死地に飛び込んで、最初に思い出したこと。
それは、アイリスとの何気ない会話だった。
夕食のとき、アイリスはワインを片手に飛行機について話してくれることがあった。当然、彼女はトムが空にさして興味がないことを知っているので、ほろ酔い気分のときくらいしか語らないが、頬を赤らめながら身振り手振りでいろいろと話してくれる。トムはその都度、話半分に耳を傾けていたが、こうして耳の奥に再生されるくらいには何度も聞かされていた。
『奇襲をするときはね、太陽を背に飛ぶの。太陽は眩しいでしょ? だから、敵からも視認できないのよ』
アイリスは簡単なことのように語っていたが、実際にはそう上手くいくものではない。
自分の背に太陽があるのか、なんて考える暇などなかった。突入する場所は決まっていたし、こちらが救出のために突っ込んでくるのも敵も理解していた。地上から呪文を飛ばしてくるならまだいいが、敵が箒に乗って迫ってくる。このときになって、トムは箒の利便性を痛感した。幸いなことに、トムが騎乗するキクは従順かつ勇敢なヒッポグリフだったので、トムの指示通りに飛んでくれたが、騎乗用に鍛え上げられていても戦地慣れしている天馬は少ない。救出のため地上に近づかねばならないのに、方向転換して逃げようとするセストラルが視界の端に映っていた。
(なるほど。こういうときは箒の方が便利だ)
空には遮蔽物など存在しない。
盾魔法を展開しつつ、地上に接近するのだが、緑の閃光だけは避ける必要がある。地上ならそれこそ瓦礫とか樽とか障害物を呼び寄せ、盾代わりにすることができたかもしれない。だが、空にはそんなものはない。しかも、キクが当たらないように計算して避けなければならないのだ。
運がよいことに、箒に乗った闇祓いたちが魔法生物の合間を潜り抜け、敵に攻撃を仕掛けてくれる。
敵もイギリスの闇祓いに注力するので、トムたちが集中して狙われることはないのだが、それでも闇祓いが避けた閃光が、トムの耳元を危うくかすめることはしばしばあった。しかも、哀しいことに味方の闇祓いは数少なかった。闇祓いではなく、トムたち一般人を狙ってくる敵もおり、いまこの瞬間にもトムへ杖先が向けられていた。
だが、トム・リドルにとって、もう一つだけ幸運なことがあった。
それは見た目だ。
栗毛のヒッポグリフにまたがるのは、12歳の少年なのだ。敵も杖を向けるが、呪文を撃つまでに数秒ほど驚きで言葉を失う。なぜ、こんな子どもが戦場にいるのだろう? と。もちろん、ここは戦場。すぐに立て直すのだろうが、トムはその隙を見逃さない。
「『
声変わりもしてない少年の声と共に、杖先から赤い閃光がほとばしる。敵の手から杖が離れ、宙を舞う様子を目の端で捕らえると、トムはそいつを無視して地上へと向かった。
(僕がやることは、あいつを殺すことじゃない)
味方を助けるため。
もっと正確に表現するなら、ニュートを助けるためである。
できる限り地上近くを飛行し、この場にいるであろうニュートを助けるのだ。その一心で地上を睨みつけ、降下を続ける。風が前から激しく吹き付け、肌が千本の針に刺されているように痛い。魔法の手袋をしていなければ、手綱を上手く握ることができなかったかもしれない。トムは必死に奥歯を噛みしめ、堪えながら眼下を睨みつける。空中も酷いが、地上も負けず劣らずの有様だ。色とりどりの閃光が絶えず瞬き、交差していた。
「……っ、なんだ、これ!?」
瞬間、背後から首の後ろに刃を突きつけられているような感覚を覚えた。視線だけ振り返ると、後方から黒服の男が杖をこちらに狙いを定めている――否、既に呪文を放っていた。緑色の閃光がみるみる間に迫ってきていたのだ。
「ッ、キク!」
手綱を左に強く引き、なんとか回避を試みる。キクも背後からつけ狙う敵の存在に気づいたのか、空を駆けあがるように旋回した。緑色の閃光は、キクの足元すれすれを通り過ぎる。まさに、間一髪。トムは冷や汗を流しながら、いまのが殺気なのだと痛感した。
「『アクシオ』、『
トムは続けざまに魔法を繰り出した。二本の紫色をした閃光が重なり、黒服の男に直撃する。男の手が箒から離れ、宙に浮いたその刹那、叩きつけられるように海面へと急速に落下した。
「あっ……」
トムは身体を乗り出し、男がどうなったのかを確認する。男の身体は海面すれすれのところで停止し、ややあってから海に落ちた。遠目から確認するのは、それが限界だった。視力の問題もあるが、次々に魔法使いが襲ってきたのである。
「『
杖を薙ぐように横に振れば、目の前の魔法使いは遠くへ吹き飛んでいったが、また二人の魔法使いがどこからともなく現れ襲ってくる。ご丁寧にも「死の魔法」を放ってくるので、盾の呪文で防御することができない。キクを操りながら、トムも魔法で応戦した。しかし、そいつらを排除しても、次から次へと敵が現れて襲ってくる。
「しつこい!」
トムは悪態をついた。向こうは「死の魔法」を撃てばいいだろうが、こっちはわざわざ殺さないように意識しながら魔法を使っているのだ。卑怯者め、と忌々しく呟く。いっそのこと、あいつらの杖を全部呼び寄せして、消失魔法をかければ良いのかもしれない。そんなことを頭の片隅で考え始めたとき、闇祓いのマントが割り込んできた。突入前、全体を鼓舞した闇祓いだった。
「大丈夫か!? ここは任せて、お前は先に進め!」
闇祓いは大声で叫ぶと、言葉通り敵に向かって飛んで行った。
トムは再び前を向き、キクを降下させた。今度は前に進みながらも、常に後ろも確認し続ける。
(そうだ。確か、アイリスが言ってた。空を飛ぶときは、後ろこそ注意しないといけないって)
そんなことを今さら思い出しつつ、トムは地上に接近した。接近すれば、だんだんとそれまで点のようにしか見えなかった人たちの服の色や形が分かるようになってきた。その頃には、空から狙われる確率は減ってきていた。代わりに、地上の戦闘が目に入るようになってくる。至る所で人が死んでいる。アバダケダブラを受けたばかりの死体はまだいい、遠目からではただ眠っているようにしか見えない。切り裂き魔法や失神呪文を受けた死体は見るも無残だったし、燃やされた遺体の臭いが鼻につく。苦痛に歪んだ顔で固定されたまま、空を眺める死体の真上を通ったときは、何とも言えない気持ちに襲われた。
だが、全員が死んだわけではない。
自分と同じように地表に辿り着いた者たちが、懸命に何人も救いあげていた。セストラルが曳く馬車には、我先にとカーキー色のローブを纏った魔法使いたちが乗り込んでいく。
「ニュート!」
トムも低空を滑るように飛びながら、ニュートの姿を探した。ただ、見つかるのは死体ばかり。もしかしたら、いないのかもしれない。そう思ったとき、キクが高らかに鳴いた。キクの視線を辿れば、葦毛のヒッポグリフが地上から飛び立つ様子が目に飛び込んでくる。ティナ・ゴールドスタインが騎乗するヒッポグリフだ。ティナの隣には、ぼさぼさの髪でトランクを手にした男が乗っている。それこそ間違いない、ニュート・スキャマンダーだった。
「……よかった」
ただ、彼らも完全に無事な状態とは言い難い。
彼らに向かって、何本もの緑の閃光が飛び交っている。もちろん、ティナが応戦し、ニュートがヒッポグリフの手綱を握っているように見えたので、おそらくは大丈夫だろう。ティナたちだけではない。今回の救援作戦に参加した多くの魔法使いたちは撤退の準備を始めていた。先ほど、自分が横目で通り過ぎたセストラルの馬車も空高くに飛び上がっていく。実際、
「あれ……?」
その男は死体の山だと思っていた場所にいた。よろよろと立ち上がり、ニュートたちを追撃する魔法使いへ攻撃をしかけている。当然、敵も背後からの攻撃に気づき、標的を彼に変えて応戦していた。男は必死に抵抗していたが、多勢に無勢。5人に対して、たった1人かつ満身創痍な魔法使いに勝ち目があるはずもない。男の抵抗を見ている者は、自分の他にもいた。しかし、誰も助けに行こうとしない。その理由は簡単で、彼が英国から派遣された魔法使いが纏うカーキー色のローブではなかったからだ。深い青味のあるローブは、彼がフランス人であることを表している。
だから、誰も助けに行こうとしないのだ。
「っ、あーもう! 仕方ないな!」
トムはそちらにキクを駆けさせ、推定フランス人の男に狙いを定めた。
「『
力の限り言い放つと、満身創痍の男の身体が吸い寄せられてくる。
キクは男の身体を前脚で捕まえると、そのまま力強い翼を大きく羽ばたかせ、一気に急上昇した。
「あーあ、僕はお人好しになったものだな!」
トムは皮肉を声高らかに叫びながら、恐ろしい閃光の飛び交う空へと戻った。
「こっちによじ登れますか?」
「……」
「無理? ……なら、『
トムは杖を一振りし、男の身体を浮かせた。そのまま強引にキクの背に座らせた。
男は例に漏れず、トムを見て目を見開いていた。
「……君は、まだ子どもじゃないか」
「ホグワーツの学生です。ダンブルドアの命令と自分の意志でここにいます」
「……そうか」
それっきり、男は黙り込んでしまった。
そのまま先に救出を終えた魔法使いたちの背中を追いかける。その頃には、敵の魔法使いに襲われる心配はなくなっていた。代わりに、痛いほどの視線を浴びる。それはトムが子どもであるためなのか、はたまた、命令を違反してフランス人を助けたからなのか――その理由はすぐに判明した。
「お前は何を考えている!」
しばらく飛んでいると、先ほど自分を助けた闇祓いが飛んできた。よほど激しい戦闘を潜り抜けてきたらしく、ローブが半分切れ、もう半分の裾には燃えた痕があった。
「私が君を命がけで守ったのは、グレートブリテンの魔法使いを助けるためだ。だが、その男は違うだろ!」
闇祓いはトムが助けた男を忌々しそうに睨みつける。彼の青いローブには、トリコロールに女性の横顔を組み合わせた紋章が縫い付けられていた。
「フランスは同盟国のはずです。それに、助けられる命を見捨てることはできません」
トムは闇祓いに向かって迷うことなく言い切った。
「お前……グリフィンドール生だな。本土に戻ったら、寮監のダンブルドアに文句を言いつけてやるぞ。いや、寮監だけじゃない、校長にもだ!! 学生で作戦に参加する心構えは素晴らしいが、命令違反は禁止だ!! しばらく、ホグズミード村行きもないと思え!」
「ご自由に」
トムはスリザリン生だとは言わず、心のなかで舌を出す。
それに、自分は2年生。ホグズミード村に遊びに行くことは、そもそも許可されていなかった。
闇祓いはトムの態度がよほど気に入らなかったのだろう。憤然としたように、その後も何やら文句を垂れていたが、「ホグワーツに文句を言ってやる」とだけ捨て台詞を残して、どこかへ去ってしまった。彼が姿を消すのと入れ替わりに、前方からニュートとティナを乗せたヒッポグリフが滑空してきた。
「トム! 良かった……!」
ティナはトムを見た途端、緊張で強張っていた顔が解けた。それまで肩に力が入っていたのが解れ、心の底から安堵したように息を零した。
「ゴールドスタインさんも無事だったんですね。ニュートも良かった……!」
「……トム」
ニュートも微笑んでいた。
だけど、表情が硬い。助かったというのに、心が冷え切っているようにしか見えなかった。しかし、それもトムが後ろに乗せた男を見ると、少し和らいだ。
「ユスフ……! 良かった、君は無事だったんだね」
「ああ。この小さな魔法使いに助けられた」
ユスフと呼ばれた男は、ぽんっとトムの肩を叩いた。
「ニュートの知り合いだったの?」
「古い友人だよ」
ニュートは嬉しそうに目を細めたが、すぐにこんなことを問いかけた。
「トム。君はカレーについて何か知っていることはないかい?」
「カレーって、港のこと?」
「知らないならいいんだ。そこに兄さんがいると聞いただけだから……違う場所に派遣されているかもしれないし」
それっきり、ニュートはなにも話さなくなってしまった。石のように固く口を閉ざしてしまう。ティナもおしゃべりな方ではないのか特に話題を振らなかったし、たまに思い出したように、トムとユスフはぽつぽつと言葉を交わした。
ユスフはセネガルの純血の魔法使いらしい。セネガルはフランス領なので、フランス側で戦うのは自然の流れだったそうだ。他にも、グリンデルバルドと因縁があり、何度か戦ったことも話してくれた。
「君は凄いな。服に汚れも傷もついてない」
「たまたまですよ」
「偶然など滅多に起きるものじゃない。君は優れた魔法使いになる」
そんなことを話している間に、ドーバー海峡の白い崖が見えてきた。
崖に着く頃になると、例の闇祓いが話し始めた。
「有志諸君、ご苦労だった。君たちは数多の英雄たちを救うことに成功したのだ!」
彼の口からは、感謝の言葉と激励が流れるように出てくる。
それに対し、ニュートがぽつりと囁くような声で「僕は英雄なんかじゃない」と呟くのが聞こえたが、近くにいたトムたちの耳にしか入らず、風に消されてしまった。
「――以上だ。軍務についた者たちは、こちらへ。有志諸君は帰ってどうぞ。後日、謝礼を送らせていただきます」
ここで、トムはようやくキクから滑り降りた。地面に両足がトンっと着くだけで、どっと疲れが押し寄せてくる。両手も硬くなっていて、自分も緊張していたのだと気づいた。しかし、ほっと一息つく間はなかった。
「トム!!」
聞き慣れた声が耳を貫いたのだ。
ここにいるはずのない声に、トムは弾かれたように声の方に身体を向ける。すると、そこにはダンブルドアとアイリスが立っていた。アイリスの顔は青ざめ、両手を祈るように握っている。しかし、彼女の青い瞳がトムを捉えると、拳を握りしめて走り出した。
「アイリス!?」
トムは目を丸くして、佇むことしかできなかった。
アイリスの顔は悲痛で歪んでいたのだ。
「トム・リドル! あなた、なにを考えているの!?」
「なにをって、ニュートを助けに……」
「それは、本当にトムがやることだったのかしら!?」
いつのまにか、アイリスの顔は真っ赤に染まっていた。特に目元が痛々しいほど腫れあがっており、何度も何度も泣いたことが分かる。いつもよりわずかに潰れた声を張り上げ、かなり怒っているのがひしひしと伝わってきた。
そんなアイリスに対し、ティナとユスフがおずおずと話しかけた。
「そこまで怒らないでください。私はトムのおかげで助かりました」
「彼は英雄です。あの戦場から生きて帰って来たのですから」
「英雄ですって!?」
アイリスは二人に向かって、刺々しい口調で言い返していた。
「私は! トムを英雄なんかにするために! 育てたわけではありません!」
アイリスは激怒していた。目は吊り上がっていたし、握りしめられた拳はいまにも振り上げられそうな気迫を感じる。ここまで怒った彼女を見るのは初めてで、トムも言葉を失ってしまう。その目がトムに向けられ、びくっと身体が震えてしまった。
「トム!」
「は、はい!」
「あなたもあなたよ! 一歩間違えれば、死んでたかもしれないじゃない!」
「でも、僕……」
「でもじゃない!」
アイリスはぴしゃりと言い切った。
「今回は運がよかっただけ。あなたの勇気は理解するけど、勇気と無謀は違うのよ?」
彼女は怒ったまま話し続ける。
「私、トムに死んでほしくないわ。あなたがいなくなったら……私は……どんな思いで、ひとり残されるか分かる!?」
そのうち、彼女の表情こそ怒ったまま変わらなかったが、だんだんと声色が涙混じりになってきた。ときどき、鼻をすすり上げながら、アイリスは語り続けた。
「トム。あなたはこんなところで命を賭ける必要はないの。ここで死んでしまったら、ジョナサン君との夢はどうするつもりだったの? 危うく、その夢も潰える所だったのよ?」
「それは…………そうかも、しれない」
死の魔法をすべて避けることができたのは、ほとんど奇跡だった。自分はもちろん、キクに当たっていたら、間違いなく戻ってくることはできなかっただろう。
トムが頷くと、ようやくアイリスの口元に微笑が浮かんだ。
「それなら、あなたの大事な夢のために、命を大切に使いなさい。だって、命は一つしかないのだから」
アイリスはそう言うと、拳に握りしめていた
「おかえりなさい、トム。無事でよかった……」
そのまま、アイリスはトムを抱きしめた。アイリスの肌の温かさと柔らかさ、心臓の鼓動を感じる。トムもおずおずと彼女の背中に手を回し、彼女にしか聞こえないほど小さな声で言うのだった。
「……もう、こんな危険なことはしないよ」
「約束してね」
トムは頷いた。
まさか、こんなに彼女を困らせることになるとは思ってもいなかったのだ。
アイリスの温かさを肌で感じながら、トムは静かに目を閉じる。このときになって、ようやく戦場で感じた底冷えのするような恐怖が追いついてきた。それまで、興奮と理性で抑えていたものが膨れ上がってくる。
だから、いまはただ温もりに包まれていたい。闇祓いの偉そうな激励より、彼女の言葉がゆっくりと優しく心に染みわたっていった。
「ただいま、アイリス」
トムは
トム・マールヴォロ・リドル、初めての冒険はこうして幕を閉じるのだった。