ドーバー海峡の白い崖。
普段は荒波と海風の轟く音だけが響く寂しげな場所は、人と魔法動物による喧噪で満ちていた。
フランス本土に残ったイギリス人魔法使いを救出するため、天馬を連れて待機している一般の魔法使いたちによるものである。
もちろん、ここに集ったヒッポグリフを含めた天馬たちは、人を乗せて飛んだり馬車を曳いたりすることに慣れている。ちょっとやそっとのことでは驚かないように躾けられているが、それでもここまでの数の天馬が顔を合わせることはない。特に、御者を務める魔法使いたちはこれから戦場に向かうと知っていることもあり、平静を保とうとすればするほど緊張を増していく者も少なくなかった。肌を刺すような緊張感が動物たちにも伝わり、不安で嘶く声が絶えなかった。
「……馬鹿馬鹿しい」
トムはそんな大人たちを眺め、小さく呟いていた。
この場に集った者たちのなかで、トム・リドルほど落ち着きを払った者はいなかった。黒い目には動揺の色など皆無で、ヒッポグリフに話しかける声色も平静を保っている。そんな彼は明らかに浮いており、何人もの魔法使いたちが目を丸くして尋ねてくるのだった。
「ホグワーツはどうしたんだ?」
そのたびに、トムは丁寧な物腰で答えるのだ。
「ダンブルドア教授の指示です」
と。
すると、たいていの魔法使いは「アルバス・ダンブルドアの指示ならそういうこともあるだろう」と納得してくれる。少数の魔法使いは不快そうに眉を顰め、「ダンブルドアとはいえ、こんな幼い子を戦場に送るなんて」と口にするが、それでも反対はしてこなかった。
そのたびに、トムは感じるのだった。
例えば、これがケトルバーンやスラグホーン、もしくはディペット校長の指示だと答えていれば、どんな反応が返ってきたことだろう? もしくは、最初から自分の意志でここに立っていると伝えていたら……そう考えるたびに、初めて「ダンブルドア」の重みを痛感した。もちろん、これまでも、ダンブルドアは最も抜け目のない先生だとは思っていた。まともに戦っても、搦め手を使っても、口論でも勝ち目がないとは察しがついていたが、まさかこれほどまでとは、とぞっとする。
「……」
とはいえ、トムはこの場における最年少ではない。
ほとんどが大人の魔法使いだったが、ホグワーツを卒業したばかりの青年やたまたま外国の魔法学校から帰国していた少年を時々見かけた。極めつけは、9月からホグワーツに入学する少年がいたことだろう。兄と一緒に来て、葦毛の天馬をブラッシングしていた。しかし、彼の精神年齢は年相応のようだ。興奮が隠せないらしく常に兄について回り、はしゃぎ声を上げている。トムは表情にこそ出さなかったが、その声がなんとも耳障りで、極めて不快に思えた。とはいえ、なぜ不快なのか……それを表現する言葉が見つからず、そのことに困惑してしまった。
「……ム、トム? 大丈夫?」
「……あ、すみません」
トムはティナの声かけに気づき、急いで余所行きの笑みを作った。
「もうすぐ出発ですよね。飼い葉はしっかり食べさせましたし、いつでも行けますよ。なにか他に準備をした方がいいことはありますか?」
「いえ、特にないけど……あなた、本当にいいのかしら?」
ティナは少し屈むと、こちらに目を合わせて尋ねてきた。
「いまなら、まだ引き返せるわ。心配なことはない?」
「ありません」
トムは首を振ったが、彼女の眼から疑念の色は消えなかった。トムはわずかに目を逸らしたあと、再び彼女の眼を見つめた。
「……死の魔法を防ぐ方法は、本当にないんですか?」
「アバダケダブラのことかしら?」
「ダンブルドア先生は愛と言っていましたが……正直、よく理解できませんでした。ゴールドスタインさんは闇祓いですよね? 防ぐ方法は本当にそれしかないのでしょうか?」
トムの問いかけに、ティナの眼に別の光が宿った。
「そうね……正直なところ、使い手の力量にもよるわ。盾の魔法で防げることには防げるけど……推奨はしないし、私はやらないわ」
「それはどうして?」
「凄腕の闇祓いが力を合わせて作った盾の魔法ならば、普通のアバダケダブラは防ぐことができるの」
「
「数人がかりのね、それも闇祓い局の局長レベルの魔法使いよ」
トムが口にしたことを、ティナは素早く訂正した。
「たぶん、それだけでも危険。『
「平凡な?」
「グリンデルバルド並みの使い手なら不可能ってことね。それも突破する。盾の魔法で防ぐことができないというのは、そういうことよ」
「では、ゴールドスタインさん。あなたは、どうやってアバダケダブラと対峙してきたのですか? 闇祓いなら、そういう相手と戦うことも何度もあったのでしょう?」
トムはやや食い気味に聞いたが、すぐにしゅんっと声色を落とした。
「すみません。職務の秘密に触れるようなことでしたら、無理にお答えしていただかなくても……」
「そうね……避けるのが最適だと思うわ」
ティナは少し悩むように考え込みながら、几帳面な声色で話し始めた。
「隠れるのもありね。一番は杖を奪うことかしら。
「なるほど」
トムは深く頷きながら、内心安堵した。
ティナ・ゴールドスタインの目線から子どもを案ずる色はかなり薄れ、闇祓いとしての眼差しに変わっていた。土壇場で「やはり、子どもは連れて行けない」「危険だから帰りなさい」と強引になにかしらの魔法をかけられたらたまったものではないし、なにより自分を過小評価されているようで大変不服であった。
「それでは、ゴールドスタインさん。浮遊呪文と呼び寄せ呪文、もしくは変身術を使って物理的な盾を自分の前に展開させたら防げますね」
「それも可能だけど、あまりおすすめはしないわ。使い手によって、物理的な盾を構築しても貫通されることもあるの。ゴブリンが鍛えた鉄や銀があれば防ぐことができる確率が上がるけど……都合よくそんなものないもの」
「つまり、撃たせる前に杖を奪うのが最適と……」
命を奪う方法はたくさんある。
マグルでも、ナイフや銃で人を殺せる。縄で首を絞めるのもいい。毒を盛るという方法もあるだろう。しかし、致命傷を受けてから即死するまでに時間を要する。即死ということもあるが、心臓が止まるまで――もしくは、脳が考えるのを止めるまで数秒はかかる。それこそ、魔法があれば奇跡的に生還させることが可能かもしれない。
だが、アバダケダブラは違う。
緑の閃光が肌をかすっただけでも、即死だという。
死んでしまったら、生き返らせる魔法は存在しない。
「それにしても、愛の魔法か……」
「私も詳しくないの。古代の魔法だから……それに……」
ティナはそこまで言うと、答えにくそうに唇を噛んだ。
「それに?」
「…………その魔法を使った人は命を落とすの。自分の命と引き換えに、対象者に愛の守りを授ける魔法なのよ」
「結局、自分が死ぬことには変わりないじゃないか」
気が付くと、トムの口からそんな言葉が飛び出していた。つい零れた本音を取り繕うように、トムは急いで言葉を重ねた。
「でも、死の魔の手から対象者だけは守ることができる魔法ですね」
「……そうね。自分が命を落としたとしても守りたい相手がいて……死の魔法に直面したとき、咄嗟にこの魔法を使うことができれば、その人だけは生き残ることができる」
ティナはそう言うと、トムの頭を軽く撫でた。
「あなたにもいつかそういう人が現れると思うわ。自分の命を賭しても守りたい人がね」
トムは黙って頷いた。
そんな人、いるわけがない。自分の命がなくなったら、それっきりなのだ。それを手放し、死を選んでまで誰かを助けようと思う日が来るなんてありえない――と思いかけたが、ふと、アイリスの顔が浮かんだ。
「……ゴールドスタインさん、その魔法は――……」
トムが何かを言いかけたとき、それを遮るように笛の音が響き渡った。
それと同時に、赤い花火が打ちあがる。出発の合図だった。
「トム? なにか言っていたけど……」
「なんでもありません。それに、もう出発ですよ。ヒッポグリフの乗り方の最終確認はしておきますか?」
トムは頭を切り替えて、ティナがヒッポグリフに乗る手助けをしたあと、自分も栗毛のヒッポグリフに飛び乗った。ぐんっと視界が高くなり、青い空が近くなる。飛行するために取り付けた手綱を握り、背筋を伸ばせば、ヒッポグリフにも気合が入ったらしい。ヒッポグリフは了解とばかりに小さく鳴いた。
「よしよし、頼むぞ」
ぽんぽんっと首筋のところを叩くと、もう一度鳴いてくれた。
鞍をつけているとはいえ、尻が翼に合わせて上下するヒッポグリフの背中の上で、慣れない者は体勢を整えるのも困難に違いない。トムはヒッポグリフの羽ばたきと呼吸を合わせ、上手く姿勢を整える。特にいま乗っているヒッポグリフ――キクはニュートのヒッポグリフでありながら、赤子の時からトムが世話をし続けた一頭である。名前だって、トムが頭を悩ませて命名したのだ。栗毛のヒッポグリフはちょっと天然な性格をしていたが、それでも非常に頭がよく、トムの命令を従順に聞いてくれる。
(……そうか。僕が死の魔法に当たらないだけでは駄目なんだよな)
巨大な翼が自分の膝元で力強く羽ばたくのを感じながら、いまさらながらそんなことを考える。
(キクにも当たらないように飛ばせないといけないんだ)
そう思うと、手綱を握る手に自然と力が籠った。
しばらく軍団となり、青空を飛行する。青空に溶け込むように飛んでいたが、そのうち前方の空が曇っていることに気づいた。いや、曇っているのではない。灰色の煙が立ち込めているのだ。焦げた臭いといままで嗅いだことのない臭気が海風に乗って漂い始め、トムは腕で顔を覆いたくなった。そのうち、煙のなかに煌びやかな閃光が飛び交っているのが分かる。アイリスがいれば「花火のようだ」と例えたかもしれない。赤や黄、緑の閃光が飛び散る様子は遠目から見て、大変綺麗で美しく感じた――が、それは眺めているときだけ。まもなく、自分があのなかに突入すると分かり、心臓が高鳴った。
「諸君! ここに集った有志諸君!」
すると、味方側から声が上がった。
声の方に視線を向けば、今回の大隊を率いる魔法使いが叫んでいた。己の首に杖を当て、声を増幅させているのだろう。ここに集い、救出に向かう全員にその声は届いていた。
「君たちの勇気ある行動は、間違いなくイギリス魔法界に語り継がれることだろう! いいか、君たちは一人でも多くの魔法使いを助けるんだ。だが、全員を助けることは難しいかもしれない。イギリス人を優先して助けるように!!」
「……」
歓声が上がったが、トムは何も答えずに、ただ前だけを見た。
するとまもなく、ほとんど前触れもなく緑の閃光が宙を走った。前の組が急いで避けたが、避け損ねたヒッポグリフに直撃し、御者と一緒に海へと落下していく。一瞬、トムの脳裏に「助けに行かないと!」という義憤が芽生えたが、すぐにそんなことは思っていられなくなった。緑の光が右耳のすぐそばを通り抜けて行ったからだ。
「キク!」
トムは急旋回させながら閃光をよけたとき、周囲の異変に気付いた。それまで互いに少し間を空けて飛んでいたと思っていたが、その隙間が急速に埋まっていく。否、埋まっていくのではない。最初からそこにいた魔法生物の姿が見えるようになっていたのだ。
「……セストラル!」
いまも目の前で、黒い尻尾が通り過ぎていく。それで、先ほどのヒッポグリフと御者がどうなったのかを察した。トムは一度だけ目を瞑ったが、すぐに視線を戻す。トムには、士気を高める怒号も恐怖の叫びも青空を貫く悲痛の鳴き声も、すべて壁一枚離れた遠くのことのように聞こえていた。ただ、自分の嫌になるくらい大きな鼓動と息遣い、キクの羽音だけが聞こえ、さらなる死地となっているであろう煙に包まれた港だけが、異様なまでにはっきりと見えた。
「油断大敵……ってことか」
ホグワーツで嫌になるほど耳にした言葉を、いまは自分に言い聞かせるように呟く。
ここから先に待ち受けるのは、杖十字会で繰り広げられるお遊戯みたいな決闘ではない。
もちろん、ムーディとやりあう激しい決闘でもない。ムーディが千人単位でいると思って挑まねば、自分も海に落ちてしまう。アイリスのところへも帰れずに、海底に沈んだまま朽ちていくのだろう。その様子を想像し、背筋が逆立つのが分かった。だが、恐怖はなかった。例えようのない興奮が腹の底から一気に込み上げ、髪の毛の先端から爪先まで、瞬く間に身体全身を覆いつくしていく。
「上等じゃないか!」
トムは乾いた舌を舐める。
右手を手綱から離し、ベルトに挟んでいた杖を引き抜く。
爛々と輝かせた黒い眼で、派手な死が飛び交う世界を見据えて。