※後書きに変更があります。
秘密の地下聖堂。
「闇の魔術に対する防衛術」の教室からほど近い場所にあるが、その場所を知る者は少ない。
なぜなら、サラザール・スリザリンが子孫のために内緒で制作した隠し部屋の一つ。
廊下の端にひっそりと置かれた開かずのキャビネットに、魔法の暗号を送信することで、地下聖堂への道が開かれるのだ。
トムがこの部屋の存在を知ったのは、新学期が始まった最初の休日だった。
ダンブルドアから「夜8時、ひとりでこの場所に来るように」と記された手紙が届き、怪しみながらも従ったところ、この場所を教えてくれたのである。
地下聖堂とは呼ばれているが、イエスや聖母の像はなく、ウィスキーが詰められてそうな空樽や何年も使われていない棚や壊れた鎧、道具などが隅に押し込まれ、どれもこれも埃をかぶっていた。それ以外は特筆するべきものはない質素な空間だったが、ちょっとした魔法生物を飼育できる程度には広い。
「ダンブルドア教授。どうして、僕にこの場所を?」
トムは興奮を隠しきれなかった。
ホグワーツには多くの謎が隠されている。7年通った上級生ですら、いつも素通りしているタペストリーの裏に隠し通路があることを知らなかったり、入学したばかりの1年生が校庭のガーゴイルの謎を偶然解き明かしたりと、創立から1000年以上経過しても未知未開の謎が散らばっているのだ。
トムも謎を解き明かしてみたい気持ちはあるのだが、一方、ヴァイオリンの練習やら杖十字会の決闘やら日々の予習復習など地味にやることがたまり、そこまで手が回らないのが現状である。
「オミニス・ゴーントは知っているだろう? 彼と話す機会があってね、『トムになら、この場所を教えていい』と言っていたんだよ。スリザリンの血を引く者として、君ならこの場所を有意義に使えるはずだ」
ダンブルドアの眼がきらっと光った。
「オミニスと友人たちは、ゴブストーンをしたそうだ。私も学生のとき、何度か招かれたことがある。先輩たちと一緒に、ハニーデュークスのお菓子をご馳走になったよ」
「つまり、ここが噂の『秘密の部屋』ですか?」
トムも目を輝かせて尋ねる。
「アブラクサス・マルフォイ先輩から聞きました。サラザール・スリザリンが密かに制作した『秘密の部屋』があると」
「秘密の部屋は秘密の部屋。地下聖堂は地下聖堂だ」
しかし、ダンブルドアは静かに首を振った。
「私も気になっているが、オミニスは頑なに教えてくれない。ただ『秘密の部屋は実在する』とだけ教えてもらったよ。この城のどこかに」
「そうですか……」
トムはわずかに肩を落とした。
ホグワーツでの生活も2年目になり、サラザール・スリザリンの印象は入学のときよりかは好転していた。最初が最低最悪のこれ以上下はない評価だっただけに、あとは伸びていく一方と表現してもよいかもしれない。スリザリン寮の上級生たちから彼の偉大さを聞かされるにつれて、わずかながら興味が湧いてきていた。もっとも、マグル生まれを排除しようとしたくだりだけは、理解したくないし、納得もしない。だが、彼が他の偉大な3人の目を誤魔化し、秘密の空間を造り出した手腕は見事だと評価していた。トム自身、魔法使いの存在を知り、ニュートの家に通い始めた頃、自分の部屋のクローゼットに秘密の空間を再現しようとしたが、人が入れる空間にならなかったり、試しに入れた棒が粉々になってしまったりと、幾度となく頓挫した経験があるだけに、スリザリンの成しえたことは間違いなく偉業であると思っていた。
だから、在学中にサラザール・スリザリンの「秘密の部屋」を開いてみたい。
ホグワーツに通い始めて、抱き始めた夢のひとつである。
「ですが、存在はするということですね」
「オミニスの言うことを信じるなら。さて、私は退散するとしよう。上手に使いなさい」
ダンブルドアはそれだけ言うと、足早に去って行ってしまった。
その日から「秘密の地下聖堂」は「死喰い人」の練習部屋になった。
三本の箒での演奏会以後、「死喰い人」の人気がホグワーツ中に広まっていた。どこで練習しても、必ず音が響くせいで誰かしらに見つかり、気が付くと野次馬が群れているのだ。
けれど、ここなら練習に集中できるし、ちょっとした雑談に花を咲かせることもできる。特に、ロジエールはこの場所が気に入ったらしい。
「私、あまり人前で歌うのは好きではなくってよ」
彼女は、いつのまにか運び込まれていたお気に入りの椅子に腰かけながら言った。しかし、彼女の小さな手には、今朝届いたばかりの新譜が握られており、さきほどから声の調子を整えながら唄う練習をしていた。
そんな彼女を見て、ドロホフが怪訝そうな視線を向ける。
「……あら、ドロホフ。『好きではないなら、何故ここにいるのか』とでも言いたそうな顔をしてるわね」
ロジエールはふんっと鼻を鳴らした。
「愚問だわ。練習風景を不特定多数の人に見られるのが嫌なの。完璧でもない歌声を聞かれて、『あの人は下手だ』と勘違いされたら困るでしょう?」
「えー、それって、俺たちなら聞かれてもいいってこと?」
アルファードがにやにやと茶化すように笑うと、ロジエールは返事の代わりに冷たく貫くような視線を向けるのだった。
「冗談だってば……冗談……」
アルファードは引きつった顔で言うと、自分も新譜に目を落とした。
「しかし、いつ見ても難しいな……その分、凄く良い曲だけど。なあ、トム。この友人、どこに住んでるんだっけ?」
「パリだよ」
トムは練習の手を止め、短く答えた。
「もともとはロンドンに住んでいたけど、父親の再婚のごたごたで、パリに住む祖父母と養子縁組したんだ」
「パリか……パリなら行けなくもないな」
「え?」
トムは話を切り上げ、楽譜に集中しようと思ったが、聞き捨てならない言葉を耳にする。思わず、弾かれたように顔を上げ、まじまじとアルファードを見てしまった。
「本気で言ってるのか? パリだぞ? 船と汽車を乗り継がないといけないじゃないか。簡単に行けない」
「トム、俺たちが魔法使いだってことを忘れたのか?」
アルファードは軽い調子で言った。
「『移動キー』があれば、『姿くらまし』できない距離でも一気に移動できるじゃないか。もちろん、そのあたりの代金を節約して、マグルの交通手段を使う魔法使いもいるけどね。アメリカならともかく、パリくらいなら『移動キー』を使った方が安上がりだ」
「なるほど……その手があったな」
トムは頷きながら、ふと――気になったことを口にする。
「『姿くらまし』は長距離移動に使えないの?」
「おすすめはできないね。距離が長くなればなるほど、危険が伴うんだ。しかも、国境付近には『姿くらまし』を禁じる魔法がかけられてるって聞いたことがある」
「特に、いまは戦時中ですわ」
ロジエールがアルファードの説明に被せるように話しかけてくる。
「少なくとも、ドーバー海峡には、『姿くらまし』を禁止する魔法がかけられているとみて間違いなくってよ。グリンデルバルドの手先が『姿くらまし』で入国してきたら困るでしょう?」
「つまり、ロジエール。いまドーバー海峡を渡りたいのであれば、ヒッポグリフや箒を使って飛ぶしかないってこと?」
「おそらくは」
ここで、トムはニュートのことが心配になった。
最近、ニュートからの手紙の返信が来ない。一度だけ、ニュートではなく、助手のバンティから返事が届いた。「ニュートは仕事でしばらく帰らない」とだけ書かれた手紙だ。てっきり、魔法生物の保護の仕事かと思っていたが、もしかしたら……戦争に関係しているのかもしれない。ドーバー海峡を渡るためのヒッポグリフの手配とか、いまのトムには考えもできない大きな戦火の渦に身を投じているのか……。
「……」
トムは黙り込んでしまった。
それを見て、アルファードがぱちんっと手を叩く。
「ってことで、ジョナサンに会いに行こう!」
「いや、だけど……」
「なに、『移動キー』代は気にしなくていい。それから、パリにもブラック家の別宅があるからね。宿代も心配いらないさ」
アルファードが明るく言うが、トムには抵抗があった。
ジョナサンはマグルである。
誰も口にしないが、誰もが知っていることだった。
アルファードはともかく、ドロホフやロジエールは良い顔をしないだろう。そう思っていたが、不思議なことに二人とも乗り気のように見えた。ドロホフは明るい表情をしていたし、ロジエールも手帳で予定を確認していた。
トムは二人の様子を見たあと、どこか戸惑いがちに言葉を発した。
「僕は行きたいさ。彼に会いたいよ。だけど、本当に君たちはいいのかい? だって、ジョナサンは、僕の親友だけど……」
「リドル。あなた、私たちを馬鹿にしているのかしら?」
ロジエールがぴしゃりと言い放った。
「彼も『死喰い人』の大事な身内ですわ。彼の出自が出自でも、音楽においては平等なのでしょう?」
ロジエールが言うと、ドロホフが賛同するように深々と頷く。
トムは信じられないものを見るような目で、二人を――それから、アルファードのきらきらと輝く笑顔を見つめた。
「君たち……」
「ってことで、決まったな。今年のクリスマス休暇は、みんなでパリへ旅行だ!」
こうして、パリへの旅行が決まった。
ジョナサンに「君の家に遊びに行ってもいいかい?」と手紙を書くと、すぐに「僕も会いたい!」との返事が届き、トントン拍子に計画が進んでいく。
ヘレンの死で物思いに耽ることもあったが、そこから逃避するようにパリ旅行計画に没頭した。
そんなときだった。
アイリスから緊張感の漂う眼差しを向けられたのは。
「トム。ジョナサン君の新しい両親に渡してほしい手紙があるの」
アイリスから薄い封筒を受け取った。
ヘレンの棺が埋められたのを見届けた日の夕食後、デザートのトライフルでお腹が膨れた頃合いだった。
「この手紙なら、普通に送ればいいじゃないか」
「トムの手から渡してほしいの」
アイリスは努めて柔らかい声を出そうとしている。緊張をほぐすように、一瞬だけ息を吸い込んでから優しい声を出すとき――それは、アイリスが考え抜いた言葉を発するときだ。そのことに気づいたとき、トムは受け取った手紙が一気に重くなった。
「内容は?」
「ジョナサン君と一緒に、イギリスに引っ越しませんかって手紙よ」
「……本気?」
トムは眉を寄せた。
「ロンドン、空襲されるかもしれないんだよ? あまり言いたくないけどさ、危険じゃない?」
「このあたりなら安全でしょ? ひとまず、この家に越してから……他の家を探すこともできるわ。それに、彼らが来るって分かれば、事前に家を探すことができるでしょ?」
「……パリがロンドンより危険だってこと?」
トムが声を潜めて聞くと、アイリスは同意する。
「あの国は地続きよ。マジノ線って防衛ラインはあるけど、ベルギー側から侵入されたら守り切れない。パリが陥落したら……ジョナサン君はイギリスに逃げられなくなる」
「イギリスに向かう飛行機も船も出ないから?」
「そうね。その場合、スイス経由で逃げることになるけど、山越えになるからおすすめはできないわ。逃げるならいまのうち、これが最後の機会。……そうでなくても、ドイツとの戦いが本格的になってきたら、ドーバー海峡自体を封鎖することになるだろうし、気軽に里帰りすることもできないわ」
アイリスの話は、ちょっと滑稽だった。
トムには、フランスがそんなあっさりと負けるとは思えないのだ。それに、フランスが危ないのであれば、イギリスだって危険である。たしかに、陸続きではなく、ドーバー海峡で隔てられているが、飛行機を使えば溝を埋めることができるのだ。フランスと同じくらい、イギリスだって逃げなくてはならない危険が迫っているのだ。
それなのに、どうして――アイリスはどこまでも真剣な目で言うのだろう?
そう考えたとき、トムの脳裏に死んだばかりのヘレンの声が蘇った。
「……アイリス。本気なんだね」
アイリスは、未来が視えているのかもしれない。
このままパリに留まることが、空襲の危険にさらされているロンドンよりも遥かに危険だという未来が――。
「ごめんなさい。こんなこと、トムに頼むのは心苦しいのだけど……お願いできるかしら? 彼らには、いまのうちにイギリスに渡って欲しいの」
「ちゃんと渡すさ。だって、アイリスの頼みだからね」
トムは手紙をポケットにしまうと、ぽんっと上から叩いてみせた。
僕に任せて、と自信に満ちた表情で。