トム・リドル育成計画!   作:寺町朱穂

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〇1942年8月 涙のあとに

●1942年 8月◇日

 

 前言撤回する。

 バンビほど悲しい映画はない。

 

 映像技術は素晴らしい。

 森の動物たちの愛らしい姿とリアリティのある動き、濃厚な自然の描写は「これ21世紀でも通用するんじゃない?」と思うくらい完璧だった。4Dではないのに、画面越しに匂いまで感じ取れる。花の香りも雨の空気も……これをすべて手書きでやり遂げたのだから、さすがは天下のアニメスタジオ様だ。

 

 だからこそ、お母さんが人間に撃ち殺されるシーンは非情だった。

 いや、嫌な予感はしていたよ。最初にバンビが草原に出るシーンで、お母さんが周囲を凄く警戒していたからね。あの時点で「あ、これ狩人のいる世界だ」と察しがついてしまったし、バンビが女の子と戯れたり、大人の鹿たちの迫力のあるバトルの直後、実際に狩人が襲撃するシーンを見て、「これ……ラスボス狩人なんじゃないか?」と分かってしまった。

 それでも、まさかお母さんが撃ち殺されるとは思っていなかった。

 ハッピーエンド至上主義なアニメスタジオで、母親が死ぬなんてことを描くとは思っていなかった……。しかも、死んだところを直接描くことはせず、音だけで観客に分からせる……バンビの悲しみにくれる表情と冬の描写もあいまり、私の背筋も凍りついた。

 

 フェンリールたちの顔を見ることはできなかった。

 ただ、どこからともなくすすり泣く声が聞こえてきた。少なくとも、私の左隣の子連れの母親はハンカチを取り出して目を拭っていた。

 

 あまりにも悲惨だったから、最後はバンビの友だちも家族も命を落とすことなく終わって良かった。本当に良かった!

 これで、バンビのお父さんが鹿笛で呼ばれてしまうようなシーンがあったら、私は耐えられなかった……。それでも、狩人の不始末が原因で森が火の海に包まれたシーンでは手に汗握ったし、バンビの子が産まれるシーンで「ハッピーエンドだった……」と安堵の息を零した。途端に肩からどっと力が抜けるのを感じ、私は緊張していたことに気づいた。

 

「2人とも、行くわよ」

 

 観客たちが立ち始めるのを見て、私は2人に声をかけた。

 

「マグルってすげーな」

 

 フェンリールが呟くと、呆然とした様子で立ち上がる。泣いてはなかったが、頬には涙の筋がついていた。

 

「いまのさ、ぜんぶ1枚1枚紙で描いてんだろ? 魔法みたいだった。本当にすげーよ……でもさ、1つだけ意味分かんねぇところがあった」

 

 フェンリールはそう言うと、考え込むように腕を組んだ。

 

「なんで、バンビたちはのぼせあがったんだ?」

「もしかして、春の場面?」

 

 確か、バンビが恋に落ちるシーンがあったことを思い出す。バンビが友だちと「自分たちは女の子に浮かれないぞ!」と誓い合った次の瞬間、それぞれが綺麗な娘に出会い、恋に落ちていくのだ。

 

「意味わかんねぇ。バンビはさ、あのメスにいじわるされてたじゃん。なのに、ちょっとペロッと顔なめられたくらいでコロッとほれちまうなんて……どうかしてるぜ。おれだったら、そうかんたんにうかれねぇーよ」

「――っぷ」

 

 そのとき、ラシェルが噴き出した。

 私とフェンリールは思わず顔を見合わせた。ラシェルはくすくす笑っていたのだ。

 

「あなた、まだまだ子どもね。恋が分からない、なんて」

「な、なんだと?」

 

 フェンリールが食ってかかると、ラシェルはますます笑った。彼はむすっと頬を膨らませ、そっぽを向いた。

 

「ふんっ、おれは恋なんかしなくていいっての!」

「恋はするものじゃないわ。恋は落ちるものなのよ。お子様には分からないでしょうけど」

「んだよ。あんたはしたことあんのか?」

「当然よ」

 

 ラシェルは胸を張って答えた。

 

「あたし、これでも人気があったのよ。クラスのほとんどの男の子は私に夢中だったし、みんな私の気を引こうと必死だったもの。恋人だっていたわ。デイヴィットにシモン、それからサミュエルね。……もっとも、ジョナタンと婚約してからは恋人を作るのは止めたけど」

 

 彼女は楽しそうな口調で語っていたが、「ジョナタン」と口にしてからは段々と表情が暗くなっていった。

 

「……ジョナサン君とは、家同士で決めた婚約だったのよね?」

結婚仲介人(シドゥハ)に紹介されたの。でも、その前から知っていたわ」

 

 それっきり、ラシェルはなにも話さなくなった。

 フェンリールも空気を読んだのか、なにも話さない。結局、家に帰るまで黙ったままだった。家に入るなり、フェンリールはエンラクと遊び始めてしまった。トムは本当に一人でダイアゴン横丁に行ってしまったようだ。

 

「お茶でも淹れましょう」

 

 私がお茶の支度を始めると、ラシェルがすっと立ち上がって手伝いに来た。

 お湯を沸かし、茶器の準備をする。お菓子はどうしようかしら、たしか棚にクッキーの残りがあったはず……と考えていたとき、ラシェルがぽつりと呟いた。

 

「……本当は、あたしが頼んだの」

 

 ラシェルは俯いていた。

 

「あたし、一目惚れだったの。あんなに優しい顔した人、他にいなかったわ。あの人、本当の親に裏切られて、フランスに渡って来たっていうのに、嘆き悲しんだり激しく怒ったりしないんですもの……イギリスを憎む真似をすることもあったけど、すぐに演技だって分かったわ。びっくりするくらい、優しい人なの」

「……そうね」

 

 私は手を止めると、彼女と向き合った。少し屈めば、彼女と目線があった。ラシェルの茶色の瞳には涙がいっぱいに溜まっていた。

 

「だから、あたし……パパに頼んだの。結婚仲介人(シドゥハ)を通して、結婚を申し込んでって。そうすれば、ジョナタンが断らないのを知っていたから」

 

 次第に、ラシェルの声は震え出した。溜まりに溜まった涙が溢れだし、すうっと頬を伝い出している。ハンカチで拭おうとはしなかった。もしかしたら、涙が伝っていることを気づいていないのかもしれない。彼女はそのまま話し続けた。

 

「パパも、ママも、お姉ちゃんも、弟も、みんな殺されても、ジョナタンがいるから耐えられたわ。彼なら、あたしのことを慰めてくれるって信じてたから……でも……でも、もういないの。あたしのせいで、ジョナタンは死んだの!」

 

 ラシェルは肩を揺らし、嗚咽を漏らした。

 私は彼女の肩を抱きしめ、そっと背中を叩いた。

 

「大丈夫。きっと、大丈夫よ」

「大丈夫なわけないわ! 一昨日、ラジオで聴いたもの! あたしたちをガスで殺すって! そのあと、石鹸にするんだって!!」

 

 彼女はそう叫ぶと、わんわんと泣いた。

 

「あたしのせいなの! ジョナタンは『スイスに逃げよう』って言ったのよ。ヴィシーまで逃げれば、あとはなんとかなるって。でも、あたしが怖かったの! あたしが、まっさきに反対したの! 偽装身分証を手に入れたとして、それがバレたら捕まっちゃうって。だから、彼は諦めたの。もし、彼の言う通りにしていれば、あたしたちは……!!」

「……そう」

 

 私は彼女の背中を優しく叩いた。とんとんっと赤子を宥めるように。

 

「……あなたは悪くないわ。なにが正解なのか、誰も分からないもの。未来のことなんて、普通の人は誰も知らない。魔法使いだって、はっきりと未来を見通すことはできないのよ」

 

 ラシェルは泣き続けた。

 私の服にシミができるくらい、大声で泣いていた。5分、10分、15分ほど経ち、だんだんと彼女の泣き声は静かになった。

 

「落ち着いた?」

 

 私はハンカチを差し出した。

 ラシェルは泣き腫らして真っ赤になった目を拭い、ぎこちない笑みを浮かべた。

 

「……ごめんなさい」

 

 私は彼女に謝罪をした。

 

「酷な映画だったわね。あんな悲しい映画だとは知らなかったの」

「……だけど、美しい映画だったわ」

 

 彼女は小さな声で答えた。

 

「何度も声を殺して泣いたけど……辛くて叫びたかったけど……バンビもとんすけも可愛かったわ。最後に産まれた双子もね」

「それなら良かった」

 

 私が微笑むと、彼女も先ほどより笑みを深めた。

 

 それから、ラシェルの表情がわずかながら変わった。

 感情を押し殺したような無表情から少しだけ――明るくなったわけではなく、哀し気な空気を醸し出していることが増えたけど、それでも、無よりマシだ。

 

 びっくりしたのは、夕食のとき。

 茹でたジャガイモとチキンだったのだけど、ラシェルがイモを口にした瞬間、茶色の目がぱっと明るくなった。

 

『……おいしい(セボン)?』

 

 その後、すぐに驚いたように口に手を当て、しげしげと考え込んだ。

 ラシェルの様子を見て、トムは怪訝そうに眉を寄せた。

 

「当然だろ。アイリスの料理は美味いんだ」

「違うの。昨日までは、何を食べても……」

 

 ここで初めて、私は彼女に料理の感想を聞いても「美味しい(グッド)」しか返ってこなかったことに気づいた。硬い表情だったから、まだ食事を楽しむ余裕がないのだと思っていたけど、そうではなかった。感情を閉ざすあまり、味覚を失っていたのだ。

 それから、ラシェルは再び泣いた。

 私もつられて泣いた。肩を抱き合って、2人で泣いた。

 トムとフェンリールは訳が分からないといった様子で、互いに顔を見合わせていた。

 

 味覚を取り戻したのは、第一歩。

 彼女の心に根付いた罪悪感は、私では消すことができない。それでも、時が癒してくれるはずだ。彼女の心が少しでも癒える手助けができるように、これからも頑張ろうと思う。

 

 

 

 

 

●1942年 8月×日

 

 

 トムとダイアゴン横丁でアイスを食べてきた。

 その間、バンティがフェンリールとラシェルを預かってくれた。

 バンティの家には、ユスフ・カーマさんも来ていたみたい。彼がラシェルにフランス語で話しかけていた。ラシェルは少し驚いたように瞬きをし、なにか返していた。

 

「久しぶりに、2人でゆっくりしてきてね」

 

 バンティがにっこり笑って送り出してくれたが、トムは不貞腐れていた。

 

「別に、僕はアイスなんか興味ないんだけどね。アイリスが一緒に出掛けたそうにしてたからさ」

「そういうことにしておきましょう」

 

 とはいっても、アイスクリームを出すお店は滅多に見つからない。

 配給切符がないと、マグルのお店に入ることはできない。お店に入ることができても、ちゃんとしたアイスクリームを扱っているところは少なかった。昔、一緒に行っていたお店を覗いたけど、ことごとくアイスはなくて、結局はダイアゴン横丁に足を運ぶことになった。

 ダイアゴン横丁でも、何個も積み重なったアイスは売ってなかったけど、それでもカップに入ったアイスを食べることができた。

 

「アイス、美味しいね。私、チョコレートアイスを久しぶりに食べたわ」

「そう。良かったじゃん」

「トムのストロベリー味も美味しい?」

「それなりかな」

 

 トムは顔を上げずに言った。

 トムの「それなり」は「美味しい」ということ。これは昔から変わらない。

 

「それなら良かった」

 

 私はふんわりと笑った――が、すぐに笑いが引っ込んでしまった。

 

「あんた、眼鏡変えたの!? うわっ、全然似合ってない!」

 

 アイスクリームパーラーのテラス席からほど近い道で、女の子の集団がけらけらと高笑いをしている声を聞いてしまったからだ。

 

「前より酷くなってるじゃん! もしかして、自分で選んだ? ママのお腹の中に、美的センスを置き忘れてきたんじゃない?」

「眼鏡もそうだけど、ニキビも増えたよね? 朝、ちゃんと顔洗ってる?」

 

 女の子たちは、だらっとした茶髪の子を嘲笑っていた。

 茶髪の子は分厚い眼鏡をかけ、すんすんと泣いている。彼女が泣き始めたのを見て、女の子の集団はきゃあきゃあと声を出した。

 

「泣いちゃったー!」

「かわいそー」

 

 意地の悪い声を聞き、私は我慢できずに立ち上がった。

 トムが「アイリス」と小声で呟いたけど、知ったことではない。ああいう質の悪い虐めは許せない。前世で見かけたときは見て見ぬふりをするしかできなかったけど、いまなら介入する勇気がある。

 

「貴方たち、いい加減にしなさい!」

 

 私が叫ぶと、女の子たちは冷ややかな目で睨んできた。水を差されたとでも思っているのだろう。だが、すぐに歓声を上げた。私の隣にトムがいることに気づいたからだ。

 

「も、もしかして、トム・リドル!?」

「きゃー! 嘘でしょ? どうしよう、あたし、もっと髪を整えておくべきだったわ!」

「あ、あの! もしよかったら、私たちと漏れ鍋で一緒に食事しません!?」

 

 女の子たちは黄色い声を上げたが、トムはまるっと無視した。そのまま、アイスを黙々と食べる。だが、ただ一言――私に向かってこう囁いた。

 

「アイリスの好きなようにすれば?」

「ありがとう」

 

 私がテラス席を離れ、彼女たちに歩み寄った。

 

「この子をいじめてたでしょ、まずは謝りなさい」

 

 しかし、予想通りというべきか……女の子たちの顔に反省の色はまったくなかった。

 

「なに、おばさん? あたしたちは、その子の身なりを整えてあげたかっただけですぅ」

「ごめんなさーい。これでいいんですよね」

「はぁ、しらけたー。もう行こう――トム! また学校でね!」

 

 女の子たちはトムにとびっきりの笑顔を向けると去っていった。

 

「大丈夫? ハンカチいる?」

 

 私はすんすんと泣く女の子にハンカチを差し出し、ハッとした。思わず、彼女の顔をまじまじと見てしまう。そこにいたのは、映画で見たことのある顔だったのだ。

 

「ありがとうございます……」

 

 厚ぼったい眼鏡越しに目が合い、確信した。

 

 彼女は嘆きのマートル。

 原作ではバジリスクに殺され、ゴーストになってしまう少女だった。

 

 

 

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