※後書きに更新に関するお知らせがあります。
「『
ニュートが軽く杖を振った。
トムは期待を込めた視線を向けたが、彼の顔色は変わらない。
「誰もいなくても、なかに入りたい」
トムは競技場を睨みつけた。
「ジョナサンのことだから、なにか残してるはずだ」
トムには確信があった。
ジョナサンはトムが来ると信じていた。けれども、トムの到着が間に合わなかったときは、なにかしらの痕跡を残しておくはずである。
「ジョナサンが座ってた席は分かってる。もうなにもないかもしれないけど、確認したいんだ」
「……分かった。行こう」
ニュートはわずかに笑みを浮かべると、競技場の裏口に向かって歩き始めた。正面口にはフランス人の憲兵が二名ほど立っていたが、裏口には誰もいなかった。鍵はかかっていたが、魔法使いの前でマグルの錠前は意味をなさない。ニュートが杖をかざすだけで、がちゃりと音を立て開いた――が、その瞬間、鼻が曲がるほど強烈な汚臭が熱風に乗せられ畳みかけるように押し寄せてきた。
「うぐっ!?」
トムは両手で口元を押さえたまま、嘔吐きを必死に飲み込んだ。
これには、トムだけでなく、ニュートもディークも顔色が変わった。ディークは咳き込み、ニュートのポケットから顔を出していたピケットは「おえー」とあからさまに身体を垂らした。
外まで漂ってきていたのだから、内部はさらに酷い状態だと予想していたが、それを遥かに上回る汚臭に絶え間なく吐き気が込み上げてくる。あまりの強烈さに目の前がくらくらして、思考まで持っていかれそうだった。
「トム」
ニュートが名前を呼んだ、と思ったとき、ふっと爽やかな風が一吹きした。新鮮な空気が周囲に満ち、トムは貪るように息を吸い込んだ。あいかわらず、7月の暑さは肌で感じていたが、数度深い呼吸を繰り返すうちにうんざりするような臭いの名残も消え、はるかにマシになり、トムはようやく辺りを見渡す余裕が生まれた。コンクリート造りの内装は殺風景で、どこまでも味気がなかった。なにか物が置いてあるわけでもなく、これといって見所はない。つまらない場所だ、と思いながら顔を上げると、ニュートの頭について異変に気付いた。彼の頭は、まるで金魚鉢を逆さに被ったような空気の球で覆われていたのだ。トムはすぐに先ほどの風の正体に気づいた。
「泡頭の呪文?」
「これが一番手っ取り早いからね」
ニュートは強張った笑みのまま答えた。
鏡がないので分からないが、トムの頭も似たような泡で覆われているに違いなかった。トムだけではない。ディークやピケットの小さな頭も泡を被っていた。
「ありがとう。おかげで、息ができるよ……でも、妙だな」
トムは暑さで袖をまくりながら言った。
「トイレが詰まったくらいで、こんなに臭いはしないし、そもそも、ここは競技場だよね? たくさんの人がトイレに来ることを想定して作られているはずだ。そう簡単に詰まらない……いや、違うな」
トムは話しながら自分の考えを否定する。
「住むために造られてはない。だから、たくさんの人が使い続けて、すぐに詰まったのか。だけど……」
その先に浮かんだ言葉を飲み込む。
詰まってしまったのであれば、修理業者が必要になるだろう。だが、そう簡単に修理できるとは限らない。またすぐに詰まってしまうかもしれない。その間、どこで皆が用を足すのだろう? 答えは思い浮かんだが、あまり信じたくない。
トムが言い淀んでいると、ニュートが口を開いた。
「……君の想像は正しいよ」
ニュートは静かに言うと、大きな扉に手をかけた。
扉の向こうは静寂で満ちていた。
巨大な自転車競技用のトラックを中心に、見渡す限りの観客席が広がっている。天井も非常に高く、巨人でも1、2体であれば収容できるのではないかと思うような広さだった。
「トム、見てごらん」
ニュートに言われ、トムは彼の視線を追った。競技場の壁が酷く汚れていた。それも、人の膝より下あたりの壁と床が変色している。さながら、何度も何度も水を垂らしたような痕跡と酷似していた。そこから少し先の床に落ちていたものが視界に入り、トムは咄嗟に目を逸らしてしまう。ここでなにが起きたのか理解するには、それで十分だった。
「……こんなこと、許されるはずないだろ」
気が付くと、トムの口からそんな言葉が零れていた。
「身を隠す場所も、水道もないところで用を足せ? 臭いの対策もしてなくて、ちゃんとしたベッドもない場所で数日過ごせ!? おまけに、水も食料も与えられないって……なに考えてるんだよ!? 孤児院の方が、遥かにマシじゃないか!」
トムの激昂は、誰もいない屋内競技場に空しく響き渡った。
ニュートもディークも何も答えない。
トムはやるせない気持ちを押し殺すように、拳を強く握りしめる。強く握りしめ過ぎて、爪が皮膚にめり込み、わずかに血が滲む。その痛みが少しばかり脳を冷静にさせた。ここで自分が怒ったところで、ジョナサンやここに収容された人々の身に起きたことは変えることができない。今、自分がやることはジョナサンからのメッセージを探すことだ。そうに違いない、と自分を言い聞かせ、トムはずんずんと観客席を歩いた。
「……あった」
しばらく進むと、ベンチの床部分に白いチョークで描かれた落書きがあった。
何人かの人間が踊っているような絵が連なっている。まるで子どもの落書きのようだったが、それを見た瞬間、トムの昔の記憶が蘇った。ホグワーツのような魔法学校が存在すると信じておらず、まだ王立音楽院を純粋な気持ちで目指していた頃、ジョナサンと作った暗号があった。自分たちが好きだったホームズに登場する暗号をもじり、互いに謎解きゲームをしたものだ。
「『ここ』って書いてある。ということは……」
絵が描かれた場所のベンチの裏を覗き込むと、メモ用紙が貼り付けられてあった。よほど急いで書いたのだろう。メモ用紙には、同じような暗号が乱雑な走り書きで記されていた。どんなときでも、1字1字ゆっくり丁寧に書くのが彼の良いところだったのに、そうしていられない切迫さがあったことが、ひしひしと伝わってきた。
「なんて書いてありますか?」
ディークが不安げに尋ねてきたので、トムは手紙に目を落としたまま答えた。
「『僕たちは、どこかに移送されるみたい。フランス国内の刑務所って言う大人もいれば、東に移住させられるって人もいるし……トム、君に頼みたいのは、僕の家に行って欲しい。レベッカが取り残されてるんだ。それから、僕の右側の机の引き出しに、できたばかりの新譜がある。いままでの最高傑作だ。書きかけの作品をも含めて、君に託したい。それから、ラシェルには自分を責めずに、幸せになってと伝えて――……』」
トムは意図的に口を閉ざした。そこから先を口にしたくなかった。「まるで、遺書みたいだ」と浮かんでしまった感想を抑え込むように奥歯を噛みしめる。くしゃっと手紙の端に皺が寄り、暗号の人型が歪むように潰れた。
「すぐに、ジョナサンを……」
そう言いかけ、トムはレベッカのことを思い出した。
パピヨンのレベッカ……エンラクの母であり、ジョナサンと一緒に追い出され、海を渡った可哀想な老犬。今の今まで忘れていたが、ジョナサンが囚われてから数日、犬一匹だけ閉じ込められているのはあまりにも可哀そうだ。
「ジョナサンの家に行きたい」
しばらく迷った末、トムはそう選択した。
「すぐに保護して、それから急いで行き先を調べよう」
「分かった」
ニュートはすぐに頷いてくれたが、その表情は険しいものだった。
「行こう、住所は分かるね」
トムたちはその場で「姿くらまし」をした。
ジョナサンの家の裏手に「姿現し」をしたが、そっちの方はまだまともだった。真夏の暑さは残っていたし、太陽の日差しは眩しかったが、それでも汚物はなさそうである。ニュートは家を見据えたまま、泡頭の呪文を解いてくれた。案の定、夏の庭特有の湿った臭いはしたが、他に異変らしきものはない。
だが、トムが安堵するのもつかの間、誰もいないはずの家のなかから音が響いてきた。どことなく楽し気で騒がしい声も聞こえてくる。
窓から様子を覗き込むと、何人かの男女が忙しなく動いていた。一瞬、ジョナサン一家が逃げて戻って来たのだという希望が込み上げてきたが、それはすぐにかき消された。
「どう? このコート! 似合ってるでしょ? ウサギの毛皮よ、気になってたの!」
「それより、飾り時計だ。細工が凝ってる……! スイス製だ!」
「オーク材のテーブル……形がいい。誰か手を貸してくれないか?」
窓の隙間から漏れ聞こえる声は、俄かに信じがたいものだった。
間違えて、デパートか雑貨店に現れてしまったのか? とさえ思った。冷静になれ、冷静になれ、と言い聞かせるたびに心臓が早鐘をうち、息が荒くなっていくのが分かった。
「あのカーテン、品がいいわ。素敵ね……!」
「あら、ちょっと! やめて! 私が狙ってたんだから!」
二人の女性がもみ合いながら、カーテンを外したとき――トムと目が合ってしまった。二人の動きがぴたりと止まった。だが、それもすぐに終わり、またカーテンを取り外す作業に戻ってしまう。
「あ……」
トムの思考が止まった。
次に我に返ったとき、家のなかは悲鳴で満ちていた。
トムは部屋の中心にいて、その周りを囲むように男女5人が床に這いつくばっていた。誰もが逃げ出したいのに、手足が見えない縄で縛られているように動くことができず、指先ひとつ動かせない状態だった。やや色褪せたワンピースの上に毛皮のコートを纏ったおばさんがどうにか逃げ出せまいかと、ばたばた動こうとする。もちろん、無駄な抵抗だ。
トムが彼女たちの姿を眺めていると、年長者だと思われる男性が叫んだ。
「赤い目の悪魔だ! 神父様を呼ぶんだ!」
男性は労働者風の服を着ていたが、首から拳大の金時計を下げていた。床に転がっていることで金時計の裏面がかすかに見えた。フランス語は得意ではないが、ジョナサンの祖父の名前が大きく刻まれていることだけは読めた。
「悪魔?」
トムは冷ややかな目でそいつを見下した。
「悪魔はどっちだよ。人様の家に勝手に押し入るとか、盗人じゃないか」
「ぬ、盗んでなんかないさ。ここの奴らがいなくなったから、引き取りに来ただけだって」
男性は引きつったような笑顔をしていた。だけど、トムの赤い目が恐ろしいのか、こちらに視線を向けることはなく、ただただ震えあがっている。
「こ、こ、ここの奴らは戻ってなんか来ないんだ。それに、おれたちがやらなくても、せ、政府の連中が持って行っちまうだろ? どうせなくなるなら、おれたちが盗んでも――……」
「戻ってこない?」
トムは屈みこみ、そいつの頬に杖先を押し付けた。
ごく一般のマグルならどうってことはなかったかもしれないが、彼らはトムが杖を振り、魔法を操る姿を目撃していた。杖の恐ろしさと絶対的な力は骨まで染み入っており、男を含めた誰もが一斉に震え上がった。
「ジョナサンが戻ってこない? なぜ、断言できる?」
「ひぃっ! み、見逃してくれ! だいたい、おれたちは、さっきここに来たばかりだ。つい10分前! たった10分前なんだ! そのまえには、三軒向こうの家が見に来てたし、あっちの通りの夫婦もここに来て――」
「聞こえなかったか?」
トムは足を男の肩に軽く乗せ、杖で頬を軽く叩いた。彼の頬を叩くと、ぴりっぴりっと赤い火花が散った。ただ火花を散らしただけで、特別な魔法も痛みも与えていないはずなのに、男は部屋を震わせるほどの悲鳴を上げた。そんな男に対し、トムは淡々と尋ねていた。
「質問に答えろ。どうして戻ってこないと断言できる」
「だ、だ、だって、れ、れ、連中は逮捕されたんだ。逮捕された連中はみんな別の場所に移住する。ゆ、ゆ、有名な話だぜ?」
「別の場所とは一体どこだ?」
男の青ざめた顔を無理やり覗き込み、淡々と聞き返した。
「さっさと吐け」
「東だよ! 労働キャンプがあるとか、連中のための理想郷を造るとか、なんとか……」
「理想郷? お前、馬鹿にしてるのか?」
トムは声を荒らげた。
「理想郷を造るのに、家具も財産も思い出もなにもかも持たないで連行する? 早朝に押しかけて、身支度も10分で、あんなふざけたところに何日も押し込んで――……っ!!」
「トム!」
トムは肩をつかまれ、弾かれたように振り返った。
そこにいたのは、哀しそうな顔をしたニュートだった。静かに首を横に振り、寄り添うような声色でこう言った。
「トム、それ以上は良くない」
「だけど!」
「トム」
ニュートはもう一度、首を横に振る。
「いまは、レベッカを探すことが最優先だ。そうだろう?」
そう言うと、背中をぽんっと軽く叩き、ニュートは部屋から姿を消した。トムは怒りの叫びを強引に飲み込み、やるせない気持ちを放出するように大きく腕を振った。その衝動か、はたまた緊張と恐怖のせいか――床に転がっていた狼藉者たちは全員気を失っていた。
「トム」
ニュートの呼ぶ声が聞こえる。
トムは吸い寄せられるように、そこへ歩いて行った。声の方に歩けば歩くほど、嫌な臭いが漂ってくる。ただ、今度は汚物の臭いとは異なるものだった。
「……死んでる」
台所の床に、パピヨンが倒れていた。エンラクが産まれた日に見た以来だったが、切なくなるほどやせ衰えてしまっていた。トムはニュートがレベッカを調べる様子をただただ眺めることしかできなかった。
「餓死もあるだろうけど、腹部の打撲も死因の一つだ。誰かが蹴ったに違いない。この炎症の具合を見る限り、軍靴だろう……死後、2日は経過している」
ニュートは杖を振り、白い布を生み出すと小さな老犬に被せた。防臭の魔法もかけたらしく、腐った臭いも少しずつ消えていった。
「……トム、ここに長居はできない」
「盗人が訪ねてくるから?」
「いや……嫌な予感がするんだ」
ニュートはマグルしかいないはずの家なのに、ひりついた緊張感を纏っていた。
「玄関の方に回ったら、男が2人いた。この家を見張っている。とりあえず、意識は奪ってきたけど、20分も持たない」
「見張る? なぜ?」
「分からない……ただ……」
ニュートは何か言おうとしていたが、切り替えるように別の話題を口にした。
「トム、僕はマグルたちの記憶を変える。君は、ジョナサン君が渡したがっているものを取って来るんだ。時間があれば、他の家族が思い出にしているような品も……だけど、無理だけはしないように。10分でできるね」
ニュートの有無を言わさぬ真剣な声に、トムは頷くしかなかった。
この家を見張っている? なぜ、どうして?
行き場のない怒りと疑問ばかり込み上げてきて、頭が煮えてしまいそうだった。それでも、トムは自分のできることをしようと思った。
台所を出ると、家主が去ってからこの家がどんな仕打ちを受けたのか……嫌になるくらい伝わってきた。引き出しという引き出しは開けられ、書類やらなにやら中身が散乱していた。散らかったものを踏まないように歩くことが困難な場所もあった。
「……あった」
ジョナサンの部屋も同じような扱いを受けていた。
南側の日当たりの良い小部屋はすっかり散らかり、床には手書きの楽譜が落ちていた。トムは身を屈めて楽譜を黙々と拾った。中身を読む時間はなかったが、そのなかに自分の筆跡の楽譜が混じっていることに気づいた。こんなもの書いたっけ? と疑問に思いながら手を伸ばせば、たった6年前――けれど、トムからしたら気が遠くなる昔に誕生日プレゼントとして渡した「魔弾の射手」の写しだった。それも黙ったまま鞄に詰めた。ジョナサンに宛てた手紙も散らばっていたので、それも回収した。
「……」
トムは立ち上がり、もう一度――彼の部屋を見渡した。机上には、いつかの誕生日に一緒に撮った写真が飾られていた。これも手に取り、鞄にしまった。クラリネットのケースはあったが、中身は空っぽだった。ヴァイオリンはケースすらなかった。学校の優秀者を称える賞状には踏まれた跡があった。
「ふざけるなよ」
この頃には、怒りよりも虚しさが心を占めていた。
先ほど、自分が怒りに任せてこらしめたマグルたちは、どこにでもいそうな人たちだった。少なくとも、ジョナサン一家の家財を前にはしゃぐ姿はセールに興奮する一般人と何も変わらない。前にパリを訪れたとき、すれ違っていたとしても不思議ではないだろう。
「……悪魔、か」
久々に突きつけられた言葉を繰り返す。
恐怖に彩られた目で「悪魔」と断定されたとき、ぞわぞわと背筋が逆立っていた。あの言葉で、自分は孤児院を出た幼い頃のガキに戻ってしまったような気にさえなった。
「僕は悪魔じゃない。魔法使いなんだ」
額に浮かんだ汗を袖口で拭うと、ちらっと腕時計を確認する。あまり時間は残されていない。その間にできることをしよう。余計なことは一切考えるな、と自分に言い聞かせる。
「『アクシオ』」
呪文を唱えれば、部屋の隅に転がっていたアルバムが飛び込んできた。さっきの楽譜も魔法で集めれば楽だったし、時間短縮になったのに……と、思う一方、魔法を思い出していても、手で拾い集めたことだろう。トムはそんな自分に気づき、苦笑いを浮かべた。
部屋を照らす日差しが、徐々に西に傾き始めている。
まだ1日、されど、あと1日。
刻一刻と、約束の時間が迫っていた。
次回更新は2月14日(金)を予定していましたが、申し訳ありません。都合により、2月16日(日)に延期させていただきます。