●1939年 9月2日
昨日の朝だった。
朝食を作りながら、いつもの癖でラジオを付ける。瞬間、ラジオから流れてきた緊迫した音声に、寝起きのぼんやりした浮いた気持ちは一気に吹き飛ばされた。
ドイツが、ポーランドの守備隊を攻撃した。
いよいよ起きてしまった。
足の震えが止まらなくて、ラジオの音声が異様なくらい反響して聞こえてくる。うまく聞き取れないけど、そちらに耳を傾けなければならないほど惹きつけられ、怖くて怖くてたまらなかった。
「アイリス! ハムが焦げてるよ!」
リビングに降りてきたトムの金切り声で、私はようやく我に返った。
「あ、ありがとう!」
黒く焦げたハムを救出し、朝食作りを再開する。
「アイリス、なにかあった? 顔色が悪いよ」
「……トム、ラジオの音量を大きくして」
「別に構わないけど」
トムは釈然としない態度だったが、彼もニュースを耳にしたのだろう。それから、ぴたりとなにも話さなくなった。ラジオの厳しい声、朝食を準備する音、不安げなエンラクの鳴き声だけが、しばらくリビングに響いた。
「……早く食べなさい。なにが起きるか分からないから」
すぐに空襲とはならないだろうけど、さっさと準備するに越したことはない。
「アイリス。あのさ……ヴィクトル、大丈夫?」
「分からない」
チェコスロバキアは、ドイツに実効支配されている。いままでは、英国と直接敵対していなかったから、救出することができた。だけど、英国がドイツに宣戦布告もしくはドイツから宣戦布告された瞬間、救出活動は不可能となる。せめて、汽車がオランダまで来ることができれば……と、祈ることしかできなかった。
「トム、落ち着いて聞いて欲しいの」
ナイフとフォークを置いたとき、いつも以上にかちゃりと音が鳴った。そのことで、私はみっともないくらい手が震えていたことに気づいた。
「……アイリス?」
「今後、何が起きるか分からない。もしかしたら、ドイツ軍がロンドンを攻撃するようなことが起きるかもしれない。ホグワーツにいる間は大丈夫だと思うけど、夏休みとか休暇中、おばあちゃんの家に避難することもあるかもしれないわ」
だから、どうしても必要な荷物や宝物は、ホグワーツに持っていくか、避難用の鞄を別途用意するかして欲しい。9時には家を出ないといけないから、時間は短いけど――と、説明を続ける。
トムは心配そうに聞いていたが、話が進むにつれて眉間に皺が寄っていく。
「アイリスも避難するんだよね?」
「私は仕事があるから。そんなこと起きないかもしれないけど、念のためよ」
「嘘だ!」
トムはいまにも泣き出しそうな顔で叫んだ。
「アイリスがこんなことを言うときは、だいたい本当に起きるんだ! アイリスもすぐに避難しなきゃ駄目だよ! エンラクも! それに……ヴィクトルは!? ヴィクトルはロンドンに来れるんだよね!?」
「まだ分からない」
第二次世界大戦、その始まりは、ドイツのポーランド侵攻。
それから、数か月にオランダ・ベルギー・ルクセンブルク・フランスが一瞬で陥落する。それから、ほどなくしてロンドンに空襲が始まる。
その程度の知識しかないのだ。ラジオや新聞の情報とつたない自分の知識を組み合わせ、まもなく訪れる未来を推察することしかできない。
「とにかく、ホグワーツにいれば安全だから。ね、急いで食べて準備してきなさい」
トムをなんとか宥め、キングズクロス駅まで送った。家を出ると、ナティが待ってくれていて、一緒に駅へと向かう。ナティの笑顔は終始強張っていたが、その理由は9と4分の3番線について明らかになった。
保護者たちの顔色が一様に暗かった。子どもたちと強いハグを交わし、涙をざめざめと流している人も多々見受けられる。
私はナティに囁きかけた。
「……マグルの世界で、ドイツとポーランドが戦争状態に入ったけど、魔法界も似たようなことが起きているの?」
「……そうね」
彼女は硬い声で答えた。
「グリンデルバルドって悪い魔法使いがいて、宣戦布告をしたの。魔法省大臣がグリンデルバルドに『考え直せ、いまからでも兵を引けば敵対しない』って説得しているみたいだけど、たぶん難しい」
「ホグワーツは安全よね?」
「安全よ!!」
ナティはきっぱりと言い放つ。先ほどまでとは打って変わり、自信に満ちあふれた強い声色だった。
「グリンデルバルドが一番恐れている人物、それがアルバス・ダンブルドアよ。ダンブルドアがいる限り、ホグワーツは絶対に安全だわ!」
ナティの声がホームに響き、ちょっとだけ緊迫していた空気が緩むのを肌で感じた。
しかしながら、トムは胡散臭そうな態度を崩さなかった。
「ダンブルドア教授が凄いことは知っているけど、そこまで?」
「アルバスは国際魔法使い連盟の指導者に選ばれたこともあるのよ。次期指導者として名乗りを上げていなかったのにね」
ナティはちょっとだけ胸を張った。
「麒麟っていう魔法生物がいるんだ。魔法界にはね、麒麟が指導者にふさわしい魔法使いを選ぶという伝統があるの」
「麒麟には人の本質を見抜く力があるから?」
「その通り!」
彼女は嬉しそうに頷きながら、話を続けた。
「麒麟はアルバスを選んだの。一切迷わずに、まっすぐ選んだ。だけど、アルバスは辞退し、サントスが指導者になった。グリンデルバルドは卑怯な手を使って、自分が指導者になろうと画策したけど、麒麟に見向きもされなかった……有名な話よ」
「……その話、ニュートから聞いたことあるかもしれない」
「そう! ニュートが麒麟を指導者を選定する場所まで運んだのよ。正確には、ニュートと仲間たちがね」
……この話を書きながら思い出したけど、そういえば、ニュートとはあまり会えていない。また、ダンブルドアの命令で暗躍させられているのだろうか……?
話を戻そう。
トムはナティの話を聞き、しばらく考え込むように目を伏せていた。だが、背後で汽笛が鳴ると、弾かれたように顔を上げる。
「僕、行かなくちゃ!」
「トム」
私はトムを抱きしめた。
こうして背中に手を回し、思いっきり抱きしめたのは、いつ以来だろう? 最初に会った頃、背丈も小さくて、折れてしまいそうなほど細かったのに、ほどよく筋肉がついた硬い身体になっていた。気がつけば、目線は同じくらいになっている。
私の小さなトム。可愛いトム。随分成長したものだ……と思いながら、強く抱きしめ続けた。
「いってらっしゃい。身体には気をつけて」
「アイリスもね。……そろそろ離して。乗り遅れる」
トムは早口で言った。
私が手を離すと、浮遊魔法でトランクを運び上げる。そのまま、そそくさと汽車に乗り込んでしまった。私の手だけが名残惜しそうに、宙を彷徨っている。私は拳をぎゅっと握りしめると、緩やかに開いた手を高く掲げた。
「トム! 勉強もヴァイオリンも頑張るのは良いことだけど、身体が一番だからね! くれぐれも危ないことはしないように!!」
そう叫んだけど、トムの耳に届いたか定かではない。
汽車はあっという間にホームから離れ、遠くへと去ってしまった。汽笛や蒸気、車輪の音がすっかり消え去ったホームには、すすり泣く声だけが残っている。
「帰ろうか」
ナティが言ったのか、私が言ったのか、そのあたりは覚えていない。
気がつくと、家路についていた。互いに無言だった。自宅に帰ると、ラジオをつけて耳を傾ける。なにが起きたのか、世界はどのように対応しているのか。
そのあと、今日になってから、ジョナサンの父に電話した。
ただ、やはりというべきか……こちらはなかなか動く気にならないようだ。
「すぐにでも、ジョナサン君をフランスから助け出さないといけません」
そう電話したのに、受話器の向こうの声は悠長に構えていた。
『まだ、始まったばかりではないですか。リドルさんは心配し過ぎですよ』
「心配しますよ。マジノ線があるとはいえ、イギリスよりフランスの方が先に戦場になる可能性が高いのでは?」
『そうかもしれませんが、しばらく様子をみましょう。なに、すぐに終わりますよ』
どうして、ここまで楽観視できるのだろう?
気がつくと、私は声を荒らげてしまった。
「すぐ終わる? 根拠は?」
『なに、ポーランドを占領するだけですみますよ』
「……我が国とフランスと結んだ協定を破り、チェコスロバキアを占領したのに?」
『では、リドルさん。ドイツが本気でフランスを占領できると? ドイツがフランスを攻撃してから、こちらに呼び寄せても遅くはない』
「……後悔しますよ。絶対に後悔します」
なんだか、この人と話していると堂々巡りになってしまう。
実際にフランスが占領されてからでは……いや、この人は最初から前妻との間に育んだ息子を助けるつもりはないのか。
「約束、破られるのですね」
『いや、そういうわけではない。ただ、あなたは性急すぎると――』
『ちょっとー、いつまで話してるの? まさか、奥さんからー? 出産で里帰りしてるんじゃなかったのー?』
受話器の奥から、女性の曇った声が聞こえてくる。一瞬、ホワイト夫人だと思ったが、それにしてはおかしい。私が怪しんでいると、ホワイト氏は焦ったように何か言い返していた。
『い、いや、知り合いだよ。――あー、リドルさん。実はいま取り込み中でね。忙しくて手が離せないんだ。また、その……後日、かけなおすよ』
一方的に言われ、がちゃんと切られてしまう。
……あいつ、ホワイト夫人の留守中に他の女を連れ込んでたな。なんて奴! こっそり、ホワイト夫人にリークすると脅して、こちらの要求を通してもいいんだぞ!?
とりあえず、この件は一週間保留。
一週間の戦況を見て、今後の対策を決める。場合によっては、脅し作戦決行。だけど、これは最終手段。あまり人を脅迫するとかしたくないし、もっと穏便にできる方法を探そう。
●1939年 9月3日
リバプール・ストリート駅に行った。
私が待っている汽車は、永遠に入ってこない。
ヴィクトルたち、260人の子どもたちを乗せた汽車は、チェコスロバキアを出国することが叶わなかった。せめて1日、出発が早ければ……いや、それだと、ドイツ国内で止められていた。その方が危険だ。だから、2日前に出発し、オランダまで到着していたら……いや、もうどうすることもできない。
駅に行くと、N.Wもいた。
彼も汽車の入ってこないプラットホームを眺めている。
「678人しか助けることができなかった」
彼はそう呟いていた。
「678人も助けました」
そう返すと、彼は強張った笑顔を浮かべていた。
寄付や手伝いが、どこまで助けになったのか分からない。それでも、678人の子どもたちが英国に渡ることができた。0よりいい。ずっといい……そうでも思わないと、やってられない。
彼は証券会社の仕事を辞め、空軍に志願するそうだ。
私は止めたけど、聞き入れてもらえなかった……でも、そうだよね。ここで忠告を聞き入れる人なら、危険を冒してまで活動をしない。
「ご武運を」
それしか言えなかった。
二度と連絡を取ることはないだろう。……連絡をとって、嫌な現実に直面するのは辛いから。
明日になったら、トムに手紙を書こう。
彼も心配しているだろうから……フクロウは、ナティに借りることにする。ナティには、すでに了解をとっている。
本当は今日のうちにでも書かないといけないのだろうけど、どうしても筆が止まってしまう。さっき、ビールを一瓶空けてしまったからかもしれない。頭が回らない。アルコールを過剰に摂取したせいで、最適な伝え方が分からない。というか、そういうことにしておきたい。
トムのことだ。
どうにかして、ヴィクトルを出国させる方法がないのか探るだろう。だけど、それは無理だ。こちらから、あちらに連絡を取る手段はない。下手に連絡を取ろうとしたら、スパイとして殺されてしまう。
嘘をつく?
汽車が英国に向かうことを許可されたら、ヴィクトルがこちらに来る――と。
いや、それは駄目だ。トムに嘘をつきたくない。余計な希望を持たせるのも駄目だ。淡々と事実を伝えるべき……これでいいのか? 私は本当にこれでいいのか?
私は無力だ。なにもできない。
史実を知っていたところで、誰も助けることなどできない。
もし、私の知識を持つ人が、私よりずっとずっと頭の良い人だったら……遥かに上手く立ち回れたのだろう。ちくしょう、悔しい……いや、悔やむ暇があったら、愚鈍な頭を動かそう。
今回は失敗した。
次は失敗しない。ジョナサンは助けたい。
だけど、なにも良案が思いつかない。
いよいよ駄目になったら、禁じ手――ダンブルドアに頼るとするけど、マグルの問題に介入してくれるかどうか微妙なところ。ダンブルドアの前に、ニュートの方が助けてくれるような気もする。彼にはマグルの親友がいるし、トムの気持ちも理解してくれるから……って、それも駄目か。いまは、グリンデルバルドが本格的に戦争をしかけてきている。こんなときに話を持ちかけても、彼らの負担になるだけだ。
私は、どうしたらいいの?
●1939年 9月10日
トムからの返信。
硬い文面とわずかに震えた文字からは、かなりショックを受けた様子が伝わってくる。
『ヴィクトルに会える日を願ってるけど、それも叶わない?』
手紙の末尾に綴られた一文は、私の心を締め付けた。
返信に嘘をつくわけにはいかないけど、希望的観測も書く気には到底なれず、『チェコスロバキアが本当の自由を取り戻すときまで、ヴィクトルが生き延びることができれば』と返すことにする。
ヴァイオリンのレッスンは、しばらくお休みにさせてもらった。だから、今月はトムが帰ってこない。寂しいけど、これは仕方ない話だ。ヴァイオリンの先生も理解を示してくれた。
そもそも、マグルの間でも「ロンドンが空襲されるかもしれない」という噂が広まっている。あんな大規模な防空訓練を行った直後の開戦だから、誰であっても心配することだろう。
現に街を歩けば、我が子を郊外に逃がそうとの話題が嫌でも耳に入ってきた。
いま、この日記を書いている間にも、領空を侵犯され、ドイツ軍機が飛来するかもしれない。
そんな状況のロンドンに――トムを連れて来れるわけがなかった。
ただ、ずっとレッスンを中断するのもな……大都市とか軍事工場の少ない地域に住まう高名な先生を紹介してもらおうかな。
それにしても、ネヴィル・チェンバレンはいつ退陣するのだろう?
チャーチルが入閣したから、そろそろ交代だと思うけど……分からない。
あくまで私の勘だけど、ロンドンが空襲されたとき、チェンバレンが首相だったら……すぐに降伏しそうな怪しさがある。だから、チャーチルが首相に就任した以降に、ロンドン空襲が幕を開ける気がするのだ。
だって、チェンバレンを悪く言うつもりはないけど、ドイツ相手にミュンヘン協定なんて結ぶような人だしさ……。
あくまで、目安として頭の片隅に入れておこう。
※
●1939年 9月×日 〈電報〉
ペネロープ・アンダーソンからアイリス・リドル宛
ヘレン・ウォルパート、危篤。
すぐに来られたし。 ペネロープ・アンダーソン
●1939年 9月×日
いま、汽車のなかで日記を書いている。
日記でも書いて、気持ちを落ち着けないとやってられない。
おばあちゃんが倒れた。
詳細は分からない。お隣さんのペネロープさんは電話がうまく使えない方だったから、うまく聞き取れなくて……ナティが付き添ってくれるけど、彼女は険しい顔で窓の外を睨んでいる。なにかに警戒しているみたい……。
ホグワーツには、ナティのフクロウを飛ばした。
おばあちゃんの家に着く頃には、手紙が届くことだろう。
覚悟はできている。
だけど、本音を言うと……かなり怖い。嫌だな、怖いな、不安だな……こんな時代もあいまって、ネガティブな感情ばかりが募っていく。
私も窓の外に目を向ける。
世界大戦の幕開けとか、空襲の脅威とか、おばあちゃんに迫りくる死の影とか、そんなこと関係ないとばかりに、のどかな田園風景が広がっていた。羊が群れを成し、なにも考えてなさそうに草を食べている。青々とした空には、いつのまにか虹がかかっていた。
雨なんて、降っていたっけ?
そう思ったとき、服の袖や裾、被っていた帽子が濡れていることに気がついた。雨に気づかないほど、私は動転していたらしい。そこに気づくと、私は頬を両手でパンっと叩いていた。
「どうしたの?」
ナティが弾かれたようにこちらを見たので、いつもの笑顔を浮かべてみせた。
「らしくないな、って思ったのよ。落ち込むのはおしまいってね」
ナティの驚く顔を見ていたら、萎みかけてた活力が蘇ってきた。
……めそめそするのは終わり!
嘆き悲しむのもおしまい!
顔を上げて、この時代を生き抜いてやる。
そのためにも、まずは……おばあちゃんに会わないと。
きっと、間に合うと信じて。