トムがホグワーツに通い始め、そろそろ半年経過する。
ニュートとの関わりからも感じていたが、魔法界にはトムの常識の範疇を越えた物が数多く存在した。自動的に動く階段、電気やガスといった動力源がないのに、大きなガラスの球に入った銀河系が動く模型、外を掃くためではなく、飛ぶことに特化した箒、自分の意思を持つチェスの駒、本物のカエルさながら跳ねて逃げるチョコレート、あきらかに罰ゲームとしか思えない味が混ざったゼリービーンズ……。
「なるほど!」と納得するものから「これはない」と断言するものまで、まさに理解を越えるような不思議な代物であふれている。
そのなかでも、トムが最も興味を惹いた物品……それが「両面鏡」である。
アルファード・ブラックから貰った鏡は、対になった2つの鏡で顔を見ながら話すことができる魔法の手鏡だ。誕生日プレゼントで貰った品のなかで、一番高価で貴重な品であることは明白だった。
「これ、本当に貰って平気な鏡?」
トムが訝し気に尋ねると、アルファードは笑いながら答えた。
「いいって、いいって! トムは家に帰る頻度が多いだろ?」
「それはそうだけどさ、ブラック家に伝わる品じゃないのか?」
「うちの倉庫で埃を被ってたんだ。埃をかぶってるってことは、磨かせる必要のない鏡ってこと」
アルファードは大したことでもないような口調で言い切った。
「いずれは自分の子どもにでも受け継がせるつもりだったけど、使えるなら使うに越したことはないさ。それに、俺がいない間に君が面白い事件に巻き込まれるかもしれないじゃないか! そのときはすぐに知らせて欲しい。友だちだろ、俺たち」
「……お前な……僕は君の遊び道具じゃないぞ」
心の底から呆れ果てたが、貴重な鏡なので律義に持ち歩いていた。割れたら大変なので、クッション呪文をかけた布に包み鞄にしまっていたが、実際に使うことはないだろうと思い込んでいた。
あの日までは。
※
その日、トムは天地を揺るがす衝撃を受けた。
夕食時、アイリスが「もう1人、子どもを引き取る」と言い出したのである。
アイリスの言い分は理解できた。
アイリスの性格上、困っている子どもを放っておけないことに納得がいく。それに他の子どもを引き取っても、自分のことを大切にしてくれることは十分に知っていた。
「分かってる。頭では分かってるんだよ」
トムは自室に戻り、ベッドに転がった。
着替える気にさえならない悶々とする気持ちを抱え、何度寝返りを打っても寝られそうにない。胸のなかに渦巻く気持ちを吐露したくとも、同じ屋根の下にいる張本人に気持ちをぶつける勇気はなかった。
「……はぁ」
どうしても目が冴えてしまい、たまらずに息を吐く。一度、気持ちを変えようかとヴァイオリンに手を伸ばしたが、こんな夜中に弾くと近所迷惑だ。これまでは防音の魔法をかけていたので、いつ弾いても良かったが、ホグワーツに在籍してからは「未成年魔法使いの制限に関する法令」のせいで自宅で魔法を使うことができないのである。この魔法を解明し、抜け穴を見つけ出さない限り、自宅で魔法を使うことは不可能だった。
トムは行き場のなくなった手を振りながら、他に気を紛らわす物はないかと視線を泳がせる。すると、1通の手紙が目に飛び込んできた。
「……そういえば、まだ読んでなかった」
トムはヘレン・ウォルパートからの手紙を手に取った。
当初はアイリスを無下に扱う様子から苦手意識を持っていた。愛想よく振舞っていたのは、アイリスを困らせないためだったし、ちょっとした見返りとしてお菓子を貰ったり美味しい料理を食べさせてもらったりするためだ。それでも、「おばあちゃん」と関わるなかで、少しずつだが親しみを持つようになっていた。彼女がちょっとした距離を歩くのも辛かったというのに、トムがコンサートをすると聞いた途端、ロンドンまで遠出できるほどに回復したと聞いたときは、強すぎる想いに軽く引いてしまったが、嬉しく思えたのも事実である。
「たまに会いに行ってもいいかな」と思う程度に、おばあちゃんのことを気に入っていた。
「どうせ近況報告だろうけど……ん?」
ところが、封筒に収まっていたのは小さなメッセージカードと折りたたまれた書類が1枚。メッセージカードには「いつでも会いに来てね」の一言だけ。いつもは口から産まれて来たのではないかと思うほどおしゃべりなのに珍しいな、と感じながら書類を広げ、トムは目が点になった。
それは土地の権利書。
記載されている住所からして、おばあちゃんの家である。
確かに、何年か前から「あたしの遺産、そのすべてをトム君に」と言われ続けていたが、まさか本気だとは思わなかった。トムは悩んだ。すぐにでも、アイリスに相談しなければ――と考えたが、いまは顔を合わせる気にはなれない。しばし悩んだ末、トムは鞄から両面鏡を取り出した。自分の顔が映る鏡を見下ろし、躊躇いがちの声をかけた。
「あー、アルファード?」
すると、すぐにアルファード・ブラックの陽気な顔が現れる。
『やあ、トム! 君から連絡だなんて、楽しい出来事でもあった!?』
「……やっぱりやめる。おやすみ」
『やめて! ちゃんと聞くからさ』
アルファードはわずかに真剣そうな表情になる。鏡の向こうで背筋を正しているのが伝わってきた。
「ドロホフは?」
『熟睡中。杖十字会の会合でさ、スクリムジョールと本気の決闘をして、疲労困憊だって。起こすかい?』
「いや、いい。誰かの意見を聞きたかっただけだからさ」
スクリムジョールは悪い奴ではない。
典型的なグリフィンドール生で、騎士道精神を胸に日々戦闘力の向上に励む実践派だ。ただ、トムをライバル視することが多く、なにかにつけて決闘をしかけてくる。トムにとって、スクリムジョールは100戦100勝の相手だが、彼は1年生のなかで決闘の技術が頭一つ抜けていた。いかに、ドロホフが決闘に優れているとはいえど、スクリムジョールの前では実力が拮抗している。2人の魔法の応戦はさぞ見ごたえがあっただろうことは推察できるし、ドロホフが疲れ果て眠りをむさぼっているのは理解できた。むしろ、ここで起こしたら可哀想である。
「実は、血の繋がりのない曾祖母から……土地の権利書が送られてきたんだ。『いつでも会いに来てね』ってメッセージ付きで」
『いまから会いに行けばいいじゃん』
「無理だろ。夜中じゃないか」
アルファードの能天気な返事に、トムは「こいつに相談したのは間違いだった」と反省する。
「それに、おばあちゃん――曾祖母の家は、コッツウォルズにあるんだ。明日はロンドンで写真撮影があるし、予定が詰まっている。だからといって、こんな重要な書類に関する話、夏休みまで先延ばしにするわけにはいかないだろ」
『あー……そっか。お前がマグル育ちってこと忘れてた』
アルファードはそう言うと、声を潜めてこう提案してきた。
『俺のしもべ妖精を貸すよ。しもべ妖精の姿くらましは法律に引っかからない』
「……だけど、9時を回ってる。曾祖母は寝てるよ」
『まあ、そのあたりは俺のとっておきでなんとかなるから。ま、そこで待ってろよ』
彼は鏡のなかから姿を消した。
すると、ばちんっと指を鳴らすような音が大きく響き渡り、トムは咄嗟に杖を構えて立ち上がった。音のした方に視線を向けると、そこには大きな耳が特徴的な小柄な生き物がたたずんでいる。古びた年代物のタオルを纏っており、とてもみすぼらしく見えた。
「アルファード坊ちゃまの命令で参りました、ドンキーでございます」
「これは……親切にどうも。トム・リドルです」
トムは右手に杖を握りながら、握手のために少々ぎこちなく左手を差し出した。
ドンキーと名乗ったしもべ妖精は甲高い悲鳴を上げ、首をふるふると振った。
「握手だなんて、とんでもございません! ドンキーはしもべ妖精でありますが故、そのようなことはいたしません! さあ、曾祖母様の御自宅に参りましょう」
「だけど、いまからだと……」
「それにつきましても問題ございません。さあ、トム様。おはやく」
ドンキーが手を差し出してくる。ドンキーのテニスボールのように大きな目はキラキラと輝いており、嘘をついているようには見えなかった。
トムは急いで薄手のコートを羽織ると、しもべ妖精の手を取る。再び銃声にも似た派手な音と共に、いつもの「姿くらまし」をする感覚に襲われる。最初こそ戸惑い、吐きそうになったものだが、今では慣れっこになっていた。
数秒もすれば、おばあちゃんの家の庭先に降り立っていた。
部屋の灯りは点いておらず、すでに眠っていることは明白である。
「ほら、やっぱり無理だよ」
「トム様。ドンキーはアルファード坊ちゃまからこれを預かっております」
ドンキーはそう言うと、タオルの隙間から金色の鎖を突き出した。その先には、小指ほどの金色の砂時計がぶら下がっている。ドンキーは鎖を自身の首にかけたあと、つま先立ちをしてトムにもかけようとしてくる。トムが膝を曲げると、ドンキーは首に鎖をかけることができた。
「これは?」
「魔法でございます」
ドンキーは砂時計を7回、ひっくり返した。
すると、夜の闇もおばあちゃんの家も溶けるようになくなった。トムは一瞬、姿くらましかと思ったが、すぐに違うことが分かった。どんどん自分が後ろ向きに飛んでいるような感覚に陥り、ぼやけた色や形がトムたちを追い越していく。
やがて、とんっと硬い地面に足が着くのを感じた。
トムはあっと声を漏らした。青々とした空に白い雲がゆったりと流れている。おばあちゃんの家の前に立っていることは同じだったが、すっかり夜が明けてしまっていた。
「いや、違う……時間が、逆転した?」
「逆転時計……の試作品でございます」
ドンキーがそう告げたとき、ぱきんっと砂時計が割れた。砂はさらさらと風に浚われ、金の鎖だけが残っていた。
「魔法省からいただいた品でございます。さあ、時間は巻き戻りました。お帰りの際は、ドンキーの名前を呟いてくださいませ」
そう言うと、ドンキーの姿は空気に溶け込むように消えてしまった。
トムは大きく頷き、おばあちゃんの家のドアベルを鳴らす。
「誰だい、こんな時間に……トム君!?」
おばあちゃんの目は点になっていた。
「久しぶり。いつでも来てって言われたから……僕一人で来た」
「それは……とりあえず、中にお入り。ああ、よかった……ケーキを焼いたところだったのよ。年寄りの勘は当たるものね」
おばあちゃんのあとに続いて、トムは家のなかに入った。ケーキの甘い香りが漂い、お腹が鳴ってしまった。
その姿を見て、おばあちゃんはくすくすと笑った。
「いっぱい食べなさいね。あたしだけだと、4日かけても食べきらないから」
「いや、ちょっと話に来ただけなんだ。僕宛ての封筒に権利書が間違えて入ってたみたいで……」
トムが鞄から封筒を取り出すと、おばあちゃんの笑みはますます深まった。
「いいのよ、あなたにあげるものだから。さあさあ、席について。お茶にしましょう」
そう言われたが、トムはお茶を淹れるのを手伝った。おばあちゃんの手つきはかちゃかちゃと震え、危なっかしく思えたからだ。
「……トム君は、優しい孫だからね。家も土地もお金も……全部、あんたに遺すよ。あたしも長くないから」
おばあちゃんはケーキを齧りながら、優しく話し始めた。
「アイリスにとも思ったのだけど、あの子もいつか再婚するかもしれないし……そうなったとき、確実にあたしの遺産がトム君へ渡らないかもしれないじゃない? だから、先にすべて渡しておこうと思ったのよ」
「アイリスは再婚なんてしないさ」
咄嗟に口から出た言葉に、少々ばつの悪い思いがする。
「たぶん、だけどね」
「あの子は分からないところがあるからねぇ……」
おばあちゃんは紅茶から昇る煙を見つめながら、ゆっくりと呟いていた。
「僕よりおばあちゃんの方が、アイリスとの付き合いは長いじゃないか」
「それはそうだけど、あの子はあたしとは違うから……昔から、不思議な子だよ」
おばあちゃんはそう言いながら、紅茶に角砂糖をぽんっと落とした。
「家に戻って来たときは、必ず手を洗う。自分の部屋に入るときは、必ずスリッパを履く。犬を散歩させた後、家に上げる前に必ず足を丁寧に拭う。重度の潔癖症かと思いきや、部屋の隅に埃が溜まっていてもたいして気にしない……変な子だよ」
「それは……普通ではない?」
「ああ……あの子に育てられたから、トム君がそうなるのは理解できるわ。でも、あの子は……あたしもあの子の両親も、そんなこと教えてないのに、最初からそうだったの」
おばあちゃんは、もう一個、角砂糖を紅茶に入れる。くるくると匙でかき混ぜると、かちゃかちゃと音が鳴った。
「変な子だったわ。物心つく頃には四則計算ができてね、言葉も達者。血の繋がった孫でなければ、怖いと思ってたかもしれないわ」
「……僕も計算が得意だったよ」
「トム君は成長するにつれて、ますます得意になっていったでしょ? でも、アイリスは違うの。なんというか、既に知っていたみたいというか……天才ではなかったというか……服にボタンが縫い付けられているから裁縫が得意かと思ったけど、まっすぐ縫えない、みたいな」
たとえが難しいわね、とおばあちゃんは苦笑いをする。
「それに、あの子……たまに、未来が視えてるんじゃないかって思うときがあるの」
「そんなわけないさ」
トムは首を振るも、おばあちゃんは真剣な口調で話を続ける。
「4歳のとき、王室の家系図を見てね……凄く驚いた声をあげてたの。あたしは『どうしたの?』って聞いたわ。そしたら、『ジョージ五世とニコライ二世はいとこなのに、ロシアが崩壊するときにどうして助けなかったの!?』ってね」
「どこが変なの?」
「そのとき、ロシアは健在だったのよ。ニコライ二世一家が行方不明になるとは思ってもいなかったわ。たしかに、情勢は不安定だったけど……誰もが、どこかへ亡命すると思ってたの」
ところが、実際にはそうはならなかった。
ロシアが崩壊しても、ジョージ五世を始めとしたイギリス王室はニコライ一家を見ないふりをした。助けようと手を尽くさなかった。もっとも、ロシア崩壊後、一家が逃げる間もなく捕らえられたというのも理由の一つだったかもしれない。
「……他にも気になることはたくさんあるけど、これが一番驚いたこと。アイリスは未来が視えている。たぶん、たまに。だから、あの子の人生をかけた選択が間違っていることは少ない」
おばあちゃんは言い切ると、お茶を一口飲んだ。しばらく目を閉じて考え込んでいるようだったが、ややあってから口を開いた。
「あの子が失敗したのは、生涯の夫となる男が不慮の事故で命を落としたこと。それ以外、大事な選択を間違えたことはない。トム君を育てると決めたのも、チェコの子の里親になろうとしていることも……もしかしたら……なにかしらの未来が視えていたのかもしれないわ」
「そんな……ありえないよ。未来が視える、なんて」
トムの否定する声は弱々しかった。
指摘されてみたら、アイリスの行動には不自然なところが多々あった。一緒に暮らしていたから、それが当然のように思えてしまったが、一般的な視点から改めて見ると変と断言できる。だからこそ、アイリスに隠し事をされていたかもしれない事実に動揺を隠せなかった。
「だけどね、アイリスがトム君のことを愛してる事実だけは忘れないであげて」
おばあちゃんは、いままで以上に優しく言った。
「トム君のことを想って、秘密にしていると思うのよ。だから、アイリスがそのことを話したい気持ちになるまで、心のうちにしまっておいてあげて。これは、おばあちゃんとの約束」
おばあちゃんは諭すような柔らかい口調で言った。おばあちゃんの爛々と悪戯っぽく輝く青い眼は、どこまでもアイリスとそっくりで、自然と頷いてしまっていた。
「……うん」
アイリスが黙っていたいことなら、自分も知らないふりをしよう。
そうしたら、いつか――ふとしたきっかけに教えてくれるかもしれない。
「アイリスは隠し事をすることもあるけど、僕に嘘をついたことは一度もないんだ」
「そうだとも」
おばあちゃんはそう言うと、ケーキを勧めてきた。
トムはケーキに齧り付き、やっと笑うことができた。
※
帰りの汽車に飛び乗り、ロンドンを目指す。
がらんとしたコンパートメントの席に座り、夜のとばりが降り始める風景を眺めていた。
「ドンキー、ありがとう」
誰もいない席に向かって、トムは話しかけた。すると、なにもないはずの空間から声が返って来た。
「アルファード坊ちゃまの命令ですので」
「それでも、ここまで連れて来てくれてありがとう。あとは、僕に見つからないように時間になるまで隠れて、僕とドンキーが姿くらましをした段階で部屋に戻ればいいんだよね」
「その通りでございます」
ドンキーはそう言ったあと、ふと思い出したように教えてくれた。
「そういえば、トム様。トム様のご自宅は凄くなっておられますね」
「隣近所と変わらないさ」
「違います。ドンキーは分かります。あれほどまでに見事な防衛魔法は、ブラック家と比較しても劣りません。とても優秀な魔法使いが施したものだと推察致します」
「防衛魔法?」
トムは怪訝そうに眉をひそめた。
「初耳だよ」
「玄関には何重にも魔法の鍵がかけられておられました。他にも至る所に……トム様のお母様はまったく気づいていない様子でしたが」
「アイリスに魔法は使えないから」
そうは言ったが、これはどういうことだろう?
アイリスは命を狙われていて、誰かが守っているのだろうか? そもそも、どうして一般的なマグルの命を狙う人がいるのだろうか? と、ここまで考えたとき、トムはおばあちゃんの言葉を思い出した。
「……アイリスの特殊能力を狙っている人がいるのか?」
未来を視ることができる。
いくらでも悪用できる。アイリスは優しいし、抜けているところがあるから、ころっと騙されて悪い奴のために力を使いかねない。
「どうしたらいい? 僕はどうすることが最善だ?」
自分に言い聞かせるように、言葉が口から零れる。
だけど、トムの問いかけに返事をする声はない。
窓の外はみるみる間に暗くなり、車輪の音だけが異様なまでに大きく耳につく。
まるで、トムの揺れ動く心を表しているかのようだった。