●1939年 4月△日
ヘレンおばあちゃんの家に泊まってきた。
ひさしぶりに一人で汽車に揺られる感覚は、ちょっと不思議な感じがした。5年以上、汽車で出かけるときは必ず隣か前の席にトムがいた。たくさんおしゃべりをするわけではない。本を読んだり、眠ったり、窓の外を眺めたり――そんな他愛もない一時だけど、姿が見えないのは心に空白が生まれたような喪失感に陥ってしまう。
本を開いたけど読む気分になれず、ぼんやり窓の外を眺めた。どんよりとした灰色の曇り空を背景に、自分の物思いに沈んだ顔が映る。静かな車内に車輪の音と時々汽笛が、ただただ空しく響いていた。
ちなみに、今回の小旅行はトムに内緒。
おばあちゃんには「相談があるから、1人で泊まりに行く」とだけ電話で伝えてある。
おばあちゃんの反応は……まあ、いつも通り。
玄関前に立っていて、私を見るなり大きく息を吐いた。
「なに辛気臭い顔をしているのよ。もう少し、シャキッとしなさいな」
「ご、ごめんなさい」
「謝らなくていいの。ほら、さっさと入りな」
おばあちゃんはそれだけ言うと、よたよたと杖を突きながら家に入ってしまった。
だけど、そのあと……少し驚いた。おばあちゃんは夕食の支度を既に終わらせていたのだ。テーブルの上にはシェパーズパイと骨付きラム肉が並んでいる。年代物のワインまで置かれていて、ちょっと目を疑ってしまった。
「アイリス、ちょっと痩せたんじゃない?」
おばあちゃんは呆れたような声で言いながら、よっこらせと席に着いた。
「ちゃんと食べなさいな。トム君がいないからって手抜きは駄目よ」
「うっ」
さすがは、おばあちゃん……ここのところトムがいないので、ついつい手を抜いてしまっている。一週間に数回は昼食を抜くし、朝食もパンにチーズを乗せたものだけで終わらせて、夜までずっと机に向かって仕事をしていることが多い。今日だって、汽車の中で食べる予定だったけど、どうにも食欲がわかずに、サンドイッチは鞄に入ったままだ。もっとも、さすがに夕食はちゃんと作ろうと努力するし、ナティと食べることもあるから栄養価は足りているはずだけど……おばあちゃんの目は誤魔化せない。
「ほら、冷めちゃうわよ」
「う、うん」
イギリス料理って基本不味い。
だけど、おばあちゃんの料理は大雑把だけど優しい味がする。
「トム君から手紙は来るの?」
「一週間に一度ね。友だちと音楽のグループを作っているみたいよ」
「お勉強は順調かしら?」
「大丈夫そうよ。学年でトップだって」
料理を食べながら、トムの近況を――差しさわりのない程度に教えた。
一番好きな教科を聞かれたときは、ちょっと困った。トムは呪文学が一番好きらしいけど、正直に話せるわけがない。
「どの教科も得意だけど、特にローネン先生って人の授業が楽しいらしいよ。座学だけじゃなくて、ちょっとした実験とかもしてくれるんだって」
「その先生は、なにを教えてるんだい?」
「それは……今度、聞いてみるね」
聞いてみたところで、呪文学をどうやって置き換えればいいんだ……今度、おばあちゃんに会うまでに考えておかなければ!
さて……ここからが本題。
デザートのトライフルを半分ほど食べたところで、私は例の件を切り出すことにした。
「おばあちゃん、チェコスロバキアの話……知ってる?」
そう言いながら、里親募集が書かれた新聞を鞄から取り出そうとする。ところが、その前におばあちゃんが口を開いた。
「……今朝のデイリー・メールに載ってたね。まさかと思うけど……あの子たちの里親になるつもりかい?」
おばあちゃんは食べる手を止め、まじまじと私を見つめてきた。
「あのねぇ、トム君みたいな子ばかりだと限らないのよ? それに、この子たちは本国に親御さんがいるんでしょ?」
「引き離すのは可哀そうかもしれないけど……いまの情勢を考えると、こっちの方が安全だし……非常事態が終わったら、親元に帰れるように手配するから、その一時的にね」
「アイリス」
おばあちゃんは静かな声を出した。おばあちゃんにしては珍しい……冬の湖面のような静かな声色に、私は自然と背筋が伸びていた。
「非常事態ってね……先の大戦は何年続いたと思っているの? 1年や2年、預かるわけじゃない。あんた、その覚悟があるのかい?」
おばあちゃんの青い眼がまっすぐ矢のように見据えてくる。私と同じ、青い眼……私も努めて静かに見つめ返し、口を堅く結んだまま大きく頷いた。
「アイリス、生活に余裕はあるのかい? トム君にだって、これからどんどんお金がかかるのに……それでも、困っている子どもを見捨てられないと?」
「……うん」
「……大変な道を選ぶもんだ」
おばあちゃんはそれだけ呟くと、話はこれまでと言わんばかりに立ち上がってしまった。
「おばあちゃん……?」
「食器の片づけは頼んだよ……あんたは妙なところが頑固だからね。今さらなにを言っても、もう決めたことなんだろ? とても大変な道だろうけど……やるからには最後までやり遂げな」
てっきり反対されると思ったのに、なんだか拍子抜けだった。
少なくとも、トムと出会う前のおばあちゃんなら――間違いなく反対されたし、やめるように説得してきたことだろう。丸くなったのか、私の判断を少しは信用してくれているのか……。
あとは……そう、おばあちゃんは帰るときに「これをトム君に」と一通の封筒を渡してきた。
「トム君への手紙が入ってるから。あんたが勝手に読むんじゃないよ」
言われなくても、他人の手紙を盗み見しないよ……。
そうそう!
手紙といえば、郵便ポストにフランクさんからの手紙が入っていた。
いつものようにリドル一家に対する愚痴と園芸の資格を取る勉強について綴られている。リドル一家の庭師は代々継がれてきたらしく、正式な資格を持っていなかったらしい。
『あんたが贈ってくれた本、役に立っているよ。枝の剪定する場所、どこを切るのが最適か……いままで感覚的にやっていたが、こうして勉強するのも良いもんだ』
フランクさんの文字はお世辞にも綺麗ではないけど、便箋からはみ出さずにまっすぐ書こうと努力しているのが伝わってくる。やっぱり、この人は良い人である。きっと、原作であんな事件に巻き込まれていなければ……村の人と結婚して、孫に囲まれていたかもしれない。
実際、手紙には「実は気になる人がいる」って書いてあったからね。
そう考えると、原作の流れを変えてしまったのかもしれないけど……原作ブレイクはトムを引き取った時点で決まっていたことだし、それを後悔したことはない。
……さて、返事を書こう。
せっかくだから、クリスマスにナティから貰った羽ペンで書いてみようかな。
※
●1939年 4月〇日
トムのレコーディングはつつがなく終わった。
録音機材の前でも冷静だった。いつも通りの完璧な演奏を終えると、スタッフたちから拍手喝さいを浴び、優雅に一礼をする。その姿も様になっていて、ただただ感嘆するしかない……。
あとは、明日……ジャケットの写真撮影。
トムは持ち前のプロ意識でこなせると思うけど……なるようにしかならないかな。
夕食後、トムに例の話をした。
トムがナポリタンで汚れた口元をハンカチで拭く姿を見つめながら、私は努めて真剣な声色で切り出す。
「トム、大事な話があるの」
「大事な話? 明日のジャケット撮影のこと?」
「違うわ」
私は新聞を取り出すと、テーブルの上に広げた。
なるべく冷静に、言葉を選びながら――現在のチェコスロバキアの状況を説明する。ここに住まう特定の民族の人たちがどのような迫害を受けているのか……今後もドイツの占領が続けば、それが悪化していくこと。実際、ドイツでは昨年の11月から激化しており、その民族の人たちはドイツの企業で働くことを許されていないし、映画館や劇場に入ることもできず、夜も外を歩けないことを伝えた。
「……」
トムは黙って聞いていた。彼は私がする「大事な話」が想像していたよりも重い話だと感じたらしく、だんだんと表情が暗くなっていった。
「これは……私の予想でしかないけど、もっと状況が悪化すると思う。例えば、居住区を決めて出られないようにしたり、彼らの命を奪うようなことをしたりするとか」
「そんなこと許されるはずがない! ……と、僕は思うけど」
トムは驚いたように声を上げたが、私の顔を見てすぐに声を萎ませる。
「だって、そんなこと……まっとうじゃない。駄目なはずだ」
「私もそう思うわ」
ここで少し……いや、かなり安心した。
だって、トムの口から「まっとうじゃない」なんて言葉が飛び出したのだ。ホグワーツに通い始めて、自分たちのグループ名を「死喰い人」にしたというから心配したけど、私の知るトムのままで……よかった。
「でも、人は……時に凄く残酷になるの。トムも知っているでしょ?」
「……アイリスはどうしたいの?」
「子どもを一人引き取りたい」
「僕は止めた方がいいと思う」
トムは早口で否定した。
「その子たちは僕みたいな孤児じゃない。ちゃんと親がいる。血が繋がっていて、愛されていて……それを引き離すなんて……絶対に恨まれるよ」
「だけど、子どもは自分で逃げられないわ」
大人は……いや、大人も危険極まる状況だけど、自分で判断して逃げたり隠れたりすることはできる。自分の身分を偽り、市井に紛れてお金を稼ぐことだってできるし、隠れ家のような場所に潜伏したり、国境を越えたりすることだって――とても厳しいだろうが、試すことはできる。
だが、子どもはそうはいかない。
子どもはどうしても親と一緒に行動しなければならないし、先の見えない潜伏生活や逃亡生活に連れて行くにはリスクが大きすぎる。むしろ、子どもが親の足かせになってしまうかもしれない。
「だけど、アイリス。子どもまで殺すようなことをする? 赤十字が黙ってない」
「ドイツが赤十字を恐れると思う? ミュンヘン協定を軽々と破る国よ?」
「……どうしても、引き取りたいの?」
トムの声が哀しいくらい小さく聞こえた。心なしか、黒い目が潤んでいる。私と目が合うと、トムはさっと隠すように視線を逸らし、机の一点を睨みつけた。頬を少し膨らませ、わずかに尖った口でこのように呟いた。
「アイリスには……僕がいるじゃないか。だから、寄付でいいと思う」
「……え?」
そういう反応をされるとは想像していなかったので、きょとんとしてしまう。でも、すぐに我に返って、不謹慎なのに大声で笑ってしまった。
「アイリス!?」
「ごめんなさい、ちょっと、おかしくて……」
あまりにも笑いすぎて、涙で滲んだ目を指で拭った。それから、トムに目を向ける。たぶん数秒前までの自分と同じ表情に微笑みかけた。
「これまでも、これからも――私はトムを一生愛しているよ。どんな子を引き取ったとしても、それは変わらない」
優しく言いながら、彼の髪を撫でる。こうして頭を撫でるのは、かなり久しぶりだった。でも、トムの癖っ気のない絹のように滑らかな髪も変わらない。もちろん、変わったことも多い。顔立ちから幼さが消え始め、背丈も伸びて、目線の高さはほとんど変わらない。あと1、2カ月もすれば追い越されてしまうだろう。
それでも、私にとって……
びっくりした。
窓の外で、ばんっと銃声のような音が響いたのだ。それも2回も! いま、夜の11時だよ? おそるおそる窓から外をを覗いたけど、前の通りには人っ子一人いない。気のせいだったのかな……それにしては、物凄く近くから聞こえた気がする。
トムは大丈夫かな? って声をかけにいったけど、返事はなかった。どうやら、もう眠ってしまったらしい。一応、寝ている姿を確認しようとドアノブに手をかけたとき、リビングからトムが階段を駆け上がって来た。よほど急いでいたのか、頬を真っ赤に赤らめ、肩で荒い息をしている。
「トム、まだ寝てなかったの?」
トムはまだパジャマですらなかった。
「うん。いまから寝るよ」
「それはいいけど……さっき、凄い音したでしょ? トム、何か知ってる?」
「音? 僕は気づかなかったけど……それより、アイリス。おやすみ。明日も早いし、早く寝るよ」
彼は早口に言うと、部屋に滑り込むようにして入ってしまった。だけど、ふと思い出したように、再び扉を開き顔を覗かせる。
「あのさ、アイリス……」
しかし、なかなかそこから先の言葉を口にしようとしない。なにか悩むように視線を泳がせている。
私は彼が何か言うまで、じっと待つことにした。すると、ややあってから、決意したかのように――それでも、囁くようにこう言ったのだ。
「7月にさ、三本の箒で演奏会するんだ。絶対に来てよ」
「もちろんよ」
「そのあと……そのあとさ……写真、見せて。どんな子、引き取るのか」
この数時間で、いったいどんな風の吹きまわしだろう?
あれほどまでに嫌がっていたのに、不満そうだったのに、ちょっと乗り気になっている。
「もちろんよ。いろいろ考えてくれてありがとう」
本音を言えば、もうちょい早く引き取った方がいいと思うけど……なんとかなる。7月に子どもを決めれば、8月か9月には出国させることができるはずだ。
でも、いったいどういう心境の変化だろう?
嬉しいことだけど、ちょっと気になる。
数年一緒に暮らして来たけど、子どもの心理は分からないものだ……。
次回はトム視点「トム・マールヴォロ・リドルの動揺」になります。
8月2日(金)を更新予定です。