TS転移した男が中華マフィアの総帥に寄生しつつ異人町で生活する話 作:めいでん
亜門一族、強すぎる
日本の
晁卿衡を哭す 李白
別れとは誰しもに訪れるものだ。
その者の身分に関わらず、何人たりとも平等に与えられるそれは、人生の折々において人間の感情を揺さぶってきた。
この世に生まれでてから、学舎を移り、土地を渡り、一族の輪に入り、そして生命の糸が切れるまで、我々は絶え間なき別れの日々を過ごしている。
ただし、SNSで手軽に他人と繋がれる現代とは違い、詩仙が生きた時代において、別れはより重大な転機であったに違いない。詠まれた晁卿の死は誤報であったものの、基本的には巡り合う人、巡り合う人が一期一会なものであり、ひとたび道を違えば二度と再会することはない。だからこそ、人は皆酒を呑み交わし、悔いのないよう思いを告げたのだ。
対して、現代における別れはさほど苦になるものではないのかもしれない。どんなに遠く離れていても瞬時に言葉を伝えることができ、相手と感情を共有することも容易である。たとえ今生の別れになろうとも、酒を呑まずに思いを伝えることは難しいことではないだろう。
だが、少なくとも俺にはそうではなかった。できなかったのだ。
目の前にいる相手でさえも、俺は胸中を明かせられずにいる。
❍
紙の束をめくると、朱肉の紅を馴染ませて印を押した。
松脂でくすんだ赤色はインキとは異なる趣き深さを感じさせる。判子や書類。持ち回り。電子化の時代にナンセンスだと男の右腕――馬淵は常々悪態をついていたが、男はそういう無駄なものが好きだった。
男はティッシュで紅を拭き取ってから、紙の束を部下に渡した。それから机の端に置いていた煎餅を口に放り込む。
馬淵は実利主義の人間だった。
組織の効率化を進め、無駄を省いていった男がPCと白いペンシルを持ち歩く姿は大層様になっている。どこまでも男とは対極にある人間だが、男は自分にないものを持つ馬淵を好ましく思っていた。
「今時ペーパーレスにしないなんて、非効率の極みだろ」と馬淵は笑った。どちらかと言うと失笑に近かったような気がしたが、「そうだね」と男が肯定すると、鼻を鳴らしていた覚えがある。それから馬淵はこう続けた。紙媒体はあらゆる手間がかかり、時間がかかり、場所も取り、そして証拠も残ると。
無駄を愛する男だが、当時も今も、男は全面的に馬淵の意見に同意していた。現に馬淵の知らない異人三間の取引では、書類を残すことなどはしない。
心地よい咀嚼音がボリボリと骨を伝って響き渡る。
見た目に反して甘味の強い煎餅は、疲れた身体の隅々にまで染みていくような気がした。
「美味いなあ」
ふと口からこぼれた言葉を聞いて、そばにいた部下が男の机を覗き込んだ。「一枚いる?」と男が声をかけると、部下は嬉しそうに煎餅を手に取り封を破る。威勢のいい音を立てて齧る部下の姿は、男に煎餅を寄越した女の姿とはまるで違った。
空になった袋をクシャクシャに丸めると「たまに無性に煎餅食べたくなる時、ありますよね」と部下は言った。
「しるこサンドとか練り梅とか茎わかめとか、そういうジャンクなやつらです。大和魂ってのが、俺にもあったんですかねえ」
「
「はい。うちは父親が日本人で、運良く認知されていたので。会ったことはありませんが」
恥ずかしそうにする部下に「いいんじゃない? そっちの方が便利だし」と男は言った。
実際、横浜流氓にも日本国籍を持つ者は少なくない。少数派ではあるが、日本語しか話せない者もかなりいる。血の繋がりを重視する共同体であっても、時の流れには逆らえず、同化は進む一方だ。
それでも男は祖国を棄てるつもりはなかった。それはきっと馬淵も同じだろう。利を追い求める男が未だに帰化しない理由など、そのくらいしかないからだ。
男は新たに煎餅を齧りながら、贈り主である女のことを思い起こした。
女が情報を流しているおそれがあるとコミジュルから連絡を受けたのは、つい先日のことである。
多少の前科はあるものの、それまで他所で不自由なく暮らしていたにも関わらず、いきなり身分をかなぐり捨ててホームレスに流れた男がいる。男は肉の壁を注視しており、街の情報、とりわけコミジュルのものを掻き集めているとのことだった。
そしてその男と密かに会っていたのが女だった。
この煎餅も、ホームレスと逢引きしている最中に女が購入したものだ。
男はざらりと舌に残る米屑を黒々としたコーヒーで流し込んだ。
煎餅が購入されるに至った経緯。それが女の口から語られるのをソンヒからの電話越しに聞いた際、男は言葉も出なくなるほど呆れ果て、顔から火が出るかと思うほどに恥じ入った。恥じ入ったものの、特段女を責める気にもなれなかった。そこに至る女の動機には心当たりがあったのだ。
コミジュルの連絡を受けてからというもの、男は女との別れを予感していた。そして、その別れは偶発的なものではなく、自らの手で引導を渡さなければならないだろうと。
星龍会。コミジュル。そして横浜流氓。
異人三が成す肉の壁は何人にも崩されてはならない。大きなようで小さな街の仮初の平和を保つために、今も組織の長たちは代々嘘を吐き続けている。それぞれが弱者の集まりであるからこそ、裏で手を組み、利権を貪り、かつての東城会や近江連合等の猛者たちが決して手を出せない鉄壁の絆を長年創り上げてきた。
その嘘が暴かれてしまったら、一体どれだけの者が路頭に迷う?
マグカップの中には男の顔が映り込んでいる。
豆の油分が滲み出た黒い液体は玉虫色に光っていた。細かい泡の粒々に乱反射する煌めきで、男の表情は見事に打ち消されている。
きっと情けない面をしているのだろうな、と男は思った。
異人三のことがあるからと、とうに情も湧いているのに他所他所しく接し、ろくに切り捨てられもせず、結果として無様に恥をかいただけだ。
あの様子なら、ホームレスについても聞けば事細かに女は教えてくれただろう。それでも正面から女に尋ねることはできなかった。勇気がなかったのだ。女が異人三の敵である確たる証拠を掴むのを恐れ、この手から逃れられるのを恐れ、せめて楽に死なせてやりたいと裏切り者が辿る末路からも恐れていた。
蓋を開けて見ればとんだ杞憂であったのだが。
それが発覚した時、男は酷く安心したのを覚えている。怒りを通り越して呆れ、羞恥心に苛まれ、そして鎖かたびらでも身につけていたかのように重かった身体がひょんと軽くなったのだ。
男はいつだって勇気がなかった。
だからこそ、かつての親友である馬淵のことも信用せずに、肉の壁の嘘を吐き続けている。
馬淵は非常に優秀な傑物だと男は心から思っていた。
世襲で総帥となった男とは違い、努力家で博識、かつ向上心があり、何ヶ国語も話せるほどの知性があった。型破りな一面は、組織の老獪からは反感を買っていたものの、新しい時代に相応しいと男は感じていた。
疎ましく思われているのを承知の上で、自らに足りない物を全て持っている馬淵を男は右腕に置いた。馬淵は期待以上によく働いた。危うく異人三の均衡を崩しうるのではないかというほどに組織の規模も大きくなった。
それでも男は馬淵に心の内を曝け出すことはできなかった。
「でも珍しいですね。趙さん、普段煎餅なんて食べましたっけ?」
「人から貰ったんだよね、これ」
「じゃあ佐野さんからですね。俺からもよろしく言っておいてください」
「馬淵からかもよ?」
「冗談キツいですって、あの
苦虫を噛み潰した顔で、べえと舌を出しながら男の部下は言った。馬淵は組織の顔とも言える地位にいるが、下剋上上等の態度を見せるため男の周囲からは忌み嫌われている。
いつからだろうか。女と違って、馬淵とは歩み寄ることすらできなくなったのだ。
「昔は渡してくるような奴だったよ。今は違うけど。俺たちもすっかり老けちゃったからねえ」
幼き日々をしみじみ懐かしんでいると、「今の趙さんたちからは考えられないですわ」と驚いたように部下が言った。
年月はあっという間に過ぎ去るものだ。
昔、同じ屋根の下でゲームに興じた友人は、すっかり気が置ける仲になってしまった。
仕事を終えた男は仲間と別れると、いつもの裏道を歩いていた。夜空には大きな月がぽっかりと浮かんでいる。陰鬱な雰囲気が漂うこの街には、呑気な月の明るさが酷く浮いて見えた。
佑天飯店の明かりはすでに消えている。
電気をつけると、店仕舞いを終えてから夕食を食べた跡があった。水切り棚に置かれている食器は数個。階段を上がると、部屋にある布団が膨らんでいるのが見えた。
男は音を立てないように、こっそりと足を踏み入れた。
窓際に置かれた松の葉は風に吹かれてそよめいている。そっと布団をめくると、女はぐうすか寝息を立てて眠っていた。月の光に照らされた女の頬が白く輝いている。
まだ、間に合う。
まだ、気持ちを伝えられる。
だって、別れを告げずに済んだのだから。
「趙さん、おかえりなさい」
眠たい目を擦りながら花のように笑う女を見て、男はその身体を強く抱いた。
前話、ソンヒとの会話中すでに趙と通話状態だったことを感想欄で的中させた方がいました。すごい…!
感想欄、龍7の話で盛り上がっていてとても楽しいのでぜひ覗いてみてください(⋈◍>◡<◍)。✧♡(※ゲーム本編のネタバレが多数あるので未プレイの方は注意してください)