この世界に、神様はいない。
トムがその事実に気づいたのは、ちょうど昨日のことだった。
ウール孤児院の孤児たちは、日曜日になると近くのたいそう絢爛豪華な教会へ行かされる。
3歳のトムは、大きな子たちのように日曜学校に通わされることはなかったが、ミサの参加だけは必ずさせられていた。
神父は、いつも判を押したように綺麗な話を語る。
神様を信じましょう。
神様はいつも見守ってくださいます。
神様は常に私たちの味方でいらっしゃいます。
その日の話も同じようなものだった。
あまりにも退屈でおかしな話のオンパレードに耐え切れず、トムは孤児院に戻ってきてすぐ、ずっとむかしから気になっていた疑問を孤児院長にぶつけたのであった。
「かみ様って、ほんとうにいるの?
かみ様がほんとうにいるなら、どうして、母さんは僕をのこして死んだの?」
父親は知らない。
母親は自分を産んで死んだ。身ごもった母親を見捨てたのか、その前に死んでしまったのか。
いずれにせよ、全知全能なる神が存在するのであれば、自分はいまみたいに一人っきりにならなかったはずである。
トムが孤児院長に自分の考えを伝えれば、きりっと細い目をさらに吊り上げた。
「ああ、トム! なんて、罰当たりな!」
孤児院長が悲痛な声をあげたせいで、まわりの者たちが何事かと振り返る。
「神様はいつも見守ってくださっております。ちゃんと神様を信じ、お祈りをすれば、神様はよい方へと導いてくださるのですよ」
「母さんは、おいのりをまともにしてこなかったってこと?」
「トム・リドル!!」
自分の名が呼ばれた、と思ったときには、頬を叩かれていた。
「今日の夕食は抜きです! すぐに部屋へ戻りなさい!」
「……はい」
トムはじんわりと頬が痛むのを感じながら、すぐに回れ右をした。
ここで食い下がっても、罰が余計に悪化することを知っていた。廊下の階段を上がりながら、ちらりと他の子たちを見れば、誰もがくすくすと笑っているのが見えた。
神様がいるなら、こんな惨めな思いはしない。
これだけでも、神様がいない証明である。
もちろん、トムも最初は真剣にお祈りをしていた。
神様にお祈りをすれば、いつか自分も救われると信じていた。
それも半年くらい前……いや、本当はもっと前から「おかしい」と思い始めていた。
たとえば、自分よりいい加減なお祈りをしている子が養子として貰われていったとき。
たとえば、かげで神様を小馬鹿にしていた子のもとに、親戚が迎えに来てくれたとき。
たとえば、ミサではわんわんと大声で泣き散らし、神父の話を聞こうともしない子なのに、母親に惜しみない愛情を注がれていることが分かったとき。
「なんだ。先生もこたえられないじゃないか」
トムは、つまらなそうに言った。
夕食の良い香りを後ろで感じながら、ひとり寂しく部屋に入る。
部屋にあるのは、孤児院から与えられた古着の入ったタンスとベッド、かたかた揺れる机と椅子だけ。
他の子たちのように、最初から持っていた自分だけの持ち物はない。神様を信じておらず、人の不幸をくすくす笑っている子たちですら、親に買ってもらった可愛い服とか本とか玩具を持っているし、バイオリンなる楽器を自慢している奴もいた。なかには、ウサギを飼ってる子どもだっているのだ。
トムには、なにもない。
母親が遺してくれた物はなく、母が身につけていた衣服も「病気がついているかもしれないから」と焼却処分されたらしい。
トムはすきっ腹を抱え、ベッドにうずくまった。
いくらお祈りをしても、真面目に神様を信じようとしても、見知らぬ親戚が自分を迎えにやってくることはなかった。
孤児院でも、トムは一人ぼっちだった。
孤児たちは、ちいさなトムをいじめた。
同じ境遇だからと仲良く接してくることはなく、自分が相手より少しでも上位であると示すかのように、いやがらせをしたり、暴力を振るったりしてくるのだ。
神様が存在するのであれば、みにくい足の引っ張り合いが起きないはずである。
だからきっと、本当ならもっと早くに「神様はいない」と気づいていたかもしれない。
ところが、「神様はいるのでは?」と思わずにはいられない奇妙なこともたくさんあるのだ。
トムをいじめてきた相手は、必ずと言っていいほど不幸に見舞われる。とつぜん階段から落ちて頭をぶつけたり、パンをのどに詰まらせて死にかけたり、トムはなにもしてないのに、いきなり遠くに飛ばされて壁にぶつかったり……。
ついさっきまで、「神様が、悪い奴らに天罰を与えてくれたのだ」と思ったが、神様がいないとなれば話は変わってくる。
「これは、ぼくの力?」
両手を開閉させながら、トムは静かに呟く。
思い起こせば、いじめてきた相手に降りかかった天罰の内容は、自分が「あいつなんて、こうなればいいのに」と考えたことだった。
「……ばかばかしい」
そうは言いながらも、トムは高揚していた。
トムは薄いかけぶとんに包まり、ぎゅっと目を閉じた。
それとも、自分は相手に天罰を下す魔法だけは使えるのか?
もしかしたら、隠された力が自分に眠っているかもしれない。
神様なんて、存在しないのだから。
※
次の日、トムの目覚めは最悪だった。
「トム、貴方って子は……!!」
やっと食事にありつける、と思ったのもつかの間、すぐにミセス・コールのお説教コースに入ってしまったからだ。
「今日は貴方たちを引き取ろうと考えてくださる方々が訪れる日なのですよ。それだというのに、なんですかその服装は……! 夕食のとき、院長先生がおっしゃっていたでしょう?」
「すみません、ミセス・コール」
知らなかったのだと、言いたい気持ちをぐっとこらえる。
自分は夕食にいなかったし、誰も教えてくれなかったのだ、と言い訳をしてもいいが、その問答をするだけ無駄だ。説教が長引くだけだし、せっかくの食事をとることができなくなる。
「はぁ、もう時間がないわ。朝食をとったら、すぐに着替えて来なさい」
トムが神妙に黙り込んでいれば、ミセス・コールは仕方ないと頭を振った。
トムは彼女に二つ返事で応えると、すばやく朝食の列に並んだ。周囲の子たちは、怒られるトムを見て、くすくすと押し殺すように笑っている。みんながこざっぱりとした灰色の制服を着ているというのに、自分だけ普段の古着であった。灰色の制服といっても、新品のものを着ている子はおらず、みんなどこか継ぎはぎがあったり穴が開いたりしているわけだが、この孤児院において最も良い服であることに違いなく、トムにとっても一番ましな服であった。
「……」
食事のあと、ミセス・コールの厳しい視線や孤児たちのこそこそとした嘲笑の声を感じながら、すばやく部屋に戻る。
服に袖を通しつつ、トムは窓ガラスに映った自分の顔を見て舌打ちをした。
「ふん、つまらない」
どうせ、自分が選ばれる可能性はない。
服を多少取り繕ったところで、惨めな気持ちしか味わえないのだ。それでも、今度こそは……と思わずにはいられない。服を着替え、みんなのいる場所へ戻れば、既に同じ年頃の子たちは大人たちの審査の目にさらされていた。
「……」
遅れてきた自分には、見向きもされない。
時間を守れない子は、いらないのである。
あーあ、今回も選ばれないな。
いかにもな作り笑いをする子たちを横目で見ながら、手近の本を読むことにした。アルファベットは習ったばかりで読めない文字もあったが、前後の雰囲気でカバーすることはできる。
落胆と諦観。
昼食の鐘と共に本を閉じ、食堂へ向かおうとしたとき――トム・マールヴォロ・リドルは立ち止まった。
黒髪の女がいる。
部屋の隅に腰を降ろし、ペンをひたすらはしらせていた。時折、青い目を輝かせながら、赤子と触れ合う大人たちを観察している。
「……へんなやつ」
たいして美人というわけではない。
黒い髪は手入れをしているらしく、それなりに艶はある。だけど、それだけ。編み込みもないし、後ろで軽く結わっているだけ。他のお客さんみたいに、豪奢な髪留めもなければ、指輪もしていない。彼女の物と思われる鞄の上に置かれた帽子だって、くすんだ茶色で、いかにも使い古されたもの。服だって粗末なものだ。もちろん、自分たちが着ているものより遥かにマシではあるが、そっけないことこの上ない。
ただ、目だけは美しかった。
らんらんとした青い瞳は、まさに宝石のようだ。教会を訪れる裕福な女性が胸につけていた、大粒のブローチみたいに光り輝いている。
「アイリス、調子はどう?」
そんな彼女に近づくのは、ミセス・コールだった。
でも、青い目の女性――アイリスは、まったく気づかない。ミセス・コールは呆れたように首を振り、ややいらだちをこめた声で、彼女の名前をもう一度呼んだのだ。
「アイリス! アイリス・リドル!」
かみなりが当たったような衝撃だった。
アイリス・リドル。
自分と同じ「リドル」の姓を持つ女性!
まさか、自分を迎えに来てくれたのか!? と、期待してしまう。
結果としては家族になったわけだが、トムと直接的な血のつながりはないらしい。実際、共通点と言えば黒髪くらいだった。
それでも――神様の天罰のような不思議な力のことを聞いてもなお、自分を引き取りたいと言ってくれた。こんなことは、流れ星をつかむような奇跡である。
トムが孤児院を出ることを聞いて、他の孤児たちは物凄く驚いた。
なかには、「お前はすぐに戻されるさ」とあざわらう奴もいた。「お前を騙して引き取って、働かせるつもりなんだ」という連中もいた。
トムは雑音を無視していたが、納得はしていた。
トム自身、引き取られた理由が分からない。
アイリス・リドルが引き取りに来る当日、院長先生がにこにこ笑顔で、
「ああ、神様! 悪いことばかり起こしてしまう孤児を見捨てず、温かい家庭を与えてくださるとは……! なんて、素晴らしいことでしょう!」
と、大仰に驚くほど、トムは嫌われていたし、トムも自覚していた。
「トムもそう思うでしょう? 神様は貴方を見捨てなかったの! 神様はいるのよ!」
「……僕がかみ様だったら、母さんをみすてなかったけどね」
トムは、思ったことを口にする。
すると、院長先生の顔は瞬く間に怒りの形相に変わった。この間と違ったのは、振り上げた手をこらえるように握りしめ、ゆっくりと下げたことだった。
「なんて罪深い子なのでしょう! いずれ、天罰がくだりますよ!」
「僕がいったことは、わるいことなの? 母さんが死ななければ、僕はここにはこなかった」
「お母さんが亡くなり、ウール孤児院に預けられたのは、神様が望んだことなの。そこに意味が必ずあるはずよ」
「母さんが死んだことは、いいことなのか!? ちがうだろ!」
トムが語尾を荒げると、一陣の風が吹いた。
「きゃっ!」
途端、院長先生の眼鏡がぱりんと割れた。
さあっと院長先生の顔が青ざめ、トムを心底軽蔑するように睨みつける。
「……気持ち悪い。まるで、悪魔の子だこと」
院長先生は吐き捨てるように言い残すと、替えの眼鏡を取りに戻った。
この数分後、アイリス・リドルは迎えに来た。
初対面の時も感じたが、アイリスは「へんなやつ」だった。
トムが手をつないでやったら喜び、「アイリスと呼べばいい」と気軽に言ってくる。
挙句の果てには、「TOMが嫌ならTHOMだと思えばいい」と言ってくる始末。これには、トムは驚きを通り越して呆れてしまった。そういう問題でもない気がするのに、「なるほど」と思ってしまった自分にも呆れてしまう。
他にも、マグカップを買ったときも変な奴だった。
「マグカップ、好きなものを選んでいいわ」
アイリスは雑貨屋に入ると、そんなことを口にした。
「どうして?」
「だって、お茶の時間のとき、マグカップがないと楽しめないでしょ?」
アイリスはきょとんとしていたが、トムも理解できなかった。
「お茶のじかん?」
「そうよ。孤児院でもあったでしょ?」
トムは頷いた。
トムの知っている「お茶の時間」はお菓子をもらえる時間のことだ。ただ、毎日あるわけではない。お菓子がもらえるのは嬉しかったが、院長先生曰く「悪魔の子」は日頃の行いのせいでお菓子を減らされてしまうことも多かったので、あまり楽しみではなかった。
「マグカップなんて、どれでもいい」
「私はお気に入りのカップで飲むと、心が落ち着くわ。まあ、物は試しっていうから」
アイリスが言うので、トムはマグカップの棚に目を向ける。
「どれでもいいの?」
「もちろん! あなた専用のマグカップだもの」
「専用のマグカップ」という言葉が胸に落ちるまで、少しばかり時間がかかった。その言葉がようやく分かったとき、トムの心は踊った。
いままで、どうしても共用だったりおさがりだったりした物ばかりの生活から抜け出し、はじめて自分だけの物を手に入れることができる。そう考えると、先ほどまでマグカップは黙って陳列していたのに、一気に輝きを増した。どのマグカップも選んでくれとばかりに耐えがたい輝きを放っている。
トムは悩んだ末に、緑のマグカップを手に取った。
深い緑色は品がよく、銀色のつる草のイラストが描かれている。つる草は、まるで賢い蛇のようにもみえた。
ところが、気に入ったマグカップを手に取ってから気づいてしまった。
他のカップより、0の数が一つ多い。
まだ計算は習っていないが、0が多くなるとお金がかかることは知っている。さすがに駄目だよな、と棚に戻そうとする前に、アイリスは嬉しそうに話しかけてきた。
「それにするのね! さっそく買いましょう!」
「ほんとうに?」
「だって、それが気に入ったんでしょ?」
アイリスは金額をまったく気にする姿はなく、てきぱきと会計をすませた。
「はい、どうぞ」
彼女はカップの入った箱を手渡してきた。
「ありがとうございます」
「礼はいらないわ。家族だもの。これからも、欲しいものがあったら教えてね」
もちろん、全部買ってあげる! なんてわけにはいかないけど……、と、彼女は微笑んだ。
やっぱり、変な奴である。
でも、アイリスは嫌いではない。
帰り道、肌寒いはずなのに、ぽかぽかしていた。
左手に抱えた箱は宝物で、右手を包む優しい大人の手は温かい。
こういうのを「しあわせ」と呼ぶのだろうか?
「なあ、あんた。あんたは、かみ様がいるっておもう?」
家に着く前、こんな言葉が口から飛び出していた。
アイリスはそれを聞くと、ちょっと考え込むように上を向いた。
「わからないわ。いると思うときもあるし、いないと思うときもあるもの」
「なんだそれ」
「だって、いいことがあったときは『神様ありがとう!』って思うけど、本当に神様がいるとも思えないし」
「つごうがいいんだな」
「あら、ずいぶん難しい言葉を知ってるのね」
アイリスは微笑んだが、トムは苦い顔を隠せなかった。
信じたいときだけ信じるなんて、都合がよすぎる。
ただ、アイリスの考えに力いっぱい反論したり抵抗したりしたいとは思いつかない。それだけでも、十分以上、一緒に暮らしていけると感じた。
「そういうものか」
「そういうものよ」
西日がロンドンの街並みを照らし出し、長く細長い影が寄り添うように道に映し出される。
トムには見慣れた光景のはずなのに、ただの影すら普段と違って見えた。
そして、トムは強く思うのだった。
きっと、これから先は――孤児院で感じた息苦しい思いはしないのだろうと。