マグルの世界は不景気だ。
魔法界も景気がお世辞にもよくないが、ホグワーツのなかでそれを感じることは少ない。城に仕える屋敷しもべ妖精たちは「先生たちと子どもたちに不便をかけさせるものか!」と一致団結し、魔法を駆使してくれるおかげで、これまでと変わらぬ生活を送ることができている。
ただ、ここの外は違う。
トム・リドルは、そのことをひしひしと感じていた。
たとえば、スラグ・クラブ。
出される食事や会話の内容に特別な変化はないが、スラグホーンが招く著名な魔法使いや魔女たちの装いや態度が変わっている。誰もが「このご時世に、こんなご馳走を用意できるとは」と驚くし、毎回新調したドレスローブを纏っていた魔女はここ2回ほど着回しをしている。
また、招待客の誰もが「最近の戦況は」とか「グリンデルバルドが」とか話したがり、トムとしても気になるのだが、スラグホーンは「今日くらいは、そういう話は抜きにしよう」と会話の流れを変えてしまうのだった。
「トム、彼のために一曲弾いてくれないかい?」
スラグホーンに頼まれると、嫌と断ることはできない。
「はい、先生。もちろんです」
トムはヴァイオリンを奏でる。
すると、必ず――招待客は目を潤ませ、涙を一筋零すのだった。少し前までは「こんな子どもが!?」と驚きの声が大きかったのに、いまでは感謝の言葉が先に出てくる。
「美しい調べを聴けた。君のおかげで、明日からの仕事も頑張れそうだ」
と。
だから、トムは微笑みと共にこう返すのだった。
「音楽には癒しの力がありますから」
音楽ほど正直で現実を忘れさせる薬は存在しない。
弓で弦を正しく擦れば、正しい音を奏でてくれる。その世界に嘘はなく、真実しかなかった。もちろん、魔法薬も正しく調合すれば適切な効果を発揮してくれる。だが、深い悲しみや見たくない現実を忘れさせるような劇薬を飲んだが最後、副作用で結局もとより辛い状態になるだけだ。その点、音楽は薬ほど反動がない。素晴らしい音楽に身を委ねている間は現実を忘れられるし、肉体的に痛めつけるものではなかった。
少なくとも、トム・リドルはそう信じていた。
「トム」
スラグホーンは柔らかい笑みを浮かべた。
「君ほど完璧な学生はいない。夏休みが終わったら、君の胸には間違いなく真新しいバッジが輝いているはずだ」
「未来は確定していませんよ、先生」
トムが謙虚な笑みを浮かべると、少しばかり肩をすくめた。
「僕よりアルファードの方が監督生に向いていると思います。『死喰い人』を実質仕切っているのは、彼ですから」
トムはそう言うと、隣に座っている少年に視線を向けた。
「そうだろう、アルファード?」
「あのなぁ、俺より君の方がずっと適任だよ」
アルファードは苦笑いで返した。手元にあるグラスをゆらゆら揺らしながら、大袈裟にため息をついて見せる。
「我らがスリザリンの監督生はトム・リドル。天地がひっくり返っても、俺になることはないよ」
「アルファード!」
しかし、彼に叱責が飛んだ。
彼の姉、ヴァルブルガが切れ長の目を細めていた。
「彼は確かに監督生にふさわしいですが、最初から諦めるなんて……ブラック家の恥ですわ。あなた、当主になる自覚はありませんの?」
「当主といっても、分家だろ?」
「分家であれど、ブラック家の名を背負うことに変わりはありませんわ」
ヴァルブルガが冷たい声で続けるも、アルファードの心には届いていないようだった。彼はやれやれと首を振ると、グラスに入ったバタービールを飲み干した。そして、心のこもっているとは思えない大仰な口ぶりでこう言うのだった。
「……なんとかなりますので、姉上様は安心して本家に嫁がれてくださいませ。僕と違って、オリオンは頼りになる男ですから」
アルファードが言うと、テーブルの端でカタっと音がした。
トムが視線を向けるまでもない。そこにいるのは、1年生のオリオン・ブラックとシグナス・ブラックだった。ここに集った者で最も小さく一番幼い少年2人は顔こそ平静さを保っていたが、肩に力が入っていた。オリオンはシグナスと一瞬視線だけ合わせたあと、わざとらしい咳払いをした。
「アルファード兄様も頼りになるではありませんか。特に『死喰い人』のリーダーと肩を並べて舞台に上がるとは、光栄に思っています。いまの魔法界で『死喰い人』を知らぬ者はいませんから」
「そういうところだよ」
アルファードはそう言うと、空になったグラスをテーブルに置いた。
「俺は宿題が終わっていないので、これで」
そのまま、一礼をして去ってしまう。
トムも急いで立ち上がった。
「先生、僕もこれで失礼させていただきます。僕も元気爆発薬のレポートが終わっていませんから」
「あ、ああ。だが、無理は禁物だぞ。トム……君は前回も規定より羊皮紙2枚も多く書いているのだからね。ほどほどにな」
「書きたいことが溢れてしまうのです」
トムはヴァイオリンを鞄に仕舞うと、部屋を退出した。すぐに周囲に目を走らせると、アルファードは廊下の角を曲がるところだった。
「アルファード!」
トムが声をかけると、彼はわずかに驚いたように立ち止まった。
「どうして、追いかけてきたのさ?」
「僕も宿題が終わっていないからね。書き足し忘れたことがあるんだ」
「本当にそれだけかい?」
「しいていうなら、今日は早く帰りたかった気分だった。それだけだよ」
トムはいつもと変わらぬ調子で言った。
アルファードはまじまじとトムの横顔を見つめたあと、頭の後ろに腕を回した。
「あーあ! トムってそういうとこあるよなー。前から思ってたんだけどさ、君は組み分け帽子にグリフィンドールとかハッフルパフを勧められたんじゃないか?」
「残念ながら、最初から『スリザリン』だったよ」
帽子は「スリザリン」に入れる気満々だった。
しかし、トムは「スリザリンだけは嫌だ」と思ったのだ。自分のなかに流れる「スリザリンの血」なんかのせいで、そいつの名前を冠する寮に入れられたくなかったのだ。
トムと帽子は論争した。帽子は「他の子どもなら願いを聞き入れたが、君は偉大なるサラザール・スリザリンの末裔だ。なぜ、偉大なる祖先と同じ寮に入らない? 先祖と同じく偉大になる道が開けているというのに」との一点張りで、トムの願いを聞き入れてくれなかったのだ。
「最初からスリザリン一択かー。組み分け帽子って、意外と頑固だな」
「……君もスリザリン一択だったのかい?」
「……ご想像にお任せするよ」
アルファードの返事は曖昧だった。
それっきり、なにも言おうとしなかった。
トムもしばらく黙っていたが、寮に着く手前でこう呟いた。
「君がグリフィンドールやハッフルパフでも、僕たちは友だちになってたと思うよ」
「え?」
アルファードが足を止める。
トムも自然と揃えるように歩みを止めた。
「君は僕に興味を持ったはずだ。なんてったって、半純血のスリザリンの末裔だからね。おまけに、マグルの世界の有名人ときた。マグルの親友もいる。そんな面白い存在、君が見て見ぬふりできるはずがない」
トムはアルファードを見なかった。わざと壁の方に視線を向け、何気ない口調で言葉を続ける。
「だから、なにか悩んでいることがあれば、僕に相談するといい。僕たち、友だちだろ。友だちって、そういうものじゃないのか?」
「……そうだな。いつか話すよ」
トムには見えなかったが、アルファードが少し微笑んだ気がした。
「でもさー、トムはいろいろ背負いこみ過ぎじゃないのか? 学校の勉強、ヴァイオリン、魔法生物とハグリッドの世話。それから、最近だと魔法薬も研究してるじゃないか」
「ハグリッドの世話をしているわけじゃない。あいつが向こうからやって来るんだ」
トムはちょっと忌々しそうに言った。
「アイリスの命の恩人だからだよ。だから、ほっとけない。それだけ。だいたい、魔法生物とハグリッドを同じところに並べるな。なんというか……失礼だろ!」
「魔法生物に? それとも、ハグリッド?」
アルファードがくすくす笑っていた。
トムは内心安堵しつつ、アルファードに顔を向けた。アルファードの顔色に普段の明るさが戻っていることを確かめると、トムはポケットに手を入れた。
「どっちでもいいだろ。ほら、帰るぞ。特別に宿題を見てやる」
「本当に!? レポート、写させてくれないか!?」
「それは駄目だ。自分の頭で考えないと身につかないだろ」
二人で並び、寮に向かって歩みを進める。
しんっと静まり返った廊下に、二人の足音だけが響いていた。
「……マグルの世界でどうだか知らないけどさ」
アルファードが口を開いた。本人なりに重い話をするつもりなのか、声を潜めたようだったが、それでも夜の廊下に響き渡っている。アルファードはそのことに気づき、一瞬躊躇したように口を閉ざしたが、覚悟を決めたように話を続けるのだった。
「ドイツやポーランドのマグル生まれの魔法使いやマグルを守ろうとする魔法使いがさ、グリンデルバルドに捕まってるって噂があるんだ。あくまで、噂だけどさ……」
「酷い話だけど、それがどうしたんだい?」
「いや……そういう空気って、マグルの世界に影響を及ぼしてることがあるから。君の親友は大丈夫か、気になっただけさ」
今度はトムが何も言えなくなる番だった。
1年生の時、アイリスがチェコスロバキアのマグルを引き取ろうとしていたことが脳裏をよぎった。そのときに、ドイツ国内で広がっている活動について知った。そのあと、アイリスが同じ理由でフランスからジョナサンを助け出そうとしていることも知った。結局、フランス侵攻で流れてしまい、ジョナサンはフランスを脱出できないでいた。
ジョナサンは可哀そうだ。
新しい両親は年老いて、遠くまで歩くことが難しい。おまけに、婚約者のラシェルまで一緒に住んでいる。ラシェルの両親はパリから逃げる際にドイツ軍の空爆に巻き込まれ、命を落としてしまっていたのだ。
「……逃げた方がいいとは手紙で伝えてるよ」
やっとの思いで、トムは力なく返した。
「でも、あいつは……あいつの両親に逃げる気はないんだ。『強制労働は働ける男だけ。子どもや女は大丈夫』ってね」
「でも、それはそれで危ないんじゃないかい? 君の親友は僕たちと同じ15歳だろ?」
「もうすぐ16歳。でも、まだまだ子どもだ。あいつは無事だよ」
トムはだんだんと自分に言い聞かせるように話していた。ジョナサンに危害が及ぶはずがない。いくら身長が高くても、あの細腕で肉体労働は無理だ。だから、問題ないと思い込もうとしていた。
しかし、その一方で脳の冷静な部分が危険だと叫んでいた。
「……でも、差別されてる民族だから、胸に黄色のバッジをつけることを強制されてるらしいんだ。それがあるから、メリーゴーランドにも乗れないし、公園にだって行けない。カフェやレストランにも、図書館にも……」
「それって、かなり危険なんじゃないか?」
「だけど、フランスはフランス人が統治してる。ドイツ人じゃないし、自国民は守ろうとしてくれる。……少なくとも、ジョナサンの家族はそう思ってる」
それに、もう移住はできない。
行政の許可なく勝手に引っ越すと、罰則があるらしいのだ。足の不自由な高齢の両親と子ども2人の一家が、法を犯してまで国外へ逃亡するには、あまりにもリスクが大きすぎた。
「それに、本当に危険なときは『カシェ街』に逃げてくるように伝えてあるんだ。ほら、僕の家の屋敷しもべ妖精が定期的に手紙を受け取りに行くだろ? そのときに、彼と彼の一家を連れて逃げることができるように」
トムがわざと明るく言うと、アルファードも声の調子を軽やかなものにした。
「とってもスリル溢れる作戦だけどさ、国際魔法機密保持法違反じゃないか。監督生のバッジ、貰えなくなるぞ。下手すれば、退学かもしれない」
「上等さ。でも、退学は困るな。アイリスが悲しむ……ま、そうなったらそうなったで、マグルの音楽学校に進学するさ」
トムはいつのまにか止まりかけていた足を大股にして、スリザリン寮の入口の壁に向かって歩き出す。
「僕はそれなりにヴァイオリンが得意だからね。同年代の奴らはもちろん、先輩や先生方も軽々と追い越す自信がある。でも、僕はホグワーツを辞めるつもりはまったくない。ホグワーツで誰よりも深く魔法を極めるし、マグルの音楽の世界でも頂点に立ってみせる」
トムは灰色の壁の前に立ち、にやりと笑い――寮の合言葉を口にした。
「それが僕の『大望』さ」
「それ、野望の間違いじゃないか?」
アルファードは意地悪そうに笑った。
なにもなかった壁には、巨大な蛇のアーチが現れていた。その中心にある扉をくぐり、2人は子どもらしく笑いながら寮へと入ったのだった……。
それが、今年の7月。
休暇前、最後の日曜日のことだった。
だから、トムは信じたくなかった。
つい数週間前、アルファードと話していたことが現実になってしまったのだ。
しもべ妖精のディークが手紙を取りに行ったのに、そこにはジョナサンの姿はなく、代わりに座り込んでいたのは憔悴しきった婚約者のラシェルだったのだから。
「ジョナタンは、私を逃がしてくれたの」
ラシェルはフランス訛りの英語で、ぽつぽつと語ってくれた。
「自転車競技場がいっぱいになるくらい、人が集められていたわ。座るところもないくらい……毎日、誰か死んでた。悲観して、上の階から飛び降りてたの」
「でも、君はそこから逃げた。そうだろう?」
「赤十字に助けを求めたの」
ラシェルが言うには、自転車競技場のトラックの中心に赤十字のテントがあったらしい。収容者1万人以上に対し、5、6人の看護師と1人の医者。長蛇の列が連なっていたそうだ。それでも、この空間において、中立で人道的な組織は赤十字しかない。
「ジョナタンは言ったわ。『僕は両親がいるから逃げられない。でも、トムなら……助けを求めたら、ここに必ず来てくれる。君は、トムを呼びに行くんだ。それまで、僕は両親といる』って……」
ラシェルは赤十字を通して、外に出るための協力者を教えてもらった。数は少なかったが、赤十字以外にもトイレの配管工など設備の維持のため仕事しに来るフランス人もいたのだ。
胸のバッジをジョナサンに託すと、通行証を偽造してもらい、「夫の忘れ物を届けに来たフランス人」を装って外に出た。自殺者の履いていたヒールで背を高く見せ、ストールで頭を覆い、堂々と背筋を伸ばして歩いて出口に向かって歩く。警備を担当していたフランスの警察官も「通行証」があるおかげで、疑われることなく外に出ることができたそうだ。
「後ろでジョナタンが見守っているのが分かったわ。でも、振り返れなかったの。振り返らずに、言われた場所まで走って、それで……」
ラシェルの顔色は酷いものだった。
満月の日が終ったあとのフェンリールと同じくらいかさらに悪い。
「ジョナサンを助けに行く」
親友がようやく助けを求めてくれた。遅すぎたかもしれない。だけど、それに応えるのは当然のことだった。
アイリスがたとえ許してくれなかったとしても、ディークに頼み込んで単身乗り込んでいたことだろう。たとえ、彼が囚われている場所が宇宙の彼方であったとしても、躊躇うことなく迷わずに箒で飛んで行ったはずだ。
「行きますよ」
ディークが言った。
トムとニュートはディークの手をつかむと、その場で回転し「姿くらまし」した。姿くらましの暗闇に入り込む直前、アイリスの心配そうな顔が見えた。祈るように指を組む姿を見て、トムはこんな状況なのに笑いだしたくなった。
(都合がいいな、本当に)
いつもは神様なんて信じてないくせに、このときばかりは本気で祈っている。
俗物というべきか、変わり者というべきか――どちらにせよ、とても「アイリスらしい」と思った。それと同時に、絶対に彼女のところに帰って来ると誓った。
ジョナサンと両親を連れて、ここに帰って来ると。
「うっ」
そんなことを考えていたとき、トムたちは硬い地面を感じ、夏の蒸し暑さと同時に酷い臭いが鼻を襲った。トムもニュートもディークも同時に鼻を覆った。それでも、強烈な汚臭を遮ることは難しい。詰まったトイレの真ん中に落とされたような激臭である。
「いったいどこから漂ってくるんだ?」
トムは辺りを見渡した。
ビルの合間にいるようだった。ビルの隙間から、エッフェル塔が堂々と立っているのが見えた。
「トイレが詰まってるのかな?」
「いや、その程度でここまで臭わないよ」
ニュートが服の袖で口元を覆いながら呟くと、歩きはじめた。
「……あそこからだ」
トムもニュートの視線の先を辿り、言葉を失った。
ビルの合間を抜けると、そこには巨大な競技場があった。臭いは明らかにそこから漂ってきている。だけど、トイレがちょっと詰まった程度でこんな臭いがするはずがない。屋内競技場らしくドームになっているのに、そこから強烈な臭いが漂ってきている。通り全体を覆うような酷い汚臭を発するはずがない。
「ジョナサン……君、そこにいるのかい?」
トムの問いかけに、答える者は誰もいなかった。
「死臭ではないよ」
ニュートが慰めるように言ったが、表情からはなにも読み取ることができなかった。
「だけど、人の気配もない」
「もういないってこと?」
「大丈夫、僕たちにはこれがある」
ニュートは杖を取り出した。
それを見て、トムの顔にもわずかに笑顔が戻った。
「僕たちは魔法使いだからね」
トムも自分の杖を握りしめると、ニュートと一歩踏み出すのだった。
※投稿後、組み分けに関するミスが発覚したので訂正しました。(2025.2.2)