●1940年 4月2日
忘れてた。
昨日はエイプリールフールだった。
焦ったよ……。
昨日は夜も怖くて眠れなくて、ベッドのなかで悶えてしまった。電気を消して寝ようとしても、いろいろと悪い想像ばかり膨らんでしまう。
ハリポタの歴史は詳しく知らないけど、マグルの歴史は私の知っている通りに進んでいた。もちろん、世界史を詳しく知らないから、本当に同じか否か確かめようがなかったけど、少なくとも全体の流れ自体は変わっていない。
だけど、今回は違う。
ラジオから流れるニュースは、明らかに私の知る歴史と違っていた。
ドイツがアメリカを支配下に置くとか、どこの特異点か異聞帯? どうしてこうなってしまったの? と本気で悩んだ。確かに、トムを引き取ったことで、ハリポタの正史は破壊してしまっている。トムの知名度は欧州に広まり、外国からトムへの取材と演奏依頼が来るほどだ。でも、私が変えてしまったのはその程度。それだけの違いで、ドイツがアメリカを保護領にするとかありえない。どこでボタンを掛け違えてしまったのだろう? さんざん悩んで、夢のなかまで悪夢で浸食され、ディークに起こされて目が覚めたとき――カレンダーの日付が見えた。
そこで気づいた。
そっか、エイプリルフールだった……と。
日記を見返してみると、ちゃんと4月1日って書いている。「なんで、そこで気づかなかったの?」って、再び落ち込んだ……。
BBCもさ、良心的な嘘をついて欲しいよ。ドイツの総統と似た声の俳優さんに演説させるとか、手が込みすぎて心臓に悪い……。思い出すだけで、また痛くなってきた……。
それから、ディークに対して、みっともないほど取り乱して申し訳なかったと謝罪した。彼は「エイプリルフールで良かったです。ディークも安心しました」と慰めてくれた……優しい屋敷しもべ妖精である。
あとで、さりげなく一杯のミルクをテーブルに置いておこう。
●1940年 4月▲日
ここがトムと私の家になって、そろそろ4カ月が過ぎようとしているわけだけど……いまだに実感がわかない。ちょっとしたタイミングで、おばあちゃんが向こうの扉から顔を出してきそうな気がする。
おばあちゃんといえば意外とまめな性格で、自分のレシピ本を書き上げていた。ただ、それが置いてあったのは、椅子のクッションの下。おばあちゃん、ちょっとした物をそのあたりにポイっと置いたり挟んでおいたりする癖があって、ひょっこりと遺物が見つかるのである。
今回のレシピ本も、ディークが掃除の最中に見つけてくれたものだ。
「ディークはとても勉強になりました。奥様のおばあさまは料理が好きな方だったのですね」
「いや、そこまで好きではなかったはずだけど……」
私は苦笑いで返すしかなかった。
たしかに、お菓子作りは凝っていた。近所のお友だちとお茶会をするとき、みっともないお菓子を持っていけないって理由も大いにあると思うけど、なんとなくイギリス人には「女性はお菓子が作れて当然」って文化がある。おばあちゃんもその例に漏れず、私に代々伝わってきたお菓子作りのノウハウを叩きこんできた。だから、おばあちゃんのレシピに書いてあったお菓子は、私もだいたい作れる。
「でも、他のメニューはなんで書いてたんだろう……?」
ぺらぺらとめくりながら、疑問が芽生えてしまう。
材料が「適量」と書いてあるのはまだいい方で、いつのまにか調理工程になかった茹でたジャガイモが出てきたり、材料をすべていれたあとなのにケチャップを入れることになっていたり……もはや、書いた本人にしか分からないレシピなのだ。それにしては、おばあちゃんが丁寧な字で書こうと努力したあとが滲んでいる。
ちなみに、レシピ本をめくっていると、封筒が挟まっていた。
封筒のなかには、20ポンド紙幣が10枚ほど!
これは使わないで、とっておくつもり。もしくは、おばあちゃんのお墓のメンテナンスをするときに使うとしよう。
それまで、私の鍵のかけた引き出しにしまっておこう。
●1940年 4月×日
ドイツがノルウェーに宣戦布告して、早いことで数日が経過した。
新聞を読む限り、ノルウェーでの戦況が良くないらしい。
あんまり、ノルウェーに関する知識はないんだよね……。
ハリポタでノルウェーといえば、賢者の石で登場したドラゴンがノルウェーなんちゃら種のノーバートくらいしか思い浮かばない。私自身、ノルウェーって近いけど遠い国ってイメージで、いまだに第二次世界大戦が始まったって実感がわかないのだ。
チャーチルが首相になってもおかしくないのに、ネヴィル・チェンバレンに退任の気配はない。
もっとも、チェンバレンに人々の不満は集まっているけどね。買い物に出かけると、近所のおばさまたちのおしゃべりにはチェンバレンへの不満が話題に上がった。息子や孫がフランスやノルウェーに出兵している人もいるから、ドイツに対して強気に行って欲しいと思っている方が多いようだ。
本当……5年間も続いて欲しくないよ。
●1940年 5月10日
ドイツがオランダとフランスに侵攻を開始した。
ついにこのときが来た。
朝、ラジオでこの話題を耳にしたとき、思ったより落ち着いて受け入れることができた。紅茶を飲もうとカップをつかんだとき、波紋が消えることなく浮かんでいたけど……そのくらいですむ程度には。
少なくとも、ディークの方がみるからに怯えていた。
大きな目をこれ以上ないほど丸くさせ、耳はぺたんと閉じ、がたがたと震えていた。
「ディークは嫌な予感がします……マグルの世界で大きな戦争が起きるとき、魔法界でも同じことが起きているのです」
「日刊預言者新聞を購読しておけば良かったわ」
「……ディークが手配しましょうか?」
私は頷いた。
グリンゴッツで両替してあるので、しばらく定期購読をすることはできるはずだ。
それより驚いたのは、チェンバレンが辞任したこと。
夜のニュースで知ったけど、後任はチャーチルになる予定らしい。
ついに、チャーチルが首相に就任することになった。正直なところ、もっと早くに就任すると思っていたから、遅い気がしてしまう。
今後、世界大戦の脅威はますます広まり、深まっていく。
パリが陥落したら、次はロンドンの空襲だ。
ロンドンの自宅に置いてあった大切なものはあらかた運び終えたけど、それでも、空襲で壊れて欲しくない。他にも、貸している家も破壊されて欲しくない。空襲の酷い地域ではありませんように、と祈ることしかできなかった。
●1940年 5月13日
オランダのウィルヘルミナ女王が、ロンドンに亡命してきた。
実質、オランダの陥落である。
ルクセンブルクは初日に敗北し、ベルギーもいつまで持ちこたえられるかどうか……。
ドイツ軍の電撃的な快進に、パリ市民はどんな感情を抱いているのだろう?
トムからジョナサンが渡英できない理由を教えてもらったときから、私は手紙をやめることにした。私が言えば言うほど逆効果になるって分かったから……。それに、いまから手紙を書いたところで、ドイツ軍の方が早くパリに到着することだろう。
せめて、私の忠告とオランダ・ルクセンブルクが呆気なく敗北した事実を受け止め、スイスへ亡命して欲しい……。
なんだか、最近の日記は戦争に対する恐怖と祈りたいとか欲しいという希望的観測ばかりだ。
とはいっても、明るい話題なんてない。
しいていえば、もうすぐ私の誕生日ということくらい。私はささやかなパーティーですませたいのだけど、ディークは張り切っている。
「ディークは、こういうときだからこそ、楽しく誕生日を祝った方が良いと思うのです。ディークが腕によりをかけた料理を作りますし、お友だちも招きましょう」
とはいえ、誘える友達などいない。
モーリスは仕事があるし、そもそも魔法界を知らない友人は呼べない。フランクさんとはペンフレンドだけど、足が悪いから招くのは難しい。ナティも闇祓いの仕事で忙しいはずだ。バンティはどうだろう……? 駄目もとで手紙を送ったところ、OKとの返事がきた。
ちょうど、トムもヴァイオリンの稽古諸々で戻ってくる日。トムはスラグホーン教授に許可を取り、自宅で泊まることが決まったそうだ。
実のところ、誕生日が少しだけ待ち遠しい。
こんな状況下でお祝いなんて不謹慎だと思う自分もいるけどね。
●1940年 5月×日
たまげた誕生日とは、まさにこのこと!
一生忘れられない誕生日であることは、間違いないはずだ。
なぜ、こんなことになってしまったのか……時系列に書き起こすことにする。
誕生日パーティーは、夕方から始まった。
トムはヒッポグリフの羽で造られたペンをプレゼントしてくれた。白い羽は50センチ以上あり、眺めているだけで、この羽の主が気高い生き物であると想像できた。
「僕が世話してるヒッポグリフの抜け羽だよ。綺麗だろ?」
「立派ね……ありがとう、トム!」
「本当はもっと凝ったものを渡したいんだけどさ、ホグズミード村に行けるのは基本的に3年生からなんだよ。保護者の誕生日プレゼントを選びに行くくらい、許可してもらってもいいのになー」
トムはやれやれと頭を振った。
だが、奇妙な話だ。私は首を傾げ、トムに質問を投げかけた。
「魔法界にも、通販があるんじゃないの?」
「ふくろう通信販売があるけど、アイリスに贈るものだよ? 実物を見て考えたいに決まっているじゃないか」
彼は少しばかり呆れたように答えると、大きく息を吐いた。
「あとで、アイリスのために弾くよ。ケーキを食べるときに」
「ありがとう。それじゃあ、早く食べないとね」
トムは誕生日のたびに、ヴァイオリンを弾いてくれる。
私が好きな「ヴィヴァルディの冬」を始めとした数曲。トムが私のことだけを考え、この日のためだけのリサイタルを開いてくれる。そのことが、とてつもなく愛おしくて、たまらないほど嬉しく思うのだ。
ああ、だけど……今回はなかった。そうはならなかった。
バンティも到着し、一緒に食卓を囲んで数十分後……すっかり陽が落ちて、電気の灯りだけがダイニングを照らす頃、玄関の呼び鈴がけたたましく鳴り響いた。その瞬間、ディークとバンティが警戒したのが分かった。
こんな時間に尋ねてくる村人はいない。
「ディークが観てきます」
「私も行くわ」
ディークが真っ先に玄関に駆けだし、バンティも杖を片手に走り出した。
バンティまで席を立ったことで、トムの顔に不安の色が過った。
「アイリス?」
「大丈夫。きっと2つ隣のおばさんよ。トムのヴァイオリンに夢中だから、きっと聴かせて欲しいんじゃないかしら?」
「こんな時間に?」
私は安心させるように努めて優しい声で言ったけど、トムは怪訝そうに眉を寄せた。
「それはありえないよ、だって――」
しかし、その先の言葉は足音によってかき消された。
私が玄関の方に視線を向けると、慌ただしく現れた人物と目が合った。美しい女性だった。短い黒髪に小さい顔、すらっと背が高くてスーツを纏った姿は、ロンドンの中心部を闊歩するキャリアな女性そのものである。ただ、その白い顔には疲れが悲しいくらい強く滲んでいた。例えるなら、いまにも泣き出したいのに、涙を流す余裕がないほど心底疲れ果てたような……そんな感じだ。
彼女と見つめ合ったのは、ほんの数秒。
すぐに、バンティが追いかけてきて、彼女の名前を叫んだ。
「ティナ。ごめんなさい。ここに、ニュート・スキャマンダーはいないわ」
バンティがすまなそうに肩を落としながら言った。
そこで初めて、私は彼女がティナ・ゴールドスタインだと気づいた。ファンタビ1に登場したアメリカの闇祓いで、ニュートの彼女である。そう、アメリカの闇祓いだ。イギリスにいるはずがない。そもそも、どうして私の家に来たのだろう?
私が混乱して言葉を失っている間にも、バンティたちの話は進んでいった。
「彼は今頃、フランスにいるの……たぶん、無事だとは思うけど……」
「ああ、なんてこと……」
ティナは強く目を瞑った。一瞬だけ、倒れそうになりそうなくらい身体が揺れたけど、根性で耐えたのだろう。ぐっと歯を食いしばったのが、遠目からでも分かった。彼女は心を落ち着かせるように深呼吸をすると、ややあってから話し出した。
「アメリカ魔法界は『欧州におけるグリンデルバルドとの戦いには関与しない』と明言したの。だから、辞表を提出して来たのよ。しばらく、彼の家に間借りさせてもらおうと思ったのだけど留守だったから、貴方を魔法で探し出したのだけど……ごめんなさい、急に押しかけてしまって……ホテルを探すことにするわ」
ティナはきびきびした口調ながらも寂しげに言うと、そのまま立ち去ろうとした。
だが、その背中に待ったの声がかけられる。
「待て! ニュートはまだフランスにいるのか!?」
トムの声だった。
がたんっという音と共に席を立つと、信じられないものを見るような目で彼女を見上げた。
「すぐに助けに行かないと!」
「貴方は?」
「ニュートの一番弟子さ! バンティと同じくらい動物の扱いは上手い自信があるよ」
「でも、まだ子どもじゃない」
ティナはトムの申し出を断った。
当然のことである。しかしながら、この程度で引き下がるトム・リドルではない。足元に置いてあった鞄に手を突っ込み、すぐに今日の新聞を取り出したのだ。
「アルファードが……友だちが持っていた新聞に書いてあったんだ。『フランスに派遣され、いまも戦っている英国魔法使いを救出するため、天馬・ヒッポグリフ・セストラルなど騎乗できる生き物の派遣を決定した』って。民間にも要請しているらしいんだ」
トムは目を爛々と輝かせながら言い切った。
「僕、数頭の勇敢なヒッポグリフに心当たりがあるんだ。僕を救出作戦に連れて行ってくれるなら、ヒッポグリフの居場所を教えてあげる。ああ、先に断っておくけど、バンティは知らないよ。ニュートが僕に預けて行ったんだから」
挑戦的に笑いながら、ティナを見上げる。この交渉から一歩も引くまい、という強い意志を感じた。ティナの眼は迷うように揺れたが、瞬き数回分の間に覚悟が決まってしまったらしい。
「……教えてくれるかしら?」
「もちろんさ!」
トムは悪戯が成功したような声で言うと、鞄を手に取って玄関に走り出した。ダイニングを出る前、わずかに足を止めて振り返ると、これから遊びに出かけるような顔でこう言った。
「帰ってきたら、演奏会をするよ。大丈夫、ニュートを連れてすぐに戻るから!」
トムは走り去った。
待って、と叫ぶ暇はなかった。矢のようにまっすぐ駆けだして、煙のように消えてしまった。ティナ・ゴールドスタインと一緒に……。
私はトムが消えた場所に立ち、泣くことしかできなかった。
ああ、神様!
どうか、トムをお守りください!!
先に言うと、ティナは「トムからヒッポグリフの場所を聞き出したあと、彼を安全な場所に送り届けてから、ニュートの救出に向かおう」と思っています。