●1937年 2月〇日
ついに来てしまった。
12時過ぎのことだ。挿絵の仕事に没頭していたのだが、柱時計の音で我に返る。トムが学校へ行って留守の日は昼食を抜かすこともあった。でも、今日は一度集中が途切れてしまったことだし、ビスケットでもつまむかーと考えながら、筆を置いたそのときだった。
玄関のチャイムが鳴り響く。
いったい誰だろう? 私が疑問符を浮かべながら扉を開けると、髭の生えた身なりの良い紳士が立っていた。ステッキを携え、いかにも良い暮らしをしているといった風貌の紳士は微笑むことなく、てきぱきとした声で話しかけてきた。
「私、弁護士のジャスパー・バトラーと申します。アイリス・リドル様でございますね?」
弁護士は名刺を差し出してくる。
「話が長くなりますので、なかで話がしたいのですが」
「ご用件は?」
私が名刺を手にしたまま尋ねれば、トムのことで話がしたいのだという。
「私はとある名家の顧問弁護士をしております。今回、貴方様のお宅に訪問したのは、養子のトム・マールヴォロ・リドルについてのことで相談がありましてね」
「名家……顧問弁護士……」
相手の言葉を繰り返しながら、私はついにこの時が来たと悟った。
例のインタビュー記事が新聞に載ったのは、2週間前のこと。新聞といっても大衆紙なので目にしない可能性も考えたけど、村の住民や使用人たちは読んでいるかもしれない。それ以前に、BBC交響楽団との一件は国王陛下一家が観に来たこともあり、新聞各社で報道されていた。ラジオのニュースにもなっていたらしい。
そう考えると、むしろ接触が遅いのかもしれなかった。
「顧問弁護士の方が、トムにどのような用件でしょう?」
「……トムの出生に関することです」
彼が囁くように告げた言葉で、予想が確信に変わった。
ただ……限りなくリドル家の弁護士と思われる人だけど、面識のない男性を家に上げることには抵抗がある。それに、一見すると上品なスーツを着こなした紳士だけど、ステッキが気になった。いかにも威厳のありそうで太くて頑丈そうだけど、よく見ればあちこちに打ち傷が目立つ。傷を隠すため、乱雑に塗りなおされた痕跡だってあった。これだけでも、かなり使い込んでいるのが分かる。名家の顧問弁護士と名乗る偉そうな人が、古びたステッキで来るだろうか? もちろん、ただ使い慣れた愛用の品って可能性も高いけどさ。
ちょっと悩んでいれば、運の良いことに、ナティが買い物から帰ってくるところだった。
私はナティに同席を頼み、弁護士と名乗る男を家に上げることにした。
「イングランドのリトル・ハングルトン村はご存じでしょうか?」
私もナティも首を横に振った。
まあ、本当のところ、私はなんとなく覚えていたけど……。
すると、弁護士は地図を取り出し、パディントン駅から線路を指で辿りながら村の場所を教えてくれた。
リトル・ハングルトン村はロンドンから300㎞ほど離れた小さな村だった。想像していたよりも田舎だったので、私は少しだけ驚く。弁護士は名家と紹介したけど、貴族ではなく、田舎の名士に違いない。
「この村に一体どのような関係が?」
私は何も知らぬふりをすると、弁護士は静かに告げた。
「トム・マールヴォロ・リドルの父親と祖父母が暮らしております」
そう言いながら、彼は写真を取り出した。私たちはモノクロの写真を覗き込み、ほぼ同時に目を丸くした。私は息を飲み、ナティは驚きの声を漏らす。
「……トムにそっくりね」
ナティが呟いたが、まさにその通りだったのだ。
難しい表情をした壮年の男性は、大人になったトム・リドルそのものだった。黒髪も目や鼻の形も輪郭まで、なにもかもが同じ。この写真を見ただけで、この二人が血縁だと分かるだろう。
「トム・リドル氏です。貴方の養子と同じ名前です。ミドルネームは異なりますが」
「……トムや孤児院の方からは、実の母親が亡くなる直前に『父親の名前をとって、トム・リドルと名付けて欲しい』と頼み、その通りにしたと聞かされてます」
「『マールヴォロ』は母方の祖父の名前ですね?」
弁護士が確認してきたので、私は頷いた。
トムの名前に関する経緯は、インタビューの記事に載っていない。この時点で、まぎれもなく本物の弁護士で、リドル家の依頼で訪ねてきたことが確定した。
私は背筋を伸ばし直し、弁護士をまっすぐ見つめる。
「……親権を渡せ、ということですか?」
「とんでもない!」
弁護士はここで初めて表情を崩した。
「リドル氏は『認知はしない、自分は騙されたのだ。顔も見たくない』と申しております。ただ、リドル氏の母親であられるマダム・メアリーが『孫に会いたい』と熱烈に希望されておりましてね」
「実の祖母が面会を希望していると?」
「それから、リドル氏が『金輪際、我が家とは関わりを持たない』との誓約書にサインして欲しいとの要望が出ています」
まあ、このあたりは予想できたことだ。
安心したのは、トムを金儲けの道具として利用しようという魂胆が見えないこと。少なくとも、いまのところは。
ひとまず、トムとも話し合いたいということで結論は先延ばしにする。
弁護士は一週間はロンドンにいるらしく、滞在先のホテルの住所と電話番号を書き残して去っていった。
「アイリス、どうするつもり?」
ナティが不安そうに聞いてきた。
「それはトムが決めること。でも、私としては……あまり会わせたくない」
「そうだよね。父親が親権を認めないってよっぽどだよ。トムには申し訳ないけど、私はこの父親嫌いだな。顔は良いけど、性格はあまり良くないと思う」
ナティは弁護士の残した写真を一瞥した。
ナティは父親を早くに失っている。あまり深くは教えてくれないけど、幼い彼女を守って亡くなったそうだ。勇敢で愛に溢れた父親を持っていることもあり、実の息子を認めないリドル氏が信じられないのだろう。
私もトムそっくりの写真を見つめながら、小さく息を吐く。
「ナティの言うことも分かるわ。当時どのような事情があったか知らないけど、トムの母親を見捨てたってことは事実だからね。しかも、妊娠中の」
魔法で騙されていたとしても、妊娠中の女性を見捨てた時点で……いろいろと察しの性格である。メローピーを見捨てたらどうなるか、少し考えれば分かるはずだ。
もっとも、メローピーも魔法で騙した時点でね……いろいろと問題があるわけだけどさ。
「アイリス、断った方がいい。トムには知らせない方針で行こう」
「そうかもしれない。でも、ナティ。もし……もしだよ、マダム・メアリーがトムに接触したら? なにが起きるか分からない。だから、先にすべて話しておいた方が良いと思うの」
トムはショックを受けるだろう。
まだ10歳になったばかりの男の子に、事実を告げるのはあまりにも酷だ。父親の性格があまり良くない現実に直面すると同時に、メローピーが魔法を悪用して結婚した事実もついてくる。
だけど、トムが例のインタビューに乗り気だったのは、実の父親を知るためだった。彼には覚悟がある。それに、いまのトムなら……激昂して、リドル一家殺戮なんて暴挙はしない。トムには辛い現実だけど、向き合うことができるだけの心が育っている。私はそう信じている。
たとえ、現実に打ちのめされてしまったとしても、私はトムの家族として支える。彼が顔を上げ、前を向いて歩き出せるようになるまで……。
私が(魔法のことは伏せて)説明すると、ナティは難しい顔をしながらも最後には了承してくれた。
「でもね、アイリス。相手がどのような態度をとってくるか分からないわ。だから、相手の家に行くときは私もついて行くからね」
「ありがとう、ナティ。心強いわ」
その日のうちに、私はトムに今日の訪問者について話すことにした。
トムは帰宅するなり、誰か客が来たことにすぐ気づいた。
「アイリス、カップが3つも乾かしてあるけど誰か来たの?」
「今日はそのことについて話そうと思うの」
トムはヴァイオリンの練習をしたがったけど、私の顔を見てなにかを感じたのか、テーブルに着いてくれた。ちょっと話が長くなるので、お茶とビスケットを用意する。
「今日、弁護士を名乗る人が来てね……これを置いて行ったの」
そう言いながら、私はそっと写真を取り出す。
トムは怪訝な顔をしながら受け取ったけど、写真に目を落とした瞬間、あっと叫んだ。写真に目が釘付けになったまま、震える声で確認してくる。
「これ……僕の父さん!?」
「そういうことになるわ」
トムは写真から顔を上げなかった。食い入るように、自分と同じ顔をした気難しそうな男性を見つめている。最初は目を輝かせて眺めていたが、次第に表情が曇っていき、いつものトムからは考えられない低い声でこう尋ねてきた。
「……この人、生きてるんだよね」
「そうね」
「どうして、本当の母さんを見捨てたんだ?」
その頃には、トムの手が震えていた。
「この写真を見る限り、それなりに元気そうじゃないか。僕はてっきり……」
「トム。落ち着いて聞いてね」
私は言葉を選びながら語りかけた。
「トムのお父さんは『会いたくない、縁を切りたい』と言っているの。貴方に会いたがっているのは、貴方のお祖母さんよ」
「何故? どうして、父さんは僕に会いたくないの?」
私は首を縦に振ることしかできなかった。
「……僕は父さんに会いたい。母さんと僕を捨てた理由を聞きたい」
「知らない方がいいかもしれないわ」
「それでも、知りたい」
黒い眼で私を見つめている。父に捨てられた現実に怒るかとも考えたが、トムの目が赤く染まる兆候は見られなかった。私は大きく頷いた。
「分かった。ひとまず会う方針で進めるね」
「リドルの一族はどこに住んでるの?」
私は地図を出し、先ほどの弁護士を真似て説明した。トムは「リトル・ハングルトン村」の名前を穴が開くほど睨みつけている。その姿に、一抹の不安を覚え、私は急いで口を開いた。
「私と一緒に行くよ。これから弁護士さんと日程の打ち合わせをするから。一人で行かないでね」
「…………はい」
ややあってから、トムは承知した。
「一人では行かないよ」
「ジョナサンとかナティを誘って、こっそり行くことも駄目よ」
「……分かってるよ」
うーん、不安!!
約束したから大丈夫だと思うけど、ちゃんと行動を見守るようにしよう。
●1937年 2月×日
弁護士と相談してきた……。
疲れたよ……。
とりあえず、イースター休暇に「リトル・ハングルトン村」へ行くことに決まった。
トムが「父が母を捨てた理由を直接聞きたい」旨を熱望していることを伝えると、弁護士は電話でなにやら相談し始めた。電話の向こうから不機嫌な叫び声が漏れ聞こえてきたが、最後は了承してくれた。
「その代わり、今回限りの訪問ということになります。それ以降は、互いに関りを持たないことを誓約していただきます」
私は了承し、トムにも同意してもらった。
3月は忙しくなりそう。
リトル・ハングルトン村へ行ってから、子犬を引き取ることになりそうだ。
そのまえに仕事を全部終わらせなくちゃ……。
※
●1937年 3月7日
はじめて「母の日」をお祝いしてもらった!!
これは嬉しい!!
昨夜は「日記のネタ、世界フィギュアスケート選手権にしようかな。いや、満州国の話題にするか」とか悩んでいたら寝落ちしてしまい、気がついたら朝。カーテンから差し込む朝日で目が覚め、のろのろと支度をする。
ぼんやりした頭のまま、目玉焼きを皿に移していたら、背後でポンっと音がした。いまのトムは階段から降りてくるなんて真似はしない。いつも通り、朝は「姿現し」で起きてくる。もちろん、ばらけなしの完璧な「姿現し」だ。
「おはよう、トム。少し待って。あと運ぶだけだから」
私はトムに声をかけようと振り返って、目が点になった。
トムの頬が熟れたリンゴくらい真っ赤に染まっていたのだ。
「どうしたの、トム?」
発熱だろうか、と焦ったけど、トムの両手が後ろに回っていたので違うと気づく。
「……母の日だから」
トムはいつになく小さな声で告げると、背中に隠していた箱を取り出した。アイリスの花が描かれた紙で包装されている。リボンも上品な青色なところを見るに、トムが魔法で変身させたのだろう。
「母の日?」
なにを言っているのか、最初は理解できなかった。でも、「母の日」という言葉がじんわりと心に沁みてくる。ここ数年、いや数十年も縁のなかった単語がいきなり飛び出して来たのだ。
だから、つい……こんな的外れの言葉を口にしてしまう。
「誰の?」
「アイリスのだよ!」
トムは怒ったように言った。
「アイリスの他に渡す人がいると思う?」
トムは眉を寄せ、口を尖らせる。
「ほら、ずっと僕を育ててくれたから……お礼は必要だろ」
「お礼なんていらないのに」
「僕がしたいんだ!」
そう言いながら、彼はプレゼントを押しつけてきた。どしっとかなり重くて、私は慌てた。
「いったい何を用意したの!?」
「開ければ分かるよ」
トムは私が驚く顔を見て、悪戯っぽく笑った。
箱を開けてみてびっくり!
そこには小豆の詰まった袋と「宮沢賢治全集」が3巻揃ってたのだ!
「どうしたの、これ!?」
「ナティの先生がジャパン出身で、取り寄せてもらったんだ」
聞けば、この日のために数か月がかりで準備したらしい。私がトムが自分で稼いだお金の一部を「いざというときに使いなさい」と渡したけど、まさかこのために使うなんて……めっちゃくっちゃ嬉しいよ!? でも、「いざというとき」の意味が違う! 私はトムに注意したかったけど、彼の誇らしそうな顔を眺めていると――気が失せてしまった。
「ありがとう、トム」
私は少し屈み、トムの頭を撫でた。
前はもっと低かった。引き取ったばかりの頃は、私の腰くらいの位置に頭があったのに、いまは肩のあたり。あと1、2年以内に同じ目線になり、すぐに抜かされてしまうだろう。
私はちょっぴり切なくなった。
「小豆を使って、甘いパンを焼いてあげる。今度一緒に食べようね」
切なさを隠すように、私は明るい声を出した。
「アイリスが全部食べなよ。そのために買ったんだ」
「一人で食べるのは寂しいもの。それに、虫歯になっちゃう」
私がおどけてみせれば、トムは「仕方ないなー」と肩をすくめた。
「これは甘い豆なの?」
「砂糖と一緒に煮込むのよ。作り方はうろ覚えだけど……まあ、なんとかなる」
餡子は欧米人の受けがよくないって聞いたことあるけど、アンパンにすれば受け入れてもらえるかな。白米のときのように、トムが「僕は苦手」という反応だったら寂しいけど……私としては餡子を食べることができるだけで狂喜乱舞だ。トムがこんなことを計画していたなら、ナティの前で「醤油が欲しい」と口を滑らせておけばよかった……。
「その本は?」
トムが興味深そうに「宮沢賢治全集」に目を向けていた。
「何の本?」
「そうね……」
私は1巻から3巻をぱらぱらとめくった。
日本語! そりゃ戦前の作品なので、ちょっと文字が読みにくいけど、久しぶりの日本語に心が躍った。しかも、それが宮沢賢治の幻想的な世界観なのだ。文章を見つめるだけで、思わず笑みがこぼれた。
「童話と詩かしら」
「あ、ここは詩じゃないか?」
トムが指を差した。
「文章が短い。だから詩だ!」
「そうね、その通りよ」
「なんて書いてあるの?」
「えっと……」
ここで、困ってしまった。
トムの指先に記されていたのは「春と修羅」の一節。訳せなくはない。訳せなくはないのだが、直訳するには味気なく、独特な世界観と賢治節を表現するには他にふさわしい言葉があるような気がしてならなかった。
「ここは難しくてすぐ訳せないけど……あ、ここならすぐ訳せるわ。『おれは一人の修羅なのだ』って書いてある」
「シュラってなに?」
「えっと……たしか、インドの神様に阿修羅って戦の神様がいるの。そのことかな」
「物騒な詩だね」
トムは怪訝そうな表情をしていた。
「ジャパンの神様はインドの神様と同じなのか?」
「そうともいえるし、そうではないともいえるわ」
日本の信仰は本当に説明が難しい。産まれたときは神社に参拝し、結婚のときは神父を呼び、死ぬときは寺で経を読む。夏には先祖の霊をもてなし、秋にはハロウィンではしゃぎ、冬にはクリスマスを楽しむ――あまりにも一神教の世界観とは違い過ぎて、説明することは至難の業だ。少なくとも、心づもりなしに日曜の朝に話せる話題ではない。
だから、私はすぐに話を逸らすことにした。
「あ、この話! これが読みたかったの!」
私は別の巻をめくり、とある物語を開いた。
「『銀河鉄道の夜』」
「物語?」
「男の子がね、友だちと一緒に汽車に乗って、銀河を旅する物語よ」
「二人で?」
「そう、二人で」
トムは興味をそそられたらしく、ふーんと鼻を鳴らした。
「汽車が空を飛ぶってこと?」
「銀河の星々の間を進んでいくの。ジョバンニとカンパネルラは銀河を巡りながら、『本当の幸せ』を探すのよ」
「本当の幸せ? それはなに?」
「それは……私には分からない」
ずっと昔に読んだので、その答えは思い出せなかった。
「あとで訳してあげる。長い物語だから、時間がかかるけど……」
宮沢賢治の物語は根底に寂しさが流れている。日本人特有の情緒は文化が違うので欧米人には伝わりにくい。これを英語で表現するのは難しいけど、非常にやりがいがあることだ。トムが「銀河鉄道の夜」に触れて、どのように感じるのかも気になる。
なにより、トムがわざわざ買ってくれた一冊だ。
日本から輸入するだけでも大変だったろうし、お金もかかったことだろう。そこまでして手に入れた貴重な品だ。私だけが独占していいはずがない!
もっといえば、トムと共有したい!!
「楽しみにしてるから」
「大船に乗ったつもりで任せて!」
とはいったけどさ……。
手始めに「銀河鉄道の夜」を訳すため一気読みしたんだけど、私の知っている内容と違った! 謎の博士が登場して、謎の実験を執り行うシーンとか知らない!
これは……ハリポタの世界だから?
それとも、私の前世の思い出が間違っているのかな?