●1937年 3月末日
今日は良い知らせがあった。
トムのヴァイオリンの先生が「ロンドン交響楽団」との協演の依頼を持ってきてくれたのだ。それと同時に「ロンドンフィルハーモニー管弦楽団」も、トムにぜひ参加してもらいたいとの依頼があるそうだ。トムの学校の関係上、早ければ夏休みに協演する運びになるらしい。
トムはしばらく悩んでいたが、申し出を承諾することに決めた。
「せっかくだから、ロンドンのオーケストラ全部と協演を目指してみるよ」
トムはふざけた調子で言っていたが、私はよけい心配になった。
ガランサス夫人の襲来や実父一家との接触があったあとなのに、ヴァイオリンを皆の前で弾こうと決めるのは、とても勇気がいることだ。
モーフィンとのやり取りだって気になる。
だから、私はお茶の時間を使って、彼とゆっくり話し合うことに決めた。
「トム、本当に大丈夫?」
私はお茶の盆をテーブルに置くと、なるべく静かに尋ねた。
「無理してない?」
「無理なんかしてないさ」
トムはそう言いながら椅子に座ると、さっそく盆に置かれたチョコレートクッキーに手を伸ばしていた。
「アイリスは心配性なんだよ。僕、もう10歳だ」
「でも、まだ10歳よ」
私はそれぞれのカップに茶を注ぎながら言った。
「ねぇ、トム。この間……モーフィンさんと蛇語で話したでしょ? いったい、彼はどうして怒っていたの?」
トムはクッキーを口に入れるところだったが、その手が止まる。クッキーをつまんだまま手を下ろし、黙り込んでしまう。
私は彼の前の席に腰を降ろし、彼の言葉をしばらく待った。じっと見つめたままだと逆に問い詰めているように感じるかもしれないので、できる限りいつものように振舞うことにする。お茶に角砂糖を入れ、スプーンで搔きまわしていると、トムがぽつりと呟いた。
「本当の母さんは、有名な魔法使いの末裔だったみたいなんだ」
「もしかして、マーリン?」
私は知らないふりをする。
すると、トムは首を横に振った。
「サラザール・スリザリン。世界でも有名な魔法学校を創設した偉大なる魔法使いなんだってさ。僕は知らなかったけどね。でも、蛇語を話せるのは、
わずかにいらだちを込めながら言うと、トムはクッキーを頬張った。
「だから、少し話したら信じてくれたよ。僕が間違いなく母さんの息子だってね。だけどさ、それからが酷かったんだ」
トムが話してくれたことは、だいたいが既に知っていたことだった。
実母メローピーはマグルのトム・リドルに恋し、兄モーフィンと父マールヴォロが魔法使いの監獄「アズカバン」に収監されている隙を見計らい、駆け落ち作戦を強行。ゴーント家から永久に去ってしまった。しかも、メローピーは「スリザリンのロケット」という宝物を盗んで消えたらしく、モーフィンはトムに対して何度も「ロケットはないのか?」と聞いてきたそうだ。
当然、トムに心当たりなどない。
「ロケットなんて、孤児院の先生からは聞いてない。孤児院の先生たちは良くも悪くも真面目な人ばっかりだったから、死にかけの母さんから盗むなんてこともありえない。たぶん、母さんが困窮して手放したんだって僕は言ったよ」
「……私もそう思うわ」
実際、メローピーは困窮してロケットを手放した。10ガリオンだった気がする。あまりにも安い値段だったので、原作ではハリーの驚く描写が挟まっていた。
「きっと、母さんは悪い質屋に騙されたんだ」
トムは吐き捨てるように言った。
「スリザリンって凄く有名な人なんだろ? だったら、その遺品は値段がつけられない品になるはずなんだ。一つ売れば、数十年は何もしなくても暮らしていける大金が手に入る。それなのに、僕を産んですぐに死んだってことは……つまり、騙されたってこと」
彼はむかむかしたのか、さらにチョコレートクッキーをつまみ、もぐもぐと食べ始めた。
「あの男は『馬鹿女が……ノクターン横丁で売っちまったんだ』って怒ってた。僕が『ノクターン横丁はどこにある?』って聞いたら、ロンドンにある魔法使いだけの街だって教えてくれたよ。ここ、ロンドンに魔法使いの街があるんだ!」
トムの目が一瞬だけ輝いた。でも、すぐにそのあと起きたことを思い出したらしく、表情が曇ってしまった。
「それからさ、あいつはこう言ったんだ。『おめぇはノクターン横丁を知らねぇのか。まさか、後ろの女は薄汚れたマグルか?』って。僕が『アイリスのどこが薄汚れてるんだ』って言い返したらさ、『下等なマグルを庇うなんて、スリザリンが泣くぞ!』って激怒したんだ」
トムの話を聞いて、二人の会話が突如として剣吞なものになったことを思い出した。てっきり、実の母親を侮辱されるようなことを言われたのかと思ったが、まさか自分が原因だったとは……いや、私は生粋のマグルだから、ありえない展開ではないか。
「そしてさ、『おめぇは高貴なるスリザリンの最後の末裔。下等なマグルの血が混ざってるが、半分は純血だ。おれが引き取ってやる。正しい魔法使いにしてやる』って。この時点で、こいつおかしいって思ったね。賭けてもいいけど、あいつに育てられたらさ、絶対に正しい魔法使いになれない」
トムの予感は正しいだろう。
モーフィンがまともな教育を施すとは思えない。闇の魔術を叩きこまれるのは必至だし、ホグワーツに通わせてもらえるかすら微妙である。トムにマグルの血が入っているので、虐待されたり使用人にも劣る奴隷扱いをされる可能性だって非常に高い。
断言してもいい。その未来は「ヴォルデモート卿爆誕!」だ。純血思想を痛めつけるタイプの闇の魔法使いが誕生してしまう。そんな未来は嫌だ!
もし、私があの場で死んでいたら……と考えると、ぶるっと背筋が震えた。そんな恐ろしい未来にならずにすんで、本当に良かったと感じる。
「それで、どうなったの?」
「僕は首を縦に振らなかったよ。当たり前だよね。そしたら、あいつは『心根までマグルになっちまったのか? 情けない! マグルは家畜動物以下の野獣だ!』って、汚く笑ったんだ。そのあとに『せっかくだ、おめぇにはゴーント家に伝わる高貴なるスポーツを教えてやる』って続けてさ……もうこの時点で嫌な予感しかしないよね」
「……魔法を使えない人を殺す、とか?」
「『磔の呪い』で痛めつけて、もがく人間を見て楽しむとか正気の沙汰じゃないよ。どう考えたって犯罪だ。磔だよ、磔!? 魔法使いには法律がないのか?」
トムは語りながら、顔には嫌悪の色が濃くにじみ出ていた。
「法律があるから、その……モーフィンさんはアズカバンに投獄されたことがあるんじゃない?」
「そうだけどさ! はぁ……」
トムは大きく息を吐く。
その姿を見て、私は表情が緩んでしまった。
原作通りのトム・リドル少年だったら、法を犯す行為について罪の意識など皆無だった。
でも、私の目の前にいる少年は遵法意識がある。ちゃんとその事実を確認できて、私は安心したのだ。しかし、トムには私の行動が奇妙に映ったらしい。怪訝そうに眉を寄せ、もう一度……大きなため息をついた。
「楽観的だな……アイリスが殺されそうになった話をしてるのに」
「でも、トムが守ってくれたでしょ? 私を助けてくれてありがとう」
「当然のことさ、家族を守るのは」
トムは呆れた顔でお茶を飲んだ。
「大人も魔法使いも嫌な奴しかいないよ。みんながみんな、アイリスくらい楽観的なら……いや、駄目だな。それはそれで世界の危機だ」
「それ、褒め言葉として受け取っていいのかしら?」
私がおどけた調子で言えば、トムは悪戯っぽく笑った。そして――すっと真顔に戻る。
「ねぇ、アイリス。ドイツで会った魔法使い、覚えてる?」
私はつい「クリーデンスのこと?」って口走りそうになったが、すんでのところで我慢する。あのとき、クリーデンスは名前を口にすることなく、立ち去ってしまったのだ。だから、私は口を堅く閉ざしたまま頷いた。
「あの人は優しい人だった。凄く弱ってたけど、ちゃんと話をしてくれた。だからさ、魔法使いはモーフィンみたいな奴だけじゃないと思うんだ」
「私たちみたいに、いろいろな考えの人がいるのかもしれないわね」
今度はトムが頷く番だった。深々と、なにかを噛みしめるように頷いている。
その姿を見て、私はこんなことを問いかけた。
「トム。トムはどんな大人になりたい?」
「僕は……」
トムはなにか言いかけたが、顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。そのまま一気に冷めた茶を飲みきると、慌ただしく立ち上がった。
「どんな大人になるかなんて、まだ決めてないよ。それより、早くヴァイオリンの練習をしなくちゃ! もう3時だからさ!」
耳の先から蒸気が立ち昇りそうなほど赤く染まった顔で言い切ると、トムは自分のカップや皿を台所に下げると、風のような速さで階段を駆け上っていってしまった。
どうやら、私に知られたくない夢があるらしい。
誤魔化し方が可愛い……まあ、あまり根掘り葉掘り聞くのも嫌がるだろう。彼が話してくれるのを待つしかない。どんな夢を抱いているにしても、いまのトムなら――「磔の呪い」に嫌悪感を抱ける彼なら、きっと悪いモノではないはずだ。
願わくば、彼の夢が叶いますように。
私にできることがあれば、全力でサポートできるといいな!
●1937年 5月〇日
久しぶりの日記。
結局、4月は一度も書けなかった。子犬を貰ってから、躾とか世話で忙しくてペンをとる暇がなかったのだ。ページをめくって確認したけど、子犬の名前の由来について一言も記してなかったので、そのこともまとめて書いていこうかな。
子犬もお昼寝をしているし、トムも学校に行っている。仕事だって落ち着いてるし、のんびりペンを走らせようと思う。
子犬の名前を決めることに、トムは物凄く悩んでいた。
「凡庸な名前は絶対に嫌だ」
そのようなことを日頃から口にし、リビングでノートに名前案を書いては斜線で消してを繰り返す。それでも、なかなか良い案が浮かばないらしく、うーんっと唸っている。
「いっそのこと、音楽に関する言葉にしたら?」
フォルテとかカノンとか素敵だと思う、と案を出したのだけど、即座に却下されてしまった。
「すぐに思いつく名前だよ。つまらない」
そうは言うが、悩んでいる間にも刻一刻と犬を貰い受ける日が迫ってくる。結局、トムは私のアドバイスを参考にするつもりなのか、音楽に関する言葉をずらりと書き出していた。
「駄目だ。これも駄目だ、誰でも思いつく」
トムはその日もリビングで、子犬の名前候補について頭を悩ませていた。とんとんと万年筆でテーブルを叩きながら、トムは舌打ちをしていた。なにかを探すように周囲を見渡し、トムの目が編み物をしていた私に止まる。
「アイリス。アイリスは外国にも少し詳しいよね? そうだな……チャイナはありきたりか。ジャパンくらいマイナーな国がいいな! ねぇ、アイリスはジャパンの有名な音楽や曲知ってる?」
「うーん……そうね」
私は手を止めると、唸り声をあげてしまった。
戦前の音楽なんて、詳しく知らない。昭和歌謡なら少しはわかるけど……軍歌? もっと分からない。美〇ひばりは戦前から活動していたっけ? 山〇耕筰は? 私は悩んだけど、不安が多すぎるので降参した。
「いいのが思いつかない」
「アイリス、本当に?」
トムは怪訝そうな顔をする。
「かなり悩んでたってことは、心当たりがあるんじゃない?」
「ぐっ……」
「なんでもいいから言ってみてよ。良いか悪いかは、僕が判断するからさ」
痛いところを突かれてしまった。
ここで「トムの気のせい」だと言ってしまうのは簡単だが、それではいけない。気をつけていることはいろいろあるけど、「トムに嘘をつかない」ことだけは忘れないようにしている。誤魔化すことは多いけど、ここで「なにもない」と答えるのは嘘に当たるのではないか? と思ってしまったのだ。
「え……」
「エ?」
トムのきらきらと期待の眼差しを受け、私はこう答えた。
「え……え……越天楽?」
「エテンラク!?」
トムの顔に衝撃が走る。
「聞いたこともない! どんな音楽!?」
「く、詳しく知らないけど、エンペラーの前で披露される伝統的な曲らしいよ」
雅楽の越天楽なら、絶対に存在しているはず! 平安時代くらいからある曲だよね!?
私は内心焦っていたけど、トムが気づくことはなかった。
「エテンラク、エテンラク……うん、普通のイギリス人には思いつかない名前だ! だけど、エテンラク……ちょっと長いな。犬の名前だとすると呼びにくい……エンラクでも平気かな?」
「うん、まあ、いいと思うよ」
音楽関係の言葉ではなく、落語家の名前になってしまったけど、トムが満足しているならいいや。そのあたりを突っ込めるほど、私は落語界隈に詳しくない。いまの時代に圓楽の名を継ぐ人が生きているのか知らないし、何代目かも答えられない。
それに越天楽より圓楽の方が、ずっと口にしやすかった。
こうして、エンラクという名前のパピヨンの雑種犬は我が家に迎え入れられた。
4匹の子犬は、トムとジョナサンの尽力により、みんな新しい家族のもとへと引き取られることができた。このあたり、本当に良かったと感じる。
さて、我が家に来たエンラクはメスの子犬だ。
エンラクだけど、メスである。
たぶん、父親が中型犬だったのだろう。パピヨンらしい大きな黒い眼と尖った耳はそのままだったけど、体つきがわずかに大きい。胴が少し長い気がするし、足も細いながら筋肉質のように見える。それでも、ふさふさした黒と白の子犬は愛らしい。
家に連れて帰って来た当初は、寂しいのと緊張が入り混じったように、がちがちに固まっていたが、いまでは愛らしく走り回っている。
可愛いといえば、トムとエンラクの話!
トムがヴァイオリンを弾くと、エンラクは飛び上がるほど驚いていた。尻尾を丸め、ソファーの陰に隠れて様子をうかがっていたけど、怖い音ではないと気づいたのだろう。比較的すぐに慣れてくれた。トムがリビングで弾くたびに、エンラクは駆けつけ、彼の周りで跳ねるようになった。きゃんきゃんと吼えながら楽しそうに跳ねる姿は、まるで踊っているみたい!
トムは鬱陶しそうにしてたけど、表情がとても明るかった。
ブラッシングだって、トムが率先して行っていた。
「まったく、僕は多忙なんだぞ」
ぶつぶつ言いながらも、優しく丁寧にブラッシングをする。
エンラクも気持ち良さそうに目を閉じているので、かなり上手らしい。私がブラッシングするときと、明らかに表情が違う。何故だ……。
ある夜、トムはこんなことを尋ねてきた。
「エンラクはさ、そこの部屋で寝てるだろ? 寂しくない? まだ3か月だよ?」
「だから、寝るまで傍にいるようにしてるでしょ?」
部屋の隅にクレートを設置して、ベッド代わりの毛布と籠を置いている。犬はなわばりを気にする生き物って聞いたことがあるし、自分のスペースがあればいざというときに落ちつけるだろう。クレートの中にいれば、私たちが寝ている間に起きて、勝手に出ていくようなこともない。
そう説明したけど、トムは納得がいかない様子だった。
「トムはどうしたいの?」
トムはぷいっと目を逸らす。頬を真っ赤に染め黙り込んでいたが、ほとんど消えそうな声で呟くのだった。
「…………一緒に寝たい」
あー、まさか、トムの口からこんな言葉が出てくるなんて!! 私は信じられなくて、トムがやっとの思いで発した言葉を理解するのに、瞬き二回ほどの時間を有してしまった。
「とても素敵な考えだけど、おすすめしないわ。トレーニングも途中だし……それに、エンラクは小さいでしょ? トムが寝返りを打ったときに、潰してしまうかもしれない」
「トイレも失敗したことないし、僕は寝相がいいから平気だ」
私はあまり賛成できなかったけど、トムが動物に興味を示したことを大切にしたくて許可することにした。心が育ってきたのかな、と考えると嬉しかった。
「でも、今日だけよ。あと、部屋の床に楽譜を置きっぱなしにしないこと。トイレ用の新聞紙と間違えられちゃうかもしれないから。それから――」
「大丈夫だって! 大切なものは、エンラクが届かないところに置くから」
トムが胸を張った。
そこまで言うのなら、と許す。トムはエンラクが夜のトイレを終えるのを見届けると、小さな身体を担いで階段を上がっていった。
そして、朝。
トムの悲鳴が家を揺らした。案の定、エンラクはトムのベッドに粗相をしてしまったのだ。
「……アイリスの言ったことが分かった。もう一緒に寝ない」
トムは完全に気落ちしてしまっており、エンラクが不安そうに足元を右往左往していた。
こんな事件があっても、トムはエンラクを大切にしている。
ヴァイオリンの練習がどれほどはかどっていても、17時になったら私たちは散歩に行く。もうちょっと大きくなったら、トム一人に散歩を任せてもいいかもしれない。
それから――……
一気に血の気が引いてしまった。
たったいま、トムが打ち明けてくれた話が酷すぎる!
トムは学校を抜け出して知らせに来てくれたけど……これは彼が考える以上に、深刻な事態になってしまった! もう少し可愛らしい日記を書きたかったけど、そんな猶予はない。
なんとかして、すぐに対策を考えないと……取り返しのつかないことになる!!
いつもたくさんの感想ありがとうございます!
もちろん、全部の感想に目を通しています! 「この人、鋭いな」と感心したり「その観点はなかった!」って驚いたり「喜んでくださってなによりです!」って嬉しく思ったり、とても励みになっています!
2章も折り返し地点です。
今後はこの時代を舞台にする以上、避けては通れない話題や残酷な描写も出てきます。もしかすると、賛否の分かれる展開になるかもしれません。
ですが、私は困難に直面しても最後に希望が残るような物語が好きです。誰かの心に残るような作品にしたいと考えています。
これからも「トム・リドル育成計画!」を楽しんでください!