トム・リドル育成計画!   作:寺町朱穂

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〇1937年5月 認識のずれ

●1937年 5月×日

 

 ジョナサンの父と会うことにした。

 

 トムは話し合いに同席させない。

 ただでさえ、トムは「初めての親友の突然の引っ越し」に相当なショックを受けている。普通なら「家庭の事情だからそういうこともあるよ」と慰めるのが正解なのだろうけど、今回ばかりは「ただの引っ越し」ではすまない。

 これは、もっと残酷で込み入った話なのだ。

 トムは参加したがっていたけど、なんとか説き伏せた。

 

「大人の話し合いだから。その時間を使って、トムはジョナサン君と仲直りしなさい」

 

 最終的には、こう説明することで頷いてもらった。

 

「僕ができることは本当に何もない?」

「お行儀よくすることかしら。いきなり敵対心剥き出しだと、警戒するでしょ?」

「ジョナサンのお父さんを騙すってこと?」

「違うわ。話しやすい空間を作るの。針の上で食事をしたら、早く帰りたいばかりで会話も弾まないでしょ?」

 

 私が言葉を選びながら説明すると、トムは至極納得してくれた。

 

 

 トムにも伝えたが、いきなり切り込んでも話し合いにはならない。

 まず、相手を交渉のテーブルに着かせないといけないのだ。

 私はこういうことは苦手だけど、必死になって頭を巡らせた。そもそも、相手に「会いたくない」と拒否されたら、私はどうすることもできない。かなり嫉妬深い奥さんのようだし、未亡人とはいえ若い女性と二人っきりで会うことを避けようとするかもしれなかった。

 そこで、私が味方につけたのはジョナサンの家のお手伝いさんだ。

 幸いなことに、ジョナサンの家のお手伝いのナニーは良心的な人で、今回の養子話に涙していた。もっとも、彼女が心を痛めていた理由は「坊ちゃんをフランスへやってしまうなんて、旦那様は冷たすぎる」というものだったけど……。

 彼女に「ジョナサン君の件で説得したいから力を貸して」と頼むと、快く了承してくれた。

 

 あとは、いろいろと考えた末、エンラクを使うことにした。エンラクを貰って2カ月が経とうとしている。おかげで家のなかが明るくなったので、そのお礼がしたいという名目で会う約束にこぎつける。お礼の昼食会に誘って、テーブルに着かせるというものだった。

 ジョナサンの父は一応は紳士的に振舞う人なので、こういう誘いは基本的に断らない。

 

 思い通り、ジョナサンの父は「他にも一人、親しい友人の同席を許してくれるなら」と条件を付けてきたが、誘い自体は了承してくれた。ナニーの「旦那様、リドル夫人とトム君には坊ちゃんが大変世話になりました。渡仏する前に、ちゃんと挨拶した方がよろしいのでは?」と援護射撃も効果があったはずだ。

 

 日曜日の昼前、ジョナサン一家が玄関の呼び鈴を鳴らした。

 玄関を開ければ、ジョナサンとジョナサンの父――ホワイト氏と初めて見る若い女性が立っていた。想像していたよりも清楚な女性で、とても落ち着いた雰囲気をしていた。

 

「まあ、よくいらしてくださりました! どうぞ、お入りください」

 

 私が出迎えれば、ホワイト氏はにこやかに頷いた。

 

「本日はお招きありがとうございます。ああ、こちらはカレンデュラ・イエローローズ嬢。私が親しくお付き合いしている女性です」

「カレンです。よろしくお願いしますわ」

「まあ、はじめまして。アイリス・リドルと申します」

 

 カレン嬢も私もスカートの裾を少しだけ持ち上げて一礼する。

 

「帽子をおかけくださいませ。上着はそちらに……トム、いらしたわよ!」

 

 私が階段の上に呼びかけると、トムがエンラクを連れて風のように降りてきた。そのまま、これまで見たこともないような丁寧な一礼をする。

 

「よくお越しくださいました」

 

 このときのトムは、完璧な一礼をした。

 

「ほら、エンラクも」

 

 トムが小声で呼びかけると、エンラクもお座りをすると微かに頭を上下させた。まるで、頷いているみたいである。これには、ホワイト氏もカレン嬢も目を丸くした。ジョナサンが「凄い!」と声を漏らすと、トムは自慢げに口の端を持ち上げる。

 いやー、これはトムの教育の賜物。

 彼はエンラクにいろいろな芸を仕込んでいる。私は「おすわり」「待て」「伏せ」「くるくる」ができればいいやとしか考えていなかったのだけど……魔法を使っている形跡は感じられず、ちゃんとコミュニケーションをとっているようだ。

 

「凄いな、君が仕込んだのかい?」

「はい。それに、エンラクは物覚えがいいんです。そうだろ?」

 

 トムはエンラクの頭を撫でる。

 私は微笑ましい気持ちでトムたちを眺めると、ホワイト氏にこう言った。

 

「本当に賢い子犬ですわ。おかげさまで、我が家はいっそう明るくなりましたの。譲っていただけて、ありがとうございました」

 

 それから昼食会は、実に和やかに進んだ。

 特にトムの張り切りようは目を見張るものであり、あれこれ気を配っていた。鞄を持つと申し出たり、椅子を引いたり、食事の説明をしたり……王侯貴族が来訪したかのような精いっぱいのもてなしには、トムの本気をひしひしと感じるたびに、私は胃が痛くなるようなプレッシャーが募った……。

 友だちのために一生懸命になれるって素晴らしい! その分、私も頑張らなくては!ってね。

 

「まあまあ、素敵な息子さんだこと」

 

 カレン嬢はグレープジュースを片手にくすくす笑っていた。

 モーリス伝いに手に入れた上等なワインを開けたというのに、それを口にするのはホワイト氏ばかり。私? 私は「すぐに酔っぱらってしまいますの」と最初に断ったが、カレン嬢はワイン好きらしく「そちら、ボルドーの当たり年ですわね」と口走った他、ちらちらとボトルに目を向けていた。ホワイト氏が顔を赤らめながらワインをあおるのを羨ましそうに見つめている。

 それでも、頑なに飲もうとしないので、私はちょっと水を向けることにした。

 

「ワインは本当にいりませんの?」

 

 すると、カレン嬢は物欲しそうな顔をしたが、すぐにきっぱりと断った。

 

「いいえ、やめておきますわ。今日は気分ではなくって」

 

 この反応からして、妊娠しているというのは本当だろう。

 ジョナサンの勘違いだったらよかったのに……。

 

 

 さて……会食もメインディッシュのローストビーフを出した頃合いで、私は話を切り出すことにした。その前に、トムに目配せをする。すると、トムにこちらの意図が伝わったらしい。

 

「そうだ、ジョナサン。君に見せたいものがあるんだ。僕の部屋に来てよ!」

 

 トムはちょっと硬い声色で、ジョナサンに話しかける。

 ジョナサンはローストビーフを平らげると、ちらっと父親の顔色を伺った。ホワイト氏が頷いたことを確認すると、控えめな笑顔を返した。

 

「うん、いいよ」

 

 二人はぱたぱたと音を立て、上の階へと登っていく。

 私は二人の去っていった方向を眺めながら、練習していたセリフを口にした。

 

「ジョナサン君はトムと仲良くしてくれて……ありがたいです。進学しても、よろしくお願い致します。トムは王立音楽院にするか、思い切ってジュリアードを受けるか悩んでいるのですが、ジョナサン君はどのような進路をとるのでしょう? 私は音楽系の進学には疎いので、いろいろな方の見識を聞いていまして……」

 

 感謝の意を伝えつつ、控えめに切り出す。

 すると、ホワイト氏とカレン嬢の顔が初めて曇った。カレン嬢なんて、肉を切る手が止まってしまう。

 私はさも失態に気づいたみたいな顔を作り、おずおずと尋ね返した。

 

「あ、私……失礼なことを口にしてましたか? 申し訳ありません」

「いえ、失礼なことなどありません」

 

 ホワイト氏はぴしゃりと言い放った。

 

「いい機会ですから、貴方には伝えておきましょう。ジョナサンはフランスへ養子へ行くことになりましてね」

「フランスへ!? それも養子に!?」

「亡き妻の両親が養子を欲しがっていまして……ジョナサンは血縁がありますし、なにより音楽を学びたい気持ちが強い。ならば、イギリスよりもパリで学ばせた方が良いと判断しました」

 

 ホワイト氏は残念そうに眉を寄せながら話した。

 カレン嬢の顔色をうかがうと、申し訳なさそうに目を伏せている。それが演技なのか、本心なのかは分からない。

 

「ですが、フランスは……」

 

 どちらにせよ、私がすることには変わらない。

 

「ドイツと接していますよ、ホワイトさん」

 

 私が問いかけるも、二人とも顔色は変えることはなかった。

 

「最近、ドイツには妙な噂があります。それに……その、私の記憶が間違いでなければ、ジョナサン君のお母様は……改宗されてカトリックになられたのですよね?」

 

 これこそ、私が最も恐れていることである。

 ジョナサンの実母アルヌール夫人とは、病院へお見舞いに行くほどの仲だった。彼女の生い立ちやフランスからイギリスに来た理由など、いろいろなことを聞かされていた。フランスへ出張に訪れたホワイト氏と恋に落ち、カトリックに改宗した話はちょっとドラマチックで、アルヌール夫人がよく語っていた思い出話だった。

 彼女はこの話をする度に、わずかに寂しげな色を目元に浮かべながらも、全体的に楽しそうに教えてくれたものだ。

 

『いままで自分の信じていたものを捨てるのは苦しかったけど、あの人ともっと様々なことを共有したかったから後悔はないわ。クリームシチューの美味しさを知ることができたしね!』

 

 アルヌール夫人の言葉を思い返しながら、私はホワイト氏をまっすぐ見つめた。

 

「ジョナサン君が養子縁組をすることになれば……彼は逆にカトリックから……別の宗教に変わることになります」

「なにが言いたいのかね、リドル夫人」

 

 ホワイト氏の声が微かに低くなる。依然として顔は赤らめていたが、目には探るような光が見てとれる。

 

「リドル夫人。あー、ドイツが特定の民族を迫害しているという話は耳にしている。だが、それはドイツ国内で起きていることだ。フランスは間違いなく安全だよ」

「ですが、ドイツがフランスに宣戦布告したら……?」

「っふ。君は政治について詳しくないようだね」

 

 ここで、ホワイト氏は噴き出した。そこから先は……あー、思い出すのも腹が立つ! まるで無知な赤子に向けるような目で見てくるのだ。

 

「いい機会だから教えておくが、フランスはドイツとの国境沿いに要塞を建築している。それも何年も前からだ」

「マジノ線のことですか?」

「知っているなら、もう分かるはずだ。あの要塞がある限り、フランスは10年も戦える。ドイツの国力で長期間の戦争を続けることができると思うのかい?」

「ですが、ベルギー側から攻めてこられたら? マジノ線に部隊を集中させているせいで、そちらが手薄になると思います」

 

 フランスはベルギーとも国境を接している。そのことを指摘すると、ホワイト氏はますます困った幼子を相手にするような声色になった。

 

「ベルギーは中立国だ。オランダ(ネーデルランド)やルクセンブルクも同じくね。まさか、あなたはドイツが中立国をいきなり攻めると思うのかい?」

「可能性としては捨てきれないかと」

 

 実際、私の知る史実ではそうだった。

 詳しい年月までは覚えていないけど、ドイツがオランダにいきなり攻め込んだって話を読んだ気がする。オランダは数日で陥落し、そのままの勢いでベルギーも敗北し、時をおかずにフランスのパリが陥落した――という話だけは知っていた。

 

「いまのドイツは……あの総統はなにをするか分かりません。突然攻め込まれたら、オランダを含めた三国が持ちこたえられると思いますか?」

「リドル夫人は冗談が得意のようだ」

 

 ホワイト氏は笑うと、ワインをあおった。

 

「そうだな……ドイツが中立を破り攻め込んだとしよう。上から順番にね。そうなると、最初に攻められるのは、オランダになるだろう」

「オランダは持ちこたえられませんよ。軍事力が違いすぎます」

「かの国は運河で有名なことは知っているかい? つまり、橋を落としてしまえば、ドイツ軍は進軍することができない。ドイツ軍を足止めしている隙に、ルクセンブルクとベルギーは防衛準備を固めることができる。我らが英国とフランス軍が介入するだけの時間は十分に稼げるだろう」

「落下傘は? 空から攻めてきたら、ひとたまりも――……」

「それこそ現実的ではない! 空には隠れる場所がないのだから、下から狙われたらひとたまりもないだろ?」

 

 私はすっかり呆れてしまった。

 

「高射砲はどうやって運ぶつもりですの? ライフルで狙い撃ちできると?」

「リドル夫人は夢見がちのようだ。そもそも、落下傘とは飛行機から脱出するための道具であって、他国に攻め込むときに使う道具ではない」

「あ……」

 

 ここで、ようやく認識のずれに気づいた。

 思い返せば、私が産まれた頃は木と布で作られた飛行機が空を飛んでいた。パラシュートだって「かさばるからいらない」との考えがメジャーだったのだ。そんな世界に向かって、落下傘の危険性を語っても信じてもらえるはずがない。

 私が黙り込んでしまったのを見て、ホワイト氏は論破に成功したと勘違いしたようだ。満足したように頷き、空っぽのグラスに新たなワインを注ぎ始める。

 

「分かったかね? フランスは安全なのだよ」

 

 私は、ホワイト氏の余裕たっぷりな表情を見ながら必死になって考えた。

 ドイツの勝利について論争したところで、勝ち目はない。だって、この時代に生きる人たちは「ドイツが中立国に攻め込んで、パリまで一気に進軍する」なんて思いつくはずがないのだ。でも、どうにかしないと、ジョナサンの命が危ない。私は「もう無理だ」と白旗をあげそうになる頭に鞭を打って、必死になって考えた。考えて、考えて、考えて――

 

「フランスの……移民……」

 

 無意識的に私の口から零れ落ちた言葉に、これだ! と飛びついた。

 

「移民?」

「ドイツからの移民を嫌う人は多いと聞きますよ。私の知り合いにも、ドイツからフランス経由でロンドンへ逃げてこられた方がいらっしゃいますが、パリで暮らしていたときのアパルトメントの大家さんは心よく思っていなかったと話してくれましたよ。近所の人の目も冷たかったと」

 

 挿絵の仕事関係で、文筆家や評論家の人と出会う機会も多い。そのなかには、ドイツから逃げてきた方も珍しくなかった。

 

「戦争が始まってなくても、そのような人がいるのです。戦争が始まったら、よりいっそう迫害は――」

「戦争は起きない!」

「それならば、どうしてマジノに要塞を造ったのです!? 良好な関係なら、そんなものに税金を投じる必要がないではありませんか!」

 

 今度はホワイト氏が黙り込む番だった。

 

「私が言いたいのは、パリは必ずしも治安が良いとは言い切れないことです。おそらく、現地に住まわれている方も似た思いを抱いていることでしょう。あなたは、本当にそのような場所へ血の繋がった息子を――」

「駄目よ!」

 

 ばんっとテーブルを叩いたのは、カレン嬢だった。完全に血の気の失せた顔で荒い息を繰り返している。

 

「カレンさん……」

「リドルさん、あなただって女性なら分かるでしょ? 愛する人が誰と付き合っていたのか……その人より、自分のことを愛してくれているかどうか!!」

「理解はしますわ」

「いいえ、分かってないわ! あたしのこと、極悪非道の悪者だって思ってるんでしょ!」

 

 カレン嬢は目元に涙をにじませながら、そんなことを叫んでいた。

 

「あたしだって、我が子のように大事にしたかったわよ! でも、あの子の目を見てると、あたし、嫉妬で気が狂いそうになるの! 私を咎めるように見てくる……あの目が嫌い! 大っ嫌い!」

「……ジョナサン君は優しい子ですわ」

「優しい!? ええ、優しいんでしょうね! あたしには、到底優しい子には思えません! でもね、なにも殺したいわけじゃないのよ! ちょっと遠くに行ってもらいたいだけ! あの子が家にいるのは、互いのためにならないの!」

「それなら、寄宿学校でも良いのでは?」

「嫌よ! あの子がセカンダリースクールに入るまで、1年以上もあるじゃない! 1年よ、1年! 耐え切れない!」

 

 カレン嬢は指を立てながらまくしたてる。

 ホワイト氏はおろおろと狼狽して嗜めようとするが、彼女の勢いは止まらなかった。

 

「だから、遠くに行ってもらいたかったの! なのに、あなたは私が大罪人のように……っ!」

「そうは言ってませんわ。パリは危険だと伝えたかっただけですの」

 

 いまにして思えば……カレン嬢は多少なりとも苦しんでいたのだろう。アルヌール夫人が存命中から付き合っていて、彼女が亡くなってようやく妻として迎え入れられたのだ。夫人に対する罪の意識が、ジョナサンの目を見るたびに彷彿されるのかもしれない。彼の眼は、亡き夫人とそっくりだから……。

 

「私が伝えたいのは、1つです」

 

 努めて静かに、優しく提案を口にする。

 

「フランスとドイツで戦争が始まりそうになったとき、フランスにおける差別が激しくなったとき、ジョナサン君とその家族が逃げられる手伝いをして欲しいのです。ロンドンの住居と渡航費用、数年分の生活費は私の方で用意しますわ」

 

 こうなってしまっては、ジョナサンのフランス行きを阻止できない。私が何を訴えても聞き入れてくれないだろう。カレン嬢はヒステリックになるばかりだし、ホワイト氏に話は伝わらない。

 ならば、せめて――フランスからイギリスへ逃げてこられる道は用意させようと考えたのだ。

 

「私の用意する家ならば……カレンさんと顔をあわせることにはなりませんよね?」

 

 私はカレン嬢を、次にホワイト氏を見つめた。

 

「最も大事なのは、攻め込まれた時点です。その時点で、ロンドンへ脱出しなければなりません。戦時中は移動も制限されるはずですから、なるべく早く逃げなければ命の保証がないでしょう」

「……君は、ジョナサンのためにどうして必死になれる?」

 

 ホワイト氏が尋ねてきたので、私はさして悩むことなく言葉を返した。

 

「彼は、トムにとって唯一無二の親友だからです」

 

 そう答えれば、ホワイト氏は席を立った。

 

「わかった。そのように取り図ろう。もちろん、あなたが危惧するような事態にはならないと思うがね」

「感謝しますわ」

 

 ホワイト氏と握手を交わし、それからカレン嬢の手も握る。

 カレン嬢は私を恨みがましい目で見つめていたけど、ぶすっと押し黙って反論してくることはなかった。

 

 

 

 問題はそのあと。

 彼らがジョナサンを連れて帰ったあと、トムは目を輝かせながら尋ねてきた。

 

「アイリス、どうだった? ジョナサンは引っ越さないですみそう?」

 

 トムの期待のこもった目に見つめられると、本当のことを言うのが苦しかった。でも、彼の前で嘘をつけない。私はトムの肩に手を置き、言葉を選びながら説明した。

 

「それは無理だったけど、パリでの暮らしが上手くいかなかったときは、この家に逃げてこれるように約束したわ」

「なんだよ、それ!」

 

 トムは声を荒げた。

 

「アイリスなら、なんとかしてくれるって信じてたのに!」

「でも、トム……」

「パリでの暮らしが上手くいかない? ジョナサンはどこでも上手くやれるさ! アイリスだって、分かってるだろ?」

 

 私は全部打ち明けてしまいたかった。

 ジョナサンに待ち受けるであろう辛く困難な時代について、洗いざらい語ってしまいたかった。だが、たった10歳の子どもに迫害やまもなく始まる大量虐殺について言えるはずがない。いくら大人びているからといって、それをすべて教えるには幼すぎる。

 葛藤していると、トムは「もういい!」と私の手を振り払って部屋に戻ってしまう。ばたんっと乱暴に扉を閉める音と、扉の前でエンラクが寂しそうに鳴く声が遠くから聞こえてくる。

 

 

 私は……なにもできない。

 なんとかしないと! と張り切ったけど、結局はただの挿絵画家に過ぎないのだ。 

 

 

 なんで、もっと世界史について勉強しなかったのだろう?

 どうして、ただのマグルなのだろう?

 

 

 もし、私が魔法使いなら……なんとかできたかもしれないのに。

 

 

 

 

 

 





今回が2章で最も暗い話になる予定です。


<補足>
今回、とある宗教について、ボヤかして書きました。
名言はしませんが、この時期にドイツで迫害されている宗教民族ということでご理解いただけると助かります。
ここに至るまで伏線というほどのものではないですが……
・ジョナサンの母はクリームシチューを食べられなかった
・祖母の得意料理はチキンスープ
・トムに「クリスマスプレゼント?」と聞かれたとき、ジョナサンは曖昧に答える。(その宗教はクリスマスを祝うことはない)
・安息日の過ごし方がカトリックと異なる
・ジョナサンの名前の由来
・ヘブライ語をマスターしている

このあたりでしょうか。
もう少しちゃんと描写すれば、みなさんの混乱も少なかったのかなとも反省中です。


これからも、今作を読んでいただけるとありがたいです。


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