トム・リドル育成計画!   作:寺町朱穂

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〇1937年3月 リトル・ハングルトン村

●1937年 3月29日

 

 いやー、実にスリルに満ちた旅だった!

 こうして、自室で日記を書けることにありがたさを感じる……。

 

 努めて冷静に、時系列順に何が起きたのか記そうと思う。

 

 イースター休暇初日の早朝、私たちはパディントン駅から汽車に乗った。

 トムも窓からの眺めに心躍らせてたけど、ナティが一番はしゃいでいた。

 

「私、汽車で旅したことなかったんだよね」

 

 ナティは目を輝かせながら車窓に流れる風景を見つめていた。

 これには、私は驚いてしまった。私のなかの「ナティ=魔法使い説」は根強いので、ちょっと意外な事実に思えたからだ。

 

「ナティ。あなたは寄宿舎付きの学校に通っていたって聞いたけど、汽車は使わなかったの?」

「私、学校の麓の村に住んでたんだ。だから、私は汽車に乗らせてもらえなかったんだよ」

 

 つまりは、ホグズミード村に住んでいたということなのかな。私はそう解釈して深くは掘り下げようとしなかったけど、トムが待ったをかけた。

 

「ウガンダから引っ越して来たとき、汽車に乗らなかった?」

 

 これは当然の疑問である。

 「姿くらまし」とか「移動キー」で来英したのだと予想できるけど、アフリカの内陸にある国なのに一般人が汽車に乗らずに移動するのは考えにくい。

 

「船と車だけ?」

「それは旅というより引っ越し。旅を楽しむ余裕はなかったかな」

 

 ナティは苦笑いをしていた。

 そんな始まりだったが、汽車の旅は快適だった。

 コンパートメントを確保できたので、3人でお菓子をつまみながらトランプを楽しんだ。トムはババ抜きが本当に得意で人の顔色を見抜くのに長けていた。何回やっても、真っ先に勝ち上がるのはトムだった。昔は勝てなくて、こっそり魔法で絵柄を変えたこともあったっけ……なんだか懐かしくなる。

 そういえば、トムは旅の途中でこんな話をしてきた。

 

「汽車といえばさ、銀河鉄道の続きは?」

 

 トムは「銀河鉄道の夜」に夢中になっていた。

 私としては、気軽に引き受けたことを後悔している。ストーリーが難解かつ思っていた以上に長くて、1行翻訳するのに何時間もかかってしまうこともあった。比較的短い「やまなし」や「注文の多い料理店」を提案すればよかった……。

 それでも、「トムに読み聞かせをする」という早々に諦めた夢を実現するまたとない機会に燃え、仕事の合間を縫って必死こいて翻訳を続けた結果、どうにか7章まで完成することができたのである。誰か、私の頑張りを褒めて欲しい。もっとも、トムの「続きが気になる」といった眼差しが十分報酬になっているけどね。

 

「4月の頭には8章が終わると思う。9章は長いから、分割することになるかな」

「アイリスも翻訳の仕事できそうね」

 

 ナティが興味深そうに言った。

 

「どこでジャパンの言葉を学んだの?」

「子どもの頃、父にいろいろな言語を学ぶように勧められて……」

 

 これは本当。

 前世で英検準2級程度の英語力でも、幼児がぺらぺら話せば驚かれる。母は恐怖と嫌悪の感情を前面に出したけど、父は「うちの子は神童だ!」とあらぬ勘違いをしてしまった。父は英語、スペイン語、ラテン語、アラビア語、ギリシャ語など、ありとあらゆる言語の本を用意し、勉強しなさいと促してきた。そのなかに日本語もあった。英語と日本語が解ってしまったので、父の勘違いをますます助長させてしまったのは……本当に申し訳なかったと感じる。

 

「翻訳の仕事も考えたことあるけど、絵を描く方が性に合っているのよ」

 

 絵を描くのは前世から好きだったし、紙とペンですべてを忘れて没頭できる時間は心地よかった。それに今のご時世、日本の書籍なんて訳しても誰も手に取らないのは目に見えている。

 

「アイリスは何か国語できるの?」

「英語でしょ、日本語でしょ、スペイン語にドイツ語……うん、それくらいかな」

 

 トムに聞かれ、私は指を数えながら答えた。

 

「なんか、意外だな。ジャパンの言葉って、かなり難しそうに見える」

 

 トムは眉を寄せながら答える。

 

「僕にはさっぱりだ。そりゃ、勉強すれば覚えられるだろうけど……さすがに余裕がない。睡眠時間を削ればいけるけど」

「駄目よ。9時にはベッドに入りなさい」

「なら、いまの僕には無理だ」

 

 そう言うと、トムはむすっとした表情で車窓に目を向けた。

 

 

「リトル・ハングルトン、リトル・ハングルトン」

 

 田舎の駅に辿り着いたのは、ちょうど昼頃だった。

 長いプラットホームには、自分たち以外誰もいなかった。切符売り場に駅長の姿は見えたが、退屈そうに腰を降ろしている。周囲に家は見当たらなかったが、少し離れた丘の上に屋敷が見えた。たぶん、あれがリドルの屋敷に違いない。

 

「迎えが来るはずなんだけど……」

 

 プラットホームのベンチに座らせてもらい、待つこと10分。小さな車が砂利道を進んでくるのが見えた。車は駅前に止まると、弁護士が降りてくる。

 

「ミス・リドル、お待たせしました。どうぞ、乗ってください」

 

 3人で後部座席に乗り込むと、かなり窮屈だった。

 車は排気ガスを派手に吹きながら、丘の上の屋敷まで進んでいく。途中、小さな村の間を抜けた。お昼時が近いこともあってか、村人たちは家に戻っているらしく、誰もが興味津々で私たちの乗る車を見ていた。道の両脇には生け垣が植えられており、まっすぐ丘の上の屋敷まで続いていた。

 リドルの屋敷は大層豪華な造りである。

 4階建ての屋敷の壁は陽光で輝いており、堂々たるたたずまいをしている。庭だって素晴らしい。花壇に咲き誇るパンジーはグラデーションを考えて植えられていた。特に芝生は素晴らしく、「全英芝生手入れコンテスト」とかあれば上位入選するのではないだろうかと感じた。庭の隅に建てられた少し古びた小屋もいい塩梅に見えてくるのだから、それなりの腕を持った庭師なのだろう。

 庭師のことを考えていれば、ちょうど一人の青年が庭の手入れをしていた。

 

「……あの人」

 

 車から降りると、私はその青年に目を向ける。どこかで見たことのある顔に、私はつい視線を向け続けてしまった。

 弁護士は私の視線を追い、「ああ」と頷いた。

 

「あれは庭師のフランク・ブライスです。歩き方が変だから目につきますよね。スペインの内乱に義勇軍として参加したそうですけど、足を怪我して、つい数日前に帰って来まして……だから、あんな歩き方なんですよ」

 

 弁護士がそう言ったとき、フランクがこちらを向いた。

 そこで、私は今さらながら思い出す。

 フランク・ブライスとは4巻の「炎のゴブレット」の冒頭に出てた「リドルの屋敷」の住み込みの庭師だ。私の知るフランクは老人の顔。いまの彼には皺なんて一つもないけど、ちょっと気難しそうな面影は感じられた。

 彼は50年もの間、リドル一家殺害の犯人だとあらぬ疑いをかけられ、最期はアバダケダブラで呆気なく命を落とす。どちらの事件にも、トムが関わっている……私の隣で、緊張で固まっている男の子が……。

 

「そう、スペインの内乱で……」

 

 私は胸が苦しくなった。なんて救いのない人生なのだろう。せめて、この世界線では冤罪をかけられることなく、幸せな生涯を送って欲しい。私はそんな願いも込めて会釈をする。フランクは帽子を被ったまま、少しだけ頭を下げていた。

 

「礼儀の知らぬ男ですみませんね」

 

 弁護士は吐き捨てるように言ったので、私は「そんなことないですよ」と返し、玄関ホールに足を踏み入れた。瞬間、ホール一杯に女性の声が響き渡る。

 

「まあ、トムの小さい頃にそっくり!! 可愛らしいわ!」

 

 メアリー・リドルが笑みを浮かべ、階段を駆けおりてきた。彼女の目には、トムの姿しか入っていない。

 

「ロンドンから長旅だったわね。トム君も疲れたでしょう」

 

 メアリーは微笑みながら話すも、トムの表情は強張ったままだった。

 

「はじめまして。トム・マールヴォロ・リドルです。あなたが、僕の……」

「ええ! おばあ様よ! 会えて嬉しいわ、まさか、私の孫が神童だったなんて! 新聞で読んだときは、びっくりしたのよ」

 

 メアリーがぐいぐいと迫ってくる。

 

「僕も実の祖母に会えて嬉しいです」

 

 トムは笑顔を作っていたが、目がまったく笑っていなかった。

 

「ですが、どうして……どうして、これまで探してくれなかったのですか?」

「知らなかったのよ」

 

 メアリーは当然のことのように言った。

 

「息子がろくでなしと駆け落ちしたのは知っていたけど、帰ってきてからは『誑かされた』としか言ってないから、本当に子どもがいたとは知らなかったの。それも、こんな素晴らしい男の子が! さあさあ、我が家を案内するわ」

 

 メアリーが侍女を引き連れて、屋敷を歩き出した。私たちもそのあとに続いたけど、トムの目はどこまでも冷ややかなものになっていた。しかも珍しいことに、私の左手を強く握りしめている。最近は手を繋ぐことなんてなくなっていたのに、私の身体にぴたっと寄り添うように歩いていた。

 

「……トム、平気?」

 

 私はトムに囁きかけると、彼は頷いた。

 

「アイリスは心配性だな。大丈夫だよ」

 

 トムは硬い声色だった。とても大丈夫には見えない。目の色を確認すると、とりあえず普段のままだったが、いつ赤く染まってもおかしくないのかもしれなかった。

 しかし、メアリーはトムの異変に気付いてすらいない。ルンルン気分で廊下にかかった絵画や壺、彫刻の数々を自慢し、いかに我が家がお金持ちで素晴らしいかを説いていた。 

 

「……祖父と実父の姿が見えないのですが」

 

 途中、トムが口を開いた。

 

「トーマスは出かけているのよ。息子は……あなたのお父様は食堂で待っているわ。せっかくですもの、昼食をとりながら今後の話をしましょう! ああ、ここが食堂よ!」

 

 長いテーブルの端には、写真の男が座っていた。ここにいるのはかなり不本意らしく、身体全身から不機嫌さが漂っている。

 

「トム、あなたの息子が来たわよ。さあ、みんなで食事をしましょ! ほら、ぐずぐずしないで早く用意しなさい!!」

 

 メアリーは甲高い声で二人のトムに話しかけたあと、控えていた使用人に鋭く命令した。

 昼食だというのに、ローストビーフが出される。クリスマスに食べるような素晴らしい品だったが、それはリドル一家+トムの分だけ。私とナティの皿には端切れのようなローストビーフだった。ちなみに、弁護士は「昼食はいりません」と断り、コーヒーをすすっていた。

 食事の席が大いに盛り上がらなかったのは言うまでもない。

 メアリーが「リドル一族の裕福な暮らし」についてぺちゃくちゃと一方的に話しまくり、トムが口を挟む間もなかった。トムはローストビーフを食べながら、ただひたすらまっすぐ父を睨みつけている。リドル氏は常に下を向いたまま、いらつくように貧乏ゆすりをしていた。

 

 メアリーの声しか聞こえぬ時間が10分ほど続いた頃だろう。ようやく、彼女が我が家の自慢について語り終え、トムに話を向けた。

 

「ね、トム君。素晴らしいでしょ、我が家は? ここなら広いお庭もあるし、ロンドンと違って周りの家を気にすることなく、思う存分にヴァイオリンが弾けるわよ!」

「……結局、あなたもそれか」

 

 メアリーの問いかけに、トムはぼそりと呟いた。

 メアリーは想定外の反応だったのか、きょとんっと瞬きをする。

 

「あら、どういうこと?」

「僕がヴァイオリンで有名にならなければ、僕のことなんて道端の石ころとしか思わなかっただろうということです」

 

 トムは流暢に言い切った。その間も、彼の視線はリドル氏に注がれている。

 

「僕がここに来たのは、父に会うためです……僕の母を捨てた理由を聞くために。それ以上でもそれ以下でもありません」

「……」

「おばあ様は、僕の母を『ろくでなし』とハッキリ言いました。それは本当のことなのでしょうか? そうだとしたら、どうして蔑む女性と結婚したのですか?」

 

 トム本人は自然に話しているつもりなのだろう。だけど、ところどころ冷たく棘のあるものが見え隠れしている。そう、トムは怒っている。目の色こそ黒色だけど、あと一歩、彼の怒りが深まれば赤く染まってしまうと思われるほどに。

 

「答えてください。騙されたって、僕の母が何をしたのです? 僕の母は、人を騙すことなんて――」

「ごちゃごちゃうるせぇんだよ、ガキ!!」

 

 リドル氏はテーブルを叩いた。あまりに強く叩くものだから、コップの水が飛び散ってしまう。だけど、そんなこと些細なことだ。リドル氏の権幕は恐ろしいもので、黒い眼はぎらぎらと憎悪の炎で燃えていた。

 

「あの女は詐欺師だ! 顔も醜けりゃ、心まで腐った女だったんだよ! 俺を騙しやがったんだ!」

 

 リドル氏はワインをあおり、袖であごを拭った。

 

「お前にも詐欺師の血が流れてんだろ? そうだろ? ヴァイオリンの神童? はっ、笑わせる! それも詐欺だ! みんな騙してんだろ?」

「違う!」

 

 トムは叫んだ。全身を震わせながら、思いっきり叫ぶ。

 

「僕の実力だ!」

「と、トム君! 怒らないで! トムも少し落ち着いて! そうだ、ワインもうちょっと飲んだら?」

 

 メアリーが蒼白な顔で言うと、リドル氏を落ち着かせるためか使用人にワインを注がせようとした。

 ところが、リドル氏は手を挙げて制した。

 

「実力? ふん、どうだかな。俺は騙されないぞ、ええ? 詐欺じゃなかったら、魔法とでも言うのか? 笑わせるぜ。そんな馬鹿なトリックのせいで、みんなが騙されてるんだからな。自分を褒め称える輩を馬鹿にして面白いんだろ、なあ、そうだろ!?」

「っ!?」

 

 トムは立ち上がりかける。

 だけど、その前に私が立ち上がった。 

 

「……リドルさん。私は笑いません。ですので、どうか真実を教えていただけますか?」

「真実ぅー?」

「あなたが詐欺にあったと思うわけを。その理由だけ知ることができれば、トムは満足なのです。すべてをお話しください、そうすればすぐに屋敷から出ていき、二度と顔を会わせないと神に誓いましょう。……そうよね、トム?」

 

 私が尋ねると、トムは迷うことなく頷いた。リドル氏は何も答えないので、私は言葉をさらに投げかける。

 

「あなたは先ほど『詐欺』を『魔法』と言い換えましたね。あなたが受けた詐欺も……まるで魔法のように不思議で科学では説明のできないことが起きた、と考えてもよろしいのでしょうか?」

「人の揚げ足をとる女だな。まるで、お前も『魔法』を見たことあるような口ぶりじゃねぇか」

 

 私は何も答えない。すると、リドル氏はまたワインを飲む。だが、今度は一口だけだった。しゃっくりをあげると、血走った目で私を睨みつける。

 

「お前も魔法にかけられてんじゃねぇのか? ろくでなしが産んだガキに、魔法をかけられてんだろ? よーく思い出してみるんだな、自分の記憶を! そのガキに水を飲むように勧められたことはなかったか? それだよ、その水が詐欺なんだよ!」

「トムが水に薬を盛ったと?」

「ああ、そうだよ。俺のときはそうだった。あの女、俺に薬盛ってたんだ。んで、ガキが出来たから認知しろだ? ふざけんじゃねぇよ、騙されて作ったガキなんて知るか! だいたい、俺はガキが嫌いなんだよ!!」

「……」

「お前、そこのガキの親にでもなったつもりか? それは、ガキに騙されてんだ。さっさと目を覚ました方がいいぜ、こいつは忠告だ」

 

 リドル氏は唇を舐めた。

 

「ご忠告、ありがとうございます」

 

 私は短く返すと、トムに目を向ける。

 

「トム、行きましょう。これ以上、ここにいても時間の無駄よ」

 

 トムは答えなかった。目を伏せ、震えている。拳は強く握りしめられ、膝の上でぎゅっと硬くなっていた。

 

「……僕の母の名前は? どこに暮らしていたか、マールヴォロは生きているのか……最後に教えてください」

「あ? 名前? んなの忘れたよ。それに、マールヴォロだっけ? そいつも最近見ねぇよ」

「え、でも」

 

 ここで、ずっと黙っていた使用人の一人が声を漏らした。使用人はしまったと口を閉ざしたが、トムに熱心に見つめられ、根負けしたように口を開く。

 

「……マールヴォロは見かけませんけど、息子はいますよ。2、3年見なかったですけど、最近は谷あいのボロ小屋に戻ってきてるみたいです。その、輪をかけて変な奴になってますけどね。あまり、近づかない方がいいですよ」

「ありがとうございます」

 

 トムは使用人に微笑みかけると、すっと立ち上がった。そのまま、メアリーとリドル氏に一礼をする。

 

「今日はお招きいただきありがとうございました。さようなら、二度と会わないと誓います」

「ま、待って、トム君!」

 

 メアリーは引き留めようとしていたが、トムは振り返ることをしなかった。

 私とナティは屋敷を後にした。弁護士も追いかけてこなかった。ただ門を出る前に、トムは庭師のフランクにこんなことを尋ねた。

 

「すみません、マールヴォロの住んでいた家はどこにありますか? 谷あいにあると聞いたのですが?」

「あー?」

 

 フランクは手を止めると、静かに村とは反対側の谷を指さした。

 

「これから行くんか? 悪いことは言わねぇが、やめたほうがいいぜ」

「お気遣い、ありがとうございます」

 

 私はフランクに礼を言うと、トムも頭を下げる。

 私たちはフランクの視線を感じながら、リドルの屋敷を後にした。

 

「……トム、本当に行くの?」

「うん……あっ!」

 

 トムは思い出したように立ち止まると、ナティを見上げた。

 

「ナティ、マールヴォロの住んでいた家には、僕とアイリスだけで行く。だから、先に駅で待っていて」

「え、ええ? なんで、危ないよ!?」

 

 ナティは驚いて目を丸くする。

 

「でも、僕とアイリスで行きたいんだ。ねぇ、アイリスもそうだよね?」

「なんで?」

 

 私が戸惑えば、トムは呆れたように肩を落とした。そのまま、少し背伸びをすると、私に耳打ちしてくる。

 

「ナティは僕が魔法使いだと知らないだろ? 忘れたの?」

 

 ここで、私は「トムはナティが魔法使いだと気づいていない」ことを思い出した。

 私は彼女が魔法使いだと疑っているし、ほとんど間違っていないと確信しているけど、トムはナティが親しみやすい善き隣人だと思っているのだ。

 

「でも、ナティなら……分かってくれると思うよ?」

「分からないよ。だって、僕の父さんは……あの人は……」

 

 トムの声は消え入りそうだった。

 あの父親の話が正しければ、母親が魔女で何かしらの薬を盛って無理やりつくらされた子どもが自分ということになるのだ。……実際、事実である。あまりにも衝撃的すぎて、本当ならこのまま家に帰って眠りたいだろう。

 でも、自分の母方の親戚が近くに住んでいるとなれば会いに行きたいと願うのは、当然の流れだった。しかも、母方が魔法使いであると分かった以上、トムが気になるのは無理もない。

 だが、不安なのだろう。

 だって、トムの人生において『魔法』を好意的に受け止めたのは……私だけなのだから。

 

「分かった。……ナティ、ごめんなさい。私たちだけで行くわ。駅で待っていて」

 

 ナティは心配そうにしていたが、最後には折れてくれた。

 私とトムは生け垣の道を歩き始めた。

 

「本当の母さんは、あの人に魔法の薬を盛ったのかな」

 

 二人で手を繋いで歩きながら、トムはそんなことを呟いていた。

 

「そうかもしれないわ」

「何故、あの人を薬で操ってまで結婚したかったんだろう? 正直さ、あの人は……あまり好きになれる人ではないよ」

 

 トムは苦々しい顔で言った。

 

「私も分からないけど……どうしても、彼と添い遂げたいと願う強い気持ちがあったんじゃないかな?」

「それなら、好きだと伝えればよかったんだ」

「なかなか簡単にはいかないものなのよ」

 

 そんなことを言いながら歩いていたが、私はこの時点で少し……いや、かなり後悔していた。

 先ほどまで砂利道ではあったが一応は舗装されていたのに、それすらなくなった。生け垣はこれまでより高くぼうぼうとして、曲がりくねっている。生け垣は途中で失せ、少し開けた場所に辿り着くも背丈ほど伸びた草が生い茂っている。とてもではないが、家があるように見えない。しかし、それでも古びた木の暗い根元にボロボロの小屋が一つあった。

 

「あれかな」

「あれだね」

 

 私とトムは目を見合わせる。

 やっぱり、ナティに同行を頼んだ方がよかった気がしてきた。小屋に近づくと、その気持ちはさらに増す。べっとりとした戸口には、干からびた蛇の死体が打ちつけられていたからだ。

 

「あ、あの……すみません」

 

 私は蛇の死体に触れないように注意しながら、とんとんっと叩いた。

 

「マールヴォロさんの息子さんはいらっしゃいますか?」

 

 返事はなかった。

 もしかして、留守なのだろうか? それとも居留守? できれば、留守であって欲しいような、でも、もう二度とここまで来たくないような、複雑な気持ちで再度、扉を叩いた。

 

「私、リドルと申します。マールヴォロさんのお孫さんを連れてきました」

 

 少し声を張り上げて告げると、今度は返事があった。

 しかし、私は聞き取れない。シューシュー、と薄気味悪いゾクッとする音が返ってきた、と思えば、扉が勢いよく開け放たれたのだ。

 男がいた。髪も髭も伸び放題で目も口も見えなかった。右手に杖を、左手に小刀を握りしめている。

 おそらく、この男がモーフィン・ゴーントに違いない。

 

『――!』

 

 推定モーフィンが何を言っているのか、相変わらず分からないが……歓迎されていないことだけはわかった。

 

『―――っ!』

『――』

 

 モーフィンが小刀を振り上げて突進しようとしてきたが、すぐにトムが叫んだ。こちらもなにを言ったのか分からない。おそらく、蛇語だろう。モーフィンはトムが蛇語を話したことに驚き、ぴたっと動きを止めた。二人はシューシュー、ガラガラと会話をしているようだったが、途中でモーフィンが小刀を降ろし、ゆらゆらと部屋に戻っていった。トムもそのあとに続く。

 

「トム、待って! 危ないわ!」

「入れ、って言われたじゃないか」

 

 トムは怪訝そうに眉を寄せた。

 

「私には聞こえなかった……私、蛇語は分からないの」

「え!?」

 

 トムは今日一番驚いた顔をする。

 

「モーフィンは蛇語を話してた? そっか……だから『話せるのか』って驚いてたのか」

 

 トムは納得したように頷いている。

 

「アイリス、大丈夫だよ。僕が親族だって信じてくれたみたいだから」

 

 トムはそういうけど、正直……家に足を踏み入れるのは躊躇した。

 部屋はひどい有様だった。

 天井には蜘蛛の巣がはびこり、床はべっとりと汚れ、テーブルにはカビだらけの腐った食べ物が深鍋の山の間に転がっている。酒瓶が乱雑に放置され、誤って踏まないように気をつけながら入った。

 モーフィンは暖炉の傍の肘掛椅子に腰を降ろした。右手の指に、黒い石の指輪が嵌められている。たしか、蘇りの石だっけ? その事実をモーフィンが知っていたかは、覚えていない。

 

『―――』

 

 モーフィンが語りかけてきた。

 トムはそれに返す。こちらも蛇語なので分からない。私はモーフィンとトムの会話をハラハラしながら見守るしかできなかった。なにか、私にできることはないか……と周囲を見渡したとき、油汚れがべっとりとこびりついた窓の向こうに、一匹の鹿が見えたのを覚えている。

 

 ん、待って。鹿というか、ガゼルだった気がする……。ガゼルって、イギリスに生息していたっけ? 私、緊張がピークに達し過ぎて幻覚を見てしまったのか?

 まあ、鹿のことはいい。

 トムとモーフィンは和やかに会話しているようだったが、途中でトムの語尾が一気に上がった。目も吊り上がり、私を守るように一歩前に出る。

 

「トム、どうしたの?」

 

 おそるおそる尋ねれば、トムは憤慨した調子で言った。

 

「あの人、僕に『ここに住め』って言ってるんだ!」

 

 トムはモーフィンを見据えたまま叫んだ。

 

「しかも、アイリスを呪えって? そんなこと、できるわけない!」

『――? ――!』

 

 モーフィンも険悪な空気になり、再び杖を握る手に力が込められた。大口を開けて笑えば、黄色い欠けた歯が髭の合間から見え、むわっと酒の臭いが漂ってくる。

 

『―――!』

 

 モーフィンは杖を大きく振りかぶると、禍々しい赤い閃光が宙を走った――私の胸に向かって。私はどうすることもできず立ち尽くすことしかできなかったけど、トムが手を払うと私の前に透明な盾が出現し、呪いは霧散した。

 

「アイリスを侮辱するな!」

 

 トムは真っ赤な目でモーフィンを睨みつける。血走っているのではない、文字通り、黒目が毒々しいまでの赤色に染まっていた。

 

「アイリス、逃げよう!」

『――!!』

 

 トムは私の手をつかむ。

 もちろん、モーフィンが許すわけない。モーフィンはよろけながらも立ち上がり、こちらに杖を向ける。脂ぎった髪が揺れ、その隙間から小さく暗い眼が覗いていた。両眼それぞれが別の方向を見ていたが、怒り狂った眼差しは私に注がれているのだけは理解できた。小刀を構え、私に投げてこようとしている。

 

「アイリス!」

 

 トムは私の手を硬く握りしめる。すると、どういうわけか、トムの腕が捩じれて抜けていくような感じがして、私も強く握り返した。怖くて瞬きをしたが、今度は視界が闇に覆われ、パニックに陥りそうになる。トムの名を呼ぼうとしたけど、四方八方から圧し潰されるような感覚に耐え切れない。このままぺっしゃんこになるのではないかと恐れたとき――、埃っぽい空気が一掃され、のどかな春の空気が胸いっぱいに広がった。

 

「あ……あれ?」

 

 気がつけば、私は地面に倒れていた。

 

「トム? トムはどこ!?」

「ここだよ、アイリス」

 

 トムはほっと安堵の息を零していた。ゆっくりと目から赤色が消え、すっかり元通りの黒色になった目は疲れ切っているように見えた。

 トムと手を握ったままだった。

 

「私たち、さっきまで……?」

「瞬間移動の魔法をしたんだ。そうでもしないと、一緒に逃げられそうになかったから」

 

 トムの言葉で、私はようやくリドルの屋敷の門前にいると気づいた。

 

「トム、ありがとう……」

 

 私は心からの礼を口にした。トムが瞬時の判断で「姿くらまし」を使わなければ、逃げ切るのは容易ではなかったはずだ。モーフィンは本で読んだときよりもずっと……殺意に満ち溢れていた。いまでも思い出すたびに、背筋が凍りつく。

 

「私、トムの魔法に救われてばかりね」

「……そうだといいけど」

 

 トムは歯切れが悪かった。

 このあたりのこと、もっと詳しく聞きたかったのだけど、庭師のフランクが現れたので会話が止まってしまった。

 

「あんたら、どうしたんだ? 死にそうな顔してるぞ?」

 

 どうやら、私たちがモーフィンの小屋へ向かったのを見て、フランクは少し心配してくれていたらしい。そのまま、自分の小屋で休むように勧めてくれた。彼はちょうど昼休憩だったらしく、あつあつの紅茶を出してくれる。間近に迫った死の恐怖で冷え切っていた身体は、紅茶のおかげで芯から温まる感じがした。

 

「だから言わんこっちゃない。女と子どもだけで、あんな奴の家に行くなんてなぁ」

 

 フランクは思った以上に優しい人だった。あとで、お礼の手紙をしたためることにしよう。リドル一家に関わるな、だったけど、使用人と関わるなとは言われてないし、慌ただしい出発でお礼もそこそこに出てきてしまったから……。

 フランクの小屋で休ませてもらって、ほどなくしてナティが迎えに来てくれた。

 

「やっぱり心配だったからさ。そろそろ汽車が来るから、早く乗って帰ろう」

 

 フランクは門のところまで見送ってくれた。

 私たちは早足で駅へと急ぐ。ナティが辺りを警戒するように気を張り詰めてくれていた。もしかしたら、モーフィンの襲来を警戒してくれていたのかもしれない。

 

 汽車に乗り込み、椅子に座ったとき――私は身体の力が抜けた。そのまま、私たちはなにも言うことなく、ロンドンまで寝た。夢は見なかった。

 

 これが、イースター休暇初日に起きた小旅行の顛末。

 旅の疲れと、いろいろバタバタして、トムとしっかり話ができていない。

 

 

 明日にでも、ちゃんと時間をとって話し合わなくちゃ!

 トムが負った心の傷は、深いはずだから……。

 

 

 

 




※今回、フランク・ブライスを描写するにあたり、一部設定を改変しました。
 原作は「1917年生まれ。第二次大戦に従軍するも足が不自由になり、1943年にリドル一家殺害の濡れ衣を着せられる」でしたが、都合上「スペイン内乱の義勇軍」に変更しています。
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