TS転移した男が中華マフィアの総帥に寄生しつつ異人町で生活する話 作:めいでん
ウタマル、おもしれー男
資格の大原ならぬ大海原資格学校は、わりかし景気が良いらしい。
曇りひとつなくピカピカに磨かれている窓に加えて、校舎内部には観葉植物や絵画が置かれており、明るく綺麗な空間がデザインされているのが分かる。受講者も大勢いるようで、教室の他にも、談笑しながら勉強できるホールや自習室などの設備が整えられているようだ。
高校時代を思い出すなあ。
予備校に通っていた時は、よく自習室にこもって勉強したものだ。いつも途中で寝ちゃって、バイトの大学生に怒られてたけど……。
さっそく入校の申し込みをしようと受付に行くと、なにやら見覚えのある顔がいる。おべんちゃらを並び立てて、受付嬢に絡む若い男。猪狩だ!
「おや、この間の女性じゃあないか。どうやらキミも資格を取りに来たみたいだね。関心、関心。この大海原資格学校は、やる気のある人間はいつでもウェルカムさ!」
と鼻高々に猪狩は言った。
「お久しぶりすね。防火管理者と食品衛生責任者の資格が取りたいんですけど、ここで取れます?」
「ああ。その2つならボクも持ってるし、大海原で取れるのは確実だ。試験を受けずとも講義だけで取れたはずだよ。ひとまず宮越さんに聞いてみようか」
猪狩は受付嬢の方へ振り返ると「みみみ、宮越すわぁん!」と少し情けなくも大きな声で呼びかけた。
「この人は、ボクが宮越さんのために! 見つけてきた入校希望者なんですけどね。防火管理者と食品衛生責任者の資格が取りたいそうなんです。麗しい宮越さんのお手数を煩わせて本っ当に申し訳ないですが、すぐに手続きできますか?」
「あら猪狩さん、この方に当校を紹介してくださったんですね。ありがとうございます」
「いやあ。宮越さんのためなら、たとえ火の中水の中! 全然お気になさらず!」
猪狩は大袈裟に首と手を振ると、「ボクが大海原に貢献したことで、宮越さんから猪狩さん素敵! なんて言ってもらえたり。……なんつって」とボソボソ呟いている。
受付嬢の宮越さんは慣れているのか、頬をひきつらせながら笑顔で猪狩の対応を続けていた。猪狩が宮越さんに惚れているのは明らかだったが、側から見ていても、あまり実りのなさそうな恋である。
「では当校に入学するにあたって契約書を書いてもらいます。まず身分証を拝見してもよろしいですか?」
来た!
おれは持っていた財布を漁ると、手に入れたばかりの保険証と謎の領収書を差し出した。
「顔写真付きのは持ってなくて。2点確認でいけますか?」
「大丈夫ですよ。ありがとうございます。佐野
「ハイ。ソウデス」
「なんでいきなり片言なんだい? 宮越さんは優しいからね。緊張する必要は全くないよ」
猪狩は不思議そうに首を傾げた。
なぜおれが緊張しているのかって?
決まっている。これは趙さんに作ってもらった、れっきとした偽造身分証だからである。
あれから大海原に通う必要性を趙さんに懇々と説いたはいいものの、自分がこの世界の人間ではないことをおれはすっかり忘れていた。申し込みから頓挫したおれは、しばらくぶうたれながら仕事をしていたのだが、つい昨日「これあげるよ」と趙さんが身分証を寄越してきたのだ。
「さすがに久太郎までは無理だったけど、名字は佐野にできたよ。馴染みやすいんじゃない?」
「これ、趙さんどうしたんすか。保険証?」
「そ。キューちゃん用の身分証。資格学校の件がなくても、スマホも契約できなかったじゃん? やっぱり生きていく上で不便だしね」
そう言うと趙さんは大きなあくびをした。
まるで取るに足らないことを話しているような素振りだが、その内容はどこからどう見ても犯罪である。
おれがドン引きしていると、「書かれてる生年月日、覚えといてね。多分キューちゃんのとは全然違うから」と趙さんはさらに追い討ちをかけた。
趙さん、もしかして裏社会と関わりあったりするのかな……。
身分証がないからって、じゃあ偽造しよう! という発想に普通なるか?
この街にはアングラな組織が3つもあるし、さらに言えば趙さんは異人町で長年暮らす中国人。同胞である横浜流氓と繋がりがあってもおかしくはないだろう。グレーゾーンとの関係があるならあるで、まだ話ができそうな星龍会とであって欲しかった……。
おれが趙さんから少し後ずさると、驚いた顔をしてから「キューちゃん、あんまり今まで夜遊びしてこなかったでしょ」と趙さんは笑った。
「今時偽造パスなんて、若者のマストアイテムだよ。ラブホやクラブに行くにも、いちいち年確されるからねえ。異人町に高校あるじゃん? あそこの生徒も、ほとんど持ってるんだって」
なんとも恐ろしい話だが、この世界では偽造身分証はかなり敷居が低いものらしい。
高校生にはもっと爽やかな恋愛をしていてほしいけどな、とおれは少し遠い目をした。
どこぞの歌ではないけれど、それこそ桜木町の遊園地で遊んだり、一緒に長い長い坂道を下ったりとかさ。ラブホやクラブに行くのなんて成人してからで十分だ。くそ、マセガキ共め! 羨ましい!
おれが青春コンプレックスから怨念を撒き散らしていると、「なんか変な想像させちゃって、ごめんね?」と趙さんはさらに声を出して笑った。高校時代、おれが灰色の青春を送っていたことがバレている……。
こうして非合法の力で身分証を手に入れたおれは、すぐに大海原へ足を運んだというわけだ。
まさかこんなにスムーズにいくとは思わなかったけどね。偽造身分証が極々普通に流通しているのも納得だ。元の世界の治安の良さが日に日に恋しくなるばかりである。
宮越さんの案内に従って契約書を記入してから、さっそくおれは講座を受講し始めた。取りたい資格は座学だけ受ければいいから楽勝だ。
睡魔と格闘すること1時間。ようやく解放されたおれはホールで足を伸ばしていた。
次の講義まで時間があるし、家から持ってきた温泉まんじゅうでも食べようかなあ。
箱根で土産物屋に買わされたのは良いものの、大量にある割に消費期限短いんだよね。腐らせるのはもったいないし、誰か一緒に食べてくれる人を探したいところだ。おお猪狩や、猪狩。猪狩はどこにいるのかなっと……。
「よお。久しぶりじゃねえか。お前の名前、佐野だっけ?」
おれが周りを見渡していると、突然ドスの効いた声が耳に刺さった。見上げると、恰幅のよい見慣れぬ男が突っ立っている。
男は「もしかして忘れたんか? 前に車で送ってやったろ」と言って向かい側の席に座った。
忘れるもんか。死体と相乗りなんて、人生でそうない経験だ。
「覚えてますよ。コウジさんすよね、あの時はどうも」
「懐かしいよ。あん時ゃ、お前も災難だったよなあ。同情するぜ」
コウジはしみじみとしながら言うと「お前も資格取りに来たんだろ? 仲間だな」と言葉を続けた。
最近の極道は資格取得も嗜むらしい。高部さんの名刺といい、やはり星龍会は下手なサラリーマンよりも圧倒的にちゃんとしている。
「俺、馬鹿だからよ。もう小テストからムズくて全然分かんねえの。一応復習しようとは思ってんだけどよ」
コウジは見た目によらず相当真面目なようだ。
参考書を開きながら唸るコウジに「糖分取ったら頭回りますよ」とおれは温泉まんじゅうを差し出した。
箱に詰められたまんじゅうは凄まじい勢いで消えていく。野球少年くらい食いつきのいいコウジに感謝しながら、おれは参考書をチラリと覗き見た。
ふうん、数学検定か。問題自体はそこまで難しいものではなさそうだ。
「この温泉まんじゅう美味いな。どっか旅行でも行ったんか?」
「箱根っすね。雪見風呂もできて良いところでしたよ」
「へえ。ひとり旅かなんか?」と聞くコウジに「いや、
「お前さあ。男の俺が言うのもなんだけど、ツラだけは良いから気をつけた方がいいぜ。その男も大丈夫か? 多分お前の顔しか見てねえぞ」
暴言以外の何物でもないが、コウジの表情を見るに本気で心配しているらしい。とんだありがた迷惑である。
「うるさいすよ。その人とは、まあ。色々あるんすよ。イケメンだし」
「イケメンなのか。ならいいか」
いいんだ。
コウジの判定基準はどこまでも謎である。
おれは温泉まんじゅうを口に運びながら、コウジが頭を抱える様を見ていた。何分経ってもルーズリーフには1文字も綴られず、カチカチと文房具の頭を押す音だけがホールに虚しく響いている。あ、ペン回しまで始めちゃった……。自力解答はもう無理だな。
あんまりにも悩むものなので、「ちょっと問題見してください」とおれはコウジに声をかけた。
「その問題フィボナッチなんすよ。株やってないと分かりづらいから、ちょっと不親切っすね。問2は正攻法だと時間かかるんで外積使った方が早いです」
「え。お前。これ解けんの? ちらっと見ただけで?」
「はあ。まあ。私文すけど経済学部だったんで」
他人に少しマウントを取れる。これが大学受験で数学を使って良かったと思う、数少ない利点である。
当時の第1志望には合格できなかったけれど、今にして思えば陸の
「お前大卒なのか! スゲえな!」
コウジは目を輝かすとおれの両手を掴み取った。
「なあ、俺に勉強教えてくれよ。タダとは言わねえぜ。ここ通うのに組から金も出てるしよ」
「ホワイト企業で何よりっすね。別にタダでいいですよ、暇ですし」
「マジか! お前、いい奴だな」
どうやらコウジの琴線に触れたらしく、固く握りしめられたおれの手がミシミシと悲鳴をあげている。痛え……。
おれは笑いながらも思わず眉間に皺を寄せた。悪気がないのは分かるけど、さっさと離してほしいものだ。
「こら! 公共の場で他人に迷惑をかけるんじゃない! そこの資格をひとつも持っていなさそうな、大柄で野蛮なキミ! 佐野さんが困っているだろう」
突然聞こえた大声に驚いたのか、コウジはパッと手を離すと「あんだ? テメェ」と周囲に凄み始めた。素直な奴だと思っていたが、きちんとヤクザらしい面もあるようだ。
なかなかの悪口が飛び込んで来た方向をふたりで向くと、すっかり目に馴染んだ眼鏡の男が立っている。
猪狩はフフフフと不気味な笑みを浮かべながら、おれたちの方へ向かってきた。
「か弱い女性を助けるのもジェントルマンの務めだからね。前に取った秘書検定が役に立って良かったよ」
「あー。すみません。気持ちは嬉しいんですけど、この人知り合いなんすよね」
「え、そうなのかい? 紛らわしいなあ、暴漢に襲われているのかと思ったよ」
散々な言われように、コウジはこめかみをひくつかせて「お前、ここが校舎内で良かったな」と吐き捨てている。
もし外だったら猪狩はボコボコにされていただろう。不幸中の幸いである。
「こいつに全然分かんねえから数学を教えてくれって頼んでただけだ。悪りぃかよ」
「ああ。キミは確かに体育が得意そうだからね」
目の前の男を見るからに脳筋だと評した後「なんであれ、他人に教えを乞うのは良いことだよ」と猪狩はフォローを入れた。
「でも、珍しいね。キミみたいな……えー、あまり育ちが良くなさそうな人は、この学校で初めて見たよ。どうして今から勉強しようと思ったんだい?」
必死に包んだオブラートも意味をなさないほどに猪狩の言葉は直球だ。歯に衣着せぬ物言いに、さらにこめかみをひくつかせながら「親父のためだよ」とコウジは言った。
「これからは金に明るい奴が何人も要る時代だってのに、まず数字ができなきゃ話になんねえ。誰がここに通うかって時に俺が名乗りをあげたんだ。俺は今まで迷惑ばっかりかけてきたし、これまでろくに勉強もしてこなかったけどよ。俺ぁ親父には随分世話になったんだ。少しは親孝行したいってのが、子心ってもんだろうよ」
おれはコウジの言葉に心を打たれていた。武士道に通じる、これぞ古き良き日本の伝統。仁義を重んじる赤穂浪士の心である。猪狩も大層感動したようで、顔こそ伏せていたものの、その目元はきらりと光っていた。泣いてる……。
「見た目によらず、キミは随分お父さん思いなんだね。見直したよ」
猪狩は溢れた涙を袖で拭いている。
コウジの言う『親父』が、実の父親ではなく、盃を交わしたヤクザの組長のことだと知ったらショックで気絶しそうだな、とおれは思った。何事も知らぬが仏である。
「そう言うことならね、ボクにも一枚噛ませてくれよ! こう見えても、ボクは資格取得の達人なんだ。きっと役に立てるはずだよ。数学検定は前に取ってるしね」
「へえ。お前も頭いいんだな」
「自慢じゃないけど、それほどでもあるよ」
猪狩の辞書に謙遜という文字はないらしい。フフフ、と自慢げに笑うと猪狩はコウジの参考書をパラパラとめくった。
「さあ! キミが分からないところを、存分に教えてくれたまえ! ボクは友人には惜しみなく手を貸すタイプだからね!」
「俺、いつからこいつとダチになったんだ?」
「おれが知るわけないっすよ」
水を得た魚のように生き生きとする猪狩に、コウジは物怖じしながら解けなかった問題を指差した。
「これ、佐野がフィボなんたらって教えてくれたんだけどよ。なんだ? フィボなんたらって」
「ああ、フィボナッチ数列ね。高校でやらなかったかい?」
コウジは全く心当たりがないらしく、はてと首を傾げている。
フィボナッチ数列は小学生でも知る者が多い内容だが、うん。ポジティブに考えよう。この男はとことん教え甲斐がありそうだ。
「金なくて進学できなかったんだよな。まあ、気にしてないけどよ。一応、義務教育は済ませてんだ」
「あー、じゃあ、中学でやったところの復習からいきますか。あんま難易度高めても、基礎がなければどうにもできないですし」
「それもそうだねえ。まず因数分解からやってみようか」
「なに言ってんだ? 中学は義務教育じゃねえだろが」
え。
絶句する俺と猪狩に対し、「これでもちゃんと小学校は卒業したぜ」とコウジは当たり前のように話している。もしかして、この世界と現実では義務教育の定義が違うのかもな、と僅かな望みをかけて猪狩を見たが、猪狩もおれと同じく激しく目が泳いでいた。やっぱり……。
高等教育を受けたふたりの困惑をよそに、コウジは温泉まんじゅうに手を伸ばしかけて、その手を止めた。どうやら最後のひとつだったらしい。
「3人で分けようぜ」と言ってコウジは定規を取り出すと、個包装された上から定規で割っていく。だが、その
「……コウジくん。とりあえず、今日は分数から始めようか」
おれと同じく乾いた笑みを浮かべつつも、猪狩は教えることを諦めてはいないようだ。友人かどうかはさて置いて、他人へ惜しみなく手を貸せる人間なのは本当らしい。
コンパスを使いながら愉快なほど目を泳がせるその姿に、おれは初めて猪狩を格好いいと思ったのだった。