パリは美しい街だ。
トムがモンマルトルの丘に降り立ち、まず最初に感じたことである。
巨大な聖堂を背後に丘から見下ろすパリの街は、冬の柔らかな日差しに照らされて輝いていた。石造りの塀に頬杖をつきながら、眼下に広がる白い街並みをずっと眺めていたい。
「……よし」
だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
トムは鞄を握りなおすと、地図を片手に歩き出した。
アルファードたち、死喰い人の面々はこの場にはいない。
正確には、あとで合流することになっている。
トムは一人、マグルの街を歩いている。地図を頼りに、待ち合わせの場所へと進んでいく。聖堂を回るように歩き、長い長い階段を下りて行くと、賑やかな音楽が下の方から響いていることに気づいた。トムが音の方に目を向ければ、長い長い長い階段の先――行き止まりのように道を塞ぐ塀のすぐ下で、小さな屋根が回っている。小走りで塀に近づいてみれば、屋根の正体がメリーゴーランドだと判明する。
「メリーゴーランドだ」
トムは塀から身体を乗り出し、そっと下を覗き込む。すると、幼い子どもや若い女性、その恋人と思われる軍人……どの人も笑顔で木馬にまたがっているのが見えた。
何人かの人はメリーゴーランドを囲むようにたたずんでいた。次に乗るのを待ったり、カメラで写真を撮ったり、絵を描いたりと、誰もが思い思いの時間を過ごしている。
そのなかに、1人――ひょろっとした背丈の少年が目に飛び込んできた。ベレー帽を被った少年はきょろきょろと辺りを見渡しながら、小さな楽器ケースを大事そうに抱えている。彼を見た瞬間、トムの強張っていた表情が一気に緩んだ。
「ジョナサン!」
トムが叫ぶと、少年も弾かれたようにこちらを向いた。
「トム! こっちだよ!」
ジョナサンが走り寄ってくる。トムも駆けだしていた。トムはそのまま塀によじ登り、飛び越えようとした――が、すぐに魔法は禁止されていることを思い出す。急いで辺りを見渡し、下へと続く階段を見つけた頃には、すでにジョナサンは階段の半ばまで来ていた。
「ジョナサン。久しぶり!」
トムが駆け寄ると、ジョナサンは肩で息をしながら笑いかけてきた。
「トムも久しぶり! 元気そうでよかったけど……まさか、塀から飛び降りようとしたの?」
「あー、うん」
ジョナサンが俄かに信じられないような目をしていたので、トムは苦笑いで返した。
「ちょっと癖で……あのくらいの高さならなんとかなる」
「飛び降りられるの!? 凄い! それって――っ!」
ジョナサンはますます目を輝かせた。彼は興奮したように何か続けようとしたが、大事なことを思い出したように声を詰まらせる。そのまま声のトーンを落とし、トムにだけ聞こえるほどの囁き声で尋ねてきた。
「もしかして、空を飛ぶ魔法を覚えたの?」
「それはまだ無理。落下速度を軽減する魔法を使って、浮遊時間を伸ばして飛行の疑似体験することは可能だけど……いまはできないよ。学校の外で魔法を使うのは禁止されているんだ」
「そっか……それでも、僕も浮いてみたかったな……」
「卒業したら、そのくらい叶えてやるよ」
トムがとんっと背中を叩けば、ジョナサンはへなっとした笑みを浮かべた。どことなく自信なさげな笑顔とふわふわとした雰囲気は、ロンドンで別れた頃と何も変わっていない。そのあたりは記憶通りの親友だ。トムは内心、安堵の息を零しながらも、やや怪訝そうに顔を上げた。
「それにしても……君、かなり背が伸びたな」
ロンドンで別れた頃は、ここまでの差がなかった。
それなのに、いまでは頭二つ分は違う。トムも背が低いわけではないが、ジョナサンはさらに高い。ロンドンにいた頃より体格もよくなり、自分よりも2つか3つほど年上に見えた。
「引き延ばし呪文でもかけられたのかい?」
「どうだろう……? 僕の周りには、トムしか魔法使いの知り合いがいないから」
ジョナサンはこてんと首を傾け、悩みこんでしまう。
そんな姿を見て、トムは大きく肩を落とした。
「冗談に決まっているだろ。ただ……思ったより背が伸びていて、少し驚いただけさ」
「それを言うなら、僕も驚いたよ。トム、君はフランスでも有名人だよ」
ジョナサンはくすくすと笑いながら歩き始めた。
「手紙でも伝えたけど、君のレコードはかなりの評判なんだ。ほら、そこのレコード店を見て!」
ジョナサンが近くのレコード店に目を向ける。レコード店のショーウィンドウには、トムのレコードが飾られていた。レコードの後ろには、レコーディングしたときに撮った写真とロイヤル・アルバートホールで演奏したときの写真が並べられている。レコード店の前では、何人かの若い女性がトムの写真を指さし、黄色い声を上げていた。
トムはやれやれと首を横に振った。
「だけど、僕がここにいると誰も気づいていない――君以外は」
まさか、トム・リドルがパリにいるとは誰も思わない。
「確かにそうだね」
トムとジョナサンは笑い合うと、一緒にモンマルトルの街を歩き始めた。
パリは賑やかな雰囲気に包まれている。
12月の冷たい風が吹き、誰もがマフラーに顔を埋めて歩いていたが、それでも道行く人々の顔には笑顔が見られ、あちこちにクリスマスの装飾が施されていることも、楽し気な雰囲気に拍車をかける。戦争中とは思えないほど、平穏な空気が漂っていた。
トムは浮つく街並みを横目に見ながら、何気ない口調で尋ねた。
「君の好きな場所はどの辺? おすすめのカフェとかあるの?」
「そうだな……例えば、あそこのクレープ! すっごく美味しいんだよ!」
ジョナサンは店に駆けだしていく。
トムもそのあとを追いかける。出来立てのクレープを購入し、道を歩きながら食べた。ジョナサンが勧めるだけあり、かなり満足できる逸品だった。焼きたてなこともあるが、もっちりとした生地とバターの香りが最高に食欲をそそる。中身のチョコレートも丁度良い甘苦さである。両手よりも大きいクレープなのに、あっというまにペロッと半分食べてしまった。
「美味い! 文句なしに最高だよ!」
「トムに褒めていただけると嬉しいなー!」
ジョナサンは指についたチョコレートをなめながら言った。
「他にもね、たくさん美味しいものがあるんだよ。ただのパンだって美味しいし、マドレーヌにタルト・タタン、それから、クレームブリュレ!」
「クレーム、なに?」
「クレームブリュレだよ。プリンの表面に、焦がしたカラメルがかかっているんだ。それをスプーンで割って食べるんだ!」
彼はうっとりとした口調で言う。
トムは想像するだけで、口が唾で一杯になった。だが、すぐに飲み込み、頭の片隅ではしたないと自分を叱りつける。ちゃんとした食事をしているのに、ここのところお腹が空いてたまらないのだ。いまは、食べ物以外の話をしたい。トムは少し考えたあと、別の話題を振ることにした。
「手紙だと住み心地は良いって書いてあったけど、ちょっと坂が多くないか?」
「慣れると良い街だよ。それに、僕の家はあとちょっと下の方だし、あそこまで上がることは少ないから……っ!」
ジョナサンは坂の下に誰か見つけたのか、急に口を閉ざしてしまった。すぐにトムの手を引っ張って横道に入ろうとしたが、すでに遅かったらしい。
『ジョナタン!』
甲高い声をかけられてしまい、ジョナサンは足を止めた。
彼の視線を辿れば、黒髪の少女が駆けてくるところだった。オリーブ色の肌をした少女は茶色の眼を輝かせながら、ジョナサンを見て、続いてトムに目を向ける。
『ジョナタン、ここでなにをしてるの? 今日は用事があるって聞いていたけど……彼は誰? このあたりでは見かけない顔だけど、あなたの知り合いかしら?』
当然のことだが、彼女はフランス語で話している。
トムは独学でフランス語を学んでいたが、胸を張って「できる」と言えるのは読み書きだけだ。リスニングに関してはまだ十分に習得できておらず、あまり聞きとることができなかった。だが、少女が自分のことを聞いていることだけは分かった。
「ジョナサンの友だち?」
トムが小声で尋ねると、ジョナサンは困ったように眉を寄せている。
「友だちというか……」
『英語? もしかして、ロンドンにいた頃のお友だち? あれ、待って……その顔……嘘でしょ!?』
少女はトムの顔をじっと見つめ、はっと両手で口を覆った。
「トム・リドル!? あなた、ヴァイオリンの神童、トム・リドル!?」
少女はますます目を輝かせると、フランス訛りの英語で話しかけてくる。
トムはジョナサンともっと話したかったが、嫌な顔一つせず、すぐに余所向けの完璧な笑顔を貼り付けることにした。
「神童かどうかは定かではありませんが、トム・リドルです。よろしく、えっと……?」
「本物なの!? あたし、あなたのレコードを毎日聴いています! パリのヴァイオリニストは、あなたの名前をみんな知っているわ! まさか、ジョナタンの友だちだったなんて!」
少女は頬をリンゴのように赤らめながら、スカートについた皺をあたふたと直し出した。ざっと身なりを整えたあと、彼女はパリジェンヌらしく優雅にスカートの裾をつまみあげ、優雅に一礼をした。
「言い忘れてたわ。あたしは、ラシェル。ラシェル・エプシュタイン。ジョナタンの婚約者です」
「そうですか……って、婚約者!?」
トムは仰天した。驚きのあまり、ジョナサンに対して信じられないものでもみるような目を向けてしまう。婚約なんて人生における最大級の重要事項だというのに、手紙には一言も書かれていなかった。まさに、寝耳に水である。
ジョナサンは何も答えない。ただただ恥ずかしそうに顔を真っ赤に火照らせると、そのまま小さく――本当に小さく頷いた。
トムが呆気に取られていると、ラシェルと名乗った少女が興奮した様子で話し始めた。
「半年前よ。
「ラシェル!!」
ジョナサンはラシェルの口を塞ぐように、鋭く叫んでいた。
しかし、トムの耳に届いてしまっていた。
「イギリスが大っ嫌い? どういうことだ?」
『ラシェル、ごめん。またあとで』
ジョナサンは早口のフランス語で告げると、トムの腕を握って走り出した。ラシェルがなにか言う声が背中にかけられたが、ジョナサンは足を止めなかった。トムは珍しくされるがままになっていた。人が一人しか通れないほど狭い道を進み、いくつもの角を曲がり、階段を降り、ゴミ箱や道に散らばった空き瓶を飛び越えたところで、ジョナサンの息が切れた。彼は荒い息を吐きだしながら、ふらふらと走り続ける。
「……ジョナサン、止まろう。あの子はとっくにいなくなってるよ」
トムが呟くと、ようやく彼は足を止め、その場にうずくまった。トムから手を離し、両手を石畳の地面につける。そのまま吐き出してしまうのではないかと思うような勢いだったが、彼の口から出るのは白い息だけだった。
トムは何を言えばいいのか分からなかった。こんな彼を糾弾する気になどなれず、かといって何を言っても、慰めにすらならない。どうすればいいのか悩み、ふと――アイリスの顔が脳裏に過った。アイリスなら、こういうとき黙っている。トムが話す気になるまで、寄り添ってくれる。
「……」
トムはジョナサンの隣に腰を下ろした。頬杖をつき、前だけを見る。石畳の道は少し大きめな路地へと続いていた。家と家の隙間から、人の往来が見えた。誰もこんな細い路地でうずくまる少年を気にもとめず、クリスマスの買い物に勤しんでいる。クリスマスで浮足立つところは、ロンドンもパリも同じだとぼんやり考えていたとき、ジョナサンがぽつりと呟くのだった。
「僕、別に嫌いなわけじゃないんだ」
それは懺悔のような囁きだった。
「イギリスが嫌いなのは、お父さんとお母さんだ」
「君のおじいさんとおばあさんだろ?」
「
丹精込めて育てた娘が異国へ渡り、改宗してまで好きな人と結婚した。ところが、娘は異国の地で裏切られた。病で苦しんで死が迫っているというのに、好きだった相手は別の女性との新しい愛を育み、息子は用済みとばかりに祖父母の元に送り返された。ご丁寧に、養子縁組の書類と一緒に。ジョナサンの祖父母が激怒するのは、至極当然の流れだ。
「いまの父さんたちは……イギリスを信じてないんだ。お母さんを裏切った、イギリス人を。……トムのお母さんがたくさん手紙をくれるけど、すぐに暖炉にくべてるんだ。忌々し気に、ちりぢりに千切りながら」
「アイリスが……手紙を?」
「パリは危ないから、こっちに引っ越してきなさいって。そんなこと、できるわけないじゃないか……」
ジョナサンは吐き捨てるように呟く。
トムは迷いながらも、しかしハッキリと言い切った。
「だけど、フランスはドイツと陸続きだよ。イギリスは海がある。攻めやすさを考えると、パリの方が危険だ」
「そうかもしれない。だけど、僕は……フランスの法的には……子どもなんだ」
ジョナサンは鼻をすすった。泣いてこそなかったが、その横顔はクシャクシャに歪み、涙が頬を流れるのも時間の問題だった。
「本当の大人になりたいな。本当の大人になれば……ちゃんと自分でお金を稼いでさ、イギリスに行くことも止められないのに……いや、大人になっても駄目かな。僕には、ラシェルがいるから」
「一人で来ればいいじゃないか。里帰りでさ。それに、彼女のことは好きではないんだろ?」
「好きかどうかは別問題だよ。婚約者なんだから……彼女を捨てたら、
そう聞かされると、トムは再び黙り込むことしかできなくなってしまった。
しかし、アイリスが手紙まで出して引っ越しを勧めていることから考えると、パリが危険なのは確実である。どうにかして、ジョナサンをパリから逃がさなければならない。
「……イギリスは無理でも、スイスとか、アメリカに亡命をする気にはなれない?」
「スイス? アメリカ?」
「スイスは中立国だから安全だよ。もっと安全なのは、アメリカさ。さすがのドイツも合衆国に攻め込む真似はしない」
イギリスへの亡命が不可能ならば、他のところを勧めるべきである。
肝心なところは、亡命先だ。イギリスが大丈夫でフランスが危険というのであれば、スイスは別として、近隣諸国への亡命は勧めない方がいい。そうなると、候補に挙がるのはアメリカである。イギリスが無事なのに、そこを通り越して、アメリカに攻撃をしかけることなど万が一にもありえない。
「でも、お父さんたち……パリが好きだから……」
「死ぬよりマシだろ? もし……仮にだけど、ドイツがパリを占領したら、君は他の市民よりもかなり危険なんだろう?」
「悪い話はノアの大洪水で十分だよ」
ジョナサンは冗談めいた口調で言ったが、すぐに口元に哀し気な微笑を携えた。
「『これもいつかは過ぎていく』って、格言があるんだ。辛いことがあっても、迫害の嵐が吹き荒れても、いつかは過ぎて歴史のページになっていくって」
「君が歴史のページになって消えるのは嫌だよ!」
トムは強い口調で断言した。
「僕はカーネギーホールでボレロを弾くって決めてるんだ。クラリネットの席は予約済みでね。いまさらになって、キャンセルするなんて言わせないからな」
「……トムは変わらないね」
ここでようやく、ジョナサンの眼に明るい色が戻り始めた。
「スイスにも親戚がいるんだ。いざとなったら、家族でそこへ逃げるから安心して」
「いますぐにでも逃げて欲しいけどな」
「それは無理だよ。ああ、でも……来年、夏のバカンスにみんな一緒にスイスへ行けないか頼む価値はあるかも。スイスに行ってから、良いところだし、亡命手続きできないか頼み込んでみようかな」
「それは名案だ!」
トムはジョナサンに手を差し出した。
「いいか、君は絶対に生き残るんだ」
「トムもね」
ジョナサンも手を握り返す。記憶よりも遥かに力強く、トムも負けじと握り返した。
「さて、そろそろ時間だよ。カシェ街ってところで待ち合わせしてるんだ」
「カシェ街? 聞いたことないけど……」
「ここ」
トムは片手が塞がったまま、鞄から皺だらけになった地図を引っ張り出した。
「魔法使いだけの街さ。ここのところに入口があるらしい」
「へー! テルトル広場の方だ!」
「案内、お願いできる?」
「もちろんだよ!」
ここで二人は手を離した。
そのまま肩を並べながら、カシェ街への入口に向かって歩き始める。
「僕、トム以外の魔法使いに会うのは初めてだよ。気を付けた方がいいことってある?」
「なにも。アルファードもドロホフもロジエールも良い奴らさ。ただ、今日はアルファードの姉さんたちや『死喰い人』のパトロンとかいろんな人がいるから、魔法族ではないってバレないようにした方がいいな」
「それ、気を付けることなんじゃない?」
ジョナサンは不安そうに言ったが、寂しげな声ではなかった。好奇心がうずいているような前向きな声色で、表情もへなっとしたいつもの笑顔に戻っている。
「大丈夫。僕が君の素性をとやかく言わせないから」
トムは親友の横顔を見上げながら、にやっと笑うのだった。
予想以上に長くなってしまったので、前・中・後の三部作とさせていただきます。
※ジョナタンは誤字ではないです。