当に少なくて――彼が風邪をひかないように、栄養バランスを考えた食事を作ったり、掃除をしたり、換気をまめにしたり、寝るように促したり……あと、食事のときくらいは息抜きをして欲しくて、ヴァイオリンとは関係ない話題を振ったことくらいだ。
ああ、もっと出来ることがあったはず! 私が本当の母親だったら――もっと、トムのためにできることを思いつけたのだろう。
それが悔しくてたまらない。
そうそう、王族が来るという話だったけど、いらっしゃったのは長女を伴ったヨーク公夫妻だった。
つまり、我らが現国王陛下と未来の女王陛下!
私の知る前世の女王陛下は白髪のおばあさんだったけど、いまの彼女は10歳。つまり、トムと同い年! ちょっと驚きの発見である。まだまだ子どもらしい顔つきだったけど、意志の強そうな目鼻や凛と一本の筋が通ったような姿は、90歳を越えても車を運転したり狩猟に出かけたりしたアクティブおばあちゃんの面影を感じさせた。
未来の女王陛下は夢中になって拍手を送っていた。
コンサート終了後、ヨーク公、ではなかった、国王陛下からの使者が「素晴らしい演奏だった」という感想を伝えてくれた。「英国を代表する偉大な演奏家になるだろう」とも。ここでようやく、トムは満更でもなさそうな顔をした。
「王様も良いことを言うんだね。当然だけど」
「よかったわね、トム」
私がトムの頭を撫でれば、彼は顔を赤らめながら声を荒げた。
「やめてよ、アイリス! 恥ずかしい!」
「そう……ごめんなさい」
まあ、トムは数日で10歳。
子ども扱いするのは恥ずかしくなる年頃なのだ。すぐに手を離したが、トムは怒ったように頬を膨らませる。
「こういうことは、家のなかでやってよ。もしくは、人のいないところ!」
……どうやら、撫でること自体は嫌ではなかったようだ。
とはいえ、恥ずかしい年頃ということには変わりがない。大人顔負けのヴァイオリニストだけど、まだまだ子どもっぽいところもあり、その姿を自分にだけ見せてくれる。そのことが、例えようもないくらい嬉しかった。
そう、このあとが大事な話。
帰り支度をしていたら、新聞記者が「息子さんにインタビューをさせていただけませんか?」という提案を持ちかけてきた。私としては、トムには早いと反対したのだけど、トムが「僕は受けたい」と主張したのだ。
私は記者には、トムと相談する時間をくださいと頼み、2人っきりで話すことにした。
コンサートをすることは構わない。トムが実力を発揮でき、それをきちんとした場で披露できるのであれば、喜んで送りだせる。
だが、インタビューとなると話は変わってくる。
記者という職業は偏見かもしれないけど、本当に根掘り葉掘り聞いてくる。それをそのまま掲載してくれたら御の字。こちらが何気なく話した内容を悪意をもって曲解し、改変されたらたまったものではない。トムは間違いなく傷つくし、ショックを受けることは火を見るよりも明らかだ。
私はトムに満遍なく説明する。
すると、トムは黙り込んでしまった。なにも言わず、哀しそうな目で私を見つめている。数回、なにか言いたそうに口を動かすも、言葉が出てこない。ようやく、トムがぽつりと言葉を漏らしたのは、3分ほど経ってからだった。
「……本当の父親の生死を知りたい」
「え?」
「トム・リドルの名前が新聞に載れば、本当の父親が気づくかもしれないって……でも、アイリスのことが嫌いになったわけじゃないんだ! 父親が見つかっても、アイリスと暮らしたい! ただ、生きているのか死んでいるのか、それだけ知ることができればいいんだ」
トムは半分泣きそうな顔になりながら口にした。
知らなかった……。
そりゃそうだよな……母親は亡くなっていることは確定しているけど、本当の父親が生きているのか、死んでいるのかも分からないなんて、気になるよな……。
このとき、感じた衝撃は……ちょっと、書き残すのも辛い。
私はトムの「父親が見つかっても、アイリスと暮らしたい」という言葉に嬉しくて泣きたくなったし、本当の父親が「トムと暮らす」と宣言したときのことを想像してしまって…………。
ああ、トムに「トム・リドル・シニアに会ったら、間違いなく幻滅する」と叫んでしまえたら!
でも、それはできない。
それは、できないんだ……トムに説明がつかない。
トム・リドル・シニアのことだ。
ちょっと大手の新聞に顔写真付きで「天才少年」の記事が乗れば、彼の耳にまで届く。無視してくれたら良いが、彼の住まう村の民は騒ぎ立てるだろうし、どういう形か分からないけど接触してくる。
あのリドル家には跡継ぎもいないみたい。
「魔女が無理やり産ませた子」を軽蔑し、認知しないのは分かるけど、その子が国王自ら賛辞を贈るほど優秀な人材なら……話は変わってくるのではないか。リドルの屋敷で過ごすことになったら、それはいまとは比べ物にならない裕福な生活を送ることができるだろうけど、はたしてトムには幸せなのか? いや、幸せかもしれない。新しいヴァイオリンは買ってもらえるだろうし、食事だって私なんかが作るよりグレードの高いものを用意してくれるはずだ。海外の学校へ留学する資金だって、ぽんっと惜しみなく出してくれるかもしれない。
いまのトムには、そちらの方が良いかもと一瞬でも考えてしまった。
もちろん、「金の卵を産む鵞鳥」として育てられる生活を幸せかといえば、間違いなく否!!
そのような場所に、トムを行かせるわけにはいかないし、彼らと会わせたくもない!
だけど、結局――「掲載前に、記事を確認させてほしい」「インタビューをする際は、トムが子どもであることを考慮した質問をすること」の2点を約束し、年明けにトムのインタビューが決まった。
「トム。あまり悪く言いたくないけど、あなたのお父さんが良い人とは限らない。自分のためにトムを利用しようとする悪い大人かもしれない。知らなければよかった、と思う人かもしれない。それでも、あなたは……本当のお父さんが誰か知りたい?」
私がそう尋ねれば、トムは間髪入れずに頷いた。
「どんな人でも知りたい。僕は真実を知りたいんだ……どうして、身重の母親を捨てないといけなかったのか。……本当の父親も、魔法を使えたのか」
黒い眼を潤ませながらも、激しい熱のこもった口調を無視して、「この話はおしまい。インタビューはなし!」と切り捨てることはできなかった。親としては、ここで「駄目」を突き通すことが正解だと思ったけど、いまのトムなら――本当の父親一家を殺すことはないだろうし、伯父の存在を知っても、泥棒した挙句濡れ衣を着せるという非道な行為に手を染めないはずだ。万が一、の事態にならないように、そのときが来たら私も付いていくつもりだし、最悪のことが起きてしまったら……速やかにトムを通報し、その後……自分の身の振り方を考えよう。
「後悔するかもしれないよ?」
「覚悟の上だよ。アイリスは心配性だな、大丈夫だから」
その言葉で、私はトムを信じることに決めたのだった。
いまの私ができることは、年明け以降――トムが自身の出生と向き合うかもしれない事実に備えること。
あとは、クリスマスと誕生日の準備。
コンサートの成功祝いは明日するから、楽しいお祝い事が続く! 気持ちが暗くならないように、明るい宴にしなくちゃ!
●1936年 12月25日
最悪。
トム、本当にごめんなさい。最悪のクリスマスになってしまった。
まさか、あの人が来るなんて……。
いや、予想はできていた。ヘレンおばあちゃんにトムの存在を知られたあの日から、おばあちゃん経由で母に話が伝わる日が来るかもとは予感していたし、その兆候が少しでもあれば、トムとしっかり話す時間も確保できたはず。
でも、あの人は……私の母は「クリスマスは、誰もが絶対に家でパーティーをするでしょ? この日に訪ねるのが、間違いないと思ったの」だって。
とりあえず、モーリスを頼って良い弁護士を探そう。
決着の目途がたったら、日記に詳しく書き残そうと思う。
あの人とトムを二度と会わせるものか!!
投稿後、タイトルを変更しました。