その日の夜、トムは眠れなかった。
ニュートが出現させた簡易ベッドに潜り込むも、どうしても目が覚めてしまう。
パリはいまや完全に敵地だったが、この場所だけは少なくとも安全が保障されていた。かつて、ニコラス・フラメルの住んでいた家屋に保護魔法がかかっていたので、そこに潜り込んで夜を越すことになったのである。ニュートとディークで新たに保護魔法を追加し、綻んでいた箇所を修繕したので、一日くらいは大丈夫だと確信していた。
しかし、どうにも落ちつかない。
いくら目を閉じても、自然と開いてしまうのだ。
「……」
トムは寝返りを打った。
カーテンも閉ざされ、部屋は暗闇に支配されていた。そのなかで、ディークの輪郭だけが見えた。こんな状況だというのに、彼はすやすやと寝息を心地よさげに立てていた。
「……トム」
ニュートが囁きかけてくる。
「眠れないのかい?」
「瞼が閉じないんだ」
トムも小声で返した。
「ニュート。僕たち、こんなときに休んでいて良いの? ディークは分かるよ。疲れてたみたいだから」
そう言いながら、ちらっと屋敷しもべ妖精がいる方を見た。
年老いたしもべ妖精には、1日の内に国をまたいだ長距離姿現しを三度も繰り返したことは相当堪えたらしい。「しばらく休め」と命令してからは、糸が切れた人形のように倒れ込み、昏々と眠りを貪っていた。
「だけど、ニュート。僕は平気だ。徹夜だって問題ない。聞き込みでも何でもいけるよ」
「君も疲れているはずだよ」
そう言うと、ニュートはごそごそと動き始めた。なにをしているのだろう、とトムが身体を起こしたとき、ぼうっとランタンに火が灯った。といっても、ランタンの上に薄い布がかけられていたので、そこまで強烈な灯りというわけではない。淡い灯りは、ニュートとトムの間の狭い空間だけを照らしていた。
「ニュート……?」
「こういう夜には、ホットミルクが一番だ」
ニュートが杖を一振りすると、トランクから2つのカップが飛び出てきた。ご丁寧に牛乳が注がれている。トムが手に取ると、カップはじんわりと温まり、湯気が立ち始めた。
「子ども扱いしてる?」
トムは牛乳の表面に張り始めた膜を一瞥し、やや非難めいた口調で言った。
「僕、9月には5年生だ」
「そういうつもりはなかったんだ。ただ、僕の家ではいつもこうだった」
ニュートは少しばかりバツの悪そうに視線を逸らした。そして、手元のカップに目を落とすと、ぽつり、ぽつりと言葉を続けた。
「4年生の夏休みに、オーグリーの雛を連れて帰って来たんだ。他の雛は母鳥に任せて大丈夫だったけど、1羽だけ発育がよくなくて……僕が付きっきりで世話していた。朝も夜も、ずっと」
「夜も寝ないで?」
「3時間おきに給餌しないといけないからね。それに、いつ体調が変化するか分からない状態だったんだ……そんなとき、兄さんがホットミルクを持ってきてくれた」
「兄さん」と口にしたとき、ニュートの目に寂しそうな色が滲んだ。
「僕と兄さんは年が離れていたし、兄さんの好意が恥ずかしいと思ったときもあった。正直、このときも『僕のことに構ってないで、早く寝ればいいのに』って思ったよ。僕は学生だったけど、兄さんは闇祓いとして働き始めていたから……それでも、一緒にホットミルクを飲むと、心が落ち着くことに気づいた。あのときの味は、いまでも覚えている」
「……ニュートのお兄さんは、ニュートのことを大切に思っていたんだね」
トムが呟くと、ニュートは黙って頷いた。
「……トム。君が友だちを大事に想う気持ちは分かる。だからこそ、休めるときに休んだ方がいい。いざというとき、適切な判断ができるように」
「……だけど、僕は思うんだ」
トムもホットミルクに目を落とした。
「いま、この瞬間にも、ジョナサンが助けを求めているって……あんな場所で寝泊まりさせてた連中が、移送先でろくなベッドを用意するとは思えないって」
ベッドだけではない。食料は? 水は? トイレは? すべて整っているところに、移送されているとは思えなかった。
「ここに来る前、移送方法も分かっただろ? オーステルリッツ駅でさ、駅員が言ってたじゃないか。『たくさんの人を貨物車に詰め込み、運んで行くのを見た』って」
長距離列車ならトイレもついているし、安心した旅をすることができるはずだ。
しかしながら、彼らが乗せられたのは貨物車。貨物車にはトイレがついてないだろうし、貨物車から一般車両のトイレを借りに行くことなどできるとは考えられなかった。
「いま、こうしている間にも、ジョナサンは苦しんでいる」
「友だち想いだね」
ニュートは硬い笑みを浮かべた。
「『スリザリンは真の友を得る』……組み分け帽子が歌っていた気がするよ」
「他の寮でも、本当の友だちはできるはずだよ」
トムはそう返してから、少し違うなと思い直した。
アイリスに拾われる前の自分だったら、はたして本当の友だちができただろうか? という考えが頭を過ったのだ。あの頃の自分がそのまま育っていったら、少なくともジョナサンとは友だちにならなかったはずだ。ヴァイオリンを習えるとは夢にも思わず、こうして誰かを助けるためだけに異国の地へ出向くなんてこともなかった。そんな自分に、友だちができるとは――たとえ、アルファードたちが同級生にいたとしても、本当の友だちになれるか断言できなかった。
「少なくとも、いまはそう思う」
付け加えるように告げると、ホットミルクを口に含んだ。優しい甘さとほんわかとした温かさが喉から胃に染み入り、急に欠伸が出た。大口を開けてしまい、はしたないと口を閉ざす。それでも、込み上げてきた眠気が飛ぶことはない。トムは眠たくて涙が滲みだした目で、じろっとニュートを睨んだ。
「……あのさ、薬盛った?」
「なにも」
その頃には、ニュートの笑みが柔らかいものに変わっていた。
「それだけ、疲れていたってことだ」
トムは眠気にあらがおうとしたが、瞼がふるふると震えながら落ちていく。気が付くと、トムはホットミルクを床に置いて、毛布に身体を巻きつけていた。身体も横たえたまま、トムは力なく言った。
「疲れて、ないよ……眠くないんだ」
「おやすみ、トム」
トムには、ニュートの言葉が聞こえなかった。
枕に顔を埋め、瞬く間に眠りに落ちていたからだ。
ニュートはトムが寝入ったのを見届けると、あっという間にカップを片付けた。ランタンの灯を消し、足音を立てずに外へ出る。
ひっそりと、誰にも知られずに。
※
翌日、トムたちは朝食も早々に情報収集を続けた。
ジョナサン個人の行き先はつかめなかったが、冬季自転車競技場に連行された人たちが、ピティヴィエかボーヌ、ドランシーのいずれかの収容所に移送されたことだけはつかめた。
「1つずつ当たっていけば良いんだ!」
トムは安堵の息を零した。
だが、ピティヴィエにもボーヌにもジョナサンはいなかった。農場の家畜小屋のような場所に1000人以上の人が押し込められていたが、そのなかに親友は見当たらなかったのだ。似つかわしくない見張り台と銃を構えたフランス憲兵の目を潜り抜け、何人かの人に話しかけたが、誰も知らなかった。
「ここでは見ないが、お前たち……もしかして、ここの外から来たのか?」
何人か目を輝かせて聴いてきたので、トムは何も言えなくなってしまった。
代わりに、ニュートが短く答えた。
「自転車競技場から移送の際に友人とはぐれてしまって……諦めるしかないみたいですね」
そう言いながら、ニュートはポケットから杖を取り出し、小さく――本当に小さく振った。
すると、収容者たちはとろんとした目になった。
「ああ、そうか。見つかることを祈るよ」
「ありがとう。行こう、トム」
ニュートは杖をしまうと、トムを連れて収容所から脱出した。収容所の柵を魔法で一時的に取り除き、施設を囲むように生えた背丈の高い草に姿を隠す。ニュートは造作もないように、収容所の柵を元に戻した。そんな姿を見て、トムはこんなことを口走っていた。
「オブリビエイトは好きじゃない」
「僕もあまり好きじゃない。スウーピングイーヴルの毒液の方が好みだけど、この場合はこっちの方がいい。どんな呪文も毒にもなるし薬にもなる。使い方次第だよ――ディーク、次はドランシーだ」
ニュートが妖精の名を告げると、透明化していたディークが姿を現した。
トムは釈然としない思いだった。一瞬、彼らに手を伸ばすことを躊躇する。それでも、二人の手を取った。なにしろ、もう太陽は真上を通り過ぎていた。早くしないと、アイリスとの約束の時間になってしまう。一秒でも惜しかった。
「次こそ、ジョナサンがいる」
ところが、ドランシー収容所は様子が違った。
それまでの2つの収容所は人が詰め込まれ、騒がしかったが、やや静まり返っている。その代わり、子どもたちの楽しそうな声色が響いていた。
「……子どもしかいない?」
柵に近づいてみて、トムは目を丸くした。
そこには幼児から10代前半の子どもの姿しかなかったのだ。赤十字の看護師が二人ほど子どもたちの面倒を見ている他、大人の姿はどこにもない。トムの背中に冷たいものが伝った。
「僕、聞いてくる!」
トムはニュートの返事も待たず、収容所のなかに姿くらましをしていた。
物陰に潜み、赤十字の看護師が一人になるタイミングを見計らう。彼女が重そうな洗濯物の籠を抱え、小屋の中にはいったところで話しかけた。
「すみません、驚かせてごめんなさい。貴方に聞きたいことがあります」
看護師は突然現れたトムに驚いたようだったが、叫ぶ間も暇を与えずに話を畳みかけた。
「ここに、ジョナサン・ヴェイユという少年がいませんでしたか? 僕と同い年の少年で、高齢の両親が一緒だったと思います。母親は足が不自由です。僕、彼に会いに来ました」
「え、ええ、いたわ」
看護師は戸惑いながらも、はっきりと言った。
「でも、いないわ。昨日、大人たちは汽車に乗って出発したの」
「ジョナサンはまだ子どもです。15歳です」
「知らなかったわ」
彼女は首から下げた十字架を触りながら、怪しむようにトムを見ていた。
「確かに、顔立ちは幼かったけど、彼は自分のことを『16歳だ』と主張していたのよ。背丈もかなり高かったし……」
トムは一度、目を閉じた。
目の前が真っ暗になった。子どもだ、と主張していれば、まだここに残っていたかもしれない。それなのに、彼は自分が大人だと宣言したのだ。両親となった祖父母を見捨てないため、必死で背伸びをする彼の姿が瞼の裏に浮かび、なかなか消えなかった。
「どこに行ったか、知りませんか?」
「知らないの。ただ、東に移送されたとしか……私が知っているのは、子どもの分の車両まで用意できなかったってことだけ」
「大人だけ先に?」
「私も親と子どもを引き離すのは反対したわ。……だけど、安心して。人道的な配慮から、数日以内に子どもたちも親元に送るみたいよ」
看護師のあいまいな説明に、トムは拳を握りしめた。
「東って、どこだよ」
トムの脳内では、幾つかの国の名前が回った。東とは、いったいどこなのだろう? ドイツ? チェコスロバキア? ポーランド? それとも、さらに東にある国? そして、本当にそこでまっとうな人間として扱われるのだろうか? だいたい、親と子を引き離すような連中が、本当に人道的な配慮をするとは思えなかった。
トムの頭にもやもやとした疑念が浮かび上がり、不満と一緒に大声で叫びだしたかった。しかしながら、看護師の顔色を見て止めた。おそらく、彼女も同じことを想っているのだろう。声色こそ柔らかいものだったが、表情はどこまでも暗かった。
「あの……もしかして、貴方はトムという名前かしら?」
「そうですけど……?」
「彼から預かった紙があるの」
看護師はポケットから一枚の紙を取り出した。ポスターの端を千切ったような紙には、小さな文字でこう記されていた。
「『ここまで来てくれて、ありがとう。もう追わないで。できれば、僕を忘れて』……ふざけるな」
小さな紙をくしゃっと丸める。
「ふざけるなよ!!」
トムは場所を忘れ、力の限り叫んでいた。
「ここまで来て、もう追ってくるなって!? ふん、事情なんか知るもんか! 追ってやるよ、地の果てにいたとしても、必ず見つけてやる! お前のことを忘れるものか! カーネギーホールの舞台に引っ張り出して、僕と一緒に歴史に名を刻んでやるんだからな!」
トムは叫び終えると、肩で息をしていた。トムの声は狭い部屋のなかだけにとどまらず、当然のように外まで響いていた。子どもたちが、部屋の入口から何事かと覗いている。不安と好奇の入り混じった視線を向けられ、トムは口を閉ざした。彼らの顔を見て、何も言えなくなってしまった。
「貴様、何者だ!?」
フランスの憲兵も駆けつけ、銃口を向けてくる。
トムは咄嗟に両手を上にあげ、はっとした。憲兵の後ろに、誰かがいた。背が高い男が、杖を構えている。ドイツ人風の男の目からは殺意がありありと滲み出ていた。それを見た瞬間、トムはポケットから自身の杖を引き抜いた。
「動くな! ……ん?」
フランス憲兵は警告を口にするが、取り出したのが木の棒だったことに虚を突かれてしまったらしい。その隙に、トムは杖を振った。引き寄せ呪文で洗濯物籠を動かし、自身の盾にする。子どもたちの洗濯物が盾のように展開されるのと、背の高い男が緑の閃光を放つのは同時だった。
「お前、何者だ?」
トムは窓から外に飛び出す。
すると、男もトムを追いかけてきた。アバダケダブラを躊躇わずに打ってくるので、トムはそれを避けると男の足元に狙いを定めた。無言で切り裂き呪文を放つと、風の刃のようなものが男の右脚を切り裂いた。服が破れ、血が滲む――が、それだけだった。
「っち」
トムは舌打ちをした。足の腱を狙ったつもりだったが、狙いがわずかに逸れてしまったようだ。それでも、男は足をわずかに庇いながらも迫ってくる。アバダケダブラを諦めたのか、トムの杖を先に奪う作戦に変えたらしい。はたまた、失神させる方を選んだのか……いずれにせよ、閃光の色が緑から赤に変わった。
「ふんっ、甘くみるな」
トムは近くに積み重なった素朴な椅子を引き寄せながら、それぞれ蛇に変身させる。
『襲え』
トムが蛇語で言えば、従順な蛇たちは一斉に男へ襲い掛かった。
男は蛇の対処で一瞬、ほんの数秒だけ、トムから視線を逸らした。その隙に、トムは杖をまっすぐ男に向けた。
「『
詠唱した呪文の効果はてきめんで、男の両足は地面から離れた。彼の身体には蛇がまとわりつき、自由が奪われる。ここで初めて、男の顔に苦悶の色が浮かんだ。
「こざかしい小僧め……!!」
ドイツ語で呟かれた言葉に、トムはにやっと笑った。
「僕みたいな
あえてのドイツ語で返してやると、今度は男の表情に怒りの色が湧き出してくる。なにか叫ぼうとしていたが、トムはすっと杖を横に振り、そいつの口を塞いでやった。
「おしゃべりは嫌いでね。なにしろ、僕は多忙なんだ――『
杖を勢いよく下に振り下せば、その動きに呼応するように男が地面に叩きつけられた。叫び声は上げなかったが、男は白目を剝いている。首尾よく失神させることができたようだ。トムは満足げに頷いたが、いつまでも上手くいくわけではない。
「お、お前たち、何者だ!?」
フランスの憲兵が7人ばかり、トムたちを囲んでいた。いずれもライフル銃をこちらに向け、いまにでも引き金を引こうとする勢いだった。
「何者と言われても」
どうしたらよいのだろう……と、トムは悩むが、答えはすぐに見つかった。自分の足元に、大きな鳥の影が映った。だが、ただの鳥ではない。
「トム!」
ニュートがヒッポグリフにまたがっていた。こちらに急降下し、片手を伸ばしてくる。トムは勢い良く地面を蹴りあげ、その手を握り返した。
「ま、待て!!」
一斉に銃声が響いたが、トムたちはすでに天高く飛び上がっていた。
銃声と同時に、子どもたちのやんややんやと楽しそうな声が登ってくる。トムは子どもたちを見下ろした。彼らの顔に先ほどまでの不安は一切拭いさられ、どの子も輝いていた。いままで見たことのない魔法バトルを間近で目撃したことや、フランス憲兵の手から颯爽と空へ逃走を果たす姿に興奮しているようだった。
「……」
トムは何も言えなくなった。
歓喜の声を全身に浴び、笑いだしたいほど嬉しい反面、幼子のように泣きじゃくりたかった。
しばらくの間、誰もなにも言わなかった。
気が付けば、空はすっかり蜜色に染まっている。太陽は傾き、地平線の向こうへと消えようとしていた。
「トム……ここまでだ」
ニュートが絞り出したような苦しい声で言った。
ディークは耳を垂らし黙ったまま、気遣うようにこちらを見てくる。
「……約束は守るさ」
トムは東の空を見た。
深い藍色に染まりつつある空には、ぽつ、ぽつと星が瞬き始めていた。
「今日は帰るよ」
ようやく、それだけ言った。
トムは、アイリスとの約束が初めて鬱陶しく思えた。
彼女の気持ちも理解できる。だけど、それとこれとは別の話だ。そのことは、きっとジョナサンも理解している。「忘れて」なんて書いたら、トムが激昂することなど容易に想像がつくだろう。
(いまは撤退する。だけど、これからだ。もっと詳しく調べて、絶対に助け出す)
沈みゆく夕陽に照らされ、トムは願望を抱くのだった。