●1940年 1月4日
昨日、引っ越し完了した。
だいたいの荷物は11月末から移動し始めてたから、そこまで時間はかからなかった。
元はと言えばおばあちゃんの家なので、大きな家具は買いそろえる必要もなく、大半をロンドンの家に置いておくことが決まっていたことも、手軽に引っ越しができた一因だと思う。
ロンドンの家から運び出した大きい家具は、私の仕事用机とトムの勉強机くらいじゃないかな?
家にかけられていた絵画もこちらに避難させた。特に、玄関ホールにかけられていた1枚は真っ先に梱包した。あれは我が家で最も貴重な水墨画――岡本一平氏の描いた子犬の絵である。一平氏とは出版社のイベントで知り合った。奥さんを伴い、旅行中だったらしい。このときのことは、いまでも鮮明に覚えている。ロンドンのパーティー会場で談笑中、日本語が耳に飛び込んできて、振り返るとそこに燕尾服を着た小さな日本人が立っていたのだ。急いで話しかけると、なんと太陽の塔で有名な岡本太郎の父親だということが分かった。いや、現実にはまだ太陽の塔が建つ前だし、太郎氏はパリで留学中らしいけど……太郎氏の父ならば、かなり有名な人に違いない。聞けば、一平氏は漫画家なのだそうだ。私はこの人の書いた漫画を見たことはないけど……戦前は有名だったのかな? ロンドンに旅行できるくらいだしさ。
一平氏も、私が日本語を使いこなせると分かると、打ち解けていろいろ話してくれた。一平氏と奥さんに付き添い、ロンドンを案内した日もあった。
『君には良くして貰った。これはお礼だ』
そのとき、一平氏から渡されたのが、この1枚である。
愛らしくも、どこかふてぶてしい柴犬の絵の横には、妻のかの子氏による達筆な和歌が添えられていた。日本語なのに達筆過ぎて読めない。誰かに読んでもらいたいけど、私の周りに日本語が解る人など一人もいないので、たぶん迷宮入りだろう。ただ、たぶん悪い言葉ではないはずだ。
ということで、私の宝物はいま自分の部屋に飾られている。
リビングや玄関に飾ってもいいのだけど、そこにはおばあちゃんが気に入っていた「モネもどき」の風景画や「セザンヌもどき」のリンゴやナシの静止画がある。外したくはないけど、これらと一平氏の絵は並べて飾るのは……あまりにも世界観が違い過ぎた。
さて、その日の夜のことだ。
引っ越し完了のお祝いをささやかにしていると、家の戸口がこんこんと叩かれる。
「僕、見てくるよ」
私が立ち上がる前に、トムが駆けだした。そして、ほどなくして困惑しきった表情で戻ってくる。
「誰が来たの?」
「アイリス……それが……」
トムが言葉を濁した理由はすぐに分かった。トムのあとに続いて入ってきた小柄な生き物――いや、屋敷しもべ妖精には見覚えがあった。でも、私は初めて見るふりをすることにする。
「えっと……生き物?」
「ディークでございます。屋敷しもべ妖精です。サラザール・スリザリンの末裔の方が持ち家を手にしたと聞き、お雇いいただきたく参上しました」
ディークは打ち合わせ通りの文言を述べた。
「いや、持ち家って言っても……アイリスが管理してくれてるし、それに僕はサラザール・スリザリンの末裔だと思いたくないんだ」
「そうなのですか? 困りました……」
ディークは寂しそうにペタンと耳を落とした。
「ディークは前職を辞めてしまったのです。仕方ありません。他を当たることにします……大丈夫です、職を断られることには慣れています。職を失った屋敷しもべ妖精を雇ってくれる心優しい魔法使いは、滅多にいませんから」
小さな背中を丸め、とぼとぼと去っていこうとする。このとき、ディークは裸である。服すら纏っていない状態の瘦せ細った背中からは哀愁が漂っていた。
これには、さすがのトムも引き留めた。
「魔法使いなら他にもたくさんいるじゃないか?」
「ディークたち屋敷しもべ妖精が仕えるのは、ただの魔法使いではありません。すぐに仕事がなくなってしまうような場所は求めてはいけないのです」
「それなら、僕の家は向いてないよ。僕とアイリスで足りてるから」
「それが……ディークは老体です。あまり働くことができないのです……ですが、働くことこそ屋敷しもべ妖精の本分。それができないのであれば、ディークは死んだも同然なのです」
しょんぼりとした声色は、トムの同情を誘った。トムはちらっと私を横目で見てくる。なにも言わなかったが、トムとしては、とりあえず雇ってみる方に傾いているのが伝わってきた。
トムがその気になれば、あとは話が早い。私としては、もともとディークをこの家に入れるつもりだったのだ。
「トムが良いなら。でも、雇うってことは対価が必要なのよね?」
私がにこやかに告げると、ディークの表情が一気に華やいだ。
「洋服を一着くだされば、それで良いのです。それがあれば、あとは何もいりません。ディークは命尽きるときまで、誠心誠意仕えます」
「服……」
ここからは、ダンブルドアを交えた事前の打ち合わせ通りに動いた。
「あなたに合うサイズの服はないわ。タータンチェックの布ならあるけど……」
「それで十分でございます」
こうして、ディークはタータンチェックの布を纏った。
この布は、もともとディークが纏っていた布である。ディークは布を脱ぎ、ダンブルドアに預けた。ダンブルドアはそれを魔法で新品同然より少し古いくらいまで修繕し、私に手渡していた。それを私はディークに返した。トムの前でディークに服を与えずに、服を与えたっぽい契約を結ぶことが完成したのだ。
つまり、ディークはいまだにホグワーツに属する屋敷しもべ妖精。
トムを騙しているので心苦しいけど……ダンブルドアが問題ないと言うのだから、これで間違っていないはずだ。
間違ってない、よね?
※
●1940年 1月9日
ベーコン、バター、それから砂糖。
配給券がないと手に入らなくなってしまった……。規制されると食べたくなるのは、不思議なものである。八百屋に行っても、バナナは見当たらなくなってしまったし、レモンもない。この調子で、どんどんいろいろな食べ物が制限されていくのだと実感し、薄ら寒い思いに襲われた。
本当、前世の私は幸せだったな……。
日本が恋しい……いや、いまの日本は戦争真っただ中だし、これから開戦からの敗戦へ突き進んでいくわけだから、わざわざ海を渡って移住したくないけどね。
ただ、これでも私は運の良い方だ。
なぜなら、我が家には屋敷しもべ妖精のディークがいる。少ない食材に魔法をかけ、量を増やしてくれるのである! いや、本当に助かる!! もちろん、無から有を生み出すのは屋敷しもべ妖精の魔法でも不可能だが、それでも少しでも食材が残っていればなんとかなるのだ。あとは、残量を常に頭に入れながら、ちびちびと使っていけばいいだけである。
「これなら、食べ物に困ることはなくなるわ!」
私は感激していると、ディークはすまなそうな笑みを返してきた。
「ですが、奥様。魔法は万能ではありません。食材が腐ってしまったら、増やしても意味がありませんし、配給自体が止まってしまったら、どうすることもできないのです」
「……それでも、ホグワーツの厨房は問題なく稼働されるのよね」
いまから5年間――ひもじい思いをするのは苦しいけど、根性で乗り切るつもりでいた。先が見えぬなかで耐えるのは辛いけど、終わりが見えている分、なんとか耐えられる。問題はトムだ。これから、どんどん食べ盛りになっていくというのに、お腹を空かせてほしくない。クリスマス休暇に戻って来たときなんて、チキンやご馳走をあっという間に食べ尽くし、クリスマスケーキの三分の一とクリスマスプディングの半分をたいらげてしまった。本人も私の顔と空っぽになった皿を見比べて、自分でも少しばかり驚いたようだった。
あんなに食べているのに、ほっそりと痩せ気味な体型が崩れないのは、ちょっと羨ましいけど……12歳でこれである。思春期真っ只中に突入したら、いったいどうなることやら……今後の台所事情では、彼の胃袋を満足させられる自信がなかった。
「ディークは問題ないと思います。ホグワーツの屋敷しもべ妖精は生徒と職員のお腹は必ず満足させ続けますから」
「それが聞けただけでも安心だわ」
少なくとも、トムが空腹で困ることはなさそうだ。
あとは、長期休みで帰宅したとき、満足させてあげられるように気を付ければいいだけ。どんどん物が足りなくなっていくから、買い物をするときも先を見越さないと……こういう頭の使い方、苦手なんだけどな……。
とりあえず、今日はもう寝よう。
明日はロンドンの出版社に行かないといけないから……。
ディークが透明になって同行してくれるみたい。いやー、屋敷しもべ妖精って凄いわ……。
●1940年 1月▲日
無事帰宅。
やっぱり、ロンドンは遠い……ただ、日帰りで行ける距離で助かる。もっとも、今回はロンドンの自宅に数泊したけどね。
モーリスとは馴染みのカフェで打ち合わせをしてきた。ただ、いくつかの店では配給券がないと入れないらしく、モーリスは「面倒な時代になったものだよ」と愚痴を零していた。
「知っているかい? あくまで噂だが、紙も配給の対象になるらしい。まったく……出版業界に大打撃だ。ああ、でも安心してくれ。君の仕事は減らないように計らうから」
私の青ざめた表情を察してか、モーリスは慌てたように言葉を付け加えた。
モーリスのことを信用してないわけではないけど、挿絵画家には前途多難な未来である。紙が配給になるなら、絵の具を含めた画材はどうなるのだろう? 時代が悪い方へと流れていくのを肌で感じるとは、まさにこのことだ。
私が考え込んでいると、モーリスは明るい口調で慰めるような言葉をかけてきた。
「だけど、アイリス。君は挿絵の他にも、ロンドンに家をいくつか持ってるじゃないか! 家賃の収入があるだろう?」
「モーリス。ロンドンが空襲されるって噂があるじゃない。いくら家があったところで、それが潰れてしまったら終わりだわ」
「そんなこと……いや、うーん……」
モーリスの位置からだと、窓からロンドンの空に浮かぶ防空気球が嫌でも目に入る。あんなものが浮かんでいるというのに、空襲がないとは断言できるはずがなかった。
「まあ、君は安全だ。コッツウォルズに空襲はない。しかし、羨ましいよ……僕も田舎でのんびり暮らしたい」
「ちょっと意外ね。あなたは仕事一筋かと思っていたわ」
モーリスは結婚していない。
私より1つか2つ上なので、適齢期は過ぎつつある。顔だって悪くないし、家柄だってそれなりに良いところなのに、浮いた話が一つもないのだ。しかし、そのことを指摘する前に、モーリスが話を振ってきた。
「君こそ、そろそろ再婚する予定はないのかい? トムも寄宿舎生活だし、寂しいんじゃないのか?」
「寂しくないわ。エンラクもいるし……」
「まだ、あいつを忘れられない?」
モーリスの気遣うような声に、私は微笑みだけ返した。
トムが寄宿舎に行っている間、別に寂しくはない。
いつも通り仕事に打ち込んでいれば、よけいなことを考えなくてすむから。
それに、いまはディークがいた。
ディークは私の善きおしゃべり相手になってくれる。彼の語るホグワーツの物語は非常に刺激があり、かつ魅力的だった。日記に全部書ければいいのだけど、それをしたら紙が何枚あっても足りない。それこそ、ちょっとした小説くらいの量になってしまう。
ディークに家事を手伝ってもらい、護衛までしてもらっているのは正直申し訳ない気持ちもあるけど、こういう話を聞けると嬉しい。私も魔法界の一員になったような錯覚を受けるから。
※
●1940年 2月〇日
ヴァイオリンのレッスンのため、トムが一時帰宅。
いつもの先生はオックスフォードに疎開中なので、そちらでレッスンを受けた。
それと同時に、こんな打診をされる。
「トムに慰問の依頼が来ている」
って。
前線ではないけど戦地に出向いて、ヴァイオリンを弾いて欲しいらしい。打診というか、実際には強制力のある命令に近い。
私としては、トムを従軍させるのは……いかに安全が確保されているとはいっても、戦地は戦地。不安でしかない。
ところが、トムは不思議なことに乗り気だった。
「僕のヴァイオリンで良ければ」
……本当に大丈夫なのかな?
そろそろ、ドイツがベネルクス三国に侵攻する頃だよね……?
慰問の日程はイースター休暇に決まったから、それまで戦争が激化しませんように!!
・すみません!名称を間違えていた箇所ありましたので訂正しました。