●1943年 1月×日
グリンデルバルドと遭遇してから、早いこと数日。
あの騒動が嘘のような静かな日々が過ぎていた。とはいっても、私は胸がずきずきと痛むし、フェンリールがぴたっと張り付き離れない。買い物に出かけるときも同じ。その上、威嚇するように周りを睨みつけるものだから、ご近所から「なにかあったの?」と問われることもしばしばだ。
さらに、フェンリールは学校に行くことも渋るようになってしまった。
「オレがいねぇあいだに、なにかあったらどうするんだよ!」
って……いや、心配してくれるのはありがたいのだけど、学校は行ってほしい。
「ディークがいるから大丈夫。この家は守られているから」
私が何とか納得させて送り出すけど、学校が終わった途端、遊びもせずに走って帰ってくる。それからは、また私からぴったりと離れない。
フェンリールが安心するまで、しばらくこの生活かな……。
さて、今日はダンブルドアと話した。
本当、これで何回目……? どれだけご足労かけたのか考えると、申し訳なさで胸がいっぱいになる。
でも、今回は私自身、ダンブルドアとゆっくり話したかった。グリンデルバルドとの対峙で垣間見た謎を解決したかった、ということが大きいだろう。
ダンブルドアが来訪したのは、フェンリールが寝た頃。
事件が起きてから、フェンリールは私のベッドで寝ている。広間の時計が10時の鐘を鳴らすころ、自室のドアが軋み、フェンリールが枕を抱えてベッドに滑り込んでくるのだ。おかげさまで、ここのところ日記を書くのは彼がいない昼間のうちしかなかった。
しかし、その日は違った。
夜の10時になっても仕事が終わらず、フェンリールは先にすやすやと眠り始めてしまう。その隙を狙うように、ディークが部屋を訪れた。彼は足音を立てないように気を付けながら私の傍まで来ると、吐息よりも小さな声で囁いてきたのだ。
「奥様、ダンブルドア先生様がいらしておられます。客間にお通し致しました」
「……フェンリールをお願いできる?」
「もちろんでございますよ」
私はフェンリールをディークに任せ、客間へ向かう。そこには、確かにダンブルドアがいた。きっちりと背広を纏った壮年の男性は、刺繍の雑誌を楽しそうに読んでいるようだったが、私に気づくと本を閉じた。
「刺繍は好きでね。たまに編み物をするんだ」
ダンブルドアは雑誌を掲げ、安心させるような声で言った。
私は客間の入り口で立ち止まり、ちょっと迷いながら口を開いた。
「……あの、ダンブルドア先生? 一つお伺いしても?」
「構わないが?」
「その、先生が訪ねてくださったとき、お持ちになった飲み物……三種類ありましたけど、覚えていらっしゃいますか?」
ダンブルドアを信用していないわけではないが、グリンデルバルドに殺されかけたばかりだ。私だって、ちょっとくらいは警戒する。たとえ、思考が読まれているとしても、目の前の男がポリジュース薬による変装かそうでないか見極めることくらいやったっていいだろう。
ダンブルドアは微笑んだまま、すらすらと答えた。
「紹興酒、蜂蜜酒、カルピスだ。……すまなそうな顔はしなくていい。警戒するのは当然だろう」
ダンブルドアはそう言うと、雑誌をわきに置きながら話を続けた。
「ちなみに、私の好きなジャムはラズベリーだ。覚えておいたほうがいいだろう……さあ、かけなさい」
ダンブルドアに呼応するように、彼の前の席が引かれた。
「失礼します」
椅子に腰を下ろすと、自動的に前に押し出される。目の前には、いつの間にか私のカップが置かれていた。ご丁寧に紅茶まで注がれていて、湯気が渦を巻いている。
「その……今日いらしたのは、例の件、ですよね?」
「いかにも。君の口から聞かせてほしい、なにがあったのか」
私は紅茶に目を落としたまま、ぽつぽつとあらましを説明する。しかし、彼が私の記憶を強引に読もうとしたところで口を閉ざしてしまう。この先を語るのであれば、私には前世の記憶があることを明かす必要が出てくる。躊躇するように口を閉じ、黙り込んでしまった。何も言わなかった。言えなかった。これまで積み上げてきたものをすべて台無しにするかもしれない。すべてを明かし、ダンブルドアがハリーがヴォルデモート卿を倒して確実な平和が訪れる原作を望んだら? そのために、トムが闇の帝王になる道を選ぶように仕向け始めたら? 幾度となく考えた悪い未来が脳裏を過り、どうしても口が開かない。
「先生」
たっぷり5分経った後、固く閉ざされた口が絞り出したのは、こんな問いかけだった。
「先生は、どうして……グリンデルバルドが私を狙ったのだとお考えですか?」
「……あくまで推論だが、ミス・リドル……貴方の存在を怪しんだのだろう」
話が脱線したことに触れず、ダンブルドアはそう告げた。
「私を……? 何故?」
「グリンデルバルドは姿を変え、トムに接近した。トムを惑わし、自らの陣営に引き入れるためだ」
「そ、それって!?」
私は思わず顔を上げると、ダンブルドアは静かに手で制した。
「その計画はほぼ成功していた。しかし、最後の一手で破綻した。トム本人に自覚はないだろうが、君からの変わらぬ愛に気づき、グリンデルバルドの手を払ったのだ。グリンデルバルドは怪しんだのだろう。ただのマグルが、自分の完璧な計画を破ったのだから」
「……そんなことが……?」
「トムの態度が軟化したのは、それが理由だ。もっとも、貴方は気づいていないが……」
ダンブルドアは手を下げると、思案するように指を組んだ。
「グリンデルバルドは君の思考を読み、それから記憶を読んだはずだ。全部見せたかい?」
私は首を横に振るのが精いっぱいだった。
「そうか……しかし妙だ。グリンデルバルドには開心術の心得もある。ましてや、マグルの女性の記憶を盗み見る程度、難儀でもないはずだ」
「…………グリンデルバルドは、記憶を見た後、こう言ってました」
私は沈んだ声で言った。
「ハーポとか、闇の器とか、古代の魔法、とか……」
「……ハーポは、闇の魔法使いだ」
ダンブルドアの声のトーンも沈んだ。
「最古の闇の魔法使いだ。彼の最も有名な闇の魔法は『ホークラックス』とされている」
「ほーく、らっくす?」
初耳の魔法に首を傾げた。
そんな魔法、少なくとも原作に登場しなかった。そう思っていたが、次の瞬間、覆されることになる。
「禁断の闇の魔法だ。自身の魂を分裂させ、物体に閉じ込めることで死を回避する」
「あっ……」
私は息をのんだ。
「……そうか。貴方の言葉でホークラックスは
気が付くと、温かな手が肩に添えられている。
ダンブルドアが寄り添うように隣に来ていた。彼はポケットから白いハンカチを取り出し、私に差し出してくる。ここでようやく、私は自分が泣いていることに気づいた。
「……心、読まれていますね?」
「すまない。気を付けるようにはしているのだが」
「いえ、大丈夫です。警戒されて当然ですもの」
トムにまつわる予言は、魔法界の未来にかかわってくる。その子の親ともなれば、変な人を近づけさせたくないと警戒するのは当然だ。
「ですが……私の身に起きていることは、信じられないようなことですの」
「魔法というものは、信じがたい事象を引き起こすものだ」
「……そうかもしれませんね」
私はハンカチを受け取ると、涙を拭いながら言葉を続けた。
「一つ約束してください。これから語ることを、誰にも口外しないと」
「誓おう」
ダンブルドアは隣の席に座ると、まっすぐ私を見つめてきた。
私も彼の青い穏やかな目をしっかり見据え、ゆっくりと話し出した。
「私には、前世の記憶があります」
すべてを語った。
20世紀末の日本で産まれ、そこで育ったこと。社会人となり、若くして亡くなったこと。死ぬ数か月前の記憶がどうしてもないこと。その世界では「ハリー・ポッター」という児童小説が世界的に流行していること。死の呪いから生き残った男の子――ハリー・ポッターが史上最悪の闇の魔法使いになってしまった
あくまで物語でしかないと思っていたが、転生してから訪れた孤児院でトムを見つけ、ここが物語の世界だと気づいたことまで話し終えたところで、私は一度口を閉ざし、疲れたように首を振った。
「でも、おかしいんです。前世では物語でしかない。架空の話だと思っていました。それなのに、最期の記憶にはアバダケダブラの閃光が映っているんです」
私は胸元で拳を握った。
「分からないです。なにもかも……自分のことなのに」
ここまでくれば、自分が転生した理由も魔法が関わっていることくらい予想できた。ならば、どうして……平凡なマグルでしかなかった自分を転生させたのか。それも、分霊箱なんてオマケ付き。なんて素晴らしい転生特典だろう、吐き気がする。
「トムと私の出会いが、誰かに仕組まれていたのかもしれない。そう思えてしまうのです」
その理由が好意的なものでも気持ち悪いのに、ましてや悪意のあるものだった場合、恐怖のあまり力の限り叫びたい。私がどうなろうと関係ない。私のせいで、トムが不都合な事態に巻き込まれてしまうことは嫌だ。絶対に起きてほしくない。
「ミス・リドル。必然の出会いだったとしても、貴方がトムに注いだ愛は本物だ」
「愛ですべてが解決できるのですか?」
原作のダンブルドアも「愛」を口にする。すべてが愛で解決できるかのように語り、物語はその通りで幕を閉じた。しかし、この世界は架空の物語ではなく現実であり、そう簡単な言葉で解決できるように語られても納得できるわけがない。
「そうだとしても、私は……私は、何者かによって作られた
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
ダンブルドアは依然として柔らかな微笑みを携えたまま言った。
「貴方の話によると、ハリー・ポッターなる少年も
「それは……違います、けど……彼の場合は事故のようなものでした」
ハリーの場合、ヴォルデモートが敗北して魂が飛び散った際、無自覚に作られてしまったものである。
私の場合は、分からない。分からないが、分霊箱なんて作れる存在は悪いものであると決まっている。故意による殺人であり、悔恨の念が皆無でなければ成しえぬ魔法だって聞いたことがあった。
「私の場合、違います。この胸に宿る魂があるのだとすれば、それは悪であるはずです」
「そうとも言い切れない」
「どうして分かるのですか?」
「もう一つの魂は、グリンデルバルドを妨害したではないか」
あの女性の妨害がなければ、私の記憶は丸裸にされていた。
それは事実だろう。だが、それと同時に謎が残る。あの人が誰なのか、私に覚えがまるでないのだ。魔法が使えるのであれば、魔女であるのだろう。しかし、誰なのかまで特定することはできなかった。私の知るハリポタの魔法界はハリー・ポッターシリーズとファンタスティックビーストのなかにしかない。そこには数多の魔女が出てくるが、あの声に該当する人物はいないように感じるのだ。もっとも、思い出させないように妨害されているのかもしれないけど……。
「貴方がそこまで気にするのであれば、一つだけ――貴方が覚えている最期の記憶は何月だ?」
「冬でした。コートを羽織ってましたから」
「では、その次に思い出せる記憶は?」
「それは……」
私は考え込んだ。
緑の閃光より前の記憶となると、仕事をしている自分だ。半袖のシャツを纏い、パソコンのデータ整理をしている。ちらっと映った卓上カレンダーは6月。隣の同僚と「夏本番前なのに、蒸し暑くて嫌だね」と雑談を交わしていた。
私はそのことをできる限り詳細に伝える。
すると、ダンブルドアは笑みを深めた。
「つまり、貴方には半年間の記憶が抜けている。その時期に人生を変える何かがあった。それを思い出すことができれば、貴方を分霊箱にした存在が分かるかもしれない」
ダンブルドアは話は終わりだとばかりに立ち上がる。帽子を手に取ったところで、私は待ったの声をかけた。
「先生、最後に一ついいですか?」
私が言葉をかけると、ダンブルドアは不思議そうに振り返った。
「なんだい?」
「紹興酒やカルピスを持ってきた理由を聞いておきたくて」
私は青い目を臆せず見つめながら言った。
「あれは、私の前世がアジア系だと見抜いていたからでしょうか?」
「見抜くためだよ」
ダンブルドアは深く頷いた。
「貴方の思考が
「カルピス? 日本にしかない飲み物だからですか?」
「それもあるが……私の友人にカルピスを出すと、たいていは怒るか笑うんだ。何故だか分かるかい?」
「いいえ、ちっとも……牛乳の紛い物だと勘違いされるとかでしょうか?」
すると、ダンブルドアは笑った。今日もほとんど常に微笑んでいたが、その笑みとは全く異なる。心の底から楽しそうな笑みだった。
「
「ぷっ!」
私も噴出してしまった。
そんなことまるで考えたことがなかったけど、意味に気づけばそうとしか聞こえない。
「なるほど、それは確かに怒りますね」
「私は好きだがね。貴方もだろう?」
ダンブルドアは帽子を少し持ち上げ、悪戯っぽくウィンクをした。
だから、私も今日一番の微笑みを返した。
「もちろん!」
空耳を知っても、味を理解しているから、これからも飲むだろう。
もっとも、飲むたびに笑いそうになるだろうけどね。