●1942年 11月◆日
緊張した……。
アルファードに呼び出された場所は、グリモールド・プレイスの12番地――すなわち、ブラック家の住所だった。トムを養子にしたばかりの頃、一度だけ何気なく通った場所である。魔法界の存在を確認するために通り過ぎただけで、もう二度とこの通りに足を踏み入れることはないと思ったけど、人生とは思いもよらぬことが起きるものである。
「えっと、12番地……だよね」
私は地図を頼りに目的の場所を目指す。
フェンリールはニュートに預けてきた。もうすぐ満月が近いし、手紙には「一人で来るように」と念押しされていたから。
この時点で、私は違和感を抱くべきだった。
アルファード・ブラックはブラック家でも分家。トムが彼の家に遊びに行くことはあったが、それはすべてカントリーハウスであり、グリモールド・プレイスのタウンハウスに招かれたことはなかった。
それなのにもかかわらず、本家のタウンハウスに呼ばれた時点で警戒するべきだったのだ。だというのに、このときまで私の頭を占めていたのは「貴族のお宅に訪問するのに、どのような手土産を用意するべきなのだろう?」なんて見当違いな悩みであった……。
「12番地は……ない」
マフラーを巻きなおし、11番地と13番地の間に立つ。
ペンキの剥げたドアが印象的な家々だが、12番地は存在しない。期待を込めるように古びた煉瓦造りの家の隙間を見つめるが、なにも起きなかった。さて、どうしたものか……と困っていると、やんわりとした声をかけられた。
「トムのお義母様、久しぶりです」
振り返ると、そこにはアルファード・ブラックが立っていた。
黒いローブを身に纏った姿は、この通りでは浮いている。事実、何人かのマグルが行き交いざまに不審そうな視線を向けていた。
「あらためて、アルファード・ブラックです。こうして話すのは、初めてですね」
そう言いながら、彼は手を差し伸べてきた。
「アイリス・リドルです。いつもトムと仲良くしてくれて、ありがとうございます」
私がそう言いながら、彼の手を取った瞬間、目の前がぐにゃっと曲がった。足が地面から離れ、すぐに「姿現し」だと理解する。どこへ連れて行かれるのか、若干の緊張で身体を堅く縮ませた。周囲の風景が溶け合い、ジェットコースターに乗ったような急降下のあと、とんっと足が床に着いたとき、柔らかいジュっという音と共にガラスランプが壁に沿って一斉に灯った。
「ここは……!?」
細く長いホールだった。
赤いカーペットが奥へと続いている。柔らかな緑色の壁紙には年代を経てやや黒ずんだ肖像画が、私のことをじろじろと睨んでいた。そちらに目を向ければ、肖像画たちは目を逸らすか瞑るかのどちらかの行動をとった。どう見ても魔法使いの住居である。
「マグル避けがかかっていましてね。玄関ホールに『姿くらまし』をしました」
「アルファードさんの御自宅でしょうか?」
「いえ、僕の実家は別の通りに。ここは、本家のタウンハウスです」
アルファードはそう言うと、先導するように歩き始めた。
「本家の……?」
私はいそいそとコートを脱ぎ、彼の後ろに続いた。
「ええ、そうです。本家――つまりは、僕の従姉たちの家ですね」
アルファードは涼やかな声のまま答える。
彼はホールの一番奥の扉をノックしようとするが、その前にバンッと銃声のような音が轟いた。
「アルファード坊ちゃま」
現れたのは、屋敷しもべ妖精だった。
しかし、私の知るしもべ妖精のなかで誰よりも若い。ディークより一回り小さく、柔らかで真っ白いタオルが身体の大部分を覆っていた。皮膚の肌艶も良く、顔には皺が一切ない。コウモリのように大きな耳からは茶色の髪が生えていたが、ふわふわと清潔さを保っていた。
「やあ、クリーチャー。彼女はなかにいるかな?」
「一時間前からお待ちでございます」
しもべ妖精は可愛らしい甲高い声で応えた。
そう、クリーチャー!! 原作にも登場した老齢のしもべ妖精だったのだ。あまりにも印象が違ったので、私は目を疑ってしまった。でも、それはそうか……原作は遠い未来の話。つまり、その分、クリーチャーも若くて当たり前なのだ。
「坊ちゃま、マントをこちらに」
「いや、僕はいいや。客人を連れてきただけだから。『漏れ鍋』で『死喰い人』に関する打ち合わせがあってね」
「そうでしたか……では、そちらの――お客様。コートを」
クリーチャーは耳をがっくりと垂らすと、渋々といった声色で私に向き合った。
「その、ありがとうございます」
私がコートを渡すと、クリーチャーは静々と受け取った。そして、クリーチャーはコート掛けに垂らし、こんこんっと扉をノックした。
「どうぞ」
鈴のようにか細い声が返ってくる。
クリーチャーが扉を開けると、原作通りの荒い石壁のがらんとした大きな部屋が広がっていた。しかし、映画のように薄暗く陰気な感じではない。大きな暖炉には暖かな火が灯り、長い木のテーブルは顔が映るくらい磨き上げられていた。テーブルの一番端には、美少女が腰を下ろしている。陶器のように白い肌に青色の大きな瞳。艶やかな黒髪は麗しく結い上げ、森色のドレスに身を包んだその姿は、絵にかいたような良家のお嬢様だった。
「ルクレティア。ご所望通り、アイリス・リドルさんを連れて来ましたよ」
「ご苦労様、アルファード。もう帰っていいわ」
ルクレティアと呼ばれた美少女は、はんなりとした笑みを浮かべた。
「あの、これは……?」
アルファードたちは分かっているのだろうが、私だけ話についていけなかった。
「アルファードさん。私は、貴方から話があると聞いたのですが……」
「ごめんなさい、トムのお義母様。実は従姉のルクレティアが貴方に会いたいと望んでいましてね。ですので、僕が仲介を」
アルファードはそれだけ言い残すと、部屋から出て行ってしまった。
広いホールには、私とルクレティアだけが残される。
「アイリスさん、席にお着きになって。お茶でもしましょう」
ルクレティアがぱちんと指を鳴らすと、テーブルの上に花柄のポットが出現した。
「どうぞ、おかけになって」
「……失礼しますわ」
私が腰を下ろすと、ポットが宙に浮かび上がった。すうっと空中を浮遊しながら私の前まで来ると、いつのまにか用意されていたカップに紅茶を注いだ。カップの隣には、いつのまにか三段重ねのティーセットまで現れている。
これは、完全に貴族のお茶会だ。
しかも、こんなご時世だというのに、すべてが完璧に整っている。三角形のサンドイッチには新鮮なキュウリが挟まり、スコーンの隣に備え付けられた壺には、クローテッドクリームとラズベリーのジャムがいっぱいに入っている。一番上の皿には、糖蜜パイやアイシングがされたカップケーキが鎮座していた。
「い、いただきますね」
私は精いっぱい笑ってみせたけど、どう考えても表情が強張ってしまう。自分のマナーや立ち振る舞いによって、トムに悪評がつくかもしれないのだ。ティーカップの持ち方は、たしか親指と人差し指でつまみを挟んで……とか、これは普通のテーブルだからソーサーは置いて、カップだけを顔に近づけるんだっけ? とか、必死にマナーを思い出しながら飲んだので、哀しいくらい味がしなかった。しかしながら、さすがは高級品。茶葉の味はまったく楽しむことができなかったが、あとからふんわりと漂ってきた香りは、思わず「ほう」と息をつくほど素晴らしいものだった。
「いかがです?」
「香りがいいですね」
正直に答えると、ルクレティアは上品に微笑んだ。
「そうでしょう? ブラック家が代々懇意にしてる農園の茶葉ですもの」
彼女はそう言うと、完璧な仕草で紅茶を飲んだ。
「……さてと。アイリスさん、貴方を呼び出した理由は、トム・リドルに関することですわ」
「あの……トムがなにか?」
「単刀直入に申し上げますと、彼は私の婚約者候補ですの」
ルクレティアはカップを置くと、明日の天気でも言うような軽い調子で言った。あまりにも平然と語るものだから、彼女が何を口にしたのか理解するまでに時間を要してしまった。瞬き二回ほどの時間がかかったあと、私は素っ頓狂な声を上げてしまう。
「こ、婚約!!?」
「あら、驚くことではなくってよ」
ルクレティアはくすりと楽しそうに笑った。
「で、ですが……ルクレティアさんは、ブラック家の直系……ですのよね? 既にお相手は決まっているのでは?」
原作知識とトムからの手紙で知った事実を総動員する。
ルクレティア・ブラックはオリオン・ブラックの姉。つまり、原作のシリウス・ブラックの伯母に当たる人物だ。オリオンはアルファードの姉と婚約している。マグルの世界でも、貴族ともなれば産まれたときから縁組が決まっていることも多い。だから、ルクレティアにもお相手がいるのだとばかり思っていた。
「候補はいますわ。ですが、他にはプルウェットの次男くらいしかいませんのよ」
「なるほど……?」
理解しているふりをしながら、私はサンドイッチをつまむ。しゃりっとした触感は分かったが、唐突に目の前に現れた愛息子の結婚話に動揺したせいで、こちらもまったく味を感じなかった。
「トム・リドルの父親はともかく、母方は何代にも渡って続く純血。サラザール・スリザリンの末裔ですわ。家柄的には申し分ありません。魔法力も知名度も伴っています。結婚後の住居に関しましては、なんとかなりますわ。問題となるのは、父方の血統。そして、貴方に育てられたということ」
ルクレティアの目が、すうっと細まる。
「……私に……トムと縁を切れと?」
「まあ! そのようなことは言ってませんことよ」
彼女は扇子を広げると、くすくすっと愉快そうに笑った。だが、青い眼はまったく笑っていない。獲物を狙う鷹のように鋭い眼光で、私は喉を詰まらせる。一体、彼女は何を切り出してくるのだろう。そう思って身構えていたら、彼女はこんなことを投げかけてきた。
「ですが、こんな噂を耳にしましたの。『トムのことを、本当は愛していないんじゃないか』と」
「え……?」
驚きのあまり、私は持っていたサンドイッチを落としてしまった。でも、拾うことも忘れて、ルクレティアに聞き返してしまう。
「誰がそのようなことを?」
「誰というわけではありませんが……トムは貴方のことを『アイリス』としか呼ばないでしょう? 母と呼ばせないのは、愛していないからではないのかと」
「いいえ、まったく違います」
私は考える前に即答した。
「メローピーさんが……彼の実の母親が息子のために遺した数少ないことを奪ってしまうような気がしまして……あとは『赤毛のアン』の受け売りですわ」
「赤毛の……アン?」
ここで初めて、ルクレティアの目に当惑の色が映った。
「私の愛読書でして、マリラが孤児の少女を紆余曲折あって引き取ったときに『自分の呼び名は、ただのマリラでいい』と言う場面がありますのよ。もっとも、アンはマリラのことを『ミス・カスバァト』と呼ぶべきか『マリラ伯母様』と呼ぶかで悩んでいましたから、厳密には『母』とは違いますけど」
「……書籍の一場面?」
「参考にしただけですのよ。『ママ』以外の良い呼び名が思いつかなくて……あくまで、参考に。実際、多くの知人は私のことを『アイリス』と呼んでいましたから」
いまでこそ、ミセス・リドルと名乗ることも多くなった。
でも、あの頃は「アイリス」と呼ばれることの方が多かったのだ。そのように応えると、ルクレティアは半信半疑といった様子でこう問い返してきた。
「義理の弟さんには、『母さん』と呼ばせているみたいですけど?」
「フェンリールにも同じことを伝えたのですが、『オレをそだてるんだから、母さんだろ』って拒否されてしまいまして……いちいち直すのも変でしょう?」
「……つまり、トムが貴方のことを『母様』と呼びだしても構わない、と?」
「もちろん! トムがそれを望むなら……ちょっと気恥ずかしいですけどね」
そう言って、初めて――自分の口元が綻ぶのを感じる。
いまは反抗期だし、そんなこと一生訪れないかもしれないけど……。
「ちなみに、トム・リドルを引き取ったキッカケを尋ねても?」
「構いませんよ」
それから、私はトムと出会った日のことを話した。
仕事で訪れた孤児院で、天使と出会った日のことを。10年以上前のことだけど、つい昨日のことのように、すらすらと話すことができた。ルクレティアはお菓子をつまみながら、時々相槌を打つ。最初こそ狩人のような視線だったが、だんだんと和らぎ、ティーカップのくだりを話す頃には、やや前に身を乗り出すように聴き入っていた。
「あらあら、まあまあ……随分と、トムを愛しているのだこと」
すべてを話し終えたとき、ルクレティアは肩を揺らして笑っていた。
それからは、彼女の纏っていた空気は和らぎ、すっかり打ち解けた様子になった。お茶会も終始和やかな空気で進んだ。私はだいたい聞き役で、彼女がつらつらと話すばかりだったけど……。
でも、本当にいろいろな話を聞けた。
学校での話題から、ホグワーツ教授陣の話……あとは、ハリー・ポッターの話! ダンブルドアの友人に関する話題になったとき、彼の名前が挙がっていた。彼女はさらっと流す感じだったから、深くは聞かなかったけど……たぶん、原作におけるハリー・ポッターの名付けに関係しているんだろう。英国って、両親や先祖の名前を子どもに付けることが多いのだ。
「ふふっ、面白いお母様ですのね。また、ゆっくりとお話したいですわ」
ルクレティアは「お土産」と言って、大きな箱を渡してくれた。
家に帰ってから開けると、大鍋ケーキがホールで入っていた。フェンリールは大喜びで、夢中になってケーキに嚙り付いていた。
これの味は分かった。
卵と砂糖の程よい甘さは陶酔感を誘い、舌触りも良く文句なしの逸品である。
それにしても、トムの結婚か……。
あのお嬢さんと結婚するかもしれないのか……。
悪い人ではないし、むしろ親切にしてくれたけど、大貴族の御令嬢が義理の娘になるとは緊張しかしない。むしろ、この先のトムの人生を考えるのであれば、不釣り合いですと辞退させるべきかもしれなかった。大貴族の令嬢が伴侶だなんて、トムの未来を狭めること間違いなしだ。少なくとも、マグルの世界で生きていくことは望めない。必然的に、トムはカーネギーホールでヴァイオリンを演奏するという夢を諦めることになる。
……婚約のこと、トムは知っているのだろうか。
今度、トムが帰ってきたら、それとなく聞いてみることにしよう。もっとも、反抗期が落ち着いてないと難しいかも。だから、あくまで彼と話せるタイミングがあればだけどね。
次回はルクレティア視点です。