トム・リドル育成計画!   作:寺町朱穂

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●ライブアライブ(後編)

 

 モンマルトルの街角には、可憐な女性のブロンズ像がある。

 うっすらと微笑みを携えた女性の像は、台座にたおやかに腰をかけていた。パリには多くの像があり、どれもこれも街並みに溶け込み、賑わいに花を添えていた。この像もそのなかの一つだと思われていた――が、実際には違う。

 

「ジョナサン。あそこがカシェ街への入口らしい」

 

 トムはアルファードから受け取ったメモを片手に、像の置かれた階段に向かって歩いていた。近くで見ても美しい像だったが、すっかり日常の一部と化しているのだろう。立ち止まって眺める者はいない。

 

「あんな場所が入口なの?」

 

 ジョナサンは目をぱちぱちと瞬かせる。

 

「魔法の世界への扉って、もっとこう……格言っぽい言葉が刻まれたアーチとか、不思議なトンネルとかじゃないの? もしかして、合言葉が必要なんじゃない? 開けゴマ(オープン・セサミ)みたいな!」

「特になにも」

 

 トムはジョナサンの手を引きながら言った。

 

「壁をすり抜ければいいだけ。魔法の入口って、意外と近くにあるんだよ。みんな気がつかないだけでね」

「へー……でも待って。像の前に警察官が立ってる」

 

 ジョナサンが不安そうに口にする。確かに、警察官がカシェ街への入口を守るように立っていた。

 

「マグルが間違って迷い込まないようにするために、昼間は魔法使いが警官に変身してるんだってさ。アルファードの話だと、魔法使いだって証明すれば大丈夫らしいけど……念のため、手を繋いでおこう」

 

 トムが左手を差し出すと、ジョナサンは力強く握りしめた。警察官に近づけば、彼はじろっとこちらに目線を向けてくる。トムとジョナサンを一瞥すると、わざとらしい咳払いをしてみせる。

 

「……」

 

 トムは黙って右手をポケットに突っ込むと、杖を取り出した。

 すると、無愛想だった警察官は人が変わったように柔らかい笑みを浮かべた。そのまま小さく頷き、半歩横に避ける。

 トムがそのまま進むと、女性の像が流れるような仕草でスカートをめくった。まるで「さあ、ここに隠れなさい」とでも囁くかのように開かれてる。とはいえ、その隙間の場所に入るのは、少なからず勇気がいった。造り物とは理解していても、スカートの裾に隠れていた壁である。しかも、ご丁寧にスカートの裾は細い指でつまみあげられたままだ。

 

「よし、行くぞ!」

 

 さすがに二の足を踏みそうになるが、トムは自分自身に言い聞かせるように呟くと、思い切って壁に突撃した。もちろん、ぶつかることはない。壁の先の世界は、つい数秒前まで立っていた空間と瓜二つな広場が広がっている。家の配置や木々の位置までそっくりだ。しかし、誰が見ても決定的に違うと即断できる。マグルの広場ではカフェテラスの並びの店に大鍋なんて積み重なっていないし、箒が躍るように広場を掃除するはずもない。

 

「……うわぁ……っ!」

 

 当然というべきか、ジョナサンの口からは感嘆の声が零れ落ちていた。眉を上げると目が零れそうになるくらい大きく見開き、見知っていたはずの場所を興奮した面持ちで見つめている。

 

「トム! 箒が動いてるよ! それから、ほら! あの植え込み、じょうろが浮かんでる! 水やりしてる! それから、あそこのカフェ! ウェイターがいないのに、コーヒーのサービスもしてるよ!? ポットがふよふよ浮いて、空いたカップに注いでる! それから、その向こう側! ウサギの耳をした人がいる! 凄い! 凄いよ!!」

 

 ジョナサンはすっかり舞い上がってしまったらしく、トムの袖の裾を引っ張りながら楽しそうに叫んでいた。のんびりとした性格からは想像もできないほど早口でまくしたてているあたり、魔法を好意的に驚いているようだ。

 トムはジョナサンを微笑ましく思った。それと同時に、少しばかり恥ずかしさが芽生える。まるで、ダイアゴン横丁へ最初に足を踏み入れたときの自分を眺めているような気持ちになったのだ。トムは咳ばらいをすると、ジョナサンを嗜めるように言った。

 

「落ち着きなって。しばらくすれば見慣れる光景さ。箒もじょうろもポットもウサギの耳も……ん?」

 

 トムはここまで口にして、ふと違和感を覚えた。

 

「ウサギの耳?」

「ほら、あそこ! 凄いね、いろんな人がいるんだね! ネコの耳をつけた人とかもいるの?」

「いや、そんなことはない。少なくとも、僕は知らない」

 

 トムは腕を組み、ジョナサンの目線を辿る。なるほど、確かにウサギ耳の少女がたたずんでいた。金色の髪から白い耳がぴょんっと立っている。背丈は自分と同じくらいで、どこかで見たことのあるワインレッドのドレスを纏っていた。いや、見たことがあるというよりも――

 

「ロジエール?」

 

 トムは怪訝な顔で呟いた。

 いまの場所からだと横顔しか見えなかったが、意志の強そうな青い瞳やきゅっと硬く結ばれたルージュ色の唇、ほっそりとした顔立ちまで瓜二つだった。ただ、彼女がウサギの耳などつけるはずがない。双子か他人の空似かとも考えたが、見つめれば見つめるほど同一人物としか思えなかった。

 

「知り合い?」

 

 ジョナサンが尋ねてきたので、トムはこくりと頷いた。そのまま、ウサギ耳の彼女に歩み寄り、もう一度――今度はもう少し大きな声で話しかける。

 

「ロジエール。その耳はパリで流行ってるのかい?」

 

 てっきり造り物かと思ったが、トムが声をかけると頭についたウサギ耳がぴょこと動いた。それから、弾かれたようにこちらに顔を向ける。

 

「流行ってるですって!?」

 

 ロジエールは顔を火照らせ、大きな目に羞恥を滲ませていた。

 

「このようないかがわしい耳が流行だと本当に思っていますの!? 私が好き好んで獣の真似をしていると!?」

「いや、そんなわけないと思うけど……だとしたら、どうして?」

 

 トムが困惑していると、くすくす笑いが聞こえてきた。ロジエールのインパクトが強くて気配が薄れていたが、すぐ隣にアルファードとドロホフがいた。ドロホフは反応に困っているように目を逸らしていたが、アルファードは笑いが堪えきれないらしい。

 

「アルファード、これは……?」

「悪戯グッズの試供品だよ」

 

 アルファードは半分笑いながら教えてくれた。

 

「君が来るまで時間があったから、そこのカフェで魔法使いのチェス大会をしてたんだ。優勝者は最下位の奴に対して、あっちの悪戯専門店で見つけた商品を試すってルールを決めてね」

「……ロジエールは最下位だったってことか」

 

 何とも情けない理由である。

 トムがほとほと呆れたのが、ロジエールに伝わったのだろう。彼女はムッとしたように腰に手を当てながら反論してきた。

 

「不本意ですが、規則は規則。嫌だと逃げ回り、恥をさらす方が屈辱ですことよ。非常に不本意ですが!!」

「……アルファード。君さ、他にもっと良いアイテムがあったんじゃないか?」

「いや、これを選んだのは我が愛しの姉様さ」

 

 アルファードの笑みがますます深まった。

 

「姉上様が優勝して、『これなら可愛いでしょう』と選んだのさ。だけど、試供品だからだろうな。ウサギの耳が戻らなくなっちゃってさ……いま、姉様とルクレティア様、それからアブラクサス先輩が店長を詰めてる」

「……それは……」

 

 トムは苦笑いをするしかなかった。

 学生とはいえ、ブラック本家の長女(ルクレティア)アルファードの姉(ヴァルブルガ)マルフォイ家の跡取り息子(アブラクサス)のスリザリン寮が誇る「純血三人衆」に悪戯専門店の店主ごときが太刀打ちできるはずがない。この三人が同行することになったからこそ、アルファードたちがマグルの街に行くことがなくなったわけだが、こういう事態になってしまったときは頼りになる存在である。

 

「あの3人に任せておけば問題ないだろ。それより、ライブの準備をしよう。開演まで時間は少ないけど、ロジエールは出られそう?」

「……この耳でも良ければ」

「耳は問題ない。僕らが響かせるのは音楽だ」

「……英国から来た奇妙なグループだと思われないかしら? しかも、今回の曲……英語よ? フランス人に理解できるかしら?」

「君の歌声なら問題ない。言語が通じなくても、良いものは必ず伝わる」

 

 トムは検知不可能拡大呪文をかけた鞄を漁り、ヴァイオリンケースを引っ張り出しながら言った。

 

「だいたい海を越えて公演するなんて、普通の学生はやらないさ。それに『死喰い人』には僕がいる。君たちはもちろん、僕が失敗なんてするわけないだろ」

 

 にやっと勝ち気な笑いを浮かべると、ロジエールにようやく笑みが戻った。彼女の頬は仄かに朱が差し、機嫌良さそうに口元が綻んでいる。満足げに頷くと、彼女の眼はジョナサンを捉えた。

 

「それで、そちらの方が例の?」

「ジョナサンだ。僕の親友だよ。ジョナサン、ロジエール、アルファード、ドロホフだ」

 

 トムが紹介すると、まっさきにドロホフが動いた。先ほどまで「存在を消したいのでは?」と思われても不思議ではないくらい気配を消していたというのに、誰よりも早くジョナサンの前に立つ。だけど、なにも言わない。ただ目を爛々とギラつかせ、ジョナサンを睨むように見つめていた。

 ジョナサンも戸惑っているらしく、おどおどと不安げに目を彷徨わせる。

 

「え、えっと……よ、よろしくお願いします」

「……会いだがった…」

 

 ドロホフはボソボソと訛りの強い英語で呟いた。とても聞き取りにくく、一言だったが、トムのようにドロホフを良く知る者からすると重みがある言葉だった。ジョナサンは彼と関わる機会は少なかったが、彼の情熱は伝わったらしい。ふにゃっとした笑顔を浮かべ、「僕もだよ」と答えていた。

 

「カッコいい詩だなって思ってたんだ。僕、作曲は少しできるけど、作詞は難しいから」

「なにを言っているんだい! 君の作曲の才能は魔法界一だぜ!?」

 

 ここに口を挟んだのは、アルファードだった。

 

「僕はアルファード。君に触発されて、僕も作曲を始めようかと勉強しているところなんだよ。演奏が終わったら、ちょっと指導してもらえないかな?」

「え、ええ!? 僕なんかでいいの!?」

「他の誰に聞くんだ? 『死喰い人』の作曲担当は君しかいないだろ!」

 

 アルファードは人当たりの良い笑みで、ジョナサンとの距離をぐいぐいと詰めていく。

 ロジエールはその様子を黙って眺めていたが、ジョナサンと目が合った瞬間、親しみを込めるように微笑んでいた。それで十分だった。

 トムはマグルのジョナサンがメンバーに受け入れられたことに対し、安堵の息を零した。

 

 ここから先は、ぶっつけ本番。

 リハーサルなしのライブである。

 トムとジョナサンがマグルの服から黒いローブに着替える時間が必要だった、というのが主だった理由だ。もちろん、演奏する曲の最終打ち合わせくらいはしたが、それ以上のことはしなかった。ジョナサンはやや不安そうな顔を崩さなかったが、アルファードのもっともらしい言い分やトムを含めたメンバーの自信に満ちた態度から徐々に緩和され、演奏直前にはリラックスしたように気の抜けた表情になっていた。

 

 ジョナサンのクラリネットを加えた公演は、大成功のうちに幕を下ろした。

 ロジエールが生やしたウサギの耳にざわめきが起き、何人かは唖然とした顔で舞台を見つめていたが、それも些細なことだった。挨拶も前ぶりもMCもなく、いきなりトムがヴァイオリンを奏で、聴衆の目と耳を奪った。作曲に明るい人が見れば「こんな複雑かつ芸術的な旋律、誰も弾けるわけがない」と呆れそうな譜面を涼し気な表情で弾きこなしてみせる。誰もがヴァイオリンに惹かれていたが、ロジエールが歌いだす。彼女の歌声は透明感があり、どこまでも高く響き渡る。アルファードのピアノも、ドロホフが必死で練習したドラムも、ほぼ飛び入り参加のジョナサンのクラリネットも良い塩梅で花を添えている。

 手拍子はなかった。手拍子など必要なかった。

 誰もが学生の音楽を黙して聞き、最後の一音が虚空へ消えた瞬間、カシェ街を震わせるほどの歓声が沸き上がった。

 

 つまり、大成功である。

 ジョナサンをマグルだと思う人は誰もいないし、学生の余暇バンドとも思わない。

 MCはフランス語が堪能なアルファードが担当し、会場の笑いを誘いながらますます盛り上げてくれる。広場の片隅が、いまでは大人気グループのコンサートホールに変貌を遂げ、熱気と歓喜の渦が立ち込めていた。

 

 そのまま、トムたち死喰い人の面々は近くのお店でささやかな「お疲れさま会」をした。

 さすがにマグルのジョナサンをブラック家の別宅に招くわけにはいかず、近くの店を予約し、あくまでささやかなものにしたかったのだ。だが、店内には昼間の演奏を聴いていた人が多く、気が付くと自分たちの周りには人だかりができていた。トムも「君のファンになった」という人たちに笑顔で対応していたが、だんだんと疲れてくる。トムは隙を見て、店の外に出た。

 

「……ふぅ」

 

 吐く息が白い。

 星も凍るような夜である。つい数秒前までいた暖房の効いた暖かな店内とは大違いだ。だけど、すぐに戻ろうという気にはなれなかった。ただ、もう少し外の澄んだ空気に浸っていたい。そう思いながら、夜空を眺め続ける。冬の大三角形が天上で輝いていた。トムは指で天球儀をなぞるように、三つの星を指さしていく。

 

「あれが、シリウス、プロキオン、ベテルギウス……」

 

 ひとつひとつ声に出しながら、アイリスを思い出した。彼女は夜空に夏や冬の大三角形が輝くのを見つけると、歌うように夜空をなぞるのだ。夏の場合は、そのあと七夕という中国の神話の話になるのがお決まりだった。冬の場合は「シリウスはおお犬座だよ」という話で終わる。夏と冬の情熱の違いは、いったいどこから来るものなのか……アイリスには謎が多い。もうすぐ9年一緒に暮らしているというのに、知らないことだらけである。ただ、これに関しては過去の思い出が関係している気がした。例えるなら、ずっと昔にどこかで耳にした歌声を想起するようなものだ。彼女が夏の大三角を眺めている横顔は、懐かしいような寂しいような色合いで満ちているから――と。

 そんなことを考えているうちに、トムの頬はいつの間にか緩んでいたようだ。そのことに気づいたのは、トムでも死喰い人のメンバーでもなく、知らない男だった。

 

「……随分と楽しそうだな」

 

 その人は、唐突に話しかけてきた。

 トムが声に気づいて振り返ると、黒いコートに身を包んだ壮年の男が立っている。帽子を取り、こちらに微笑みかける仕草、ちょっとした指先や目線ひとつとっても、実に紳士的な空気が伝わってくる。

 

「確か……舞台から見て、右側にいた方ですよね?」

 

 トムは記憶をたどった。

 友だち同士やカップルで観覧していた人が多かっただけあり、男性一人でにこりともせずに観ていた人は強く印象に残っている。この男は公演中、にこりともしなかった。口元に笑みを浮かべていたが、目がまったく笑っていなかった。トムは気のせいかと思いたかったし、他のメンバーは一人の奇妙な観客など注視する余裕などなかった。だからこれまで忘れていたが、こうして会いに来るとはどういう風の吹きまわしだろう?

 

「楽しんでいただけましたか?」

 

 トムは笑みを顔に貼り付け、心中は警戒を強めて対応することにする。

 

「僕たちの公演、あまり楽しまれていないようにお見受けられましたので……なにか気になったところがあれば、教えていただけますでしょうか?」

 

 控えめに微笑みながら、声色は謙虚に下手に出る。

 すると、壮年の男性も静かに微笑んだままこう告げた。

 

「君のヴァイオリンは素晴らしかった。魔法界――いや、この世界を見渡しても、君より右に出るものはいない」

「ありがとうございます。ですが、僕はまだ修行中の身ですよ」

「謙虚なことは良いことだ。君ならまだまだ上を目指せる」

 

 男性の手には、いつのまにか新品のヴァイオリンケースが握られていた。ご丁寧に緑と銀のリボンまで巻かれている。

 

「受け取って欲しい。君の崇拝者からの贈り物として」

「……ありがとうございます」

 

 正直、開けるのは勇気がいった。

 吼えメールのように、開けた瞬間に呪いや魔法が発生する仕組みになっているかもしれない。

 だが、いざとなったら、魔法を使えばいい。学校外での魔法は禁止されているが、生命に関する事件に遭遇した場合は特例として認められるだろう。トムは数秒の間にそう考えると、意を決してケースを開けた。

 

「これは……」

「クレモナ製のヴァイオリンだ」

「まさか、ストラディバリウスですか!?」

 

 トムは自分の声が裏返るのが分かった。

 そう思った瞬間、一気にヴァイオリンの重みがずっしりと増した気がする。これまで、高額なヴァイオリンに触れる機会は多々あったが、ストラディバリウスは初めてだった。

 

「17世紀後半、ニコロ・アマティの逸品だ」

「アマティ! ストラディバリの師匠ですね!」

 

 トムの興奮とは逆に、男はあくまで淡々としていた。あまりにも淡々とした言い方に、トムはわずかに引っ掛かりを覚え、膨れ上がった興奮から冷静さを取り戻す。

 なぜ、この男は自分に高額で貴重なヴァイオリンを渡すのだろう?

 公演中は、あれほどまでに不快そうにしていたのに?

 トムは本能的に受け取ってはいけないと感じ、惜しみながらもケースを閉じることにする。

 

「……ありがたいですが、これは受け取れません。僕には過ぎた名器です」

「私には不必要なものでね。だが、良いものは良い。ならば、ふさわしい使い手の元に渡るべきだ――君のように」

「ありがとうございます」

 

 そう言いながらも、トムはケースを押し付けるように返した。

 

「気持ちだけ受け取っておきます。それに、学生の間は母に買ってもらった相棒で弾き続けると決めているので」

「……なるほど」

 

 男は頷いた。

 不気味な男だった。口は弧を描いているが、双眸はまったく笑っていない。獲物を見据える鷹のように鋭く細め、やがてつまらなそうに息を吐いた。

 

「つまらない少年だ」

「つまらない、とは?」

 

 トムの眉がピクリと動いた。

 

「言葉のままだ。私の理想とする君ならば、謙虚の仮面を被りつつも、贈り物を喜んで受け取ったことだろう。いまの君は、ただの愚かな子どもだ」

 

 男はそう言うと、ヴァイオリンのケースを軽々しく放り投げる。男の手からケースが離れた瞬間、激しい青い炎に包まれた。

 

「お前、なにを考えてるんだ!?」

 

 これには、トムも激昂した。

 考えるよりも先に杖を取り出し、水を放出させる。未成年の魔法使いは学校外で魔法の行使を禁じられていることなんて、すっかり頭から抜けていた。しかしながら、例え頭の片隅で覚えていたとしても、迷わず消火活動に勤しんだことだっただろう。

 なぜなら、目の前で歴史的価値のあるヴァイオリンが燃えているのだ。

 いかに自分の物とならずとも、助けるのは当然のことである。

 トムが魔法の水をかけると、あっという間に鎮火する。そのままケースに飛びつき、慌てふためきながら中を確認した。アマティのヴァイオリンは静かにケースに収まっていた。傷や燃えた痕はない。トムは一息つくと、じろりと男を睨みつけようとして――男がいなくなっていることを知った。

 

「……?」

 

 広場に人っ子一人、気配がない。

 恐ろしいまでに、誰もいなかった。帰り道を急ぐ者も酔っ払いも犬の散歩をしている人も、誰もいない。トムだけがたった一人、夜空の下にたたずんでいる。

 

「夢か……いや、違う」

 

 だけど、トムの手元にはアマティのヴァイオリンが眠っていた。違うことといえば、一枚の黒いカードが添えられている。トムは用心深くカードに目を落とした。

 

「『君のような天才にこそふさわしい』……で、このマークはなんだ?」

 

 素っ気ないコメントの隣には、奇妙な文字が書かれていた。三角形のなかに縦線で貫かれた丸印――どこかで見たことがあるような気がする。

 トムは底知れぬ不気味さに腹の底から凍えるような感覚に陥った。アマティのヴァイオリンを触れる気にはなれず、そのまま蓋を閉じた。きっと、もう二度と開くことはないだろう。

 

「トムー! メイン料理が運ばれてきたぞ!」

「コンフィだよ! 牛肉のコンフィ! 凄く良い香りだよ!」

 

 振り返ると、店の扉が開いていた。ジョナサンとアルファードがバタービールを片手に、戻って来いと手招きをしている。

 

「いま戻るよ!」

 

 トムは頭を振ると、店のなかへと駆け戻った。

 いまの奇妙な出来事を忘れるように努めながら。

 

 

 トムが店に入ると、星空が曇り、はらはらと雪が降り始めた。

 トムたちは知らなかったが、パリの街は夕方過ぎから雪模様。カシェ街周辺だけ、どういうことか雲がかかっていなかったのである。

 もちろん、人為的な仕業であることに変わりはない。この状況を造り出した男は、しばらくトムたちが打ち上げをする店を眺めていた。吐き気がする絵画でも眺めているかのような顔で、酷くつまらなそうに呟くのだった。

 

「……やはり、パリは好かん」

 

 男の肩に雪が落ちる前に、彼は姿くらましで消えた。

 

 この日の出会いが、トム・リドルにどのような影響を及ぼすのか。

 この日、この場に集った少年たちの先に待ち受ける運命に関わってくるのか。

 

 

 答えは、神のみぞ知る。

 

 

 

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