クリスマスの朝は、素晴らしい銀世界だった。
カーテンを開ければ、朝の日差しを雪が眩いばかりに反射し、トムは一瞬だけ目を細めた。それでも、カーテンの隙間から覗くうちにだんだんと目が慣れ、雪が降り積もった通りが見えた。街路樹は綿毛で飾ったようで、通りを急ぐ車は砂糖をかけた菓子のように思えた。
「……うん、良い朝だ」
トムは大きく頷くと、着替えをしながら指をひょいっと動かす。指の動きに呼応するように、机の引き出しが開き、1つの種がゆっくり浮かび上がった。小さなヒマワリの種はしばらく宙に留まり、トムが支度を終えると、右手のひらにぽとんと落ちた。
「よし!」
トムは種を握りしめると、心を整えるように深呼吸を繰り返した。
今日はクリスマス。
トムは、アイリスに初めてクリスマスプレゼントを用意することを決めたのである。
アイリスと過ごすクリスマスは、これで5回目。
一度、アイリスが年末に風邪をひいてしまったので祝えなかったが、それを入れなくても4回も共に過ごしているのに、これまでプレゼントを用意するなんて思いつかなかったのだ。
プレゼントとは大人から貰うものであり、自分から誰かにあげるなんて考えたこともなかった。そこに気づかされたのは、今年の5月――ジョナサンとの何気ない会話からだった。
5月の良く晴れた日、ジョナサンの母親は息を引き取った。
トムもアイリスと一緒に葬儀に参列した。白い百合が至る所に飾られ、誰もが暗い表情で沈んでいる。いつも朗らかなジョナサンは切ないくらい押し黙っていた。涙こそ流していなかったが、目は真っ赤に腫れてしまっている。ジョナサンの父は例えようのないくらい無表情で淡々としていた。
アイリスと暮らし始めても、日曜日には礼拝に出かける。
アイリスはカトリックなんて信じてないのに、「これは習慣みたいなものだから。それに、こうして通っていれば、いざってとき助けてもらえるかもしれない」と教会に通っていた。
トムは「せっかくの日曜日なのに、ヴァイオリンの練習時間が減ってしまう」と思ったが、アイリスに従って通っている。いまでも教会はあまり好きな場所とはいえなかったが、ジョナサンの母親の葬儀は格別に辛気臭くて重たくて苦手だった。棺のなかで青白い顔で眠ったように横たわっている姿は、とてもではないが直視できなかった。
さて、ジョナサンは葬儀を終え、母親が墓に収まった次の日には登校していた。
トムはジョナサンにどんな言葉をかけていいか思いつかなかった。ただ、彼の隣に腰を降ろし、2人してなにも言わずに空を見上げた。眩いほど青い空に浮かぶ白い雲はこれ以上ないほどゆったりと流れ、空の彼方へと消えていった。
『……僕……もう、母の日のプレゼントを考えることもないんだ』
ジョナサンが誰に言うでもなく、ぽつりと呟いていた。
『毎年、悩んでいたんだ。空を見ながら、今年は何にしようかなって……なにを用意すれば、ママが喜ぶかなって』
『母の日?』
『プレゼントもそうだけど、夕食のメニューも考えるんだ。ママ、ハンバーグとか、ごろっとした肉が入ったシチューが好きだったんだ。子どもの頃、あまり食べられなかったみたいで……だから、僕、お手伝いさんと一緒に頑張って作って……美味しいって食べてもらえて……でも、もうする必要はないんだ』
彼の声はだんだんと涙交じりのしゃがれたものになり、終いには泣きじゃくってしまっていた。
トムはおいおいと泣き出した友だちを横目で見ながら、ふと気になったことを口走っていた。
『母の日って、なに?』
『トム!?』
ジョナサンは信じられないものを見るような目で見てくる。あまりにも驚きすぎて、涙が引っ込んでしまったらしい。
『3月にあって、いつも頑張ってるママにお礼をする日だよ! 知ってるでしょ!?』
『……僕は知らない。それに、プレゼントは大人が子どもに渡すものだろ?』
『違うよ!? プレゼントを渡すのは、子どもも大人も関係ない……と、思うけど。クリスマスとか、ママの誕生日とかはどうしてたの?』
『アイリスの誕生日!?』
トムは愕然とした。
よく考えれば、アイリスにも誕生日があることくらい分かったはずだ。しかしながら、トムは考えたこともなかったのである。
生まれながら孤児院に育ち、誕生日やクリスマスを祝ってもらうことはあっても、孤児たちから養育者たちにプレゼントを与えることなど皆無だったし、お礼をするという概念もなかったのだ。
アイリスと一緒に暮らすようになってからも、与えられるばかりで恩を返すという発想自体がなかった。クリスマスなどのイベントに関しても、第三者からアイリスへプレゼントやカードが送られていることを見たこともなかった。もしかしたら、トムが起きてくる前に回収していたのかもしれない。
『……もしかして、子ども同士でもプレゼントを贈るとか?』
トムが口にすれば、ジョナサンは曖昧な顔で頷いた。「僕のパパはプレゼントを贈り合うには、お前にはまだ早いって言われたから……」と、もごもご言っていたが、父親からの許可があれば、クリスマスや誕生日にカードを贈るつもりだったということだ。
そういえば、12月の下旬から1月の頭になると、ジョナサンは「いつもお世話になってるから」ってクラリネットを吹いてくれていた。トムは額面通りに受け取ってしまったが、あれはいわゆる「誕生日のお祝い」だったのではないかということに、いまさら気づいたのだった。
トムは自分の顔から血の気が引くのが分かった。
『君の誕生日、いつだっけ?』
こうした経緯があり、トムはジョナサンの誕生日を祝うことに決めたのである。
そして、肝心のアイリスの誕生日は5月。3月の母の日なんて、もっと前に過ぎてしまっている。
アイリスは
『プレゼントなんていらないわよ。トムが元気でいてくれたら』
と、微笑んでいたが、トムのプライドが許さなかった。
絶対、アイリスの驚くプレゼントを用意すると心に誓ったのである。――とはいえ、アイリスが「本当に欲しいもの」が何か分からない。遠回しに欲しいものを聞き出そうとしても、はぐらかされてしまうのである。もしくは「お手紙かな。カードとか。素敵なヴァイオリンの演奏も好きよ」と、明らかに忖度した言葉しか返ってこなかった。
そこで、トムはナティに頼むことにした。
ナティ相手なら、アイリスも「本当に欲しいもの」を口にするかもしれない。
その機会は、11月になって訪れた。
『ジャパンの童話とアズキ豆が欲しいみたいよ』
ナティはトムに教えてくれた。
『恩師にジャパン出身の人がいるから、手に入れることはできると思うわ』
『ありがとう、ナティ!』
お金に関しては心配ない。
コンサートの演奏料の9割は貯金して、アイリスが管理してくれている。しかし、残りの1割は「よく考えて、本当に必要なときに使いなさい」と渡されていた。これが「本当に必要なとき」でなければ、なにが必要なときなのだろう!
ただ、それらが英国に届く前に、クリスマスになってしまう。
トムは悩んだ末、ナティが輸入してくれる品は「母の日」に渡し、クリスマスは別の物を用意することに決めたのである。
※
「メリークリスマス、トム!」
リビングに降りれば、アイリスは晴れ晴れとした顔で迎えてくれた。
「アイリス、メリークリスマス!」
トムは口早に言えば、ずっと後ろに隠していた物を取り出した。緑のリボンで包んだ植木鉢だった。既に土が積もっている。
アイリスは目を丸くしていたが、弾けるような笑顔で受け取ってくれた。
「ありがとう、トム! まさか、トムからプレゼントを貰えるなんて……っ!」
「まだまだだよ」
トムはぱちんっと指を鳴らす。
すると、ぽつんっと黒い土の間から双葉が飛び出し、にょきにょきと成長していく。昔は動きをつけないと成長させることができなかったが、いまでは強く念じるだけで、植物を成長させることくらいはできるようになっていた。
「……すごい!」
アイリスの口から感嘆の声が零れる。大輪のヒマワリを見つめている目は、夏の青空のように輝いていた。
「……成長したね!」
「当然だろ」
トムは胸を張った。
アイリスはスキップをしながら、テーブルのポインセチアを片付け、代わりにヒマワリを飾った。朝食のときも昼食のときも、アイリスは時間を見つけてはヒマワリを眺めていた。クリスマス・ソングを鼻で歌いながら、肘をついて見つめ続けている。その姿を見るたびに、トムは「プレゼントをしてよかった、今日は物凄く良い日だ」と確信するのだった。
お昼過ぎまでは。
玄関のチャイムが鳴ったのは、夕食の直前だった。
運の悪いことに、アイリスは台所に籠っていた。ローストチキンがそろそろ焼けるタイミングだったし、古いクックブックと睨みながらスープを作っていた。
「誰だろう? トム、すぐ行くから出てくれる?」
トムは玄関へ急いだ。
チャイムはけたましく鳴り続け、「こんなに焦って誰だろう?」と扉を開ける。そこにいたのは、ピンク色の小振りでお洒落な帽子を被った女性だった。花飾りが5つもつき、小さな玉房まで垂れさがっている。真っ赤な毛皮のコートに身を包んだ恰幅の良い女性は、40代くらいだろう。化粧でばっちり整えられた顔にはわずかに皺が目立ち、見覚えのある青い眼をしていた。
「まぁっ! あなたがトム君ね! 新聞の写真より、ずっと良い顔していること!」
女性は品定めをするような目で見ていたが、ちょうど風が吹き、ぶるりと震えた。
「あー、寒い寒い! ちょっと家に入れてもらうよ」
「どなたですか?」
その人は家に入ろうとしたので、トムは急いで両手を広げた。すると、女性は一瞬舌打ちするも、すぐに朗らかな笑顔を浮かべた。
「トム君のおばあちゃんよ。おばあちゃん、凍えちゃうから家に入れて。娘の顔を見たら、すぐに帰るから」
トムはわずかに不審に思ったが、ここで女性の目の形がアイリスと似ていることに気づいた。
そういえば、アイリスは祖母のヘレンとは連絡を取っているけど、実母とは疎遠だと話していたことも思い出す。疎遠の母親が、なんの用だろうと首を傾げれば、アイリスの母親は柔らかい声でこう言った。
「クリスマスだからね。家族が会いに来て当然でしょう?」
「そうなの?」
「そうよ! クリスマスは家族で過ごすものなのだから!」
彼女はこちらを見下ろしながら言い切る。
トムは少し悩んだが、一歩、後ろに下がり、大きな声でアイリスを呼んだ。
「アイリス! アイリスのお母さんが来たよ!?」
「そう……っ!? 母さんが!?」
アイリスが甲高い悲鳴のような声を上げ、ばたばたと走ってくる。
トムはアイリスの声に驚いて、ちょっと固まってしまった。その隙を突くように、女性が部屋の中に入ってしまう。ずかずかとリビングへと進んでしまう。トムが慌てて玄関を閉めて追いかけると、リビングで二人の女性が対峙している。
「アイリス、メリークリスマス!」
「……メリークリスマス、母さん」
アイリスは非常に強張った表情をしていた。腕を組み、自分の母親をまっすぐ睨みつけていた。アイリスが誰かにあからさまな嫌悪を向けるのは見たことがない。ジョナサンの父親に「生まれる子犬を貰いたい」と頼みに行ったときだって、表面上はニコニコと人の好さそうな顔をしていたのだ。
「あの……アイリス」
「……トム。自分の部屋に行きなさい」
アイリスはトムに顔を向けると、申し訳なさそうな微笑を浮かべる。
ところが、アイリスの実母は違った。
「なによ! せっかくトム君と会えたのに」
彼女はからからと笑うと、毛皮のコートを脱ぎ始めた。
「この匂い! 良い香りー、クリスマスディナーの完成が近いのね。せっかくだから、ご馳走になっていこうかしら」
「残念だけど、私とトムの分しかないの。それより、母さんの用件は?」
「あら、お母さんが会いに来るのに理由が必要? クリスマスだから来たのよ。そうでもないと、あなた追い返すでしょ?」
アイリスが冷たく言い放つのに、実母はふんふんと鼻息荒くリビングを見渡していた。
「あいかわらず、辛気臭い家ね。トム君みたいに優秀なヴァイオリニストを養育しているなら、家具も一流にしなくちゃ」
「……どこでトムを知ったの? ヘレンおばあちゃん?」
「まあそうね」
実母はそう言いながら、鞄から新聞を取り出した。
ちょうど、BBC交響楽団と協演したときの記事だった。「天才少年、現る!」のサブタイトルと一緒に、トムがヴァイオリンを奏でる写真が添えられている。
「この記事を見たときに、ぴんっと来たのよ。そういえば、少し前にヘレン母さんが『アイリスがトムという男の子と暮らしてる』って、口滑らせてたのね。すぐに『今のはナシだから。あの子をあんたに近づかせるものですか!』だって。酷いと思わない!?」
「……胸に手を当て、私にしたことを思い出してみたら?」
「やーね、まだ根に持ってるの? 私も事情があったのよ、事情が」
「事情?」
アイリスの眉がピクリと動く。ちょっとイライラしているのか、指がとんとんと腕を叩いていた。何か言い返そうと口を大きく開いたが、その眼が一瞬、トムを捕えた。すると、ぐっと堪えるように口を閉ざし、ゆっくり息を吐いた。
「……もう一度言います。母さん……いえ、アネモネ・ガランサス夫人。ご用件は何でしょう?」
「ガランサス夫人?」
トムが繰り返せば、アイリスは早口で教えてくれた。
「この人、父さんが事故で死んですぐに再婚したの」
「それなら、アイリスも……」
苗字が変わるはずだ、と言いかけたが、アイリスの実母――ガランサス夫人はからからと笑いながら疑問に答えてくれた。
「そりゃ、私がアイリスを連れて行かなかったからさ。でも、だからってなにも困ったことはなかっただろう? それに寄宿舎付きの学校に通わせてやったじゃないか。休暇中だって、ヘレン母さんに面倒を見るように頼んだおかげで、孤児院やなにやらに入れられずにすんだんだ。むしろ、感謝して欲しいね!」
「おばさん、アイリスを捨てたの!?」
「捨てたとは酷い言い草だこと!」
トムが驚くと、ガランサス夫人は一変して目を吊り上がらせた。
「そもそも、この子は産まれたときから少しも可愛くなかったんだ。赤子だっていうのに泣かないし、ちょっと成長したらペラペラ話し出すし、まーったく子どもらしくない! うちの子たちの方が、よっぽど愛嬌があったよ。ああ、勘違いしないで。トム君は可愛らしいわ!」
ガランサス夫人はまくしたてるが、アイリスは反論しなかった。
代わりに、アイリスは静かに口を開く。
「ガランサス夫人、せっかくのクリスマスでしょう? 早く帰らないと、ご家族が心配しますよ?」
「旦那はインドの支社に短期出張中でね、私だけ残ってるのよ。長女は結婚したし、長男はフットボールの試合で靭帯切って入院中でね、寂しい独り身なの」
「……まあ、そういうことにしておきましょう。それで、近況報告だけが用件でしょうか? それなら、もう済みましたね。どうぞ、お帰りください」
アイリスが詰め寄ると、ガランサス夫人はふんっと鼻を鳴らした。
「薄情ねー。分かったわ、帰るわよ。だけど、久しぶりに訪ねてきた母親にクリスマスプレゼントくらいないの? トム君の演奏料、かなりあるんでしょ?」
「それはトムのお金です!」
アイリスはやっぱりと言いたげな様子で肩を落とした。
「トムが成人するまで貯金することが決まっています。このまま音楽の道に進むにしろ、別の道を選ぶにしろ――」
「アイリスったら、なーんてお馬鹿さん! 音楽の道に決まっているでしょ!」
ガランサス夫人は小馬鹿にするように笑った。
「神童だって書いてあったわよ! このままじゃんじゃん稼ぐんでしょ? わざわざ確実にお金持ちになれる道を蹴るなんて、アホのすることよ!」
「トムの未来を勝手に決めないでください!!」
「あんたこそ、何を考えてるのよ! 子どもを正しい未来を導くのは、親の最低限の役割じゃない!」
「最低限の役割、ですって?」
アイリスは怒鳴ろうとしているのがトムの目からも明らかだった。腕を組むのを止め、両拳を握りしめている。叩きたいのを堪えているのか、腕までふるふると震えていた。それでも、何度も目を閉じ、荒い呼吸を繰り返す。ようやく落ち着いたのか、アイリスは肩で息をしながらも冷静な声色で言い返していた。
「……では、私も親として最低限の役割を果たしますわ……ガランサス夫人、どうぞお引き取りください。あなたがトムの人生から出ていくことこそ、トムの正しい未来に通じますわ。それから、あなたには1ペンスも渡すつもりはありません!」
アイリスが毅然とした態度を保つと、ガランサス夫人は憤慨したように地団駄を踏んだ。
「頭が固い女ね! そういうところ、大っ嫌い。あんたも、あのとき一緒に死ねば良かったのに……いえ、そうなったら、トム君が産まれなかったわね」
ガランサス夫人はここでようやく、トムに目を向けた。つい数秒前まで怒り狂っていたのに、こちらを見た瞬間、にやっと背筋が凍るような笑顔を浮かべていた。
「トム君、またね。こーんな薄情で世間知らずな女は嫌いでしょう? そうだ! せっかくだから、うちの子になる? うちなら思う存分、ヴァイオリンのお勉強させてあげるわ!」
「アイリスは薄情じゃないよ」
トムは言い返すと、アイリスの足元に駆けだした。
「ちょっと変わったところもあるけど、それは僕も同じだから」
むしろ、アイリスに更なる親近感がわいた。
赤子の頃に泣かなかったのは、自分が孤児院で聞いた話と同じだったからだ。
「……本当、ムカつくほどそっくりね。まったく可愛げのない子どもだこと」
ガランサス夫人は冷たく呟くと、荒々しく毛皮のコートを着た。
「あーあ、時間の無駄だったようね。この部屋にも金目の物はないし、しいていうなら、季節外れの花かしら。迷惑料で貰っていくわ!」
ガランサス夫人は目にもとまらぬ素早い動きで、ヒマワリの植木鉢を手に取った。
そこで初めて、アイリスの顔色が一気に青ざめた。
「なんてことを!?」
アイリスはガランサス夫人に飛びついた。植木鉢を取り返そうとするが、夫人は頑として離そうとしない。
「なによ、たかが鉢植えじゃない!」
「宝物なの! それは今朝、トムが初めてくれた――」
「っぷ、トム君がこの年齢になるまでプレゼント一つ貰えないなんて、トム君から愛されてないのね! これじゃあ、さっきの可愛げない言葉も怖くて冷たい母親に忖度した台詞なんじゃない?」
ガランサス夫人がそう叫べば、アイリスの動きが止まる。あまりにも急に止まったせいで、ガランサス夫人もバランスを崩し、鉢植えは2人の手から離れ、床に叩きつけられた。
「あ……」
鉢植えは割れ、ヒマワリの花は絨毯の上に放り出される。
アイリスはなにも言わない。ガランサス夫人はアイリスに軽蔑の目を向けると、帽子を被り直した。
「あたしは悪くないわよ。あんたが奪おうとしたせいなんだからね」
それだけ言うと、ガランサス夫人はつかつか玄関へ歩き出した。
トムはもう我慢ならなかった。アイリスから魔法を使って人を傷つけるのはいけないと口を酸っぱくして教えられたし、自分もその通りだと強く信じているが、これはあんまりである!
ガランサス夫人の後を急いで追いかけると、夫人は玄関でコートを整えている最中だった。玄関ホールを細い眼で舐めるように見渡し、小声で「あの絵画、いいわね。貰っていっちゃおうかしら」と手を伸ばそうとしていた。
トムは夫人の背中を思いっきり睨みつける。すると、夫人の足が不自然に持ち上がり、ずりっと滑った。夫人はその場で転倒し、飾りのついた帽子がずれ落ちる。
「痛ッ……まったく、なんなの?」
夫人が尻の痛みに悶えていると、玄関の扉がひとりでに開いた。轟っと吹雪交じりの風が夫人に吹きつけ、帽子を浮かび上がらせた。帽子は風に乗り、そのまま外へとさらってしまう。
「きゃっ、なんで? 待って!? 戻ってきて!!」
夫人は大慌てで帽子を追いかけるが、雪道なので何度も何度も転びそうになりながら通りの向こうへと駆けて行った。あまりにも焦っているので、先ほど転んだ衝撃で、スカートが破れてしまい、パンツが見え隠れしていることに気づくまでに時間がかかりそうだ。
「……いい気味だ」
トムは玄関をぴしゃりと閉じる。
魔法を使って仕返しをしたことに罪悪感は覚えたが、心はスッキリしていた。
「アイリス?」
リビングに戻ると、アイリスは床に座り込み、鉢植えの片づけをしていた。
「ごめんね、トム。騒がしかったでしょ? すぐに夕食の支度をするから、自分の部屋で待っていて」
アイリスは普段よりわずかに高く明るい声で言ったが、こちらをまったく振り返らない。いつもは忙しくても自分の目を見て話してくれるのに、と不思議に思ったが、その答えはすぐに分かった。
アイリスは泣いていたのだ。
白い頬から涙が伝い、ぽたぽたと絨毯に沁みを作っている。
「……手伝うよ」
トムはアイリスの涙に気づかないふりをしながら、床に飛び散った土を魔法で掃き集める。
「トム、もし手が空いたら花瓶にお水を汲んできてくれる? ヒマワリ、根が千切れちゃったみたいだから……花瓶に飾ろうと思うの」
「土はどうする?」
「新聞の上に纏めておいてくれると嬉しいわ」
トムはアイリスの言う通りにした。
花瓶を取りに行こうと部屋を出る前に、トムは足を止めた。
「あのさ、僕……アイリスのこと、かなり好きだよ」
アイリスの小さな背中に向けて声をかける。
「プレゼントだって、いままで僕から渡すって概念を知らなかったんだ。もし知っていたらさ、最初のクリスマスから渡していたはずだよ」
「……」
「だから、僕、アイリスのこと嫌いなわけないから」
愛と好きの違いは、いまだに分からない。
だけど、アイリスのことは好きだ。少なくとも、ヴァイオリンの練習の貴重な合間を縫って、プレゼントに頭を悩まし、アイリスを罵倒した女を懲らしめてやろうと思うくらい好きなのだ。
アイリスはしばらく黙っていたが、ごしごしと袖で目元を拭うと、ゆっくりとこちらを向く。頬には涙の筋が光っていたが、いつも通り柔らかな微笑を浮かべていた。
「……知ってるわ。いつもありがとう」
そして、ヒマワリを飾りなおした。
品の良い水色の花瓶に黄色のヒマワリは良く映え、鉢を失ったことを忘れたように元気よく咲き誇っている。
それから、何事もなかったかのように夕食が始まった。
「僕、アイリスのこと何も知らなかった」
クリスマスのチキンを食べてるとき、トムがそんな気持ちを吐露すると、アイリスはたいして気にしてない感じでこう言った。
「人は秘密の1つ2つ抱えてるものなのよ。『女は秘密を着飾って美しくなる』って名言もあるんだから」
「それ、聞いたことないよ。誰の名言?」
「いま誕生した名言」
アイリスは何気ない口調で言い切ると、チキンに齧り付いていた。
「ガランサス夫人は悪くないわ。私は苦手な人だけど、可愛げのない幼少期だったのは事実だったから。そのせいで、彼女はちょっと性格が曲がって再婚したのよ。もし、あんな事故がなかったとしても、早々に離婚していたかもね」
「事故って?」
トムはマッシュポテトを一口で食べ終えると、アイリスに質問を投げかけた。
「川で溺れてしまったの。私はすぐに川下に引っかかって助けられたけど、父さんは……こんな話、やめましょう。クリスマスにふさわしくないわ」
アイリスが自分から話を切り上げるのは、とても珍しかった。それだけ、彼女が触れられたくない話題なのだろう。
トムは空になった皿をしばし見つめていたが、ゆっくりと顔を上げた。
「僕、嬉しかったよ」
「なにが?」
「アイリスとそっくりって言われて」
ここで、アイリスの動きが止まった。ぱちぱちと瞬きさせ、きょとんっと呆けている。
「あれは悪口よ?」
「でもいいんだ。それに、僕も『赤子のとき泣かなかった』って孤児院の人たちが話してたから。お揃いだよ、僕たち」
騒がしく目まぐるしいクリスマスだったが、このことが何より嬉しかった。
トムとアイリスの間に血の繋がりはなく、絆のようなもので結ばれていることは、なんとなく理解していた。でも、それを少し寂しいと思っていたのだ。そんなとき、血の繋がりがなくても、似ていると第三者から指摘され、トムは果てしなく喜ばしかった。
「だからさ、僕たち『家族』だよね」
トムは自分でも口にして、あっと驚いてしまう。
「家族」。
ずっと口にしたかったけど、照れくさくて――それに、どこか申し訳なくて言えなかった単語が自然と発することができた。
「そうね、私たち……家族よね」
アイリスもゆっくりと目元を緩ませ、どこか強張っていた口元が綻んだ。
「家族……家族……うん、良い響きだこと」
夏の青空を思わす目は、また潤み始めていたが、今度は輝きを失わなかった。
トムは満足そうに頷くと、スープのお代わりをよそう。
「ねぇ、新しく子犬を飼うでしょ? 名前、どうする?」
新しく迎える家族の話題に花を咲かす。
アイリスがころころと笑いながら、ちょっとおかしな名前案を上げ始めた頃、トムはやっとガランサス夫人が来襲したことを忘れた。
こうして、クリスマスの夜は和やかに更けていくのだった。