TS転移した男が中華マフィアの総帥に寄生しつつ異人町で生活する話 作:めいでん
エンディングノート、開放!
「ちなみにお前が働いている店は横浜流氓のシマだぞ」
思わずコーヒーを吹き出すと、ソンヒさんは少し眉を寄せてから紙ナプキンをおれに寄越した。おれがゲホゴホとむせる姿を見て、「そんなに驚くようなことか?」とソンヒさんは言う。
「あのあたりは典型的なチャイナタウンだろう。少し考えたら分かるじゃないか」
言われてみると、確かに趙さんも店長も中国人だし、店に来る客もほとんどが中国系だ。店内には簡体字のビラが山ほど貼られているし、近くにある別の店の看板にもよく分からない文字が書かれている。
おれも中国語、佑天飯店で働いているうちに少し覚えちゃったもん。
紙ナプキンで口元を拭いていると、「忘れないうちに例の物を渡そうか」とソンヒさんはカバンから小さな壺を何個か取り出した。
「やー、助かります。おれも忘れないうちに渡しちゃいますね」
「ああ。これは等価交換だからな」
おれが小さい袋を手渡すと、ソンヒさんは少し口角を上げて素早くカバンに詰め込んだ。薬物の違法取引さながらの光景だが、お互いの交換材料は美味しいキムチとコーヒー豆だ。この街が誇るカフェスポット、喫茶ポケットは今日も平和である。
「しかし、雲南省の豆は日本ではあまり流通していないのによく手に入れたな」
「うちの常連さんに貰ったんす。帰省したからお土産にって」
孫の顔を見に帰ると言って(おれには何を言っているのかサッパリ分からなかったけど、他のお客さんが教えてくれた)、店に顔を出さなくなったスー先生がひょっこり現れたのはつい先日のことだった。先生の故郷の特産らしく、たっぷりの豆を携えて店にやってきたもんだから、趙さんと店長とおれで山分けしたんだ。
新年に気が浮かれるのは万国共通らしい。
旧正月の間は募金箱に紙幣を突っ込まない客の方が珍しかったし、中華街からは爆竹の音が深夜でもお構いなしに聞こえてきた。聞こえてくる会話に耳をそばだてても、旅行やら買い物やら景気の良い話ばっかりだ。
スー先生もそのうちのひとりで、気前よく地元の名物を配り歩くサンタクロースと化していた。それで今回ソンヒさんに土産物のお裾分けをしたというわけである。
「それにしても、お前からメールが来た時は驚いた。あの日からなんの音沙汰もなかったからな」
「早く連絡したかったんですけど、なかなかスマホが使えなくて」
なにせ身分証がひとつもない人間だ。いくら給料が入ろうとも、名義がなければキャリアの契約ができないんだ。
驚きの狭さが自慢の佑天飯店にWi-Fiがあるわけもなく、ようやく入った給料で手にしたスマホは長らくただの箱と化していた。どうやらこの社会は異邦人に優しくないらしい。
「結局、おれの名義が作れなくて、趙さんが代わりに契約してくれたんすよね。あの人にはマジで頭上がんないっす」
おれがこの街で頼れる大人と言えば、趙さん以外だとマスターと、あんまり頼りたくはないけど、名刺を貰った高部さんくらいのものだった。
とはいえ、現役ヤクザの高部さんは正面切ってスマホの契約ができないし、東城会でブイブイ言わせていたマスターも下手したら元暴5年条項に引っかかりそうである。
もちろん抜け穴はあるんだろうけど、これ以上罪を犯すのはまっぴらだ。趙さんが真っ当な人間で本当に良かった……。
ソンヒさんは「ジョン・ドゥも楽な生活ではないな」と言ってマグカップに口付けた。
「私の部下にもお前と似たような奴がいるが、あいつは上手いことやるから気づかなかったよ」
「はえー、その人もいつの間にか性転換してたんすか?」
「そんな奴が何人もいてたまるか。『存在しない人間』ということだ」
ソンヒさんの言葉におれは思わず押し黙った。
この世界のことだ。きっとその部下は、陽の光を浴びることがない人生を過ごしてきたんだろう。
ストリートチルドレン? 前科者? もしかしたら、マスターみたいに昔はヤクザだったのかもしれない。指名手配されて逃げた先で就職したのかな。3億円事件の犯人とかかも。普段はビルの清掃員、でもそれは世を忍ぶ仮の姿。世紀の銀行強盗、異人町に降り立つ! なんちゃって。
「若くて小うるさい男だが、私の補佐をしてくれてな。身の回りの雑務も任せている」
なんだ、若いのか……。
残念ながら3億円事件の犯人ではないらしい。若くして世捨て人か、おれも人のことは言えないけれど大変そうだ。
「身の回りのことまでしてくれるなら、補佐っていうより執事みたいっすね」
「そうかもな。よく食事の支度もさせているよ」
行き場のない男を召し抱える美しい女性って、まるで物語に出てくる貴族みたいだなあ。ハイテクに溢れる現代から一転、ローテクが詰まった中世にタイムスリップした気分だ。
おれも誰かに食事作ってもらってさ、身の回りの世話なんでもしてもらいたいよ。部屋片付けてもらったり、身なり整えてもらったり、細々とした洗い物してもらったり。
……これ、いつも趙さんにやってもらっていることだな。家系図なんて気にしたこともなかったが、おれのご先祖さまは華族だったのかもしれない。
「その部下がな、毎日コーヒーを淹れてくれるんだ。あの男の淹れ方は下手くそ極まりないが、他人が淹れたコーヒーを飲むとな、心にゆとりが出る」
その部下はよほど信頼されているようで、ソンヒさんは軽く目を細めて笑っている。上司と部下の関係としては理想的なものだろう。
「佐野もたまには趙に淹れてやったらどうだ。よくふたりで飲んでいるんだろう」
「おれがすか? おれ、趙さんと違ってコーヒーのこだわり皆無っすよ。インスタントでもイケるタイプなんで」
「味は粗末でも、こういうのは気持ちが大切なんだ。どうせこのキムチも趙のために私に頼んできたんだろ? ついでに色々やって恩を売るのも悪くはないさ」
貰った壺に目をやりながら「よく分かりましたね」とおれは答えた。
「趙さん、今朝冷蔵庫にキムチがなくてしょぼくれてたんで。でも、せっかくコリアンタウンが近くにあるのにスーパーで買うのも味気ないっすからね」
「良い判断だ。お前たちに自慢のキムチを食わせてやろう」
ソンヒさんは嬉々として壺を指差した。
「これが部下が漬けたキムチで、隣が店で買ったキムチだな。そして最後が伝説のキムチ。伝説と言っても、ただの商品名だがな。爺さんが売っているんだが、私個人としてはこれが1番好きなんだ」
「なんか良いっすね。浪漫があって」
「そうだろう? しかもな、爺さんが店仕舞いをする直前にも大量に売りに出されているから、手に入りやすくて助かるんだ」
察するに、伝説のキムチはあまり人気がないらしい。
「じゃあ、さっそく明日趙さんと食べますね」
「ああ。ぜひ感想を聞かせてくれ」
ソンヒさんは手を差し出すとおれと固い握手をした。彼女の瞳は迸るように熱く、どこまでもまっすぐおれを射抜いている。そんなに食べて欲しいのか、このキムチ……。
「あのあたりの治安がうちの店の周りくらい良かったら、自分でも買いに行きたいんすけど。ソンヒさんにお任せしちゃってすみません」
暗殺者が堂々のさばる地帯に、こんなに目立つ美女が出向くなんて、死亡フラグにもほどがあるよ。アホで顔がイイ女が呑気に出歩いて痛い目に遭うのはホラー映画、というよりフィクション全体のお約束だ。ゲームの世界で生きるなら、メタ的な視点からも早死にの芽を摘むに越したことはない。既にあそこで変な肉屋に遭遇しているしね……。
コミジュルの存在にビビるおれを見て、「純粋な治安だけならお前のところも似たようなものだがな」とソンヒさんは笑って言った。
「知らないのか? あのあたりにいる横浜流氓は、同胞以外を」
「肉饅頭にするんすよね」
「なんだ。知っていたのか」
「この間知り合いから聞きました。でも、実際住むと全然そんなとこじゃないっすよ。中華マフィアは知らないですけど、商店街の方が変な奴には絡まれますし」
おれが嫌そうな顔をすると、ソンヒさんは合点が入ったようで「そういえば、さっきもナンパされてたな」と呟いた。
ソンヒさんとの待ち合わせ場所に佇む数分間で、おれの周りにはコミケにいるカメコくらいの人だかりが出来ていた。チンピラに変質者に酔っ払い。イヤなおじさんのバーゲンセールだ。
どうやって抜け出そうか困っていると、突然人の群れがモーゼの奇跡のように割れたんだ。ソンヒさんが人々の脛を蹴り飛ばして道を作っていたのである。
変な輩に絡まれるおれを助けるソンヒさんはまるでオスカルのように輝いていた。宝塚の男役が絶大な人気を誇るのも納得だ。こんなにカッコいいところ見せられたら、下手な男より断然ときめいちゃうよ。
それと比べると佑天飯店の近隣は平和なものだ。変質者こそ見かけるものの、変に絡んでくるチンピラなどは全くと言っていいほどいなかった。むしろ、住民同士での挨拶を欠かさない明るい街という印象である。近くには映画館もあるし、文化資本もばっちりだ。
「まあ、確かにお前が働いている場所は趙がいる限り安全だろうな。肉饅頭にされることも決してない」
ソンヒさんはふっと息を吐いた。どうやら趙さんはマフィアよりも上手だと彼女は評価しているらしい。
街中華の経営者にそんな期待を寄せることがあるのか?
もしかしたら趙さんは、マスターみたいに、おれの知らない修羅場を潜り抜けてきた猛者なのかもしれなかった。