ホグズミード村は平穏だ。
戦時下だというのに、軍靴の足音は感じない。バタービールやハニーデュークスの購入に関する個数制限こそあったが、暗い顔をしている者は少なかった。ホグワーツの学生たちが束の間の休日を楽しみ、店主たちも張り切って商売に専念する。往来を歩く村民たちにも笑顔が見られた。
どこまでも日常であり、誰が見ても平和な世界だった。
「三本の箒」も変わらず、生徒たちの賑やかな会話で満ちている。
いま、トムの隣のテーブルに座る女子生徒たちも、楽し気な会話に花を咲かせていた。
「このあと、ゾンコに行こうよ!」
「それもいいけど、まずは、グランドラグスで新作のマフラーを見てからにしない?」
「いいね! あたし、ドレスローブもチェックしたい!」
彼女たちはそう言うと、バタービールを飲み干し、きゃっきゃと笑いながら店を出て行った。
彼女たちだけではない。他の生徒たちも全身で村を楽しんでいる会話が風に乗り、トムの耳に届いている。
「……」
トムは胸の内に浮かんだモヤモヤを流し込むように、バタービールを一気に飲んだ。熱いくらいの甘ったるさが喉を駆け巡り、わずかに胸焼けする。
そんなときだった。
「やあ、トム!」
トムの背後で声が轟いた。
振り返ると、そこにはスラグホーンがいた。左手に蜂蜜酒の入ったグラスを持ち、右手で砂糖漬けパイナップルの大きな袋を抱えながらのしのしと歩み寄ってくる。
トムは即座に微笑みを浮かべた。
「スラグホーン先生!」
「ここで会うとは……私はてっきりまだ森に――ああ、ハグリッドも一緒なのか」
スラグホーンはトムの隣の座る少年に会釈をする。
これは余談であるが、スラグホーンは興味を持った生徒の名前はしっかり頭に刻む。しかしながら、それ以外の生徒は関心を持たない悪癖があった。
ただし、例外がハグリッドである。
ハグリッドも当初は「ロビー」など呼ばれていたが、7日に1回は必ずといっていいほど問題を起こし、成績もそこまでよろしくない生徒だ。彼が入学して半年も過ぎる頃には、スラグホーンも「ハグリッド、この宿題をやっておくといい。来週の小テストに出るからな」と多少は目にかけるようになっていた。もちろん、トムが彼を捜索するため、「禁じられた森」へ出向くための許可証を毎週請うてくるということも理由の一つに違いない。
「それで、トム。ハグリッドはどうして『禁じられた森』にいたのかな?」
「ゴーストに『自分の遺体を探してくれ』と頼まれたそうなんです」
トムは顔色一つ変えず、さらっと言い切った。
「もともと、ホグワーツの生徒だったゴーストらしく、禁じられた森の奥地で亡くなって、まだ遺体が発見されていなかったそうでして……ハグリッドは、それを見つけてあげるために、森に足を踏み入れたそうなんです」
「なんと!?」
スラグホーンはトムの向かい側に座りながら、目を大きく見開いた。
「我が校の生徒が亡くなっていた!? ゴーストの名前は聞いたのかい?」
「100年以上前の生徒だとしか……他人のために動けるなんて、グリフィンドールらしい勇敢な行いですよね。先生もそう思いませんか?」
トムがそう言うと、スラグホーンは考え込むように口髭を触り始めた。
「ふむぅ……だが、規則は規則だ。グリフィンドールは15点減点。しかし、その勇敢な行いに対して、5点加点といったところだろうな」
スラグホーンは叱るような口調で言ったが、トムにウィンクをしてみせる。
トムは笑みを深めると、ハグリッドを小突いた。ハグリッドはシロップソーダに夢中になっていた。ちょうど、最後まで残しておいたサクランボを食べるメインイベントに差し掛かっている。そんなときに、小突かれたものだから、ハグリッドは眉を寄せた。
「ん?」
ハグリッドが怪訝そうにトムを見下ろしてきたので、トムは目で合図を出す。ハグリッドは不思議そうな顔をしていたが、目の前にスラグホーンが座っていることに気づくと納得がいったように大きく頷いた。
「あー、先生。ありがとうございます」
「どんな理由があっても、『禁じられた森』に何度も足を踏み入れるのは良いことではないよ。いつまでも、トムが助けに行ってくれるとも限らんし、私も庇いきれない」
スラグホーンは優しそうに言うと、トムと向き直った。
「ところで、トム。先週はパイナップルの砂糖漬けの樽をありがとう。ちょうど切らしていたところだったんだ。ハニーデュークスでは今日まで入荷されなくてね……君のおかげで、今日まで幸せに過ごすことができたよ」
「それはなによりです」
「君はいつも良いタイミングで贈り物をしてくれるね。まったく、どこで情報を仕入れてくるのか、知りたいものだよ」
スラグホーンは蜂蜜酒を飲むと、口を再び開いた。
「いつもの友人たちはどうしたんだい?」
「アルファードでしたら、今日は合唱クラブの伴奏に。ドロホフは杖十字会に参加するそうです」
「ミス・ロジエールは?」
「婚約者とデートだと聞いています」
トムは正直に答えた。
「湖の湖畔でのんびりしている頃合いかと」
「シグナス・ブラックか」
スラグホーンは蜂蜜酒を飲みながら、納得したように頷いた。
「純血の家系には、許嫁が多い。特にブラック家ともなれば、縁談も山のように来る。私の知る限り、ブラック家の者で特定の許嫁を持たぬ者は、アルファードくらいだ。トム、なにか聞いていないかい? 君と彼の仲だろう?」
「いいえ、なにも――ところで、先生」
トムは首を横に振ると、話題を変えることにした。
「先日、お貸しくださった本ですが、大変参考になりました」
静々と頭を下げながら、トムは言葉を続けた。
「世に出回っている魔法薬は、一般的な魔法族に対して最適な効果を出すもの。マグルや魔法生物に対しては、毒になる可能性が高い……頭では理解していたことでしたが、詳しい理論まで知ることができて良かったです」
「君の役に立てたなら光栄だよ」
スラグホーンはにっこりと微笑んだ。
「魔法生物に投与する薬を開発したいのかな?」
「似たようなものです」
トムは微笑みで誤魔化すことにする。
本音を口にすれば、正気を疑われること間違いなしだ。アルファードでさえ、トムが新しく抱き始めた夢を語ったとき、「さすがに不可能だし、危険すぎる」と諫めてきたほどだった。スラグホーンに語れば、ドン引きされること間違いなしである。
「つまり、先生。僕たち魔法族には毒になるようなものでも、魔法生物には薬になる――といったことはありえるのでしょうか?」
「ふむぅ……理論上はありえる話だ」
スラグホーンはそう言いつつも、苦笑いをした。
「だが、あまり高望みはしないことだ。例えば、レイブンクローのミスター・ベルビィを知っているだろう? 今週も薬の開発に失敗して、病棟送りになっていたが……彼はこともあろうに、トリカブトを薬に転用する術を探っている。あの悪癖がなければ、一廉の薬師になれるというのに……」
惜しい才能だ、とスラグホーンは悔しそうに呟いた。
「オナイ先生の水晶玉によれば、彼には十数年後に年の離れた弟ができるとか。それまでに、まっとうな倫理観を持てるようになれることを祈るばかりだ」
「……同感です」
トムは小さく頷いた。
「先生。またなにかあれば質問してもよろしいでしょうか?」
「もちろんだとも! 君の頼みであれば、なんでも答えるとしよう」
スラグホーンが微笑んだのを見てから、トムはテーブルにジョッキを置いた。
「先生。では、また月曜の授業で」
「おや、もう行くのかい?」
「このあと、予定がありまして――そうだ」
トムは去る直前、ハグリッドに向き直った。ハグリッドは追加で頼んだバタービールをぐいぐいと飲んでいた。
「ハグリッド、僕は出かける。だが、1つ約束してくれ」
「おう! なんだ?」
「ホッグズヘッドにだけは行かないこと」
トムが神妙に言うと、ハグリッドは大きく頷いた。
「もちろんだ!」
「返事だけは良いんだけどな……絶対にだぞ?」
トムは何度も何度も念押しする。
あそこは底意地の悪い連中がたむろっている。ハグリッドならばそんな連中に負けるようなことはないが、騙されることは大いにありえた。密猟者にドラゴンの卵とか違法な魔法生物をチラつかされたら、目を輝かせながら購入するはずだ。その結果、巻き起こされる事件の解決に、トム・リドルが駆り出される――そこまで鮮明に脳裏に浮かんでしまう。
「いいな、絶対だ!」
「大丈夫だって! バタービール飲み終えたら、まっすぐ城に帰る。約束する!」
「よし!」
これだけ念を押せば、恐らく大丈夫だろう。
トムは息を吐くと、ホッグズヘッドへと足を向けた。といっても、正面から入るのではなく、店の裏手に回る。ホグズミードを流れる川の音を背で感じながら、裏口の扉を教えられたリズム通りに叩いた。すると、ほどなくして店主が扉を開いた。
「クリーデンスのお見舞いに」
トムはそう言うと、杖を軽く振った。すると、鞄からリンゴが詰まった籠が飛び出してくる。
「僕の家で採れたリンゴです」
「……入れ」
店主に連れられ、トムは奥の部屋に招かれた。
ホッグズヘッド自体は埃っぽく、荒くれ者の汗臭さで満ちているが、この部屋だけは違った。どこまでも清潔で、温かな陽光が差し込む落ち着いた空間だった。その中に一人、青年が横たわっている。すっかり骨と皮だけになり、頬はコケて青ざめていた。
その隣には、細身の女性が寄り添うように腰を下ろしている。
「……」
後ろから日差しに照らされているので、彼女の表情は陰で覆われていた。それでも、憂いに満ちていることだけは伝わってくる。濃い藍色のドレスに身を包み、哀愁に満ちた眼差しを青年に注いでいた。
「あ、あの……」
トムは平然と話しかけようとしたが、不自然に自分の声が上ずってしまう。
女性はゆっくりと自分に顔を向けた。相変わらず、その表情は見えないし、なにも語らなかった。
トムは心を落ち着かせながら、努めて冷静に話し始めた。
「リンゴ……クリーデンスにあげたくて来ました」
「……ありがとう。でも、彼はまだ目覚めないの……朝、一度目を開けたきり」
女性は震える鈴のようなか細い声で言った。
「心配しないで。すりおろしてあげたら、食べられると思うわ」
「それから、貴方にも」
トムはとびっきり赤いリンゴを取り出すと、女性に差し出した。
「疲れたときには、甘いものが一番だって……育ての親がよく話してくれました。それから……」
トムは籠に差し込んでおいたチケットを取り出した。
「来週、『三本の箒』で演奏をするんです。よろしければ、ぜひ来てください」
一瞬、女性がわずかに驚く気配が伝わってきた。だけど、それは本当に瞬きするほどの時間。すぐに元の憂いを帯びた空気に戻っている。
「ありがとう。時間が合えば行くわ」
女性が立ちあがり、リンゴとチケットを受け取ってくれる。彼女の白い指がトムの手をかすめた。爬虫類のように冷たい感覚が伝ったはずなのに、トムはそこだけ熱を持ったかのように錯覚する。トムは唇を堅く結び、鼻で深く息を吐いた。肺の中の空気が空っぽになってから、トムはやっと口を開く。呼吸と共に新しい空気を胸に充満させることで、トムは強引に気持ちを切り替えた。
「待ってます」
それだけ言うと、トムは逃げるように部屋から出た。
「おい」
店主に後ろから声をかけられ、自分らしからぬ声をあげそうになった。必死に心を抑えて振り返ると、無口な店主は今にも泣き出しそうな顔をしている。
「……息子が旅立つときは、一曲演奏してくれるか?」
「旅立つときでなくても、何曲でも演奏しますよ」
本当は、この場でいますぐにでもヴァイオリンを奏でても良かった。
だが、トムはあまりにも有名になり過ぎた。ホッグズヘッドに超絶技巧のヴァイオリンの音色がわずかでも響こうものなら、そこにトムがいると分かってしまう。トム自身はどこでなにを弾こうが気にしないし、自分の醜聞などどうでも良かったが、「死喰い人」に悪評がたつことは避けたかった。自分の事情に、アルファードたちを巻き込みたくなかった。
「……ん?」
再び、裏口から出させてもらい、表通りに出ようとする。
そのとき、ホッグズヘッドを遠くから見つめる影に気づいた。いや、ホッグズヘッドを眺めているのではない。その視線は、間違いなくトム自身に注がれている。
(誰だ?)
トムは視線に気づかないふりをしながら、いつでも杖を抜けるような心構えをした。ホッグズヘッドに続く通りではなく、川沿いを伝って村の北側から中心部へと向かおうとするが、その影も迫ってくる。
「……」
尾けられている。
無言で尾けてくるなんて、ろくな人間ではない。さっさと村に入って人混みに紛れるか、逆におびき寄せて問い詰めるか――トムが迷っている間に、その影との距離は縮まっていた。近くで見れば、その影が男性だと分かった。どうやら紳士らしく、帽子を被り、黒いコートに身を包んでいる。そこで、トムは「あっ」と声を上げた。
「お前は……パリの……」
トムは足を止めた。
忘れるはずもない、ニコロ・アマティの逸品を渡してきた紳士である。「死喰い人」のファンには色々な人がいたが、その中でも群を抜いて胡散臭かった。イギリスまで来るほどの追っかけになっていたのか? と考え、にこやかに対応することに決める。
「すみません、公演は来週でして」
「そうなのか? どうやら、うっかりしていたようだ」
紳士は肩をすくめてみせる。
「あのヴァイオリンは使ってくれているかな?」
「……僕が一人前になったとき、使わせてもらいます」
「謙虚なところは、君の美徳だな。音楽にも表れている」
紳士はあの日のやり取りが嘘のように微笑んだ。
そのことが、逆にトムの警戒心に火をつけた。
「あの……僕、このあと予定がありまして」
「残念。先日の非礼を詫びようと思ったのだが……五分でいい。時間をくれないか?」
「……僕は貴方の名前を知りません」
そのような相手と話すだけの時間はない、と暗に伝える。
すると、壮年の紳士はますます人の好さそうな笑みを深めた。
「パーシバルと呼ぶといい、トム・リドル」
壮年の紳士はそう名乗ると、和やかに手を差し伸べてくるのだった。
パーシバルさん、その正体は……ご想像にお任せします。